STEUART, Sir JAMES,
An Inquiry into the principles of Political Oeconomy: Being an Essay on the Science of Domestic Policy in Free Nations. In which are particularly considered Population, Agriculture, Trade, Industry, Money, Coin, Interest, Circulation, Banks, Exchange, Public Credit, and Taxes., 2 vois., London, Millar and T. Cadell, in the Strand. , 1767, pp.xv+[xiii]+639+[1]; 646+[14], 4to.

 ジェームズ・ステュアート『経済の原理』1767年刊、初版。
 著者略歴:ジェームズ・ステュアート Steuart, Sir James (1713-80)。
 まず、著者の生きた時代に至るイングランド史をおさらいしておこう。処女王と称されるエリザベス女王の死をもってテューダー朝は絶える。宿敵であったメアリ女王の子であるスコットランド王ジェームズ6世が、ジェームズ1世としてイングランドの王位にも就いた。ここにイングランド・スコットランドの同君連合体制がなる。ステュアート朝の始まりでもある(1603)。しかし、ジェームズ1世とその子チャールズ1世は、王権神授説を唱えて議会と対立する。ピューリタン革命によりチャールズ1世は処刑、共和制となる(1649)。その後、クロムウェルの独裁をへて、チャールズ2世即位により王政復古(1660)となるも、続くジェームズ2世(チャールズ2世の弟)は名誉革命でフランスに追放される(1688)。王国はオランダ総督であるウィリアム3世と妻メアリ2世(ジェームズ2世の子)の共同統治となった。それでも、追放されたジェームズ2世(及びその正嫡)を正当な国王として、復権を目指す人たちがいた。彼らをジャコバイトという。ジェームズのラテン名Jacobusと信奉者を意味する接尾語 -iteからなる語である。イングランドとスコットランドが合併し、グレイト・ブリテン王国が正式の成立したのは、1707年、ステュアートの生まれるわずか6年前のことである。
 
 これからが著者略歴である。生没年ともアダム・スミス(1723-90)より10年早い。スコットランド首都エディンバラ近郊の父の所領グッドトゥリーズGoodtreesに生まれた。一人息子である。同名の父ジェームズは、スコットランドの法務次官やエディンバラ選出の国会議員を務めた準男爵であった。母の家系もまた法曹貴族である。
 エディンバラ大学では、主として法律学と歴史学を修めた。弁護士資格も得て、さらに見識を深めるため、当時の貴族の習いであるグランド・ツアーの旅に出る。遊学の期間は5年(1735-40)に及んだ。ちなみに、スミスが付添役として30年後に経験したのは2年間の旅であったから、ステュアートのものは比較的長期であったろう。オランダのライデン大学で学んだりもしたが、特筆すべきは次の2点か。一つは西欧とは風土の異なるスペインの地を見聞したこと。折しも当地は飢饉の悲惨な状態にあった。『原理』にはインダストリ論をはじめとして、スペインの例が多く取り上げられている。今一つは、ステュアート家の亡命宮廷があったローマの地で、ジェイムズ2世の遺児であるジェイムズ・フランシス・エドワード(老僭称王Old Pretenderと称される)と会見した(と思われる)ことである。帰国後1743年に、ジャコバイトである友人エルコ卿の妹フランシス・ウィームズを妻に迎える。
 1745年老僭称王の息子チャールズ・エドワード・ステュアート(若僭称王Young Pretender)がフランスから軍を率いてスコットランドに上陸する。フランスが画策したとされる、The 'Forty-Five'と呼ばれる内乱である。著者はジャコバイト軍のための声明書を起草、政治交渉のために若僭称王の特使としてフランス政府へ派遣された。ステュアートのこのジャコバイトへの加担が、止むを得ず巻き込まれたものか、積極的なものかは意見が別れるところであるらしい。ともあれ、最初は破竹の勢いであった反乱軍も、翌年のカロデンの戦いで敗北が決定的になり、チャールズはフランスへ敗走した。ステュアートはフランスにとり残され、政治犯として帰国の途を絶たれることになった。
 これが、フランス、ネーデルランド、ドイツと大陸を流浪する17年間(1746-1763)の亡命生活の始まりである。遊学時代の5年間を併せると、ほぼ22年間を祖国の外で暮らしたことになる。実に、22歳から27歳と32歳から49歳という人生の壮年期の大部分である。
 政治の世界での栄達の望みを絶たれた著者は、生活の基盤も整い、次第に学問の世界に目を向けるようになる。フランスのアングレームに滞在中、彼に大きな影響を与えたモンテスキューの『法の精神』(1748)とヒュームの『政治論集』(1752)が刊行された。またこの地には、宗教問題でパリから避難していた重農主義経済学者リヴィエールが滞在しており、彼にも会った。当地でステュアートは経済学の研究を始めたとされる。
 ブラッセル(1755)あるいはスパーに滞在した頃(1756)に、本書『原理』の執筆にとりかかったと思われる(注1)。1757年から61年までは、ドイツのテュービンゲンに居住(アングレームに次ぐ長期滞在地)し、持病のリューマチ(痛風とも)に苦しみながらも稿を継いで、60年までに第三編の草稿を完成させた。この間、ヴェネチアで知遇を得た該地イングランド社交界のパトロネスであるメアリ・モンタギュー夫人他に、第一・二編の清書稿を献じている(1759)。この時期には、他にも、三部の経済学著作の草稿を書いている。
 アントワープ(1761)では当地の金融・貿易制度を研究した。1762年持病の療養に訪れた温泉地スパー(現ベルギー)で事件が起こる。英仏が交戦していた七年戦争中のことであり、ステュアートは言動から敵性人とされ、仏軍に逮捕、監禁されたのである。南ネーデルランドはフランスが属地だと主張していた土地であり、軍隊も駐留していたのであろう。七年戦争も講和となり、妻の故国での運動(政治犯としての赦免運動は従来から行われていた)が功を奏したのか釈放の運びとなる。かえってこの事件が幸いしたというべきか、同時に帰国も許されることになった。
 帰国は1762年末とも63年ともされる。ほぼ18年ぶりに帰国した彼は、余生を故郷スコットランド、グラスゴー近くの領地コルトネスColtnessで過ごす。当地で、まず手掛けたのは、領地の農場経営の改善であった。折から起こったスコットランドの為替危機について研究を進めながら、1765年10月までに『原理』の残された第四・五編を書き上げ、これを完成させた。
 1771年には正式な赦免がなされ、国王との謁見も許されたが、公職に戻るには老い過ぎていた。晩年は、領地のあるラナーク州開発および東インド会社関連のインド通貨問題に関する経済学著作のほか、形而上学の著作も著わしている。1780年エディンバラで死去。

 生没年の先行(10年)にほぼ対応して、『国富論』刊行の9年前1767年に、『原理』は大型のクオート版の二巻本としてロンドンの書肆から発刊された。発行部数は1,000部以内とされている。ちなみに、『国富論』初版は500部である。売れ行きははかばかしくなく、書評も芳しくなかった。その論調がディリジスム(保護・介入主義)とされ時代の風潮に合わなかったのである。政治的には敗残者であった著者は、その情熱を経済学という学問の建設に打ち込んだが、ここでもまた世に入れられなかった。事実上の第二版と称される本書著作集版(1805)の本文末尾に注記して云う、「みっちり18年にわたるこころよい精励の所産である」としながらも、「異論の出されている経済の諸原理については、私は十分な弁明の言葉がない。…[多くの規制の存在する観点から]心ならずも考察する傾向があったことを今は率直に認める。しかし、著作のほとんど外国で編まれたことを私は述べた」と(下p.699)。スミス『国富論』の成功を目の当たりにしてであろう、著者の弁明には諦観が感じられるようである。
 ステュアートとスミスとの学問的交流は間接的ながら、スコットランドの為替・銀行問題、ベンガルの鋳貨問題等5回ないし6回あったとされる(竹本、1998、p.625)。晩年にはポーカー・クラブで、直接面談した事実もあるようである。しかし、『国富論』は、ステュアートの名を一度も挙げていないのである。この「戦術的配慮」(小林昇の言:引用者云う戦略的配慮というべきか)も、『原理』を世間の関心の外に置くに力があったであろう。
 リカードウもまた、『経済学および課税の原理』序文にチュルゴー等とともにステュアートの名をあげるが(しかも綴りを誤記)、これらの著者は分配問題には満足すべき知識を与えてくれないと書くのみで、本文には一切その名は出てこない。しかし、シュンペーター(1956、p.542)が強調するように(外延的)収穫逓減の法則の発見がステュアートの大きな業績だとすれば、リカードウは地代理論形成について大きな影響を受けていたかも知れないのである。こうして本書は本国英国では無視され忘れられてゆくのであるが、欧州特にドイツおよび米国では細々と読み継がれていった。資本主義成立の本源的蓄積期にある、後発資本主義にとっては参考になったのであろう。
 こうした風潮の中でステュアートを評価したのは、マルクスである。その『経済学批判』において、「ブルジョア経済学の全体系をあみだした最初のイギリス人」(1956、p.65)とし、「特にかれが関心をもっていたのは、ブルジョア的労働と封建的労働の対立であり、…交換価値を生み出す労働の性質は、特殊的ブルジョア的なものであることを、くわしく証明している。」として高く評価した(1956、p.66)(注2)。古典派経済学にはない歴史的視点を持ち、実物面だけでなく貨幣面も重視する点を評価したのである。しかしながら、他方でマルクスは、剰余価値の発生が、生産過程からではなく「純粋に交換から、商品をその価値よりも高く売ることから、説明されている。サー・ジェームズ・ステュアートはこの偏狭さから抜け出ておらず」、結局「ステュアートは重金主義と重商主義との合理的表現である。」(『剰余価値学説史』第一章)とも批判した。こうしたことから、マルクス経済学者にも『原理』は軽視され、関心も薄れてゆくのである。というより、元々関心を持たれることがなかったという方が近いかもしれない。
 次のステュアート再評価の大きな流れは第二次大戦後、ケインズ経済学の隆盛とともに起こった。その有効需要論を述べるに当たり、「ケインズは、重商主義者やマルサスに先達を求めようとしたが、どうしたことか、自分にぴったりあっていたであろうと思われるジェームス・スチューアートを見逃してしまった」(ロビンソン=イートウェル、1976、p.68)。ケインズ自身はステュアートを知らなかったか、あるいは無視したが、ケインジアンにとっては、ステュアートとケインズの類似性は明らかであろう。S・R・セン等に始まるステュアート研究の流れである。
 確かにケインズ『一般理論』に親しんだものであれば、『原理』のいたるところにケインズ的分析用語を発見するであろう。貨幣等の「退(保)蔵(hording)」(上p.296)あるいは、「消費傾向(propensity to consume)」(上p.296)(注3),「有効需要(effectual demand)」(上p.107:『一般理論』は、effective demand)等々。ケインズ理論の核心を流動性選好説に求めるにせよ、乗数理論に求めるにせよ、用語の内容も、ほぼ『一般理論』と同一であると思わせる。
 もう少し、類似性を見るために、ステュアートが公兆事業を論じた所を引く。ケインズの所説((注4)を参照のこと)と比較されたい。
  「工事が終わった後でもなお有益であれば、それにこしたことはない。その場合には、工事はその建造にたずさわらなかった人間にもパンを与えるという効果をもちうるからである。…費用のかさむ公共の工事は、貧者にパンを与え、勤労を増進する手段」(上p.426)であって、「現代の君主の、壮麗な宮廷、おびただしい数の軍隊、煩瑣に行われる巡幸、贅沢な宴会、オペラ、仮装舞踏会、馬上試合、催し物などへの支出は、ピラミッドを築いた君主の思考が与えたのと同じ数の人手に仕事を与え、パンを与えるかもしれない」(上p.427)と。
 そして、現代の評価を見る。この20年ほどの間にステュアートの評価は大きく変化した。教科書レベルで定着していた「最後にして最大の重商主義者」から「最初の貨幣的経済学者」や「経済学のもう一人の創設者」へととって代わられつつある」(大森、2005、p.3)。『原理』を、スミスの『国富論』とは別コースで成立した、経済学の初発体系として見る考え方が、登場したためである。その「内容は、理論・歴史・政策を混然と体系化したという点で『国富論』と相似し、ヨーロッパ諸国を対象としたという点ではこれもまた一つの『諸国民の富』(『国富論』)である」(小林、1994、p.4)とされるのである。
 スミス=自由主義経済学、生産重視に対するにステュアート=重商主義的経済統制論者、流通主義という二項対比の説明構図も崩れてきているようようである。しかし、思うに、スミスの「見えない手」に対するに、ステユアートのスローガンとして、「公平な手」impartial handよりも、「もっとも柔らかな手」the gentlest handや「巧妙な手」skilful or artful handが、もっぱら取り上げられるようである。そこに、ステユアートにディリジスムを感じさせまいとする解説者の深謀遠慮を見るのは、素人の僻目か。

 内容に入る前に、本書の標題についてふれておく。先行訳が『経済学原理』(中野正及び加藤一夫訳)としたのに対し、新訳が『経済の原理』とした理由を、監訳者の小林(1994、p.4)はこう述べる。「この古典が文字通り「最初の経済学体系」であって、そのため、先行する経済学からではなく直接に経済の現実から、その体系を構築したという事実によるものである」と。ここで、経済(political oeconomy: oeconomyはeconomyの古形)は、とりあえず「国民経済」と解してよい。
 副題は「 ―自由な諸国民の国内政策の科学にかんする試論― そのなかで特に、人口、農業、商業、工業、貨幣、鋳貨、利子、流通、銀行、為替、公信用ならびに租税について考察する」である。本書の目次は、第1編「人口と農業について」、第2編「交易と勤労について」、第3編「貨幣と鋳貨について」、第4編「信用と負債にについて」(第1部「貨幣の利子について」、第2部「諸銀行について」、第3部「為替について」、第4部「公信用について」)、第5編「租税と租税収入の適切な使用とについて」となっている。副題に列挙された対象は、「流通」を除いて、その順で考察されることになる。なお、商業と交易はトレードが、工業と勤労はインダストリが、それぞれ訳し別けられているだけで、同一語である。
 まずは、本書の内容を簡単に一瞥しておく。第1編では、彼のいう「揺籃期」の社会において、人口増殖と農工分離の分業成立を、勤労の原理により説明する。第2編では、貿易が考慮された開放経済体系が考察される。ここまでが、実物的な取り扱いで、第3編以降貨幣論が導入される。貨幣の本質論と貨幣制度(改革)論からなる第3編は、間奏曲にあたり、読み飛ばしても差支えないとされている。第4編は信用論で貨幣的分析の中心部分である。第5編の租税論も、公的収入論というより信用理論の延長としての性格が強い。各章の紙数配分を見ると、「第三編を軸にしてシンメトリな配分になっている」(竹本、1995、 p.46)。ページ数から見ても、第2編と第4編に力点のあることが分かるというのである。
 ステュアートあげる諸例を見るに、彼の歴史認識には、古代社会、封建社会、現代(近代)社会の区別がある。そして数百年継続している現代においても、信用制度の発達により貨幣階級が登場するという大きな変革期があったとの認識がある。しかし、『原理』には、一国の経済進化(発展)の理論的モデルとして、「幼稚」infant、「外国」foreign、「国内」inlandという「トレードの三段階」を経るものとの想定がなされている。その発展のなかで、「非常に簡素な状態から複雑な洗練された状態への人類の規則的進歩」(上p.15)に従って順次登場するのが、副題に列挙された主題である。これらの「歴史的な道しるべをたよりに」(上p.16)叙述が進められる。「それはヨーロッパ経済近代化のプロセスを徹底的に理論化しようとする企てだった」(小林、1994、p.73)のである。あるいは、また「発生史的編成といわれる歴史的方法」や「推測的歴史」(大森)とも言われる。
 なお、副題の最初にある「自由な諸国民」については、「はじめにあたって、私は自由な諸国民の経済だけを取り扱うつもりであることを読者にのべておいた。」(上p.218)の記述で明らかであろう。ステュアートの「自由」概念については、後記する。

 それでは、これから、編別に少し詳しく内容を見てみよう。

 (第1編 人口と農業)
 社会を形成する契機には、道徳あるいは法や統治とは別に、為政者の意のままにならない「経済」(ポリティカル・エコノミー)が存在することを、ステュアートは発見した。経済学について、「この科学の主要な目的は、全住民のために生活資料の一定のファンドを確保することであり、それを不安定にするおそれのある事情をすべて取り除くことである。すなわち、社会の欲望を充足するのに必要なすべての物資を準備することであり、また住民(彼らが自由人であるとして)に、彼らのあいだに相互関係と相互依存の状態がおのずから形成され、その結果それぞれの利益に導かれておのおのの相互的な欲望を充足させることになるように、仕事を与えることである。」(上p.3)としている。経済学の目的は、必要な財を生産し、国民の完全就業を図ることにある。逆に言えば、失業ないし不完全雇用が、現代の社会に本質的に内在すると捉えているのである。
 その社会において、人々を動かすのは「利己心」である。「利己心」は時空を問わず、あらゆる人間が保持する普遍的情念である。後に述べる「インダストリ」が古代社会や「幼稚」な商業段階には見られないのに対し、この「利己心」は歴史貫通的な経済の「第一原理」なのである。「利己心の原理はこの研究をつうじて普遍的な鍵の役割を果たすであろう。しかも、これはある意味では私の主題の支配的原理と考えることができ、したがって、全巻にわたってその所在を確認することができる。それは為政者が自由な国民を、彼らを統治するために立案した計画に協力させようとするさいに利用すべき主要なばねであり、また唯一の原動力である」(上p.152-153)。
 近代社会においては、その成員は、「自分の欲望の奴隷であるために労働を強いられて」(上p.37)おり、その「相互的な欲望」(上p.26)を通じて上記「相互関係と相互依存の状態がおのずから形成」されるのである。その生産・消費の体系は「封建的で軍事的なものから、自由で商業的なものとなった」(上p.10)。ここで、ステュアートは、「ある国民が自由であるということを、私は、彼らが一般的法律によって支配されていることに他ならないと解している」(上p.219)。それは専制政治とも両立しうる。近代社会の相互依存関係は、封建的支配関係とは異なる形態の新たな支配=従属関係でもある。
 「利己心」について、付記すれば、スミスとの違いであろう。スミスは基本的に利己心の発現に信頼を置いていた。ステュアートは、「ゆっくりと人心を導いて、私的な利益につられて彼の計画の実施に協力するように誘導することが、為政者の務めである。」(上p.3)に見られるように、利己心を誘導する為政者権力の合理的行使が、社会を機能させ、彼のいう自由を守るために必要と考えていたのである。
 方法論においては、「この著作の本質は原理の演繹にあって、制度を寄せ集めることが目的ではない。そこで、私は推論の過程で得られる機会を捉え、叙述を進めながら、あらゆる原理を、それが関係を持ちうるすべての分野の研究と関連づけるように努めた」(上p.xi)としている。一方では、付帯条件を考慮しない「一般的法則」や「一般的命題」の危険性を指摘し、「わずかばかりの基本原則から引き出された、不確かな結論の連鎖」である「フランス人のいう体系」(上p.xi-xii)を排している。とすれば、著者が度々言及する例を見ても、「原理」principleは、原理や公理というより、原則、標準、定石に近い意味で使用されているように私には思われる。 
 そして この研究は、「私は、開化し繁栄を遂げているヨーロッパのすべての国々をつうじて日ましに高まりつつある、かの自由の精神に則って」(上p.5)行うとしているように、近代化は不可避的に進行するという歴史認識の上に、『原理』の演繹はなされている。もちろん、「各国の経済は必然的に異ならざるをえないし、また諸々の原理は、どんなに普遍的にあてはまるものであっても、国民の精神の側での十分な準備がなければ、実際にはまったく効果がないものになってしまう」(上p.3)ものでもある。しかし、「『原理』では、ヨーロッパ世界の政治的・経済的な大変化=近代化は、第一に大衆的基盤に立ち、第二に各国において共通だと、理解されているのである。ここでは、歴史的展開は共通の流れでありエネルギーであって、国民の精神はこの共通のもののなかでの異質的要素として捉えられている。」(小林、1994、p.162-3)のである。
 経済学の目的を「社会の全員に食物を、その他の必需品を、そして仕事を用意することである。」と定義した後にすべきは、「明確な方法を見いだすことにあり」、「非常に簡素な状態から複雑で洗練された状態への人類の規則的な進歩」という一連の観念を造りあげねばならない。それゆえ、第一編は「揺籃期の社会を取り上げることから出発する」(以上、 上p.15)。
 「人口と農業が全体の基本である」(上p.139)。第3章から本格的に始まる「人口と農業」の考察の中、まずは人口について。著者は、ウォーレス対ヒュームの「古代人口論争」に多くを学びつつ、「ある時期に地球上にどれだけの人間が存在していたのかを研究するのではなく、[人口]増殖の自然的で合理的な原因を検討」(上p.17)することが肝要であるとする。
 「あらゆる動物の、したがってまた人間の、増殖の基本原理は生殖であり、次に食物である。生殖が生存を与え、食物がそれを維持する。…人間の住んでいるあらゆる国においても、動物の状態を調べてみると、その数は大地がその生存のために年間を通じて規則的に産出する食物の量に比例していることがわかるであろう」(上p.17)。マルサスを髣髴とさせる文章である。しかし、以上は動物の場合であり、土地の本源的な力によるものである。これに人間の労働と勤労が附加されると、「それによって人間は食物の追加量を生産し、その程度に応じて追加される人間の数を維持するための基盤をつくり出す」(上p.20)。不変の生殖力をもつ人間の増殖は食物の増加の範囲内に制限される。しかし、食物は単に自然の恵みであるだけでなく、人間労働の産物でもある。ステュアートは、人口と食物の間に「農業生産という中間項」(小林、1961)をおいた。特定の歴史的・社会的形態をもつ農業生産をつうじた両者の関係に注目したのである。食物生産は「その地域の肥沃度とそこに住む者の勤労に複比例(ペティでお馴染みの言葉!:引用者)するであろうということである」。結局、土地の肥沃度は所与のものであるから、食物の人口支持力は農業生産力と人々の食物消費量=消費水準に依存するものとなるのであろう。
 スミスの『国富論』に人口についての議論はほとんどないし、以後の経済書にも人口論を正面から取り上げたものは少ないとされる。ステュアートのユニークなのは、以下にみるように、人口論を社会的剰余の需要の理論と結合して雇用問題を考え、併せて農工業人口の最適配分に及んだ点にあるのであろう。
 「農業が増殖の基礎であり、1国の繁栄にとって最も重要な条件であることに誰も異議を唱えることはできない。しかし、だからだといって国の誰もがみな農業に従事すべきだということにはならない」(上p.23)。農業生産力を向上させるには、農業以外も必要となるのである。自由な政治の下にあって、商業もなく、奢侈的な技術もなく、簡潔に暮らしている国民に農業と労働の意欲を振起させるには、「貧民のために様々な仕事をつくり出すような方法、すなわちこの余剰と交換に、農業者の気に入るような等価物を彼らの労働によって生産させるような方法しか残されていない。…これが追加的食物を確保し、それを以前には無為に過ごされていた時間の価格として、社会全体に配分する、(自由な国民における)ただ1つの方法である」(上p.25)。
 社会の幼稚段階では、農業者に剰余が生じても、彼らに欲しいと思わせるような等価物(equivalent:工業製品)が、存在するとは限らない。その時は、農業者へのインダストリへの刺激がなくなり、余剰を伴う農業生産は減少するだろう。生産と消費は拡大せず、生存に必要な水準を大きく上回らない。従って、人口も増加しない。これがステュアートのいう「人口増の社会的不能」である。
 近代社会においては、社会の成員の奢侈を増加させ、第二原理ともいうべき、各人のインダストリを刺激しつつ、労働生産物の自由な交換すなわち社会的分業を発達させねばならない。その過程が、農工分離のプロセスの進行であり、人口の増大でもある。ここで「奢侈とは勤労の生産物の余分な消費、または生活にもともと必要でない欲望の充足…と定義する」(上p.141)。インダストリ(勤労)は、強制的使役労働(labour:狭義の労働)と対比される「自由な人間によって行われる創意ある労働のことである」(上p.156)。「勤労によって生み出されたこのような効果によって、国民はいつしか2つの階級に分かれる。一方は生活資料を生産し、したがって当然この分野の仕事に従事する農業者(farmer)の階級である。他方を私はフリー・ハンズ(free hands)と呼ぶことにする」(上p.29)。農業者は、その労働による剰余生産物(superfluity)により、著者のいうフリー・ハンズ(非農業者:ここでは、とりあえず工業製品製造者とする)を析出させる。同時に、自己の剰余生産物とフリー・ハンズの工業製造品とを、適当な等価物として交換する。
 「われわれは、住民を増殖させるファンドなるものは、農業によって生産された剰余であると述べておいた。ところで、この剰余にたいしては需要がなければならない。腹が減っている者なら誰でも需要する者であるが、そういう類の需要がすべてかなえられるわけではない。したがって、すべてが有効というわけではない。需要する者は提供すべき等価物をもたなくてはならない。全機構の起動力(spring of the whole machine)となるのは、この等価物なのである。なぜなら、これがなければ農業者は剰余を少しも生産しないし、そうなれば彼は、当面の生活のために労動に励む人々と同じ階級に身を落とすことになるだろうからである。…農民を等価物を目当とした労働に向かわせるものは有効需要と呼んでもよい」(上p107)。
 しかし、以上のような農工分離・均衡発展の過程は、自然に形成されるものではない。「為政者」の政策のよろしきを得なければならない。ステュアートは、為政者を利己心という貿易風を追い風とする船長(上p.216)に例え、施政については、時計の名工であるジュリアン・ロウの如き精巧な取り扱いを要するとしている(上p.229)。為政者は、人々の等価物への欲望を高めるために奢侈を刺激して需要を増加させるとともに、実物的な物々交換の制約を打破するために、貨幣の導入も図らねばならない。
 ここでも、少し注記をしておく。ステュアートにおいては、農業生産者は農業者(farmer)である。peasant(小百姓、農業労働者)でもなく、husbandman(農民)でもない。地主から土地を借りて、農業を経営する企業者である。「生存のための直接的な手段として」(as a direct means of subsisting)営まれる自給的農業ではなく、「営業として行われる農業」(agriculture exercised as a trade)(上p.80)を企業家的に経営する者である。農業生産者をファーマーと捉える点に、私としてはカンティロン(注5)の影響を見たい。著者の農工分離過程の発想の起源をヒュームに求める意見もあるようだが、同じく、これもカンティロンからの影響(彼の「経済表」)のように思いたい。
 それでは、総人口のうちの農業人口とフリー・ハンズ人口の割合は、どのようなものか。「農業に従事する人々と農業の負担で仕事をする人々のとの比率は、およそ総生産物と土地のレントとの割合に近いということになる。言い換えれば、同じことであるが農業者と彼らによって扶養されざるえない者たちとによって行われる消費と純生産物との割合ということになる。」(上p40)とトステュアートは書いている。しかしながらこの引用文の前半で、総生産物とレントの割合としていえるのは、総人口とフリー・ハンズの割合の間違いであろうと思う。後半の農民の自己消費分と「純生産物」の比率が、農業人口とフリー・ハンズ人口の比率になろう。両者は、同じことではないのである。
 そして、レントは総生産物から次の三項目を控除した価値に等しいとする。「それは第1に、農業者やその家族および使用人との栄養物である。/第2に、製造品や土地を耕作するための機具にかかる、その家族の必要経費である。/第3に、それぞれの国の慣習に応じた、彼の適正な利潤である」(上p39p)。
 ここで記者いう、この1.は賃金相当分、2.は固定資本経費、3.は利潤とすれば、(原料費に相当する)播種用の小麦が考慮されていないように思われる(注6)。あとで見る、著者の価格構成論において、原価の変動費部分が独特の分類されているのと何らかの関係があるのであろうか。
 以上のように、総人口のフリー・ハンズの割合が総生産物に対する純生産物割合で決まるなら、フリー・ハンズを増やすためには、純生産物を増加させることが必要なのではないか。そして同一面積で、より多量の人間を養う栄養物を産出する土地、穀物畑を牧場より増やすことが必要なのではなかろうか。しかし、この場合では、面積と生産物の比率に注目しているのであって、労働と生産物の比率を見ていない。「農業の生産は、果実の量によってだけでなく、それを生産するのに使用された労働によっても評価されねばならない」(上p118)。相対的に見て(投下労働に対比してという意味である)最大の生産を行うことを考える必要がある。
 ステュアートは、この後、孤島経済モデルを使って、相対的農業は「剰余を増加させることによって、確かに農業者に対するフリー・ハンズの割合を増大させる傾向をもつ」(上p123)ことを明らかにする。逆に「商工業の確立は、土地から余分な人間を清掃することによって、このような農業の誤用をおのずから是正し、そしてそれによって農業を本来のあるべき姿に、すなわち剰余を提供することを目指した営業に転換させ」(上p146)るともしているから、二つの階級間で「振動」しながらも相互に発展を刺激し合いつつ、彼らのあいだの全般的依存関係は次第に強固になるとみていたのであろう。
 ステュアートは、相続によって農地が過度に分割された零細的自給農業の没落を黙視し、エンクロジャーによる農地の規模拡大政策を支持している。先に農業者=ファーマーとしたのも、農業者の大規模農業経営に相対的農業の発展を見たからであろう。そして、この農工分離過程の理論の背景には、(第二次)エンクロジャーの拡大とマニュファクチュア発展という資本主義の形成過程の事実があつたと思われる。

 (第2編 交易と勤勉)
 第2編では、第1編を引き継ぎ、有効需要にもとづく経済社会の進化論が展開される。勤労の原理が「(自由の翼に守られて)、貿易という手段によって、勤労な人々の労働を全世界に送り、おびただしい数の住民に豊富な生活資料を与えるのを見るであろう。」(上p.14)というように、貿易が導入され、開放経済体系が考察される。しかし、編中には、それに使用される理論的ツールを説明する諸章が議論の中に介在しすっきりしない。また章別構成も、歴史的発展の順序どおりではなく、説明にも精粗がある(「初期商業」は簡単な説明しかない)。
 そこで、議論の主線である経済社会進化論の概要を整理して先に述べ、サブ・トピックとしての理論的ツールの部分<1.商品価格決定・構成論、2.貿易差額説、3.富の振動と象徴貨幣論、4.貨幣数量説批判>は、後回しにする。

 第1編は、農業者と製造業者というフリー・ハンズから構成されていた。第2編では、冒頭から、商業(trade,交易に同じ)を担う第3の人物「商人」が登場する。フリー・ハンズの一員としてである。「これまで欲望と呼んでいたものが、ここでは消費者として、勤労と呼んでいたものは製造業者として、そして貨幣と呼んでいた者が商人として現れる。商人はここでは、信用で貨幣を代替することによって、貨幣の役を演ずる」(上p.167)。貨幣が物々交換の隘路を打破したのと同様に、商人は信用で貨幣をなお一層有効なものとする。商人は、消費者に対しては製造業者全体として、製造業者に対しては消費者全体として機能する。
 ステュアートの「商業的」社会は、永続的な発展を継続することができない。一定の発展の後、衰退に向かうのである。「いわば人生の3段階、幼年期壮年期老年期に分かれる」(上p.464)ように、トレードも「幼稚」、「外国」、「国内」という3段階を経るもの考えられている(注7)。ヨーロッパの商工業に「過去200年の間に起こったことの経験に照ら」(上p.15)して、現状認識を理論化したものであろう。それは、古典派の経済観―—利潤率を低下させながらも発展は継続するという見方と大きく異なるものである。そして、ヒュームの名は直接的には、第28,29章での彼の貨幣数量説と金本位制下の国際収支均衡メカニズム批判についてしか現れていないが、この2編全体がヒューム批判だとも考えられる。ヒュームがこれらの分析用具を基にして、世界経済の調和的発展を考えたことに対する批判を展開したのである。
 「初期商業」(インファント・トレード:「幼稚」段階)とは、「国の住民の必要物を供給することを目的とするような種類のもの」(上p.274:下線引用者)である。外国製品の輸入は排除されている。「自国民の初期商業を振興し促進するにあたって為政者の指針となるべき支配的な原理は、あらゆる分野の自然の産物の加工を奨励することである。そのためには国民による国内消費を拡大し、外国人との競争を排除し、技巧と発明や改良の競争とを促進する限りにおいて利潤の増大を認め、その仕事に対する需要が不足するときは、いつでも勤労者を仕事の負担から解放してやらねばならない」(上p.276:一部訳を訂正した)。ここでいう、消費を拡大し需要不足を解消するものは、すべての活動の主要な起動力である「第3の原理」すなわち「引き換えに与えるべき等価物を持っている人々の、剰余に対する嗜好」(上p.162)であろう。ステュアートの想定では、これら等価物を持っている人々は富者(この段階では、「封建社会以来の地主」と考える)とされている。「奢侈がもっぱら怠惰を追放し、窮乏している人間にパンを与え、技能を高める傾向をもち続けているあいだは、それはもっとも好ましい効果を生み出す」(上p.464)。第1編の主役の一人であった、農民は次第に背景に退き、トレードとインダストリ=商人と製造業者が前面に出る。そして、フリー・ハンズに富者が加わるのである。
 「外国貿易」(「対外商業」)段階。まずは、国外に利得を求める商人が「非交易国」の取引相手の無知につけ込んで、大きな利益を上げることから始まる。その低廉な価格が外国人の需要を引き寄せ、商人達の競争をつうじて輸出産業は拡大する。輸入国でも、奢侈品への嗜好により洗練された人々の需要が増え、交換のための輸出品増産により「勤労の増進」が起こる。「非交易国」が商業国への離陸の道を進むのである。「このことをもって私は、貿易はもともとそれが定着しているあらゆる国の人口を増加させる効果をもっていると結論する」(上p.453)。
 製造業者に対する「外国貿易」需要の増大は、適正利潤を上回る超過利潤を生み、製造業者の生活(費)を奢侈化せずにはおかない。「ところが困るのは、…こうした利潤の長期にわたる存続によって、利潤がいつしか商品の内在的価値(原価のこと:引用者)と合体されるようになること」(上p.205)である。高騰した生活費が標準となって原価に組み入れられるのである。このことは、輸出品価格を上昇させ、国際競争力を喪失させる。それは、輸出国の富裕を可能にした外国人需要を市場から駆逐する。「必ずや、それに乗じようとする競争相手国が現れる」(上p.458)からである。
 国際競争力を維持するためには、国民の奢侈化を防止し倹約生活を守らねばならない(他国民に奢侈な嗜好を吹き込むことも一手段である)。外国市場への供給をもくろむときは、製造業者を競争させ、生活資料と製品価格を引き下げなければならない。「そして、その国民の奢侈のゆえにこれがむつかしくなるときは、彼(為政者:引用者)は富者の生活様式を非難し、贅沢品の国内消費に批判を加え、そうすることによって外国人への供給に従事する人手を多くしなければならない」(上p.465:下線引用者)。ここで、勤労者のみが簡素な生活を求められ、「富者」は有効需要の担い手として奢侈が放置されたように書かれたもの(注8)もあるが、まずは引用の如く国民全体が簡素な生活が求められると解したい。
 そして、圧政によってではなく、競争の結果として、最下層民の生活は抑制されねばならない。「次のことが1つの原理となる。すなわち勤労にいそしむ国民を生理的必要の範囲内に抑制する効果をあげるにいたるまで、競争をあまねく奨励すること、しかも、いやしくも彼らをそれ以下の状態に押しやることのないようにすることである」(上p.467)。
 しかしたとえ、国民の奢侈化が防止できても、もう一つの隘路がある。先にも書いたようにステュアートは、収穫逓減を認識していた。勤労の進展は生活資料の増大を必要とするが、「農業の拡大が追加的費用を要するようになって、生活資料のきまった価格では、自然の収益をもってしてはこの費用を支弁できなくなる」(上p.209)。「生活資料の価値のこうした増大は必ずやいっさいの仕事の価値を騰貴させるにちがいない」(上p.210)だろう。この対策としては、農地の改良や穀物輸入が書かれているが、効果的な解決策になるとは思えない。「製造品の対外的な相互取引がどの部門においても国民に不利になれば、この取引をただちに停止させる必要がある」(上p305)。
 「国内商業」段階。「外国貿易を回復するためになされるあらゆる試みが徒労に終わって、それが消滅するときに現れるものとして取り扱われる」(上p.467)。それは、外国貿易の灰の中から生まれる(上p.277)。いかなる繁栄も永続的ではありえない。次善の策としてなされるべきは、衰退のあらゆる段階をつうじて国民に不都合を感じさせずに、手際よくかれらを以前の繁栄の高みにまで連れ戻すことである(上p.357)。その国の富の増減は最早問題ではなく、「ただ、あらゆる人間を仕事に就かせておくのに最もよい方法で富を流通させるということが問題になるだけである」(上p.315)。そこでは、「国外需要の不足に比例した国内需要の増加が奨励されねばならない」(上p.241)。倹約から消費増大へと為政者は政策を変更しなければならない。国内商業段階の有効需要創出政策について、小林(1994、p.50)は、「その政策の柱は、第一に土地担保発券銀行の設立であり、第二に国債の発行であり、第三に租税収入の散布である」としている。氏のいう「紙券重商主義」(paper money mercantilism)である。ステュアートは、『原理』3編以下を費やして、あげて国内商業段階の需要創出政策について書いたとも考えられよう。
 「外国貿易」から「国内商業」への移行は、開放経済から閉鎖経済への逆戻りではある。しかし、「国内商業」は「初期商業」のような「自給自足」経済ではない。ステュアートは、「自然的な産物」の剰余の輸出は「国内商業」段階でも行われているとしているからである(第25章)。完全な閉鎖経済ではないのである。

 次に第2編の理論的分析道具について書く。
 <商品価格決定・構成論>
 ステュアートの価格決定論は基本的に需要・供給論である。しかしながら、現代の需給価格理論でいう供給サイドについては明確な説明がない。競争条件の検討は、もっぱら需要サイドから行われているのである。用語においても、「供給」(supply)相当するものとして「仕事」(work)が使用されている。製造業者の仕事の増減が供給であるということであろう。
 その需要論で特徴的なのは、需要の高低(high-law)・程度および大小(great-small)・量を区別していることである。高い需要は価格を上昇させ、低い需要は価格を低下させる(多分、供給に増減はないのであろう)。それに対して、大きい需要は、供給を増加させるのみで、価格を高騰させない。低い需要は、供給を減少させるだけで、価格を下落させない。財の価格は、その需要の大小(量)ではなく、需要の高低(程度)によって決まるとしているのである。記者などは、逆に結果的に価格の変化を招いた需要を高低とし、価格の変化を伴わず供給量の増減を実現した需要を大小と称したのではないかと思うが、ともかくもステュアートはこのように区分しているのである。
 ちなみに、「需要の漸次的な増大は、その性質上、供給を増大させることによって勤労を助長するが、急激な増大は、その性質上、価格を高騰させる。」(上p.451)や(供給が需要を上回りバランスが崩れた場合に、在庫処分で供給増加となる前に需要も増加するなら)「均衡は、私の言う短期的な振動の後に、水平に復するだろう。」(上p.204)とステュアート自身が書いている箇所から見て、需要の高低と大小の区別は、需要変化の短期と長期区分に対応しているとも思える。しかし、商人の在庫で需給調整がなされる(中期?)とした本もあるから、私にはよくは解らない。いずれにせよ、ステュアートは、需要量変化を価格変動に直接的に関連づける理論を生むことはなかったのである。
 「財貨の価格」は、費用部分である「実質価値」(real value)とそれに付加される流通過程で獲得される「譲渡に基づく利潤」(profit upon alienation)の2つの部分からなる。そして実質的価値は、次の3項目からなるとしている。「Ⅰ.どんな製品であれ、売りに出されるにあたって、それについて第1に知るべきことは、その完成に要する時間が長いか短いかを左右する仕事の性質にしたがって、…[一定時間に]その製造品をどれだけ作ることができるかということである。…/Ⅱ.第2に知るべきことは、職人の生活資料と必要な支出の価値である。この両者は彼の個人的欲望を満たし、その職業に必要な器具を調達するためであって…/Ⅲ.第3に、そして最後に知るべきことは、原料の、すなわち職人が用いる第1次の資材(first matter)の価値である」(上p171)。いずれも平均量で理解されねばならないとしている。簡潔に言えば、原価(prim cost)は、「費やされる時間と職人の経費と原料の価値に依存する。」(上p.452)のである。
 Ⅰは労働者の単位時間当たりの平均生産量、Ⅱには賃金(職人の生活費)と道具類の費用とが一括され、Ⅲは原料費と読める。Ⅰは生産量であり、Ⅱ、Ⅲは経費の価値であり、そのままでは、通計できないはずである(注9)。それはさておき、Ⅱは流動資本の一部プラス固定資本であり、Ⅲは流動資本の他の部分と奇妙な区別がなされている。「開拓者にまぬがれがたい未熟と混乱とである。」(小林、1961、p.73)とも思える。しかし、別の(小生にとって)面白い見解もある。長くなるので、(注10)に回す。

 <貿易差額説>
 貿易差額説は、第2編中に、分散して述べられているので、それらから拾い出して書くことになる。「国民的富(金属)」(上p.396)や「貴金属が商業の対象となるやいなや、またそれが、あらゆるものに対する一般的な等価物とされて、諸国民間の力の尺度ともなったときに、それの相応の量を獲得することが、あるいは少なくとも保持することが、慎重さに優る国民にとっては最も重要な目標となったのである。」(上p.297-298)と記されているように、ステュアートにとって、富とは貴金属(鋳貨)のことであり、彼に重金主義的重商主義者の性格があることは否定できないであろう。一国の利得は他国の損失であると見なし、近隣窮乏化政策を是認する考え方である。国際貿易の赤字は、当時の国際通貨である貴金属鋳貨で支払わねばならず、結局はその国の資本を減少させる。赤字貿易が永続すれば、その国民は「金属を使いはたしてしまうだけでなく、多年にわたる貿易差額の逆調の累積額に支払うべき利子として国土からの所得[地代収入:引用者]の一部を支払うことになり、実質的にはみずからを他国民にたいする貢納者の地位におとすことになるかもしれない。」(上p.380)のである。次いで著者は、ヴァイナーによって「労働差額」説とか「雇用差額」説(ヴァイナー、2010、P.54)と呼ばれた説を述べる。労働の加わった加工品の輸出を奨励し、その輸入を抑制する。そして、加工素材の輸入を奨励し、その輸出を抑制するものである。これについては、詳細を割愛する。
 しかしながら著者にあって、貿易差額の重視部分は本書の理論的演繹過程の低調な部分にすぎないとしてとして、「かえって『原理』は各所に、貿易差額の重視に対する批判、ないし批判に帰すべき理論を表明しているのであって、ここに、『原理』の体系が総体として持つ理論的開明性が示されて」いると小林(1994、p.104)はいう。以下は、その理由を小林のあげたうちの2つからとる。
 第1に、ステュアートは、鋳貨(貴金属)が存在しても、退蔵されものは需要の喪失であり、商品経済の発達を阻むので意味がないとしている点である。「富とは、私の理解では、流通している適当な等価物」(上p.326)なのである。「勤労がほとんど行われていない国に莫大な量の鋳貨が存在することはありうるし、また逆の場合もありうるであろう」(上p.373)。この記述から、重商主義(重金主義)の「貴金属即富」の観念からは解放されているとしている。
 第2に、ステュアートが、貿易差額は国際収支の一部分にすぎないとしている点である。現代の考え方では、国際収支は、経常収支と資本収支からなり。前者は、財貨の貿易及びサービス貿易の他、海外旅行や資本投資による収益の収支を含む。ステュアートは次のようにいう、(貿易差額の赤字と全般的支払い差額とは異なるものであるとして、)「前者は国の輸入額が輸出額を超える時のその国の損失総額を示している。後者はこのほかに3つの項目を含んでいる。つまり第1に、外国における自国民の支出。第2に、外国人に返済すべき元本および利子から成るすべての債務支払い。第3に、他国民への貨幣の貸付け。/こうした3項目の全体が私の言う全般的対外支払い差額を構成する。したがって逆貿易差額にこうした項目を加えたものを、世界との総差額と呼んで差支えない」(下p.269)と。現代の区分とは異なるが、国際収支を考えるに、財貨貿易以外に、サービス貿易(他所で船舶輸送収入をあげている)や国際投資による利息収益、資本投資等への注意を促している。私には、すこぶる先見的に思える。

 <富の振動と象徴貨幣論>
 富とは、流通する等価物であり、富者と貧者の交換が流通である。貨幣と交換される富は、有形物と無形物に分けられる。さらに、前者は消耗するものと消耗しないものに分けられ、後者は個人的奉仕(サービス)と法的権利に分けられる。富の中では、消耗しない土地が最重要であり、貴金属がそれに次ぐ(ブリオニズム!)。よって、貨幣で一般の財貨(貨幣と土地と消耗しない権利以外)のものを購入すれば、財貨の購入者はそれを消費して富を失い、売却者は消滅しない貨幣という富を入手する。ここに、個人間の富のバランスが変化する。これをステュアートは、富の均衡における振動と呼んでいる。日常生活で生起していることである。そして、「どの程度<有利な>均衡を彼らが保持しうるかは、その利得が彼ら自身の消費を超えるかに比例する」(上p.475)。地主のような無為の消費者は不利になってゆくし、勤労に励む者は有利になってゆくであろう。近代のインダストリ社会では、富の平等化が進むとみている。「奢侈は不平等の結果ではありえても、決してその原因とはなりえない。退蔵と吝嗇とは大きな財産を作るが、奢侈はそれを分散させて、平等を回復するのである」(上p.296)。
 地主は、製造業者に与える鋳貨(現実の貨幣)を持っていないが、自分の所有する土地の価値まで消費を望んでいることがある。地主は土地で支払うことはできない。ここで、地主の不動産の何筆かの権利が書き込まれた手形が発行され、それがすべての製品の一定量で評価されると、それで製品への支払いが可能となる。これが象徴貨幣であり、信用と呼ばれるものである。「手持ちの金属のみを流通させているような国民は、勤労を金属の量との割合に限定してしまう。その土地を、その家屋を(そのあと製造品、個人のサービス、時間まで含めている:引用者)…流通させうる国民は、勤労への刺激を金属だけではなしうる範囲をはるかに超えてもたらしうる」(上p.332)。「これが奇妙な想定でないことは、数多い現代の天才たちの活動によって明らかにされているように思われる」。ジョン・ローのシステムや南海会社の資金調達のことを指しているのであろう。固定資産を担保にして、銀行券、銀行債権、債務証書、抵当証券を発行し、資金調達することが可能である。ステュアートは、これを固定資産の象徴貨幣への「溶解」(melting down)と呼んでいる。「象徴貨幣の効果とは、せいぜい、その性質からして流通しえない財産を所有する人々に、その総価値に達するまで、彼らの求める奉仕に対して適当な流通等価物を与えるのを、可能ならしめることにある」(上p.333)。詳細は、第4編で扱われる。

 <貨幣数量説批判>
 モンテスキューとヒュームの貨幣数量説に対するステュアートの批判は、マルクスも高く評価したように『原理』のなかでも、最も精彩のある部分の一つとされる。貨幣数量説については、辞典類か本HPのヒュームのページを見てもらうとして、その概要を繰り返すことはしない。ステュアートは、貨幣数量説を3つの命題にまとめた。貨幣数量説を明確に定式化し、分析したのは著者が最初である。
 私の理解した限りでは、ステュアートの批判点は大きく分けて3つあるのではないか。第1は、その過度の抽象性である。序文において、「一般的法則」や「フランス人のいう体系」を批判した彼の立場からは当然である。経済の分野において「一般的な法則と呼べるものはほとんど規定しえないことがわかった」(上p.357)ので、貨幣数量説も「かの一般的で皮相な格率のなかに加えざるをえない」(上p.362)。過度の抽象性の一例として、ヒュームが貨幣数量説を使って、国際収支の均衡を示した説明を見てみよう。「大ブリテンの全貨幣の5分4が一夜にして消滅する」と仮定した場合、物価の低下をつうじて、ブリテンの輸出が促進され、貴金属が流入、物価は元の水準に戻るとする。しかし、ステュアートの考えでは、貨幣量が減り物価が低下すると、ブリテンの住民は生活必需品を含む財貨を最高の価格で買ってくれる外国に売ることになり、低価で同胞に売却することはしない。その結果、ブリテンは飢餓に見舞われ、工業も破壊される。正貨消滅による比例的物価低下「というそれだけの出来事で、勤労と勤労者をともに消滅させるという結果が生ずることを示すことができれば、その後では、この変化がヨーロッパにある富の総額のなかでの<大ブリテンの>比例的な部分を回復する効果をもちうるとは、主張できなくなる」(上p.378)。現代のマネタリスト・フリードマンもそうであるが(ヘリコプター・マネー)、貨幣数量説の説明にはとかく、極端な仮定が採られがちである。極端な設例に対する批判としては妥当であろう。
 第2の批判は、この時代の貨幣数量説が単に貨幣量だけを問題にし、実際の貨幣流通量を考慮していない点である。ここには、下記に述べるように、物価を決定するものは有効需要であるという考え方が根底にある。「貨幣を増加させても、価格についてなんらかの結論がでてくるというわけではない。国民がその富(ここでは貨幣のこと:引用者)に比例して支出を増加させるとは限らないからである」(上p.374)。貨幣量と物価水準の間に有効需要によって決定される貨幣支出水準がある。しかるに、貨幣供給水準と貨幣支出(需要)水準とに乖離が存在することが認識されていないという批判である。貨幣は保蔵・退蔵されることが見逃されている。貨幣にはこの保蔵機能があるため、経済に中立的ではありえず、有効需要にも影響を与えうるのである。
 古典古代の世界においては、略奪により多量の貴金属が存在した。しかし、交易と勤労が導入される以前の世界であり、鋳貨は流通せず、物価にいささかの影響も与えなかった。物価は、単に需要が少ないという理由で安かったのである(上p.397)。近代社会においても、貨幣量と物価を単純に対比することはできないだろうとの考えなのである。
 こうした背景には「必要流通貨幣量論」がある。必要な貨幣量のみが流通するとするものである。どの国であっても流通は、常に市場に出される財貨を生産している住民の勤労に比例しなければならない。「正貨が勤労との比率以上に存在しているものとしても、それは価格を騰貴させる効果をもたないし、流通に入り込むこともないだろう。それは財宝として退蔵」(上p.369)される。こうした貨幣供給量に対する調節があるのなら、貨幣量の増減は直接に物価とは結びつかない。確かに貨幣供給と貨幣支出には乖離があるが、現代の貨幣数量説では、この乖離はフィッシャーの方程式でいえば「貨幣の流通速度」の中に解消されているのではないかと、私は単純に解釈している。
 批判の第3点は、物価は有効需要で決まるとする著者の積極定な主張によるものである。著者は一貫して、あらゆる商品の標準価格は需要と競争(供給)で決定されると説いてきた。彼の価格決定論では、先述のごとく、貨幣は需要が高まるか大きくなるのに比例して、いずれの場合も流通に入り込む。しかし、前者の場合商品価格は上昇するが、後者の場合には価格に変化はない。「したがって、1国の正貨をどれだけ大きな割合で増減させてみても、財貨<の価格>は依然として需要と競争の原理によって騰落するであろう。そして需要と競争とは常に、財産を、またはなんであれ差し出すべきある種の等価物を所有している者たちの意向に依存するのであって、彼らの所有する鋳貨の量に依存するのではない」(上p.363)。価格決定に際して、需要とは国内の総貨幣量でなく、有効需要となるその流通貨幣量で示される。供給とは総商品量であるが、これも固定した量ではなく、有効需要により産出額は変動する。ステュアートが好む言葉でいえば、貨幣量は物価に影響(インフルーエンス)を与えるが、規制(レギュレイト)は出来ないということになる。物価の真の規制者は有効需要となろう。
 以上のステュアートの見方では、物価水準とは、食料価格を中心とした諸商品価格の総体としてとらえられているようである。「私は、財貨の価格が、とりわけ第1次的に必要な品目の価格が1国の正貨の量とほとんど、ないしはまったく関係のないことを示そうと努めてきた。」(上p.396:下線引用者)という記述もそれを裏付けているように思われる。それはそれで正しいのであろうが、私には、ステュア-トは個別商品価格と一般物価水準の区別がついていないのではないかという印象が否めない。「この王国の全紙幣を一挙に排除すれば、確かに多くの者の価格ははなはだしく下がるであろう。しかし、このような低落は全般的でもなければ、均等でもないであろう。」(上、p.370)という箇所などである。なるほど、物価水準は個々の商品価格から成るが、一般物価水準は個別価格の決定論理とは異なるであろう。ステュアートは、個別価格の需給決定論(特に需要論)をマクロの一般物価水準の決定まで拡大していると思えるのである。私が読んだ参考書の中で、この辺について書かれたものはなかった(注11)。
 最後に付け加えておかなければならないのは、ヒュームの貨幣数量説→金本位制下の国際収支均衡メカニズムを否定する帰結として、著者の立場は自由貿易の限定的承認にある。富裕国が貿易差額を求めているにもかかわらず、自由貿易の利益が貧国側にある場合は、富裕国は輸入制限や課税や禁止といった障壁により有害な貿易を断ち切り、「それによって、あたかも堤防を築いたかのように、その富が周辺地域の水準以上に保たれるようにすることは、確かに富裕な国民の利益になる」。さらに外国製品輸入は「すくなくともいくつかの国において勤労を破滅させる」(上p.384)。自由貿易政策はすべての国にとって正しいとは限らない。「いろいろな国家が存在している限りは、それぞれ異なった利害が存在するに違いない。そして1人の為政者がこれらの利害を総括すべき地位に据えられていない場合には、共通の利益といったものは存在しえないし、さらに、共通の利益が存在しない場合には、すべての利害は個別に考慮されねばならない。」(上p.385)のである。
            
 (第3編 貨幣と鋳貨)
 小林昇は訳書の「監訳者まえがき」(下巻収録)において、第3編は全巻中最も読み通しにくい部分であるから、最初の諸章に目を通しただけで次編に飛んで一応「さしつかえないと思う」と書いている。ステュアートにかんする論文を書いたファイルボーゲンという人は、『原理』を読むことは懲罰労働だといったそうである(小林、1994、p.19)。「懲罰労働」を感じさせるのは、特にこの編を読む場合であろう。この章の難解さは、著者も自覚していたようで、この章のみ、適当な段落ごとに内容要約の「小見出し」を付けるという形式を取っている。「読者に主題の全般的な見通しを与え、記憶に定着する効果があると考えた。」(第3編まえがき)からである。
 同じく小林に寄り掛かって書くと、第1・2編のまとめである第2編の後半部分は、第3編を跨いで、直接第4・5編に繋がっている(1994、p.127-128)。他のところでは、この編は「間奏曲」だとも書いている。理論的にも、「要するに第三編は、『原理』全五編のうちでは最も理論的迫力に欠ける編だといいうるであろう。」(小林、1977、p.343)としている。『原理』の研究は第1・2編について活発で、第5・6編がそれに次いでいる。しかし、第3編については、ほとんどなされていないようである。早い話、『原理』の各編別にその内容を解説した竹本の著作(1995)において、第3編部分の占率を計算すると、約8%である。上述したように『原理』の編別ページ配分について、第3編は第1・5編より分量が多く、全編の約18%を占めていると計算していたのはこの本自身である。
 小生も、苦手なポンド・シリング・ペンスの換算や、ポンドとスターリングの価値の違い等基礎的な計算から、てこずった。制度の知識もないので、苦労して読んだ割に、内容の印象は残っていない。それでも、ごく簡単に内容について記しておく。
 第1部は「貨幣にかんする諸原理の演繹と、諸原理の大ブリテンの鋳貨への摘要」と題されている。「計算貨幣」(価値尺度としての貨幣)論と貨幣本質論、それに金・銀複本位制が扱われている。鋳貨は法定価値と素材金属価値の乖離が常に問題となる。大ブリテンのように金・銀複本位制を採用している国では、さらに金銀の相対価格変動による法定比価との乖離の問題が加わる。ステュアートは、金・銀の比価の変動の影響を最小にするため、「合成本位制」を提案している。金・銀の価値平均を貨幣単位の標準としようとするものである(注12)。交換等価物としての価値を維持しながら、その価値を相対的に安定させようとした。また、貨幣改革を実施する際は、公正のために貨幣の実質価値変動による利害関係集団への影響を考慮する必要を説き、具体的には英蘭銀行と公債保有者の利害が対立すると考える。
 第2部は「貨幣の諸原理の交易への適用」と題されているが、鋳造料問題を主としている。造幣所に本位金属を持ち込み、鋳貨に鋳造してもらうときの費用が鋳造料である。イギリスはフランス等ヨーロッパ諸国とことなり、鋳造料を徴収しなかった。このことが、貿易や為替水準に与える影響を分析し、イギリスも有料鋳造制度にすることを求めたものである。

 (第4編 信用と負債)
 第4編「序言」によれば、この編は第2編を受けて、1.信用とはなにか、2.信用は何に基づいているのか、3.信用の諸形態にはどのようなものがあるか、4.揺籃期や壮年期にある信用の確立・拡大方法、5.信用の過剰拡大時の維持方法、6.信用を維持できない場合の早期収束方法、を探究することにある。『原理』後半の貨幣分析の中心部分であり、理論的にも高く評価されるところである。1.~3.が理論部分であり、4.~6.が応用部門である。具体的には、利子・銀行業・為替・公信用を扱う4部構成となっている。

 <第1部 利子論>
ステュアートは、「信用とは約束の履行にかんして、人々の間での十分に確立された信頼でしかない」(下p.221)と信用の本質は信頼であるとしている。しかし、その信用を支えるには「想像上の対象物ではなく、実体的な対象物をもたねばならない」(下p.219)ことも忘れてはいない。それは、担保処分の法的制度や正確な帳簿組織の存在のことを指しているように思われる。
 そして、交易の発達により、信用には、借入期間に相当する利払が必要となったとの認識を示した後、さらにステュアートに特徴的な信用論が提示される。「利子の規則的支払いは、元本が返済されるという信頼と同じくらい、信用の獲得にとって不可欠である。…それゆえ貨幣に対する一定の利子を永久に支払うという十分な保証を与えうる人は、たとえ元本を返済する能力が決してないことが明白であったとしても、いかなる額にたいしても信用を獲得するであろう」(下p.224)との考えである。公債の発行に関連して度々言及される所説である。
 信用の性質に関連して、著者の述べるところをもう一つ付け加える。紙券の「実現」(realizing)である。上述(「貨幣数量説」参照)のように、一国の貨幣量には産業活動に応じた「必要流通貨幣量」が存在する。貨幣量が不足すれば、諸資産が「溶解」されて紙券が流通に投じられる(上記「象徴貨幣論」参照)。貨幣量が過剰となった場合は、遊休させることなく、「所得を生み出すことのできる何らかの形態に転換されねばならない」(下p.225)。余分な紙券は鋳貨に換金されて輸出されるか、適当な投資機会を見つけなければならない。それが著者のいう「実現」である。「私が紙幣の実現というときは、紙幣を世界貨幣である金銀に転換することか、年々の利子をもたらす永久公債のような方法に紙幣を投資することかのいずれかを意味する」(下p.226)。こうして、過剰な紙券は発券銀行に還流することになる。
 ちなみに、銀行券の回収(還流)には、別のルートがある。地主が、流動性をもたない土地を担保として、貨幣とくに信用貨幣を利子付で借入れることが、固定資産の象徴貨幣への「溶解」であった。その反対に、銀行への債務弁済により担保土地の抵当権が放棄されることを、紙券から土地への「固定化」(consolidating)と呼んでいる(下p.543)(注13)。「固定化」は、銀行への紙券回収でもある。
 次に利子率についての議論に入る。ステュアートの利子率について論じられる場合、均衡利子率が貨幣市場だけではなく、土地市場と公債市場をつうじて一定水準に収束するとの彼の考察が、多くの著書で取り上げられている(特に、奥田、1994、には詳細な分析がある)。まず、このことについて触れておく。貨幣階級が高利率を求めて、貨幣貸付市場、土地用益市場、(国際)公債市場を対象に合理的資産選択行動を取ると考えられている。その結果、裁定(鞘取り)が働き、貨幣利子率、土地収益率(地代/地価)、公債収益率(利子/公債価格)が一致するとの考えである。そこには、現代のポートフォリオ・セレクション論の祖形があるとの評価であろう。
 しかしながら、本文には、貨幣利子率と土地収益率の裁定行動について、わずかに記載されている(下p.233)だけである。公債と他の金融資産との裁定行動については、明記されていないように思う(私が見つけられないだけかもしれない)。もう一つステュアートが、産業間均等利益率が成立するほど経済が発達していないとしていることも気にかかる。同じ章のなかで、「もし、交易と産業の諸事業が、そのいずれの部門でも同一の利潤をもたらすほどまで十分に確立されているなら、これを遂行するために借り入れられる貨幣は当然同じ使用料で入手されるであろう。しかしながら、実際はこうではない。より多くの利潤をあげる部門もあれば、少ない利潤しか上げない部門もある。」(下p.231)としているのである。産業部門間での利潤が均等化されない経済で、資産の種類を超えた収益率の均等が実現できるかとの疑問が小生にはある。要するに、資産市場の収益率均等化論が大きく取り上げられるのには、違和感がある。
 さて、ステュアートには、同時代人のベンサムやスミスと同様に、高利規制法についての考察がある。資金の借入には2種類がある。浪費的貸借(消費信用)と投資的貸借(生産的信用)である。「借入れによって利得するために借入れる階級の他に、浪費するために借入れる別の階級がある。第1の階級はその利益率を超えるような利子は決して提供できない(ここには、利子は商工業の「利潤」から支払われるという重要な認識がある)。第2の階級は、自らの支出を制限するのはただ信用の不足だけだという事情にあるので、高利貸の犠牲になる。したがってこの第2の階級のためにでなければ、利子率を規制する法令は必要ないであろう」(下p.232)。生産的信用の利子率には投資収益率という自ずからなる限度がある。消費信用には、借手の信用のほかに限度はないから利子率の高騰を招き易い。しかし、高利の規制は消費階級に益する以上に、産業の発達のためにも必要である。さらには、ステュアートにとって、浪費階級の消費は有効需要の源泉であり、経済発展の起動力でもある。そこで、低利にして円滑な消費階級の資金調達が重要となる。これが、第2部の銀行論につながるのである。

 <第2部 銀行論>
 ステュアートは銀行を2つの基準で分類している。第1は、営業方法によってであり、第2は信用が立脚する原理によってである。第1基準によると、銀行は「持参人に鋳貨で支払いを約束する紙券を発行する銀行と、その帳簿に記載された信用をある人から別の人に移転するだけの銀行とに分けることができると思われる。/紙券を発行する銀行を私は流通の銀行とよび、信用を移転する銀行を私は預金の銀行とよぶ」(下p.256)。前者は、主として不動産を担保に兌換銀行券を発行する銀行であり、後者は主として鋳貨を受け入れてその価値額に相当する預け人名義の勘定を自行口座に設定する銀行である。
 第2基準による分類では、「私的信用による基づく銀行、商業的信用に基づく銀行、公信用に基づく銀行とに分けることができる」(下p.252)。私的信用とは、「元本と利子の双方を返済する義務を履行するのに十分な価値をもつ不動産ないし動産の担保にもとづいて設定される。」ものであり、商業信用は「借手が貸付けを受けた元本と貸付期間中の利息とを、取引にたいする誠実さと知識にとによって契約どおりに返済しうるという貸手の信頼にもとづいて設定されるもの。」である。公信用は「元本の償還請求はできないが、利子のかわりに、あるいは元本の部分的消滅<返済>として、元本総額の一定割合を年々支払うという条件で借入をする、国家すなわち政治体にたいする信頼にもとづいて設定される。」(以上、下p.252)と説明している。現在の金融用語でいえば、私的信用は有担保貸付、商業信用は無担保貸付となろうか。持って回った表現ながら、公信用の意味は明らかだろう。
 流通の拡大による利益は大きいとして、まず流通の銀行が設立され運営される諸原理を説明したいと書くように、第2部の説明のほとんどは流通の銀行についてである。その中でもまず、私的信用の銀行がとり上げられる。ステュアートは「利子論」のところで、消費階級である地主が、所有する土地を持ち寄って、自ら銀行を組織し、紙券を発行すれば、利子負担を免れるとして、土地銀行(ランド・バンク)の提案をしている(下p.244)。バーボンやチェンバレンの構想に連なるものであろう。しかし、ここで論じられているのは、土地銀行ではなく、別種の土地担保銀行である。浪費家の組織する土地銀行の意義には限界があり、地主設立とは限らない一般的な土地を担保とする発券銀行を採ったものであろう。
 この種の銀行は、交易と勤労が揺籃期にある国々において、特に必要である。「こういう性質のものにはスコットランドの諸銀行がある。この国の発展は全面的にこうした諸銀行のおかげによるものである」(下p.257)。利子率のところでみたように、消費信用と並んで、あるいはそれ以上に生産的信用が重要である。当時現実には、不動産担保貸付よりも、保証人による人的担保貸付が優勢であったようであるし、商人や製造業者が信用を求めていた。土地担保銀行には、地主に信用を供与し有効需要を増大する機能だけではなく、消費信用と生産的信用を有機的に組織し、「私的信用の堅実な原理に立脚すべき国民的大流通を運営する」(下p.265)機能も期待していたであろう。
 この銀行は担保貸付による「貨幣の利子が、銀行の手元で[準備金として:引用者]鋳貨が眠っていることによる利子損失、営業経費、外国への[貿易]差額支払のための基金調達の費用を上回るその程度に応じて、利益が生じる」(下p.260)。銀行の信用は、第1に、創業資本、第2に貸付け担保、第3に紙券の兌換準備金によって保証されている。ただし、小林(1988、p.263)によれば、これらは「『原理』の時代のスコットランドの正確な模写ではなかったが、それだけにかえって、形式的には堅実な制度をしめしている」。
 スコットランドの現実では、交易と勤労が揺籃期にあるため、信用を必要とする商人や製造業者は、担保となる物件(不動産)を保有していない。「この障害を除去するために、一群の資産家の商人が自分たちや友人の動産や不動産を束ねて銀行から巨額の信用をえるということを行っている」(下p.264)。本来の銀行から貸付けを受けた資金をもとに、いわば彼らの仲間内で実情を把握している商人・製造業者に、商業信用(無担保)で資金を貸し付けるのである。貸付は主として為替手形を使って行われた。そのため、ステュアートは、これらの業者を、「下級の銀行」とも「為替業者」とも呼んでいる。
 ところで、流通の銀行は紙券を鋳貨に兌換する義務があるが、国際収支の赤字に対する支払いにも備えなければならない。為替業者が決済のための世界通貨である鋳貨を得るために、紙券を持ち込むからである。その支払いには、何ら制限を課さず遅滞なく行わねばならない。しかし、「正貨がその国で全面的に不足したばあい、交易は中断し、銀行の信用が破滅せざるをえなくなるのはあきらかである」(下p.663)。そのため、銀行の準備金を対外決済の支払いのみに用いて、国内流通はもっぱら紙券に委ねて、事実上兌換義務を銀行から解除するというのがステュアートの立場である。「対外差額の支払いのために鋳貨需要が発生すると同時に、自分自身の用のためには紙券で満足し、時折自分たちの手元に入ってくる鋳貨をすべて銀行に持参して、可能な限り銀行を援助することが、善良な市民の義務であるとともに利益でもある」(下p.283)。
 それでも、鋳貨の国民的蓄えが十分ではなく、国際収支決済のために銀行に請求される鋳貨を銀行が供給できない場合、外国からの借入に依存しなければならない(下p.271)。銀行は自国民の外国人に対する返済義務を代行して、利子を外国に支払う(下p.270)。「総じて自国の対外債務を外国の私的債権者の返済請求に任せておくよりも、自国の銀行によって支払ってもらうことは、1国にとってこのうえない利益である。なぜなら銀行が債務を返済する場合には、その国は債権者が元本を請求できない長期債による方法で返済することになると私は思うからである」(下p.295)。利子の支払いが確実であれば外国からの借入は可能であるが、それは、国内の地主の地代収入から支払われる。先に第2編で見た所では、それはまた、自国土の所得の一部を他国民に支払うことであり、実質的には他国への献納者となることでもある。「1国が外国に対する債務をその金属、製造品、そして自然の産物で支払うことが出来ない時には、その国はその国の固定財産で支払わなければならない、すなわち、その国は国外から借り入れた資金…のために、こうした財産から上がる収入に担保を付さなければならないということである」(下p.318)。
 しかしながら、以上については、「対外債務がどれほど大きいとしても、1国の全譲渡に比べれば実に取るに足りないものである」とし、「鋳貨の主な用途は国外にそれを送ることではなく、その国内の住民のあいだでの勘定を明確なものにすることにある。」(下p.319)と書かれていることを付け加えておく必要があるであろう。
 この第2部銀行論の残部は、その後イングランド銀行等商業信用にもとづく流通の銀行について(第22章)述べた後、13章を費やしてロー氏の銀行としてロー・システムについての記載が続いている。その「叙述と分析とは詳密・執拗・独特であって、この対象の研究史上の、利用されざる重要文献というべきである。」(小林、1988、p.261)と評価されている。それは、史実の分析だけでなく、信用の理論を求めるものでもある。しかしながら、省略して大きな影響はないと思うので、割愛する。興味のある方は、小林昇著作集Ⅹに「ステュアートの見たジョン・ローノシステム」があるのでご参照下さい。
 残る最後の4章が、預金及び振替の銀行の典型である「アムステルダム銀行」に関する議論である。既に第3編のはじめ(下p.9)に、計算貨幣としての銀行貨幣を取り上げていた。鋳貨のように素材金属の価値変動の影響を受けない貨幣である。その実例とされたのが、「海中の巌のように不動である」アムステルダム銀行の銀行貨幣、グルデン・バンコである。この銀行へは各国の商人が正貨(鋳貨)で払い込み預金を設定するが、商取引の決済は口座振替の記帳のみによって行い、鋳貨の引出しはされない。このことにより、多国間決済が鋳貨を使うことなく可能となり、同時にグルデン・バンコは国際的な計算貨幣の機能を持つにいたるとする。「アムステルダム銀行は毎年巨額の鋳貨を預金として受け取るが、この鋳貨は銀行の資産に合体されずに、銀行と鋳貨を引き渡す人が共同封印して、銀行に移される袋の中かにとどめられる」(下p.398)。その上で、「預金された鋳貨、振替帳簿に記載された信用、そして銀行貨幣に対する需要の3者のあいだに正確な比率を維持するという巧妙な方法」により、グルデン・バンコは鋳貨に対して打歩(agio:プレミアのこと)をもつのである。

 <第3部 為替論>
 国際収支の赤字国の為替相場は、貴金属の現送費(調達費+運送費)より常に高いと想定される。なぜなら、(赤字の清算には、貴金属の現送が必要となるが、)「諸経費を上回る相場が為替業者にとっての利益であり、この利益がないとその事業を営めないからである」(下p.269)。しかしながら、ステュアートは書いていないが、為替業者の競争があるから、為替相場は、現送費水準を大きく上回ることもできない。現代用語でいえば、普通外為相場の天井は平価相場から運送費を加えた「金輸送点」となる。
 赤字国(著者のいう債務国)の為替相場は下落(自国通貨安)して、輸入商が不利となり、輸出商は有利となる。黒字国(同債権国)は相場高騰(自国通貨高)により、輸入商が有利となり、輸出商は不利となる。「国民の損失はその国によって支払われるべき[貿易]差額に存する。為替の価格にほかならない差額の決済費用は、その国のある臣民たちにとっての相対的損失であり、他の臣民にとっての相対的利得にすぎない」(下p.677)。「つまりある者の利潤はある者の損失によって埋め合わされるので、全体として」(下p.426)考えれば、為替変動による1国の有利不利は一概には判断できないとされる。
 しかしながら、債務国では輸入商は、輸入価格の高騰を国内消費者に価格転嫁できるので、実質的に損失はない。輸出商はもとより有利である。債務国では、輸出商・輸入商共に、実害はない。問題となるのは、債権国である。輸出商は、輸出品の国際競争を維持するために、輸出価格を上げられないから利潤が減少することになる。輸入商はもとより有利である。「したがって、高為替[債権国]は輸出商に損害を与えうるが、輸入商には決して損害を与えることができない」(下p.427)。為替変動の効果は対称的でないのである。ヒュームの金本位制下の国際収支均衡メカニズムを批判してであろう、「いかなる形であれ為替によって輸出業者が利得することは輸入業者が損失することであり、その逆は逆になるということから、逆差額はおのずとそれ自身の有害な諸効果を覆し、差額を均衡にするという結論を引きだす人々もいるが」、ステュアートは、輸入業者は価格転嫁可能だが、輸出業者は製品値上げをできないことを示すことで「この命題の誤りを正すことに努める」。前者の場合は、貿易赤字が国内の富裕な消費者を害するだけであるが、後者の場合は貿易黒字によって貧しい製造業者を追い詰める。「それゆえ私の結論は、為替をできる限り平価近くに常に維持することが交易国の利益にとってきわめて重要だ、ということである」(下p.679)。
 そのためには、実質平価水準の正確な決定が必要となろう。「外国にたいして借り越したり貸し越したりした残高の支払いの際に用いる金属や鋳貨の真の内在的価値を正確に決定する最良の方法は、両国におけるそれぞれの純地金の価値をそれぞれの鋳貨の呼称と比較し、その差を為替にたいして支払われる価格として明示することである」。最善の改善策としてステュアートが提案するのは、各国の造幣局が一国鋳貨の基準分銅を造り、それの複製を各国の造幣局に配布することである。各国は自国通貨との比較が正確に行えるのである。いわば「メートル原器」(こちらの方が新しい)の通貨版のようなものか。

 <第4部 公信用論>
 公信用が、私信用と違うのは債務の契約者(政府)と真の負担者(国民=納税者)が異なる点にある。もう1点は、債務者の繁栄に大きな影響がないことである。むしろ、「国家の負っている債務がその国民(citizens)にたいするものであれば、概して負担になるというよりも有益なものである。というのも、それは諸個人のあいだに新たな流通の部門をつくり出す一方、国民全体の財産からは何も奪わないからである」(下p.680)。
 公的支出が財宝によって負担されていた時代は、掠奪・強奪で賄われていた。やがて、君主たちが自己の土地と公国を抵当に入れ、貨幣を調達するという私的信用原理で公信用が始まった。第2段階では、租税の1部門をバーターにして貸主から資金を得た。元利支払いにかえて、租税徴収権(フランスでのタイユ等に対して)を譲渡するもので、租税の「先借り」と呼ばれた。それは多大の圧政と乱用を招いたため、最小費用で資金を調達するには、年度内収入により年度内支出を賄う短期基金が原則とされた。これらの段階を経て、「ようやく公信用は現在の形をとるようになった。貨幣は有期年金あるいは恒久年金で借入れられた」(下p.441)のである。
 ステュアートは、英国では、チャールス・ダヴナント、仏国ではリシュリュー枢機卿という公信用の建設者の事歴を論じ、英仏の公信用事業を比較検討している。英国の事例を見てみよう。公信用の草創期である名誉革命の頃に活躍したダヴナントは理論家としても実務家としても、高く評価されている。しかし、ダヴナントは、短期基金と呼ぶものを恒久的利子よりも選好した。「当時の人びとの関心は全面的に元本の支払に奪われており、それが数年のうちに清算されるなら、その間にかかる費用は問題でないと考えていたのである」(下p.446)。貸手が自分たちの利益を元本返済にあると考えている限りは、長期公債と恒久的利子は問題にならない。その背景には「当時は交易がイングランドにようやく根づきはじめたばかりで、それを行うための資金を必要としていた。財産を貨幣に転換する銀行の機能はそのときは発見されていなかった。したがって流通は鋳貨にかぎられており、交易の利益は莫大なものであった。こうした状況のすべてがあいまって、<利子よりも>元本を本質的に大事なものにし、その帰結として利子は法外な高さへ騰貴した」(下p.447-448)。
 その後ジョージ1世の治世(1727-60)には、平和が続いた為に利子率が3%に低下し、政府の利子負担が減った。国債を減らすための減債基金が積み上がったが、国会議員の中核である地主階級は、国債残高を減らすよりも、自分たちの負担する税金・地租を引き下げることを望んだ。国債の保有者は償還されても、運用に困ると考えた。国民はといえば減税に反対はない。「そのような3つの重要な利害関係が1つの計画のなかに合流し、その計画がやがては最終的な結論において、債務の恒久化に対する偏愛に帰着せざるをえないとき、債務を減少させる機会があっても、政府に何ができるだろうか」(下p.473)。こうして公債残高は減少することなく、従って利払額も更に減少することなく、減税が実施された。「基金が恒久的な利子で設定されると、人々は元本のことは全く忘れてしまう」(下p.515)。
 「元本が支払われるということなしに債務が継続的に膨張する場合には、それに伴う結果は、如何なる人の明敏な研究をもってしても及ばないほど多種多様である。」(下p.516)とされるが、ここでは著者があげる2点について書く。第1点は、公信用に付随する諸帰結が1国民の精神に与える影響の観点からの考察である。公債の膨張は元利の返済のために、私有財産からの納税を比例的に増大させる。この直接的な結果は、貨幣階級を創成である。貨幣階級はいまや勤労階級や地主階級と共に勤労社会の経済循環の不可欠な円環の一部なのである。それは1面では、納税と公債元利支払いにより、国家の財産が、地主階級から貨幣階級に不断に移動することでもある。貨幣階級は社会的な影響力を増し、地主は貨幣階級に類似した感情を抱くことになる。一方貨幣階級の中には地主へ上昇(?)する者もあらわれる(まさに、デビット・リカードのごとく!)。こうして、「公信用を堅実に確立することは、国民の2大階級にこうゆう相互に好意的な感情を導入し、それによって彼らのあいだの均衡を維持することに大いに寄与する。…そして両者の幸福は公益と産業との成功にかかっている」(下p.521)。著者は、為政者が公信用を確立する場合に第一に熟慮を払うべきことは、国の収入を貨幣階級にどこまで投ずべきかを考察することであるとの問題意識をもった。その答えは、両階級の均衡により、「貨幣階級の膨張を許すのにさほどの不都合はみあたらないであろう。」(下p.438)としたのである。
 公債膨張の帰結についての考察の第二点は、国家破産の可能性についてである。国家破産は二通りある。経済的なものと政治的なものである。前者は交易と勤労の衰退により、永続的に租税収入が減少し、国債の利子(元本返済は考えられていない)と民政経費を支払うのに不足する場合である。後者は国民の反税精神の横溢により徴税が行えない場合である。
 ヒュームは公債膨張による国家破産を考えたが、ステュアートの立場は「自国民に支払うべき債務がいかなるものであれ、その増加から公信用が必然的に崩壊するというわけではない」(下p.536-7)というものである。国家債務の増加そのものが、必然的に破産を招くわけではない。自国民の税から自国の債務が支払われるから、実際には公債利払いのための担税能力の限度が公債限度を規制することになろう。1国が自らに対して破産するという観念事態を矛盾だとする一方で、「1国が世界の自余の国にたいして破産するようになるかもしれないという観念は、理性と常識に完全に合致することである」(下p.535)と考える。国際収支の赤字により、外債の利払いができず、対外債務が累積する時は、国家破産が起こるのである。それを防ぐためには、第1に外国に対する債務の清算を優先すること、第2に対外債務の減少に努めることである(下p.535)。

 (第5編 租税と租税収入の適切な使用)
 序言で、租税の問題は経済のあらゆる分野と密接不可分に関係していると書かれているように、これまでの4編の中でも租税に関しては折に触れて説かれてきた。逆に、この最終編で「それ以前に登場し、著者の構想したポリティカル・エコノミー支柱となった基本的諸概念が、租税論との関連でレヴューされている」(大森、1996、p.281)。
 まずは、租税は「政府の諸費用を負担するために、立法府の法律または同意によって1国の成員にたいして付加される、現物(fruits)、奉仕、ないし貨幣による一定の寄与」(下p.555)と定義される。ステュアートの課税原則として、第1に「衡平と平等の原則」、第2に「規則性と明瞭性の原則」、第3に「最少徴収費の原則」があげられている(竹本、1995、p.311)。より具体的には、税源が1.大地の産物または所産、2.人間の勤労の生産物、3.人間の個人的奉仕とされていることに対応して、「元本(ファンド)をではなく所産(フルーツ)を、税を課される人の節約分(セイヴィング)ではなく支出を、奉仕する人の人格ではなく所産」(下p.556)を課税対象とするというものである。税の方は、①譲渡にもとづく税=比例税、②財産に対する税=累積税、③奉仕の形で著収される税=対人税に分類される。①は、内国消費税、関税、印紙税等々、②は、地租、人頭税、窓税、馬車や使用人対する税等々、③は、公共工事のための賦役や軍役等々である。
 まず比例税をみる。原則によれば、課税の対象となるべきは必要経費を除いた土地または勤労の生産物であるべきである。にもかかわらず、勤労者は製造品の原料に課税された税金をも前払いしている。しかし、その部分は製品原価に算入され、彼自身に課された税金と共に、販売価格に含まれ消費者に転嫁できる。最終消費者のみが価格転嫁できないことになる。「勤労者の一団によって前払いされ、他の人によって返済され、最終的に誰からも回収しえない人々の負担になる」(下p.586)のである。「それが正しく賦課される場合には、無為の人びとには影響を及ぼしても勤労者には決して影響することのない」(下p.560)税である。これに対し、累積税は「彼らの過去の勤労、利得あるいは財産の収益が」(下p.567)課税対象となっており、「各個人の財産、収入、利潤に影響を及ぼし、しかもいかなる方法によってもその税を回収することが出来ない」ものである。累積税が上層階級だけに課税されればよいが、下層階級にも賦課される。この税は個人生活状況のゆとりに応じて課税することができず、国家がゆとりを正確に計測することもできない(下p.692)。それゆえ、「一般的には比例的性質をもった税が好ましいとした」(下p.594)のである。
 ここで、(小生にとって)興味を引く箇所をあげておく。資本に付加され蓄積される純利潤に、誤って累積税が賦課されているとする次の記述である。「交易における純利潤については、収入の外観を呈しているが、私はむしろそれを資本と考えるのであって、それは諸原理に従えば課税されるべきではない。私がそれを収入と考えない根拠は、それが商人によって交易資本に加えられて蓄積されると想定しているからである。それは幹を太らせる年々の若枝に似ているものの、年々うみだされてそれから分離する種子や果実とははっきり異なるのである」(下p.606)。そして、「課税の第1原則は賦課を収入にのみ限定することである。資本に影響を及ぼすものはすべて抑圧的で正義に反する。」(下p.691)としている。小林昇(1994、p.126)はつとに、「『原理』は原始蓄積の一般理論ともいうべき体系であり、そこには生産局面のいちおうの分析はありながらも、資本蓄積の過程よりもむしろ商品経済の拡大の過程に関心を集中」していると指摘している。なるほど本書を通読しても、その感が強い。しかし、ここなど資本蓄積に触れた数少ない箇所ではなかろうか。
 さて、著者が望ましいとする比例税に対する第一番の反対論は、それが労働の価格と勤労の生産物の価格を引き上げ、もって外国貿易の障害となるとすることである。それに対する著者の解答をみる。まず「労働の価格」=賃金については、生活資料価格が課税で上昇しても、必ず賃金が上昇するとは限らない、「それは事情次第である」。賃金はあくまで、彼の持論である労働に対する需給関係で決定されるのである。「労働の価値は需要によって規制されるが、比例税によっては影響を受けるにとどまる」(下p.692)とのお馴染みのフレーズである。「生産物の価格」については、国内財である限り、消費者に転化されるから勤労者には問題はない。高価格が維持されていることは、消費者需要が旺盛の証で喜ぶべきことである。そもそも、「人間の怠惰や骨惜しみ、さらには下層階級における、自分の境遇を改善しようとする野心の欠如が、私見によれば、これまでこの王国で生活資料に賦課されたいかなる税にもまして、勤労の生産物を減少させ、ひいてはその価格を引き上げることにあずかっているのである。」(下p.573-4:下線引用者)とする著者の立場では、税が製品価格に与える影響は少なく見積もられおり、インダストリで容易にカバーできると考えられたのではなかろうか。輸出財の場合は、輸出業者が勤勉に働いているかを為政者が調査し、奢侈であれば競争を促進し価格を下げる。なお一層の価格低下を望むのであれば、輸出業者に奨励金を補助することにより輸出価格のみを引き下げることができるとしている。
 この編の解説の冒頭にステュアートの税の定義を上げた。著者は税について別の定義も示している。「税というものは、公共の利益のために支出されるべき公的資金を確保するために、すべての私有財産から節約されたもの」であるともされている。元来、為政者は公共の利益を促進するために個人の自由を制限し得るのであって、その負担する税金が正しく使用された場合にのみ納税者に利益が生ずる。そこで、「徴収される貨幣が、納税者によって使われる場合よりも国家によって一層有益に使われるならば、その場合には私に言わせれば、諸個人に賦課された負担の結果、社会が利益を得たことになる」(以上、下p.591)。
 この定義には二つの特徴が見だされるのではないか。一つは、私益とは別に公益が存在し、税金の適切な使用は私益以上の公益を実現できること。第二に、大方の古典派経済学者と異なり、租税の収入面より支出面を重要視したこと。特に、財政には流通を促進する効果があることを強調した。もっといえば、古典派の財政均衡主義から踏み出して、税収を上回る財政支出=積極財政主義を含意するともいえよう。これまで「租税について著述してきたすべての人は、租税の対象をできるだけ縮小しようと努めてきた」。著者の考えはこれとは異なるのである。
 「公金の充用はすべてその国における需要を意味し、あらゆる需要が充足されるということは勤労に刺激が与えられることを意味する。したがって、税は、それがなければその時流通には入らなかったはずの貨幣を流通に引き込むのに比例して、勤労を促進する」(下p.620)。税金がないとしても、納税額相当は支出されるとは限らない。貨幣として退蔵されたかも知れない納税額は需要に転化されるのである。また、納税者が支出した場合でもそれは私的欲望の充足のためであり、公益に配慮されている訳ではない。「勤勉な国民にとっては税は有害どころかむしろ有益なのだということ、しかも税の賦課による弊害よりも税への流通への還流による利益がはるかに多いことを正確に論証して」(下p.615)、「税が賢明に賦課され、実際に抑圧なしに徴収される場合には、それは国民を富裕にすると結論する」(下p.620)。国民を富裕にするとは、具体的には困窮民の扶養、若者就業機会の提供、輸出奨励金による貿易促進、土地改良、植民地建設、漁業振興等々である。

 ともかくも「最初の経済体系」であり「忘れられた古典」の内容を紹介してみた。『原理』の原文は一般に悪文とされている。先に書いたように、『原理』を読むことは懲罰労働だともいわれている(注14)。自分の能力を棚に上げていえば、読むのにかなりの時間を要したし、いたずらに長文となってしまった。拾い読みでもしていただければ幸いです。

 英国の古書店より購入。シカゴ大学図書館旧蔵(目打ちによるスタンプ印あり)。きれいな革装丁がなされている。 

 他にバーゼル(Baselでなく、Basil と印刷)で1796年に発行された5巻本も私蔵している。全巻揃ってはいないが、18世紀の本なので、写真だけをあげておく。ドイツの書店からの購入。.

 STEUART, Sir JAMES, An Inquiry into the principles of Political Economy: Being an Essay on the Science of Domestic Policy in Free Nations. In which are particularly considered Population, Agriculture, Trade, Industry, Money, Coin, Interest, Circulation, Banks, Exchange, Public Credit, and Taxes., Ⅱ、Ⅲ、Ⅴ, Basil、Tourneisen , 1796, 8vo.


(注1)竹本訳者解説(1998、p.614)によれば、本書に執筆時期が記載されているうち、最も早いものが1756年の7年戦争に触れた箇所である(上p.12)。よって、「『原理』は1756年春にスパーで執筆が開始されたことになる。」とされている。
(注2)マルクスの経済学史的な著作から、引用した経済学者を頻度の多い順に、その人名索引により記してみる()内は回数。
①『経済学批判』(1859)では1.リカードウ(14)、2.スミス(9)、3.ステュアート(6)[岩波文庫による、本文部分のみをカウント]
②剰余価値学説史(1856-62)では、1.スミス(165)、2.リカードウ(162)、3.マルサス(67)、4.セー(45)、5.ロベルトウス(31)、6.シスモンディ及びベイリー(21)、8.ケネー(18)、9.ステュアート(17)[マルクス・エンゲルス全集版の3巻分の合計]
③『経済学批判要綱』(1857-58)では、1.リカードウ(98)、2.スミス(67)、3.プルードン(45)4.マルサス(34)、5.ステュアート(29)
(注3)正確には、「富者の消費性向」(propensity of the rich to consume)と記載。
(注4) 『一般理論』の類似箇所は、次のとおり。資本の限界効率が利子率より低い場合を論じて、「その場合は富を保有しようとする欲求を経済的収益を全く生まない資産に振り向けるだけでも、経済的厚生は増進するだろう。大富豪が、この世の住処として豪壮な邸宅を構え、死後の安息所としてピラミッドを建設するといったことに満足を見いだしたり、あるいはまた生前の罪滅ぼしのために大聖堂を造営したり修道院や海外布教団を寄進したりするならば、その限りで、豊富な資本が豊富な生産物と齟齬を来す日が来るのを先延ばしできるかもしれない。貯蓄を用いて「地中に穴を掘る事」にお金を費やすなら、雇用を増加させるばかりか、有用な財・サーヴィスからなる実質国民配分をも増加させるであろう。」(ケインズ、2008、上p.308)。
(注5)ステュアートは、カンティロンの『商業試論』を読んでいる(下p.136)
(注6)小麦の収穫倍率(収穫量/播種量)は米に比べて低く、10倍を超えるのは19世紀になってからだとされる。スリッヘル・ファン・バード『西ヨーロッパ農業発達史』巻末の表によると、18世紀イギリスで9倍というところか。播種用小麦は、総生産物の1割以上を占めたであろう。無視できない比率である。
 このレントに関連して田添京二と小林昇との間に「ステュアートの経済表」を巡って論争があった。しかし、ここでも播種用小麦は意識されていなように私には思える。
(注7)単線的な進化だけが考えられている訳ではない。「国内」段階から「外国」段階へ戻ることも想定されている、というより望まれている。
(注8)竹本(1994、p.38)は「ステュアートは、国民のあいだでの奢侈の分担という方策を考えた。すなわち、奢侈は「富者」が担って有効需要を確保し、下層階級は簡素に徹して勤労に励み、対外販路の維持をはかるというのである。」としている。一方、大森(2005、p.31)によると、外国商業段階では、「前段階とは対照的に、輸出価格の高騰の原因となる国内有効需要は徹底的に抑制される。それにもかかわらず、就業水準が維持されるのは「有利なfavourable貿易差額」によって海外からの需要が確保されるからである」(下線引用者)としている。国内需要の抑制とは、全国民の奢侈を抑えることであろう。
(注9)竹本は、商人が機能を発揮すれば、需給状況は「勤労者たちにも伝達される。勤労者たちはそこで、自分たちの一定の利潤に応じて、その生計[費]と経費とを規制する。」(上p.172:竹本に従い一部改訳)と書かれていることにも注目する。勤労者(製造業者)が実質価値の(Ⅱ)の項目を規制するだけで、(Ⅲ)項目の原料に規制が及ばないとステュアートが考える(と解釈して)のはなぜかと疑問を発して、「前貸し問屋制的な経営を想定すれば、勤労者は原料を商人から受け取ることになり、勤労者は原料の価値をみずからは直接に規制できない立場に立っている。このことも、勤労者の規制(調整)から原料が除外されている理由をなしているだろう。」(竹本、1995、p.162)と自ら答える。
 「前貸し問屋制」とは、竹本がウォーラステインを援用して説明するところを記すと、1.生産者は自前の住居で、自前の設備・道具で生産する。2.生産者は一人親方であるか少数の徒弟や家族で生産する。3.加工品原料は商人が供給する。4.商人は生産者の製品の買い取り権を有する等である。なるほど、これなら、ステュアートの費用区分に適合する。ただし、「問屋制」(プッテイング・アウト・システム)は、主としてマルクス史学やドイツ歴史学派で発展した概念で、原料のみならず、生産設備も商人が提供する場合も含まれている。ステュアートの費用区分と、「問屋制」のなかでも原料のみを提供するそれのみを都合よく結びつける、理由が何かあるのかは、不勉強で私にはよく解らない。
(注10)そこで、「つまり第一項目は第二項目と第三項目のそれぞれの価値、つまり平均費用を割り出す一種の除数的役割をもつものだといえる。これを除数とする見解は、大山氏が初めて提出したものであるが、私も結論において氏の見解に同意する。」(竹本、1995、p.161-2)と大山均の論文を紹介している。私はこの論文は見ていない。
(注11)わずかに、大森の本に(p.171)「個別価格と(一般的)絶対価格(一般物価水準のことと思われる:引用者)とのこうした混同は、貨幣=富観にその基本的誤謬の源を発しているといえよう。」との簡単な記載があるだけで、詳しい説明はない。
(注12)本位貨幣中に同価値量の金・銀の合鋳しようとする「合成鋳貨」は、『ベンガル鋳貨論』(1772)で提案している。ここでの、「合成本位」(混合本位)という表現は適当でないかもしれない。
(注13)竹本(1995、p.246)には、「固定化」を債務の弁済で「しかもその所有者を換えて」としている。意味がよくわからないので、個々では単なる債務返済による担保放棄(抵当権抹消)と解する。
(注14)ステュアート自身は「大ブリテンやフランスで公にされた立派な業績」、特に彼に大きな影響を与え世評を博したヒューム『政治論集』のエッセイのスタイルを知りながら、あえて「ただ私の才能と著作の性質と主題の前後関係とのうえに、表現の明解さを求めて、ほかのすべてを犠牲にするような順序と文体とで執筆せざるをえなかった」(上p.5)と書いている。そして、「私がここで書き並べている言語は、長い年月にわたって私がいっしょに暮らし会話を交わした人びとにとっては他国の言葉だったのである」(上p.x)という亡命生活中の執筆という事情も、影響しているのかも知れない。また、「私は文献を参照するにはあまり恵まれていない境遇のもとで執筆しているので、手元にあるものを使うほかない。」(上p.38)ことも考えてやらねばならないだろう。


(参考文献)
  1. ジェコブ・ヴァイナー 中澤進一訳 『国際貿易の理論』 勁草書房、2010年
  2. 大森郁夫 『ステュアートとスミス』 ミネルヴァ書房、1996年
  3. 大森郁夫 「サー・ジェイムズ・ステュアート ―経済学はいかなる意味で<ステイツマンのアート>なのか?― 」 (坂本達哉編『黎明期の経済学 経済思想第3巻』 日本経済評論社、2005年 所収)
  4. 大山均 「J・ステュートの貨幣数量説批判」 (時永淑編 『古典派経済学研究(Ⅱ)』 雄松堂出版、1985年所収)
  5. 奥田聡 「J.ステュアートの利子論と利子政策論」 (『岡山商科大学法経済学部創立記念論集 現代経済学の諸相』 中央経済社、1994年 所収)
  6. 川島信義 「ジェイムズ・ステュアートの「商業国」衰退論」(小柳公洋・岡村東洋光編 『イギリス経済思想史』 ナカニシヤ出版、2004年 所収)
  7. ケインズ 間宮陽介訳 『雇用・利子および貨幣の一般理論』上・下 岩波文庫 2008年
  8. 小林昇 『経済学の形成時代』 未来社、1961年
  9. 小林昇 『最初の経済学体系』 名古屋大学出版会、1994年
  10. 小林昇 「ジェイムズ・ステュアートとグレゴリ・キング ―ステュアートにおける経済循環の把握について― 」(『小林昇経済学史著作集Ⅴ J・ステュアート研究』 未来社、1977年 所収)
  11. 小林昇 「ステュアート信用論の構造」(『小林昇経済学史著作集Ⅹ J・ステュアート新研究』 未来社、1988年 所収)
  12. シュンペーター 東畑精一訳 『経済分析の歴史 2』 岩波書店、1956年
  13. J.ステュアート 小林昇監訳 『経済の原理 -第1・第2編―』 名古屋大学出版会、1998年
  14. J.ステュアート 小林昇監訳 『経済の原理 -第3・第4編―』 名古屋大学出版会、1993年
  15. ステュアート 中野正訳 『経済学原理』(一)~(三) 岩波文庫、1967-1980年
  16. 竹本洋 『経済学体系の創成 ―ジェイムズ・ステュアート研究― 』 名古屋大学出版会、1995年
  17. 竹本洋 「訳者解説」(1993 3.4編 所収)
  18. 竹本洋 「訳者解説」(1998 1.2編 所収)
  19. 田添京二 『サー・ジェイムズ・ステュアートの経済学。』八朔社、1999年
  20. スリッヘル・ファン・バード 速水融訳 『西ヨーロッパ農業発達史』 日本評論社、1969年
  21. マルクス 武田隆夫他訳 『経済学批判』 岩波文庫、1956年
  22. マルクス=エンゲルス全集 『剰余価値学説史』(第26巻) 大月書店 1969年
  23. ジョーン・ロビンソン ジョン・イートウェル 宇沢弘文訳 『ロビンソン 現代経済学』 岩波書店、1976年
  24. 渡辺邦博 「外国貿易の衰退・停滞とジェームズ・ステュアート」(竹本洋編 『経済学の古典的世界』 昭和堂、1986年 所収)
 訳書は、小林監訳本を用いた。訳を一部訂正した所もある。訳書引用部分の下線は、特に注意書きのない限り、原本のものである(原文イタリック、訳書傍点)。下巻が先行した出版事情のためか、「第1・2編」と「第3・4・5編」は、通しのノンブルが振られていない。前者を「上」、後者を「下」で区別した。




第一巻標題紙(拡大可能)



バーゼル版

(H2013.8.5記)



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