稗貫広忠(ひえぬき ひろただ) ????〜1594
○和賀氏 孫二郎?孫三郎? 家法 重綱?
◇養父:稗貫輝家 室:稗貫輝家女 弟:和賀又次郎義忠、又四郎忠親 子:稗貫広重
 稗貫氏は、鎌倉期の平泉討伐の功で、陸奥・稗貫郡を受領したことに発す。鳥谷ヶ崎城主(後の花巻城)。豊臣秀吉の小田原征伐の出陣要請を渋って、陣代のみ派遣した為、秀吉の怒りを買って所領を没収される。後に一揆を扇動して、秀吉臣浅野長政が管理していた旧城を実弟和賀義忠らと共に攻め、落城寸前まで追いやるが、駆けつけた陸奥・南部信直の援軍で失敗に終わった。平泉に逃げた後も抵抗を続けたが、やがて亡くなった。

比江山親興(ひえやま ちかおき) ????〜1588
○掃部助
◇父:長宗我部国康?
 土佐・長宗我部一族。当主
元親の嫡男信親戦死後、幼少の四男盛親擁立の動きに反対して、家老久武親直の讒言により、切腹を命ぜられた。
久武親直(ひさたけ ちかなお) ????〜???? 
○彦七 内蔵助
◇父:久武肥後守昌源 兄:
久武親信 子:久武千助
 兄親信の戦死により土佐・長宗我部氏家老を継ぐ。尚、親信は「自分が戦死しても、弟には決して後を継がせないでほしい。弟は腹黒く、必ずやお家の災いとなる」旨言い残していた。しかし、政治力に優れたことから重用された。讒言を用いて家中を牛耳ろうとし、長宗我部氏滅亡の遠因を作る。主家滅亡後、謀略、讒言多い佞臣と評判が立ち、再仕官の当てが見当たらずに帰農したという。肥後・加藤氏に仕えたとも?
久武親信(ひさたけ ちかのぶ) ????〜1579 
○内蔵助 親定 肥後守
◇父:久武肥後守昌源 弟:
久武親直
 土佐・長宗我部氏家老。誠実な性格と、思慮深い知将としても知られる。有馬温泉湯治中に羽柴秀吉と知り合って、その人柄に傾倒したという。南予の軍代としてその攻略の一切を任されたが、伊予・宇和郡、喜多郡攻めに出陣、岡本城攻略の際に戦死する。
平井祐利(ひらい すけとし) ????〜1566
○赤松氏 備中守
◇父:赤松下野守村秀 子:平井備中守貞利、助之進利政、庄右衛門祐行
 播磨・赤松氏一族。播磨・平井城主。実兄赤松政秀が、守護代浦上政宗親子を暗殺するが、これに参加した際戦死。

平岡房実(ひらおか ふさざね) ????〜???? 
○大和守
◇子:平岡宮内大輔通資、遠江守通房、善兵衛直房
 伊予・河野氏臣。荏原城主。外は土佐、豊後等の強敵と戦い、内には本家と予州家の対立、家臣の離反が起こりその鎮圧に活躍、衰退の一途をたどる河野氏にあって最期まで忠節を尽くして戦い抜いた。

弘中隆兼(ひろなか たかかね) ????〜1555
○三河守 中務丞
◇父:弘中興兼 子:弘中隆助(隆守?)
 周防・大内氏臣として安芸守護代を務める。安芸・西条槌山城主。
陶隆房(晴賢)が当主大内義隆に謀反を起こした際は、これに協力した。安芸・毛利氏との戦いにおいて、その謀略を受けた晴賢の命で重臣江良房栄を殺害する。安芸・厳島で毛利氏と戦おうとした晴賢を諫めるが容れられず、同所にて戦死した。
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