HUME, D., Political Discourses The second edition, Edinburgh, Printed by R. Fleming, for A. Kincaid and A. Donaldson, 1752, pp[iv]+304, 12mo ヒューム『政治論集』、第二版1752年刊(初版も同年刊行)。 著者略歴:デイヴィド・ヒューム David Hume (1711-1776)。ヒュームの生きた18世紀には、-s ( science の略だろう)や –ology の語尾を付けた学問は成立していなかった。哲学の語源は知を愛することだから、その意味ではヒュームはまさに哲学者であったのではないか(西周が philosophy を哲学と訳し、学問にしてしまったのはまずかったか)。『人間本性論』は、今なお英国最高の哲学書の一つと評価されているし、『イングランド史』全六巻は、ギボンやマコーレイの史書と同じく江湖の読者の迎えるところとなった。生存中は、むしろ歴史家として知られていたのである。そして、社会科学においても、その草創期に開拓者として大きな役割を果たした。特に、経済学者としての力量は、次のサムエルソンの評価を挙げれば充分であろう。サムエルソンは、古今の経済学者に評点を付けている。A+は、アダム・スミス、ワルラスとケインズのみである。それに次ぐ、A評価は、リカード、ミル、ジェヴォンズ、パレート、ヴィクセルおよびマーシャルと並んで、ヒュームが入っている(サミュエルソン、1979、p.i)。 「哲学者の生涯ではそれほどドラマチックなことは起こらない。」(中才、2005、p.16)そうである。確かにペティやコンドルセ、ネッカー(単なる経済学者ではないが)等と比べると、ヒュームには劇的な要素がなく、興味を引かれない。それでも、一応生涯を簡単に書き出してみる。 イングランドに接するスコットランドのベリクシャー、ナインウェルズ生まれ。父は、小地主であるが、農閑期にはエディンバラで弁護士を営んでいた。母は、高等法院の長官の娘である。著者2歳の時に父は亡くなり、遺産は3人兄妺の長子ジョンが主として引き継ぐ。ディヴィッドに残されたのは年に50ポンドのみで、経済的自立のために法曹家を目指した。12才にもならぬ歳で、兄と共にエディンバラ大学に入学、人文学課程を修得。必修のギリシャ語、論理学、道徳哲学の他、数学、自然哲学(自然科学)も学んだであろう。当時の常として、学位は取得せずに大学を去った。 その後数年間は郷里に戻り法律を自習することになるが、文藝(歴史と哲学を含む)の魅力に取りつかれた。18才の時、『人間本性論』で展開する思想の啓示を受け、哲学への「決定的回心」を経験する。その興奮と過度の集中により、心身症に陥る。健康を回復するために、一時勉学を放棄する決心をして、ブリストルで砂糖商人の事務員を勤めた。しかし、自分が商売に向かないことを知らされた。雇主との不和もあって、4ケ月にして解雇される。 『本性論』執筆に専念する決意のもと、フランスに渡る。渡仏した理由は、ささやかな自分の所得で生活できると考えたことにあるらしい(A.J.エア)。デカルトが学んだこともあるイエスズ会のコレージュのある町、アンジュー地方のラ・フレーシュという小都市に2年間滞在した。『本性論』は、最初の二巻が匿名で、1739年に出版されたが、世間の注目を引かなかった。ここで余談。ヒュームは『本性論』に対する批評を見て、誤解を解くため『人間本性論、云々の標題を持つ近著の摘要』を1740年に出した。この本は長く忘却されていたが、ケインズにより再発見されて、ケインズとピエロ・スラッファによる32頁の序文をつけ、1938年に復刻されている。小生も復刻本は所蔵している。 さて、自ら評して、『人間本性論』は、印刷機から死んで生まれ落ちたとい言う。不評はその表現方法にもあるのではないかと反省した。その後努力を重ね、本書『政治論集』については、出版直後から成功を勝ち得た自分の唯一の著作と云うまでになった。諸著作により、1744年には、エディンバラ大学倫理学精神哲学の教授の候補者、後1752年にはアダム・スミス後任のグラスゴー大学倫理学教授の候補ともなったが、彼の無神論的傾向が災いして、いずれも実現しなかった。安定した収入源を持たないヒュームは、終生「文筆家」と自称し、筆一本で生きる決意を示している。世に、筆は一本なり、箸は二本なり、衆寡敵せずと知るべしという(肉叉の民にこの警句は不適か)。生活は大変であったろう。それだけに、著作の売れ行きには常に留意し、重版に際しては、内容のみならず、特にその文体・表現を改めることに抜かりはなかった。その後の主要著作は、本書の他に『道徳・政治論集』(1741-42)、『イングランド史』(1754-61)がある。 著作による経済的自立に努めていたとはいえ、世間とは没交渉ではない。収入を確実にするということもあろう、当時知識人によく見られた貴族子弟の家庭教師も勤めたし、低くはない官職にも就いている。まず、親戚のセント・クレア将軍のカナダ遠征隊の法務官となったが(1746)、結局、隊はカナダへ行くことはなかった。引き続き同将軍の軍事使節団の副官として、ウィーンやトリノへは行った。後には、1763年駐仏大使ハートフォード卿の私的秘書官として随行し、一時は代理大使の任に就いた。パリでは、彼の名は知れ渡っており、貴顕に崇められ、知識人に敬われた。もちろん貴婦人にも持てた。コンティ公の愛人でもあったブフレル婦人とは恋愛沙汰があった。生涯独身であったヒュームには何回目かのものである。もう一つのパリでのゴシップは、ルソーとの邂逅と離反。リソーを英国に連れて帰ったが、喧嘩別れをする。1769年エディンバラに帰る。その頃、所得は年1,000ポンドに達するほど豊かであった。 臨終の床に就いたヒュームを、無神論者の死生観に変化はないかを確かめるべくボズウェルが訪れる。『サミュエル・ジョンソン伝』のあの仁である。全く18世紀の人物伝記には、やたらと出没する人である。ヒュームは、死後の世界はないと冷静に答えたようである。 最後に余話を一つ。ヒュームの風貌はどう見ても低能児にしかみえず、その鋭敏な知性に全くそぐわないものであった。それがまた、彼の魅力を増したとされている。母親でさえ、ぶざまな外見に惑わされて、子供の知性に気付かなかったそうである(ストレイチー)。研究書のカバーに印刷された彼の肖像画を見る限り、いずれも、堂々たる容姿であるが。 この本は、同時代のステュアート、スミスの本に比べると非体系的で、書名から判るように経済学として独立したものでもない。「しかし、それにもかかわらず、そうした比較論は、ヒュームの経済的思考が何ら断片的・偶発的・没体系的であることを証明するものではない」(坂本、1995、p.194)。ヒュームは、この本で、それまでの著作では、不十分であった近代社会の基礎にある経済構造の分析を行った。実証と理論との両面、すなわち歴史的・経験的事実の分析とその理論的説明を緊密に関連させて論じている。 社会科学は、物理学のように環境を制御した実験を行えない。また、数学のような等値関係で論理を連鎖させるのではなく、蓋然性の論理であるから、論理の連鎖が長く成るほど結論の不可実性が増すであろう。「議論をあまりに緻密に洗練するか、あるいはあまりにも長い結論の連鎖をつなげてはならない」(ヒューム、2010、p.4;以下本書邦訳からの引用は、頁数のみを表記)のである。しかし、そこには「いかに複雑に見えるとしても、一般原理は、それが正しくて確実であるなら、個々の場合には妥当しないことがあっても、事物の一般的な成り行きにおいては常に支配的であるにちがいなく、この一般的な成り行きを考察することは、哲学者の主要な仕事なのである」(p.4)。特に人間の欲望を動因とする経済的行動は、他の社会的行動に比べてその一般性・規則性を認識するのが容易であろう。 本書全論説12の中、8論説が経済論である。1.商業について、2.奢侈について、3.貨幣について、4.利子について、5.貿易差額について、7.租税について、8.公信用について、10.古代諸国民の人口稠密について、の8論説である。 ヒュームの議論は(特に冒頭の論説において)「古代人口論」との直接的な関連が明白であり、「ヒュームの経済論の生誕地が古代・近代論争(本HPのウォーレス『古代と近代の人類の数にかんする論稿』を参照下さい)にあったことを疑問の余地なく証明している」(坂本、1995、p.210)とされている。これら8経済論説の主題は、一見まとまりがなく、ばらばらのように見える。しかしながら、これら諸論説のいずれもが一般原理の発見を目指しており、古代・近代論争を通した眼で見ると、これらの論題を貫いてその中心には、経済発展に関する理論が基底、バックボーンとしてあるのがわかる。それは、経済発展の原理を技術と勤労の増大に求めるものである。この経済発展原理は、まとまった独立した論説としては展開されはいないが、商業、奢侈、貨幣、貿易差額諸理論それぞれの根底にありそれらの基礎理論となっているのである。 論説1「商業について」と論説2、「奢侈について」の二論説は、社会の経済的基礎、したがって経済発展原理に関しても、ヒュームの考え方が最も鮮明に現れていると思える。まずは、ヒュームの説く所を、まとめて書いてみる。 余分な人手が奢侈の技術(比較的精巧な技術)に従事すれば、享楽を得る機会を増やし、臣民の幸福を増す。一方主権者は、領土拡張のために余分な人手を陸海軍に使用しようとする。国家の偉大さと臣民の幸福にはある種の対立がある。古代スパルタのごときは、臣民の幸福を削って、国家の栄光を求めた。「個人を貧しくすることによって公共を強大にする政策は乱暴である」(p.10)。国民が手工業と機械的技術に富む場合、平和な時代には、土地生産物の余剰は手工業者と自由学芸の改善者の扶養に向かう。しかし、国家は、農業労働の剰余により、容易に多くの手工業者を兵士に転換、維持することができる。従って、必需品の生産を越えて労働が雇用されるほど、国家もそれだけ強大になる。余剰生産の労働者を公共の用務に転換可能だからである。「商工業( trade and industry )は実際に、労働の蓄えにほかならず、平和で平穏な時代には、労働は個人の安楽と満足のために用いられるが、しかし国家の危急の際には、一部は公共の利用に振り向けられるのである」(p.13)。 外国貿易も同様の効果がある。「要するに、多量の輸出入をする王国は、自国産の財貨で満足している王国よりも勤労( industry )に富んでいるにちがいないし、しかもその勤労は精巧品や奢侈品に用いられているにちがいない。したがって、こうした王国は一層富裕で幸福であるとともに、いっそう強大でもある」(p.14)。 さらには、市民の不平等が大きい国家は弱体である。富が平等であれば、租税負担は軽く思われる。また富の集中は権力の集中を生みがちである。平等こそ、世界に勝るイングランドの利点である。職人は富裕である。「労働の高価格によって、外交貿易でのいくらかの不利を感じている。しかし、外国貿易は最も重要な事柄ではないから、それは幾百万人もの人びとの幸福と競わされるべきではない」(p.17)。 (以下、論説2)奢侈は無害であるとも、非難されるべきものともされている。ヒュームは、まずなによりも、洗練と奢侈の時代は最も幸福で有徳な時代である事を証明しようとする。このために、奢侈が与える影響を、私生活と公共的生活の両面から考察する。(私生活面では)奢侈の時代には、人びとは常に仕事に従事し、自ら労働の快楽とともに報酬も享受する。精神は活発となり、能力は増大する。勤労への精励は、精神の自然な欲望を満足させ、安易と怠惰から発生する不自然な欲望増大を防ぐ。奢侈が無くなると、人びとは活動も快楽も失う結果となるだろう。「勤労と機械的技術における洗練のもう一つの利益は、それらが通常、自由な学芸に洗練を生み出すことである。…偉大な哲学者や政治家、有名な将軍や詩人を生み出す時代は、通常、熟練した織布工や船大工がたくさんいる」(p.24)。洗練された技芸が発展すればするほど、人びとはより社交的となり、知識と自由学芸が改善される。更に、交際によって相互に楽しみ合い、人間性( humanity )を高める。「勤労と知識と人間性とは、分解できない鎖で結合されており、それらがいっそう洗練された、奢侈的な時代に特有なものであることは、理性からと同様経験からも分かるのである」(p.25)(道徳面での奢侈擁護)。 (公共面では)奢侈品の増加と消費は社会に有益である。「なぜなら、それらは個人の罪のない満足を増すと同時に、一種の労働の貯蔵所( storehouse )となって、国家危急の際に、公共の用務に向けうるからである」(p.26)。また、勤労は知識によって大いに促進されるが、他方、知識は公共がその臣民の勤労を最大限に利用することを可能にもする。 奢侈には、金銭づくの行動や腐敗を生む自然的傾向は存在しない。名誉と徳の感覚のほかに貨幣欲を抑制できるものはないし、それは,奢侈と知識の時代におのずから最も多く見られるであろう。「奢侈と技術は自由にとってむしろ好ましく、自由な政治を生み出さないまでも、それを維持する自然の傾向をもつことが分かるであろう」(p.31)。奢侈が商業と手工業を育成するところでは、農民は富裕になり独立し、商工業者は財産を獲得する。「社会の自由の最も優れた最も強固な基礎である、あの中産階級に権威と尊敬をもたらす」(p.31)のである。彼らは、自分たちの財産を保証し、自分たちを圧政から保護することのできる、平等な法律を求める(政治面での奢侈擁護)。 以上は論旨を明確にするため文中の経済発展原理の部分は省いた。この二論説に散在する発展原理を取り出して、次に記す。人間は、狩猟・漁労で暮らす未開状態から脱すると、直ちに農民と手工業者に分かれる。農業技術の発展は、農業に直接必要な製造品を供給する以上の人口を扶養できるようになる。余分な人手が奢侈の技術(比較的精巧な技術)に従事すれば、国家の幸福を増加させる。「手工業と機械的技術」(商工業)が発達しないところでは、農業に余剰が生じても、自らの熟練と勤労を増大しようとする誘因がない。なぜなら、その余剰を自分たちの快楽や虚栄心を満たす財貨と交換できないからである。そうして、安逸の習慣が自然に広まる。土地の大部分は未耕作のままか、耕作されても、最大限の収穫をあげられない。「事物の最も自然な成り行き( most natural course of things )によれば、勤労( industry )と技芸( arts )と交易( trade )とは臣民の幸福と同じく主権者の力も増大させる」(p.10)。こうして、近代社会を古代社会から区別するこのような新しい原理は、ヒュームの用語に従うと、欲求開放面での「奢侈」であり、生産力増大面では「技芸」あるいは「勤労」だということになる。「この二つは同一の社会的原理の両面であって、かたく結びついたものである」(小林、1961、p.32)。生活改善の欲求としての奢侈の発現と生産技術あるいは労働の発達が相互に刺戟し合い社会の発展を導くというのが、ヒュームの歴史的展望である。 ここで、奢侈に関して付け加える。この「奢侈( Luxury )について」という論題を1760年版から「技芸の洗練( Refinement in the Arts )について」と改めなければならなかったように、奢侈という言葉は腐敗と同一視され、批判されていた。しかしこれらの奢侈批判は、古代ポリスの市民(=奴隷主)や封建領主という非生産階級を念頭に置いた奢侈論であり、古代共和国世界の没落を奢侈と結びつけた時代錯誤のものであった。当代の自由な市民社会で、自ら労働し、己と家族のためにより豊かな生活を求める人々(労働者兼消費者)の欲求としての奢侈ではなかった。繰り返しになるが、「古代社会や封建社会の構造を前提として初めて意味のある、伝統的な奢侈批判を根本的に批判すべく、奢侈が正当化される歴史的条件を探究することこそ、ヒューム独自の経済発展論の出発点にある問題関心であった」(坂本、2011、p.207)。また、ヒュームは言う「現代に抗議し遠い祖先の徳を賛美するのは、人間性に内在すると云える性向である。…だが、それが誤りであることは、時代を同じくするさまざまな国民を比較すれば容易に理解できる」(p.32)。奢侈批判は、同時に、当時の古典古代の世界を崇拝する世潮をもまた批判しているのである。 ヒュームの経済学的貢献で異議なく認められているのは、その貨幣・貿易論である(論説3および5)。なによりも貨幣数量説とそれを応用した金本位制(正金制)の貿易均衡メカニズムの説明である。ちなみに、厳密にいうとヒュームの場合、金本位制ではなく、銀を含む貴金属本位制となる。ためしに現代の教科書を繙いてみると、サミュエルソンには後者、マンキューには前者について、ヒュームの名と共に解説がなされている。いまだに、現役の理論なのである。もちろん、これらは彼の独創とは言えず、「本質的にいうと、彼の業績は「重商主義的」遺産から誤謬の塵を払い落としたことおよびこれらの遺産を一つのきれいな均整のとれた理論に組合わせたことにある。そして以上が総てである。」にしても、「旧い的の中心点を射ぬく」(シュムペーター、1956、p.769-770)ものであった。 まず「貨幣数量説」から取り上げる。ヒュームの簡潔で、説得的なその説明は、彼をして「18世紀の代表的貨幣数量説論者」の地位を不動のものとした。特にヒュームのそれは、「連続的影響説」としてよく知られている。貨幣の増減が、経済の実態すなわち生産量に影響を与えるという考えである。最初に、この「連続的影響説」について説明を加えておく。「いわゆる『連続的影響説』」と表現されたり、ハイエクの名と共に用いられたりすることが多い。しかし案外、この用語について解説したものが少ない。図書館でも内外の経済学辞典を確認した。しかし、この言葉を項目や索引で見つけられなかった。ブローグは、ほぼこの言葉に該当するものとして「クリーピング・インフレーション理論」の用語を使っている(注1)。あるいは、小林昇あたりに始まる日本だけの用語なのであろうか。 「連続的影響説」なる用語は、ジェヴォンズの次の箇所から取ったものだと、私は思っている。すなわち、カンティロン『商業試論』について、「同書の中で一番驚かされるものの一つに、金・銀鉱山の発見が賃金・物価に与える連続的影響( successive effects )についてのカンティロンの説明方法がある。鉱山の持主・事業家および雇用者たちは、まず生活の豊かさによって利益を得て、そして直ぐにその支出を増やす。支出増は職人やその他の労働者の生産物に対する需要を増大する。これらの労働者達はすぐに高くなった賃金を手に入れるし、新しい貨幣の影響は産業から産業へ、また国にから国へ、次第に拡大してゆくのである。」(Jevons,p.171:下線は引用者)と論じた箇所である。ハイエクは『価格と生産』(p.146)の中で、このジェヴォンズの記述を踏まえ、カンティロン、ヒュームを論じて、「貨幣理論の主要な発展段階の第二段階」としている。しかしながら、ジェヴォンズもハイエクも「連続的影響説」なる言葉は(私の見た限りでは)使っていないようである。 言葉の定義も、また明確でない。ハイエクは、上述の文脈においては、「連続的影響説」(この用語は用いていないが)を通常使われるよりより、もう少し広い意味で使っているようである。貨幣の実体経済に与える影響よりも、(堀家の表現を借りると)「一般価格の上昇という結果は諸価格の逐次的騰貴という現象の終点において現れる」(1988、p.87-88)過程を重視した意味として使用しているように思われる。 以下では、「連続的影響説」を普通使われている意味に解する。ここでは、坂本達哉の説明を挙げておく。坂本は、ヒュームの貨幣論を「数量説」と「影響説」(「連続的」なる形容詞はついていない)と名づけて、区分する。「数量説が財・サービスの生産と流通にかかわる実物的な経済活動に対する貨幣の中立性(無関心性)を主張するのに対し、影響説はその非中立性(経済促進効果)を結論する。」(坂本、2005、p.241)とし、具体的には貨幣の増加により、「利潤増加→雇用増加→所得増加→需要増加→生産力増大、という因果連関が発生する」(坂本、1995、p.230)ことであるとする。これに対する「数量説」(単純貨幣数量説)は、とりあえず物価が貨幣量と正比例の関係で変化すると考える説とする。堀家のもう少し詳しい説明では、貨幣量と物価の関係に、因果性と比例性をみとめるものであり、1.貨幣量と物価のみを問題とする、2.貨幣量変化が物価を変化させるのでその逆ではない、3.貨幣量と物価には正比例関係がある、とするものである(1988、p.1)。 以上の前置きで、用語の意味は明らかになったと思う。さて、ヒュームの貨幣数量説には、物価水準が貨幣量に比例するとする単純貨幣数量説と、実体経済の生産増減に貨幣量が影響するとする連続的影響説が混在するのである。「後世の研究者たちが、こうした二つの型のうちいずれか一つをヒュームの数量説として取り上げがちであった」(堀家、1988、p.89)。また、二つの型の説明に矛盾があるとし、どうかして統一的に解釈しようと努力してきた(注2)。そのことは、後に触れるとし、とりあえず本文を読んでみる。 貨幣数量説に直接関係すると思われる箇所のみを、原文の順に抜き書きしてみる。 「もしわれわれがどこかある一国だけをとって考察するならば、貨幣量の多いか少ないかは何ら重要ではないことは明らかである。なぜなら、財貨の価格は貨幣の多さに常に比例するからであり」(p.37)、そして「貨幣が労働と財貨との代表以外の何ものでもなく、それを秤量し評価する手段として役立つだけであることは、実際に明白である。鋳貨がより豊富にある場合には、同量の財( goods )を代表するのに、より大量の貨幣が必要となるから…それは善悪いずれの影響も与えない」(p.41-42)。貨幣量増は、実態に変化を及ぼさず、いわば表記法が変わるのと同じである。(ここまでが単純な数量説である。)「しかし、正しいと認められなければならないこの結論にもかかわらず。アメリカにおける鉱山の発見以来、それらの鉱山の所有国を除くヨーロッパのすべての国民において勤労が増加したことは確かであって、それは他の理由があるなかで、とくに金銀の増加に原因を求めるのが正当だといえよう。こうしてわれわれは、貨幣が以前より多量に流入し始めるあらゆる国において、あらゆるものが新しい様相を呈することを見出す。すなわち、労働と勤労とは生気を帯び、商人はより企業的となり、手工業者はいっそう勤労と熟練を増し、農民でさえより敏速かつ注意深く鋤で耕すようになる」(p.42)。(ここで、金銀の増加が生産を増加させる「連続的影響説」を認める。)「そこで、この現象を説明するためには、われわれはつぎのことを考察しなければならない。すなわち、財貨の高価格は、金銀の増加の必然的結果であるけれども、しかしこの増加につづいてただちに生じるものではなく、貨幣が国家の全体に流通し、その影響がすべての階級の人びとに及ぶまでには、いくらかの時間が必要である。最初は、何らの変化も感じられないが、まず一つの財貨から他の財貨へと次第に価格が騰貴して行き、ついにはすべての財貨の価格がこの国にある貴金属の新しい量ちょうど比例する点に到達する。私の意見では、金銀の量の増加が勤労にとって有利なのは、貨幣の獲得と物価の騰貴との間の間隙、あるいは中間状態においてだけである」(p.42)。「貨幣が国家全体を流れていくのを巡ることはたやすい。その場合、貨幣は労働の価格を騰貴させるよりも前に、まずあらゆる個人の勤労を増大させるにちがいない」(p.46)。(連続的影響説の短期的効果、数量説の長期的効果を書いた箇所とされる。)それゆえ、「こうした推論の全体から、…為政者の優れた政策は唯一、できることなら、貨幣量を絶えず増大させるようにしておくことだけである。なぜなら、その方策によって、彼は国民の勤労精神を活発に保ち、すべての現実の力と富を成り立たせている労働の蓄えを増大させるからである」(p.44)。(現代のマネタリストの政策を髣髴させる書き方である。)そして、同じ論説の貨幣量と国力を論じた所では、次のようにも書いている。「あらゆる物の価格が財貨と貨幣との間の比率に依存すること、またいずれかに相当な変動があれば、それは価格を引き上げるか引き下げるかのいずれかの同種の結果をもたらすということは、ほとんど自明の原則と思われる」(p.48)。(ここでは、財貨の量や生産増が物価に影響を与えることを認めている。)そして、現実の歴史を見るに、「ヨーロッパ全体について、貨幣の計算上の価値すなわち呼称における変化を斟酌したうえで行われた、最も正確な計算によれば、すべての物の価格は、西インド諸島の発見以来、三倍ないし、高々四倍、高騰したにすぎないことが分かる。しかし、ヨーロッパにある鋳貨は、十五世紀、およびそれより何世紀か以前にあった鋳貨の四倍にすぎないと、誰が主張するだろうか?…そしてなぜすべての価格がもっと途方もない高さにまで騰貴しなかったかということについては、慣習と生活様式の変化から引き出される理由を除けば、満足な理由を挙げることはできない。人びとが古代の質素な生活様式を離れてからは、追加的な勤労によってより多くの財貨が生産される上に、同じ財貨がより多く市場に出る。そしてこの財貨の増加は貨幣の増加に等しくなかったけれども、それでも、かなりのものであったし、鋳貨と財貨の比率を、昔の基準により近く維持してきたのである」(p.50-51:以上下線は引用者)。 (以下は私見にわたるため次の区切りまで飛ばして可) 以上を素直に読めば、まず単純な貨幣数量説から出発し、次に貨幣の生産量に与える効果(連続的影響説)を認める。そして、貨幣の増加は、一部は生産増効果を与え、一部は物価上昇となる。増産となった分だけ、物価上昇は抑えられ、単純に貨幣量と物価は比例しない―― と述べているように私には思える。フィツシャーの交換方程式、PT=MV でいえば、M も増えたが T も増えたため、P はそれほど上昇しなかったのである。 ヒュームの研究書を読めば、ヒュームが単純数量説と連続影響説を説いたことの矛盾について大きな紙幅が割かれている。これらを読んだ印象を云えば、次のとおりである。単純数量説は金本位制の下での(次に述べる)国際収支自動調整論を通じて、貿易差額政策の無効を証明し、古典派経済学につながる経済的自由放任政策と結びつく。一方、連続影響説は、貨幣量を通じて経済繁栄を将来できるので、貿易収支黒字を目指す重商主義政策と親和的であり、これを推し進めれば近隣窮乏化政策にまでたどり着く。自由放任主義あるいは古典派経済学と保護貿易主義あるいは重商主義は相矛盾し両立できないから、ヒュームの二つの型の(広義の)貨幣数量説は矛盾する――としているように思える。このような見方は、余りにも、両数量説を経済思潮と結びつけて考え過ぎであり、そして後世の学説史区分的な見方にとらわれ過ぎているのではないかと思う。研究書の著者はほとんどが、小林昇をはじめとする経済学説史家であるせいであろうか。ヒューム自身には、古典派も重商主義者の区分は関係なかったはずである。 あるいは、研究書には連続影響説は、短期の理論であり、数量説は長期の理論との切り分けで、形式的な統合が可能と書かれていることが多い。しかし、ヒューム自身は「貨幣の獲得と物価の騰貴との間の間隙、あるいは中間状態においてだけである。」と書いているだけで、短期であるとは書いていない。ただ、確かに第5論説「貿易差額について」において、ブリテンの貨幣がヘンリ諸王やエドワード諸王の時代に戻り、1/5となった場合、正金の調節機構により「ごく短期間のうちに( in little time )」(p.75)失った貨幣を取戻し、価格を高騰させるであろうとは、書かれている(下記の引用を参照のこと)。しかし、この例は仮定とはいえ、時代を遡る超長期を持ち出した話の中であるから、ここでの短期はそれほど短い期間とも思われない。また、「ごく短期間のうちに」という副詞節は「貨幣を取戻し」に掛かっているようにも読めなくはない。 諸研究書にいう短期は、もとより資本設備が所与との意味ではなく、常識的な意味であろう。しかし、現代マネタリズムでも貨幣量の変化は、1年から1年半の遅れで物価水準に影響するとするものの、いったん増加した貨幣は数十年にもわたってインフレに影響するとしている。影響説の効果も長期にわたると考えてよいのではないか。たとえ短期であっても、長期は短期からなる。それこそ連続的に影響するならば、なおさら、短期効果も積み重なって長期的には、大きく影響するであろう。ヒューム自身もオズワルドという議員の友人に宛てた手紙で、中間期間以外にも貨幣量が生産を増加させることを認めているそうである(田中敏弘、1971、p.215)。以上、要するに単純数量説と連続影響説といわれるものは、ヒュームのなかで矛盾していると、むつかしく考えることもないだろうと素人の感想を言いたかっただけである。 以上の数量説をもとに、ヒュームは、考察を国内封鎖経済体系にとどめず外国貿易を含む国際開放経済体系に拡大した。それが、「論説5 貿易差額について」である。 ヒュームはいう、「大ブリテンの全貨幣の五分の四が一夜のうちに消滅し、わが国民が正貨に関してはヘンリ諸王やエドワード諸王の時代[1100年から1553年]と同じ状態に戻ったとすれば、どのような結果が生じるであろうか? それに比例してすべての労働と財貨の価格が下落し、あらゆるものがこれらの時代と同じ安さで売られることに、必ずなるのではなかろうか? こうなれば、いったいどのような国民が外国市場で我々に対抗したり、われわれに十分な利益を与えるのと同じ価格で製品を輸出したり販売したりできようか? それゆえ、ごく短期間のうちに、このことがわれわれが失った貨幣を取戻し、われわれ[の価格]をすべての隣国の水準にまで高騰させるであろう。われわれがこの点に達した後には、労働と財貨の廉価という利点はただちに失われる。そしてこれ以上の貨幣の流入は、わが国の満杯によって止められるのである」(p.75)。貨幣が一夜のうちに増加したとすると、逆の効果が生じるであろう。そして、「こうした法外な不均等( inequalities )がかりに奇跡的に生じた場合に、それを是正するのと同じ諸原因は、自然の通常の成り行きのなかで、そうした不均等が生じるのを妨げるにちがいない。またその原因は、隣接するあらゆる国民のあいだで、貨幣を絶えず各国民の技芸と勤労にほぼ比例するように保持させるにちがいない。以上は明らかなことである。」(p.75-6)と。 ヒュームはまず、貨幣量が一夜にして激変するという現実には起こらない「思考実験」(注3)を通じて、単純貨幣数量説にもとづき、貨幣量が国際収支に与える影響の道筋を示す。そして、そのメカニズムが、われわれの普段の日常経済でも貫徹していることは明かであるとする。貨幣量減→国内物価下落→輸出増・輸入減→国際収支順調による貨幣(金)流入→貨幣量増→国内物価上昇→輸出減・輸入増→国際収支逆調による貨幣(金)流出→貨幣量減、の連鎖による金本位制の国際収支自動調節メカニズムである。 この国際収支自動調節論から出る自然な帰結は、関税等貿易保護政策により、貿易差額を確保し、金保有量の増大を図ることは有害無益であるとすることである。古典派的な自由貿易政策に結びつく。しかし、やはり一方で、ヒュームは貨幣帳の増減を放置するのではなく、連続的影響説により貨幣量が実体経済に与える効果を認め、貨幣量を着実に増加させることが望ましいとしたのではなかったか。この点については、ヒュームの貨幣量についての基本的な思想を想起するのがよいようである。ヒュームは、その連続的影響説にもかかわらず、基本的には、為政者が操作することのできない「事物の自然的成り行き」に従う文明社会の発展状態が、それに相応した貨幣量の増大をもたらすのであり、その逆に貨幣量増加が社会の発展をもたらすものではないと考えていた。貨幣量の増加が生産に好影響を与えるとしても、ヒュームにとって望ましいのは、それを近隣窮乏化政策として使うのではなく、自由貿易による国際分業体制のための国内産業構築に使用すべきだと考えたのではなかったか。 高い「勤労と技術(技芸)」、すなわち高度な技術に支えられた対外競争力をもつ産業の発展が一国(少なくともイングランド)の目標なのであり、貿易収支の順調はその結果にすぎない。当時、フランスとの七年戦争前夜にあって、イングランドは国内市場も発達し、フランスとの経済競争において優位に立っているとの認識があり、いわば「敵国から競争国への…フランス観の転回」(田中秀夫、2002、p.193)があった。そういう認識の上に立って、国際分業体制を望ましいものとした。「世界の創造主が隣接する諸国民に、互いに非常に違った風土,気候、および才能を与えることによって意図した、あの自由な交流と交換」(p.90)の実現である。ヒュームには、貨幣量はその国の人口、生産額に必要な水準に比例して配分されるという基本思想がある。経済の自然な生産に必要以上も以下も、貨幣量を維持することはできない。「原理あるいは思想としての自由貿易主義の延長線上には、各国民が生産性において相対的に優越した、特定商品の生産に特化することにより、相互に貿易上の利益を確保することができるという、リカードの比較生産費説的世界が開けている。」(坂本、2011、p.237)のである。それは国際的な政治的安定をも、見据えたものであったであろう。 二点だけを付け加えておく。第一に、ヒュームは国際収支の調節メカニズムとして、金本位制による貨幣の流出入の他に、為替レートの機能についても触れている。しかし、それは、注に書かれており事実の指摘だけで、内容の説明はない。 第二は、アダム・スミスが『グラスゴー大学講義』では、ヒュームの国際収支調節論を称賛して受容し、『国富論』において、これに言及せずむしろ拒否したとされることである。J・ヴァイナーが『国際貿易の理論』において「経済学史上の謎の一つ」として以来、知られたものである。国際収支調節論の各国経済成長率の均等化の含意が、スミスの経済成長論と相容れなかった等の解釈があるが、詳細は省略する。 上に記した論説以外については、それほど重要なものはないと思うので、要点と思う所をごく簡単に書く(注4)。「4.利子について」では、利子率が貨幣量によらず、借入資金の需要・供給と資本利潤率によることとしている。「7.租税について」では、消費財への課税効果を説く。普通それら課税により、貧民が生活水準を下げるか、賃金が上昇する。しかし、税金が穏和で、徐々に課税され、生活必需品に影響しないときは、労働者が賃上げを求めず、勤労を増加し、仕事を増やす。課税が一国民を富裕かつ勤勉にする場合がある。「8.公信用について」では、公債は生産力の阻害要因であり、その帰結は「国民が公信用を破壊するにちがいないか、それとも公信用が国民を滅ぼすかである。」(p.134)とする。「、10.古代諸国民の人口稠密について」は、これも本HPのウォーレス『論稿』で書いたので省略する。 最後におなぐさみとして、本書を読んでいるうちに気になったので、ヒュームとミルトン・フリードマンの文章との類似を書いてみます。
ヒューム自身が、出版直後から成功を勝ち得た自分の唯一の著作と云うように、初版と同年にこの第二版が出た。18世紀中葉の当時には、活字は貴重であり、印刷すると組版はすぐに解かれた。もちろん、紙型などはない。好評で増刷するにも、版を組み直すしかない。今なら,第二刷という所であろう。『政治論集』のタイトルで刊行されたのは、この第二版までで、後は『若干の主題に関する論集』に収録される。この『論集』を含めると、ヒュームが関与した版は10版まで出たことになる。 米国の古書店より購入。日本の古書店のカタログに同じ第二版が出ていたが、問い合せると、既に売却済み。古書サイトで、英国の古書店に同じ値段位のものを見つけ、コンデションを確認するために、写真を要求した。しかし、本は別の場所に保管しているため一週間ほど待てとの返答があった。その待ち期間に、米国の書店で三分の一位の値段のこの本が売りに出た。急いで先の書店を断り、安い本を購入した。こんなこともある。 NYの製本所のシールが貼付された風格のあるマーブル紙装である。革装ではないのも、安価の理由か。 (注1) (ブローグ、1982、p.34)および(ブローグ、1989、ヒュームの項)。(参考文献)
(2012/11/30記、2016/7/24 注部分追記) |