十七史商榷
清 王鳴盛 撰
底本 『十七史商榷』(王鳴盛 廣文書局)
卷四十八 晉書六
祥荀顗同謁晉王
本文
えちぜん注
王祥傳:武帝爲晉王,祥與荀顗往謁。顗謂祥曰:「相王尊重,何矦既巳盡敬。今便當拜也。」祥曰:「相國誠爲尊貴,然是魏之宰相。吾等魏之三公,公王相去一階而已。安有天子三司而輙拜人者。」及入顗遂拜,祥獨長揖。
愚考:此事出漢晉春秋。裴松之注魏紀引之。彼文祥與何曾、荀顗同謁。何矦即指曾,此刪去曾名非也。原其刪去之由,何曾傳:「文帝爲晉王,曾與高柔、鄭沖倶爲三公,將入,見曾致盡敬,二人猶揖而已。」 然則曾之拜在文帝時已然,故此傳刪去之。
祥庸貧小人名仕魏室實。爲晉臣乃以不拜,自重乎。史家盛誇其孝友名徳。此史家妙於立言范蔚宗傳胡廣歐陽永叔傳馮道皆如此矣。以不拜爲高與,高貴郷公被弑而號泣爲忠正,復一類昭炎佯敬之,明知如傀儡相與爲僞而已。禄仕之昌名,壽之高,子孫之蕃衍,古今少比鄙夫。例多禄無怪志於鄙夫者之多也。
王祥伝に武帝(司馬炎)が晋王となった時、王祥は荀顗とともに謁見に参った。荀顗は王祥に「晋王は身分が貴く権勢も大きくなった。何曾殿はすでに敬意を尽くしている。これからは拝礼すべきである。」と言った。王祥は「相国は確かに尊貴であるが、魏の宰相である。我等は魏の三公であり、公・王は階級が一つ違うのみで位階はほとんど同じである。どうして天子・三公がいるのに、たやすく人に拝礼ができようか!」と言った。殿中に入ると、荀顗は遂に拝礼し、王祥は一人長揖(略式の敬礼)したのみであった。
次のように考える。この事は『漢晋春秋』に出ている。裴松之が『三国志』魏書の三少帝紀に、これを引用して注釈をつけている。その引用文では、王祥・何曾・荀顗が一同に謁見している。何矦は何曾のことであって、ここで何曾の名前が削除されているのは誤りである。その削除されたわけは、何曾伝に「文帝爲晉王,曾與高柔、鄭沖倶爲三公,將入,見曾致盡敬,二人猶揖而已。(文帝(司馬昭)が晋王となった時,何曾は高柔、鄭沖と倶に三公となった。ちょうど謁見しようとした時、何曾は一人拝礼をし敬意を表したが、〔ほかの〕二人はまだ略式の挨拶をしたのみであった。)」とあって、何曾の拝礼は文帝の時にすでにおこなっているために、この王祥伝では削除されているのである。(1)
王祥は常に貧しい徳のないつまらぬ人間だと言っていたが、魏朝に仕えると誠実に仕えた。晋朝の臣となっても、魏の臣たるをもって拝礼せずというのは、自ら憂いを重ねたのであろうか? 史家は盛んにその孝友名徳を誇った。彼ら史家はその叙述に優れており、范曄が胡広を伝えるところ、欧陽脩が馮道を伝えるところ、皆このようである。拝礼しないことが誉れとされたり(高誉?)、高貴郷公が殺されて号泣することが忠実で正しいとされるも、またひとたび司馬昭・司馬炎にしたがえば、彼らを敬うかのように装うことから、操り人形のようにともに作り話であることが明らかに知られる。仕官して名を馳せ、長寿であって、子孫が繁栄していて愚者になぞらえているのは、古今を通じて少ない。概ね俸給の多いものが愚者と比べてまことに志がないということのほうが多いのである。
(1)この拝謁が何曾も同席していたという指摘は妥当であると思う。しかしその後がいけない。『晋書』王祥伝で考察されているように、ここで晋王となったのは、武帝(司馬炎)ではなく、文帝(司馬昭)である。何曾伝で文帝(司馬昭)に拝謁したのが、高柔と鄭沖となっているが、文帝(司馬昭)が晋王になった時、高柔は既に薨去している。何曾が文帝(司馬昭)にも武帝(司馬炎)にも他の三公のものと共に拝謁したというのは、誤りであろう。
<更新履歴>
2005.08.24:第一版。適宜句読点をつけ、段落を分けた。