SINCLAIR, J.,
The History of the Public Revenue of the British Enpire, London , Printed by W. and A. Strahan, for T. Cadell in the Strand, 1785, pp.x+204+130, 4to

 シンクレア『英帝国公収入史』。初版1785年刊。
 著者(1754-1834)は、スコットランドのケースネス郡サーソ城に生まれる。早く16歳で父を亡くし、相続をする。エジンバラ、グラスゴウ、オックスフォードの各大学で学ぶ。特にグラスゴウでは、アダム・スミスの道徳哲学の講義を受け、面識を得たことを付け加えておこう。卒業後、スコットランド、イングランドで弁護士資格を得るが、法曹を職業とはしなかった。1780年に地元選挙区から国会議員に選出され、以後30余年議員に留まる。
 彼の生涯は活動的でその範囲も多方面に亘っている。1782年のスコットランド飢饉では、議会を動かして救済金給付を実現した彼は、ヨーロッパ各国(仏、蘭、露、墺、デンマーク、プロシア等、国王にも会見)の農業事情を視察し1787年帰国、英国の農業改良を第一番の目的とする。彼は農業改良を自分の土地から初めて、スコットランドいやイングランドまで広げようとした。まず、10万エーカー(ケースネス郡の1/6の面積)の自分の地所改良に手を着けた。小農場を併せて大規模農場を造り、小作人に快適な住居を用意し、土地に施肥し、最良の種苗と安価な肥料を供し、営農を指導した。現物中心であった地代を改めて安くし、古い農法をノーフォーク型輪作に変えた。改良後5倍の価格で転売できた農地もある。農業のみならず、地域の活性化のために、政府の力を借りて周辺道路を取り付けたり、港湾を拡充してニシン漁を復興したり、中心都市を整備することもしている。
 彼の地所の多くが耕作に適さないことから、牧羊にも関心を向けた。羊は、面積当たりの肉の生産料が牛よりもよく、羊毛も獲れるからである。実験の結果、特に彼はシェヴィオト(cheviot)種を推奨した。羊毛改良の研究結果を「高地協会」で発表していたが、1791年には、「英国羊毛改良協会」を創立した。普及活動としては、「羊の剪毛祭」を盛大に催したりもした。
 ついで、よく知られた半官半民の農業会議所(Board of Agriculture)の設立である。彼の計画は、誰もがアクセス出来る情報として、土地・畜産の改良情報および通信員による海外の改良知識を収集保存すること。そして先に実施したスコトランドのそれ(後述)にならい、英国全土の統計調査をすることである。1793年に議会を通過、名を農業組合(Agricultural Society)と改め、シンクレアは初代会長となる。事務長には、農業経済学者のアーサー・ヤングが就いた。統計調査は70巻物の本として刊行された。
 その他農業に関しては、1795年の飢饉の際に、荒蕪地開拓の奨励や肥料輸入促進のための関税廃止運動を農業組合を通じて行った。そして、60歳を過ぎてからは農業組合が作成した「英国郡報告書」47巻・同スコットランド編30巻他、膨大な報告書類中に分散していた農業情報を整理・集約して、農業者が必要時に参照できる実用的「農業規範」(Code of agriculture,1819)を編纂した。この本は好評で、仏・独・デンマークでも翻訳出版された。晩年になっても牛・羊の改良に関心を失わず、品評会を開いたりしている。
 シンクレアの多面的な活動の中、もう一つの柱は経済(財政)に関するものである。早くも1783年アメリカ独立戦争終結に伴い、戦費による国家破産が囁かれた時に、『我国の財政状態の心得』を著して精確な計算と確かな論法で国民を勇気づけた。健全財政家としての評判を得た彼は、イングランドの銀行制度について相談を受けたりしている。そして、本書『公収入史』を1785年に刊行する。
 しかし、一般にこの分野での彼のよく知られた仕事は、1791-1799年に21巻本として刊行された『スコットランド統計研究』(Statistical Account of Scotland)であろう。けだし、(ドイツ語の翻訳本は別として)英語で「統計」なる語の初出と思われる。国勢調査の実施されなかった当時、元となるデーターを得るためには、地域(教会区)を悉知し教養のある聖職者に頼る他なかった。牧師に1.地誌・博物誌、2.人口、3.生産、4、雑項目に大別した160項目の質問票を送付した。上がって来た回答書の優れたものを、見本として他の牧師に送付する等の工夫もしたが、教区牧師の交代や新課税の準備ではないかとの警戒から、すんなりとは進行しなかった。協力を得るため利益を聖職者団体に寄付したり、一部教区には直接調査員を派遣したりする等の努力を重ねた上に成ったものである。
 1793年の恐慌には、首相の(小)ピットに大蔵省証券の発行を提案し、自らも証券代理店として恐慌の鎮静に尽くした。また、ナポレオン戦争終結による反動不況に対しては、1815年『国家の農業と財政状態、及び現下の不況状態からの自作農救済手段についての考察』を著した。生産物の平和時価格復帰に係らず戦争税負担が継続する事による害悪の対策として、通貨増、輸出補助金、農業者に対する公的ローンを提案したのである。
 その他の分野では、フランス革命戦争時には、自らは大佐となりイングランド防衛軍のための連隊を農民から組織した。そして、駐屯地での経験をもとにその改善案を書物にしている。また、「健康と長生きの規範(code)」(4巻,1807)を上梓したし、晩年には「宗教の規範あるいは要覧」の編纂を企てたり、科学・文学のあらゆる部門を集約して知識の体系化を図ろうとしている。
 シンクレアは、常に活動し、組織し、書物にまとめあげる。彼の語彙には「絶望」という言葉はないとか「平和時のナポレオン」とか言われた。誠に精力的であり、死して後已む人生であった。

 国会議員らしく1784年8月国会の会期が終了してから、本書の著作を始めた。当初考えなかった困難に気付きとりあえず、第一部と第二部を公にし、この公刊が好評を博したならば、第三部を試みるであろうとした――そして、第三部を加えた再版は、1789-90年に出されている。概要の素描にすぎないが、従来陸海軍史、商業史、教会史、国会史はあっても、まとまった財政史は初めての試みであると(advertisementより)。
 一国の勢力はその持てる所得に大きく依存する。膨大にして制限のない歳入が享受できるなら、戦争に多数の臣民を雇用できるし、戦闘がない時には和平を講じるに便宜である。所得が少ない時は、人民の奉仕に報いることも、努力を奨励することもできない。
 いかに歳入の大きいことが望ましくとも、圧政をもってしか得られないなら、高い代償を支払って購われたものである。わずかな追加負担が、労働のインセンティブになったり、一層の勤勉と活動の拍車になることもある。しかし、金額の増大または拙劣な方法の結果、負担が過大になると、一国の産業は縮小し、富は消失し、人口は減少する。不幸にして、現下ヨーロッパで一般に実施されている財政制度は、どうしても公衆を圧迫する傾向がある。戦争は継起し、戦いはどの国が先に敵国の国庫を消尽させ、信用を破壊するかにある。戦時は課税に適さず、「必要供給を集める最善の手段は、国家の信頼性とその供する保証に信を置く人々、従って規則的に毎年一定の利子を受け取ることにより、請求することなく喜んで彼らの資本を手放す人々から借入れることである。その利子を支払うために新税が企図される。そして、無知な人々、利益を図る人々、また小心な大臣達は、束の間の平和の狭間にも、戦争の重荷を減らす気持ちは少しもなく、負担は不断に増加する。そして、不幸な臣民は、彼の生活する政府を支えるのに必要な課金の支払を支援するのみならず、一世紀前に行われた遠征や国民の利益に反して始まった戦争の支払いまでをも強いられることを思い知らされる。」(本書,p.4)
 大英帝国ほど、このようなやり方が過度に行われた国はない。1684年から当時まで、毎年約200万から最少1,500万までの歳入増が必要であった。「幸いにして、重いとはいえ、未だ負担には耐えることができる状況である。しかし、追加が少なからぬ場合は、恐らく支えきれない。そして、いずれにせよ、こんなやり方では遅かれ早かれ、破綻か過酷な圧政で終わるのは必至であろう。国民にとって、我らと我らの子孫を不名誉と苦悩の危機から救い出す計画を真剣に考える時が来た。」(本書,p.4)
 本書は二部から成る。第一部は、1688年の名誉革命前の公収入を扱う。この時期は、国家経費は主に通常の王室収入で支弁された。時に臨時税が課せられることがあっても、君主に対し、一時的に認めたものであった。第二部は、名誉革命以後の時代を扱う。この時期は、異なった原理に則り、国家は大きな企業の如き様相を見せた。直接的な出来事や喫緊な動機を超えて視野が拡がり、直接的な利益と同様、遠隔地の利益をも体制に組み込んだ。遠隔の領地を開墾、守備、獲得するため借金した。それらの領地が生み出すであろう利益で十分償えるとの希望の下にである。ある時は一国を貿易相手国として保護し、またある時は隣国や競争相手国が強大になり過ぎないように戦争する。「要するに、不断に拡大する計画を提唱している。それは上手く行くか否かに応じて、広大にして強力な帝国を保有するかあるいは全くの荒廃か、に帰するものである。」(本書,p.5)(以上はIntroductionより)。
 時代は『公債論』にも書いたように、戦費の圧力で国債が累加し、国家破産が取りざたされるような状況にあった。支払い不能が生じるのではないかとの経済的な問題の他にも、政治的、道徳的な問題もあった。まず、政治的問題。国債の1/9が外国によって保有され、毎年100万ポンドの利払いが国外に流失しているとシンクレアは信じていた。国内では、階級間の勢力関係に及ぼす影響もあったし、官僚機構の増大も問題であった。次いで、道徳的には「国債は同時に、怠惰と浪費の源泉として、また人々に商業や企業から手を引かせる誘因として、考えられていた。」(ハーグリヴス,19xx,p.92)
 しかしながら、国債の積極的な面もシンクレアは見逃してはいない。「貨幣が困難なしに調達出来る時、ほぼ確実に最大限の力を行使できるだろう。…公信用の魔術により、ほとんど信じられない程の遠征ができる艦隊が整備され、軍隊が徴募される。」(本書part2,p.19)と。また、単純に国債の残高を削減することにも、疑問を抱いていた。彼は云う、「それゆえ、歳入の余剰を、負債削減に使用する代わりに、産業の奨励や土地開墾の推進、そして商業と航海の拡大に費やした方が良策ではなかったかとの政治的議論は、好奇心をそそる題目である。例えば、もし公債の償還に充てられた2,400万が、かかる有益な公的目的に使われたなら、国家は現時点で、より豊かにより繁栄した状況にあったのではないか。」(本書part2,p.124)あるいは、「もしも減債資金からの分と固定負債の償却に使われた分の合計金額を、もっぱら大英帝国を、人口豊かで開墾された圃場や果樹園とすることに費やしていたとしよう。はたして現在削減されてはいるが負担している債務と比べて、国家はより容易に全負債を持ちこたえたのではなかろうか。」(本書part2,p.126)と。
 第二部の最後に書かれた著者の結論は楽観的である。問題は国民の経験不足にありとする。「本章と前章で扱われてきた問題について、注意深く考えた人は、わが国の現在の悩みは、多分公債資金調達制度に関する我々の経験不足によるところが大きいとの意見を持つだろう。大臣も公衆も、古今を通じて、これほど錯綜した迷路からの脱出を教える国家の手本を知らない。それゆえ、子孫たちが、負債の破滅的累積を防ぐために取るべき対策を発見するだろうと信じて、単に現時点の困難を救援することのみを、彼らの考える目的としていた。しかしながら、もし今同じように自然のままに経過するとしても、わが国の政治家は、過去の出来事に学んで、最大にして最も複雑な財政操作をするのに何の困難も感じなくなるだろう。公衆も、社会の一般利益のために取るべき手段を知るのに、漫然と困ることはなくなるだろう。」(本書part2,p.130)と。
 最後に、本書内容を窺うために参考として、次に目次を掲げる。

(第1部)第1章 古代ブリトンが公収入を得るになされた方式、第2章 ローマ人統治下のブリテンの収入、第3章 サクソン人統治下時代の英国(イングランド)収入、第4章 古代英国王室収入の外観、第5章 ノルマン王朝統治下の英国収入、第6章 サクソン王朝またはプランタジネット家時代の英国収入、第7章 ランカスターとヨーク家統治時代の英国収入、第8章 チューダー家統治下の英国収入、第8章 スチュアート家即位から1688年革命までの英国収入、(第2部)第1章 国家の臨時経費を償う種々の方式、第2章 公債一般論、第3章 1688年革命以前の英国公債、第4章 現在の国債の発生と増加、第5章 国債の元本を償還し、利子を減少するためのこれまで取られた手続。併せて、その目的のため提案された別計画の解説。

 英国の古書店より購入。Ex-libraryではあるが、図書館の名残はほとんどない。テキストもきれいである。しかも値段はリプリントより安かった。 

 
 (参考文献)
  1. 高橋誠一郎 『古版西洋経済書解題』(高橋誠一郎経済学史著作集 第四巻) 創文社 1994年
  2. E・L・ハーグリーヴズ 一之瀬篤他訳 『イギリス国債史』 新評論、1987年
  3. Chambers, R, Biographical Dictionary of Eminent Scotsmen、Glasgow, Edinburgh, and London ,Blackie and Son , 1856 (但し、ウェブサイト Significant Scots より入手)




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(H22.6.5記)



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