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(第95回定期演奏会)録音を楽しむ
体調不良のため第95回定期公演を聴けなかったのは残念だったけれど、演奏を収録したCDを黒田洋氏が早速届けてくれたのはうれしいことだった。気分なおしに聴きながら妙なことを思いついた。この録音から何か書けないものかと。曲目はメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調とチャイコフスキーの交響曲第4番、それにベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」の3曲。
宮本貴太氏の指揮によるベルリオーズの序曲は目まぐるしく変わる祭りの風景をていねいに、熱い表現で印象づけて面白く聴かせてもらった。表情の起伏をきっちり捉えた清々しい音楽づくりが積極的であるのがよかった。宮本氏が指揮活動を続けていく過程で、こうした結果を積み重ねることは、演奏の是非よりも大事なことであるので、つねに若々しく貪欲に音楽に接してほしいものです。これは録音からの感想なので、生の感動を語れないのがつらい。もう一言、どうしても書きたいこともあったのに、無くてはならないその一言がどうしても出てこない、弱りました。
次に、メンデルスゾーンの協奏曲を聴くことは、私にとっては無条件に楽しいことに属します。黒田氏と姫路交響楽団の作り出す音楽はいかにも明瞭で清々しい。生きることの切なさと、逞しさをもって叙情となし、普遍的な世界を描きだしたと思われる作品を、この曲の心ここにありと言わんばかりの演奏で捉えたのはとてもよかった。しかし、ヴァイオリンのソロとの旋律の絡み合いが単調で、オーケストラの受けが今ひとつだった。ヴァイオリンが技術はしっかりしているのに、肝心の音の圧力が不足気味だったために、重要なパッセージでしばしばオーケストラと表情がかみ合わなかった。ソロの響きそのものが弱くて聴きづらい。ここは双方が主張をぶつけ合って、ヴァイオリンが自らの独自性をオーケストラに要求する粘り強さが求められる場です。思い切りよく、大胆に自己主張をしてほしかった。CDより聴くことが出来たのはそこまでで、これ以上書くことは無責任というものでしょう。
チャイコフスキーの交響曲は冒頭の金管楽器によるファンファーレが聴きものですが、強奏と言うよりも暴力的とも思えるその音量と圧力にびっくり。続く第一主題はこの曲の叙情的な哀感を弦楽器がデリケートに捉えて、金管の衝撃に驚いた向きには歓迎されたかも知れない。第二主題で木管楽器が細やかな感情を美しい響きで素直に表現していたのとは対照的です。一方で演奏が金管の圧力に溺れがちになったのは否めない。
第二楽章に入って、オーボエが第一主題をしっとりとした音色で思う存分センチメンタルに歌わせたのは聴きものだった。第三楽章の弦楽器によるピチカートの抑制された表現にも、そうした木管の醸しだす雰囲気に繋げようとする意図が見られたが、音楽づくりは一貫して変わらない。その結果として、いろいろな感情が混在してまとまりのつかないチャイコフスキーの音楽を、黒田氏は感傷に溺れることなく、何ともすっきり聴かせてくれたものである。派手に見えてデリケートな曲を、木管楽器の繊細な歌心を堅実に積み重ねることで金管楽器に対比させる音楽づくりは明快だった。
いざこうして感想を書いてみると、録音によって捉えられなかった音と感動がいかに多いものであるか痛感させられます。感動なくして感動は語れぬものです。
無くてはならない事柄をなおざりにしたわけではないが、無くても構わないことに意を用いすぎたようである。ご容赦あれ。
(2026年5月10日)
(古典シリーズ第10回演奏会)「運命」の力
ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」を黒田洋指揮、姫路交響楽団の演奏で久しぶりに聴いた(古典シリーズ Vol.12 アクリエひめじ 中ホール)。
黒田氏はこれまで姫路交響楽団と「運命」を幾度か演奏しているが、今回は様相の異なる結果となった。オーケストラの演奏技術は言うまでもなく、音楽の芯に迫ろうとする意気込みが違った。
まず黒田氏は、尋常でない冒頭のモチーフは変にいじらないで、自分たちが作り出すことの出来る響きをもって、素直に心をこめて演奏しようと決断し、無心にタクトを下ろしたと思われる。押し出されたのは、何ともすご味のある音楽だった。誰もが唖然とする、言うなればたった四つの音で作り出した新鮮な音楽である。こうして始まった演奏は、冒頭の華々しさは消えても、オーケストラから緊張感の途切れることがない。明晰な表現で常に音楽の本質に迫る指揮者の視点が清々しい。その決然とした表現にはどこか開放感が漂い、この作品の品位の高さを失うことがない。金管と打楽器の一部に多少のそごは生じたが、響きの安定しない中ホールでの初演奏だったことを考慮すればご愛嬌だろう。
第二楽章はヴィオラとチェロによる穏やかな第一主題に一息つきたくなるが、表情がやさしい音楽であっても素直に受けとれないのがベートーヴェンの特性だ。演奏はつづく第二主題と交互に変奏を重ねることで厳粛、崇高な表情へと進化をとげ、黒田氏はこの楽章の造りが一様でないことを、最後に穏やかな演奏で示す。大らかで、哀切な思いもこもる音楽の特性を、具体的に語ることはかなわずとも、崇高さは崇高さとして、よく表現し得た演奏だった。
後半のスケルツォとアレグロは、作品の形態からその装いまで、新しいごとづくめである。さながらやりたい放題、言いたい放題の趣だ。しかしベートーヴェンが「運命」でやりたかったのは音楽の改革であろう。改変ならば根本は変わらない。改革なら変わる。ベートーヴェンはハイドン、モーツァルトなど、当時ウィーンの古い枠組みからドイツ音楽を解放して、綺麗ごとではなくエネルギーが炸裂する、新たなる交響曲を創造したのだ。「運命」はまことにそのような曲であり、黒田氏はコーダに向かって、共に生きる人たちをひたすら人間的に描き、古い闇からの人間復活を歌いあげた。
黒田氏は如何なる思いでこの曲を指揮したのかは兎も角、AIによる人間性喪失が危惧される昨今の世相を、あたかも引き裂くかのように、馬力のある激烈な演奏で訴えたのは、今を生きる人たちに、「運命」が背負う意味を改めて突きつけたと言うことである。一方、力そのものを象徴しているかのような交響曲第5番に、姫路交響楽団のパワフルな演奏は鮮烈な感動を呼んだ。このオーケストラに新しい時代の到来を予感させる名演だった。
当日はもう一曲、シューベルトの交響曲第7番「未完成」が、永井孝和氏の指揮により演奏された。私事ながら、これに触れる余裕が持てなかったことをお詫びしたい。
(2026年9月18日)
姫路交響楽団