NECKER, J.
, Sur La Législation et le Commerce des Grains. seconde edition, Paris, Chez Pissor, Libraire, 1755, pp.vi+275, 8vo; Autograph letter signed by author glued to feep.

 ネッケル『立法および穀物取引論』1775年刊第二版(初版も同年)。サイン入り自筆書簡付き。
 著者略歴:ネッケルNecker, Jacques(1732-1804)。ジュネーヴに生まれる。1747年パリに出、同国人の経営するヴェルネ銀行員となる。1762年ヴェルネの出資のもと、銀行家テッルソンとテッルソン・ネッケル会社を設立し、フランスで最大手の銀行とした。1765年コルベールが創設したフランス東インド会社(Compagnie Française des Indes)取締役に就任、同社再建に活躍。1768年ジュネーヴのパリ駐在公使に任命される。この頃から、政界との関係も深まり、王室財政にも援助することとなる。富と栄誉を得て、政治と著作に専念すべく40才にして実業界から身を退いた。
 1776年財務総監(注1)チュルゴーが失脚すると、後継者クリュニュー総監の死亡により、本書の出版で知られたネッケルが召し出される。財務総監府はタブローとネッケルの二頭体制となった。ネッケルは、1777年に財務管理のすべての権限を手中にするが、外国人で新教徒であったため、総監と名乗れず財務長官とされた。名目上の地位は低かったが、王が主宰するモールパ(首相)、ヴェルジェンヌ(外務大臣)との三人の秘密委員会が政治・財政を取り仕切った。行政改革による経費節減、増税によらないで公債によるアメリカ独立戦争の戦費調達等の成果を挙げる。報酬を受け取らず、リベートを要求しないことも、民衆の人気を博した。しかし、旧勢力との軋轢は避けられず、『財政報告書』(1781)でフランス財政の実情を公表したことを機に、王の不興を招き辞職する。この本は10万部という非常なベストセラーとなったが、ネッケル意図は公衆より国家の上層部に訴えることにあった。
 彼の後継者ではカロンヌ(財務総監1783-87)が良く知られるが、カロンヌもまた高等法院を中心とする特権階級の抵抗に遭い改革は挫折する。引退中のネッケルは『フランス財政管理論』(1784)を書き、自分の過去の業績を自賛し、後継者の財政政策を批判して、人気を得た。1788年再度ネッケルは招かれ、今度は財政総監に就いた(注2)。彼の就任を祝ってパレ・ロワイヤルには1万2000人のパリ市民が集まったという。三部会召集が決定された時期であった。ネッケルは三部会の第三身分の議員数を貴族・僧侶議員の合計と同数とすることや三身分の合同審議を主張した。このため、事態の急迫のなかで宮廷は彼を革命を教唆する者とし、1789年7月11日、罷免される。この解任の報がパリに伝わり、これを機に民衆が激昂、14日のバスチーユ攻撃となる。ここにフランス革命が勃発することはよく知られるところである。慌てて国王はネッケルを呼び戻し、民衆の歓呼のなか国務大臣として復権する。しかし民衆の熱狂も長くは続かなかった。一時は逮捕されたものの、スイスのコッペに隠棲することになる。フランス革命史上の人物としては、珍しくベッドの上で生を終えた。
 ネッケルをナポレオンは酷評し、娘のスタール夫人は神のように崇めたという。ペテン師から有能な財政家まで歴史家の評価は区々である。一般には経済学者としてではなく、フランス革命史上の人物として知られているだろう。上記から見るに、著作の出版が、目まぐるしい彼の出仕と致仕に無関係ではないとも思える。 

  まずは前段として、十八世紀の穀物供給状況をフランス随一の大都市パリで見てみる。パリの周囲36キロ圏内は、パリへの穀物供給の専用地域(バンリュー)とし、仲介商人を排除し非商業的に生産者が直接供給することが奨励された。圏外からは特権商人の手により河川を利用して搬入された。こうして、公設三市場に集中された穀物は、週二回役人の立ち会下に取引され、取引量と価格は公開された。市場は、可視性、公開性、反独占の原則に則り、パリ市庁、パリ警視庁により管轄された(阿河は「ポリス規制」と呼ぶ)。これらが、当時のパリ人口約30万人の消費量の半ばをカバーしていたという。
 しかしパリの人口増加によって、流通システムは変化せざるを得ない。必要量を確保するために、ポリス規制も修正を余儀なくされた。規制緩和が安定的供給に必要とされたのである。さらには穀物流通が小麦粒から小麦粉中心に転換したことも流通に大きな影響を与えた。18世紀中頃から「経済的製粉機」が普及したことが背景にある。この機械は、小麦のふすまと粉を能率的に分離でき、この粉で焼いたパンが好評であった。しかし製粉には資本力が必要とされるから、独占による市場支配の体制を準備することもなる。
 実際の穀物価格の推移をみるに、1760年代半ばまでは、概ね安定していた。しかし、フォルボネ、ケネー等の重農主義者にとっては、これは価格の低迷と捉えられた。農業利益こそ国富の源泉とする彼らにとって、穀物価格の低迷は経済を沈滞させ、再生産構造を妨げるものである。また低迷の原因をポリス規制にあると見る彼らは、規制を全廃し自由競争による市場原理の導入が必要だと考えた。穀物は何等特殊な商品ではなく、「望ましい価格」(bon prix)を実現しなければならない。一方民衆は、穀物の価格および供給の安定を公権力(その象徴として国王)に過度と思えるほど期待し、「公正価格」(juste prix)を求めた。ポリス当局もその思いを共有していたともいえる。
 取引の自由化は資本主義経済成立にとって不可避の流れである。1750年代末から重農主義官僚の力が強まった。自由化路線に沿って、1763年に穀物取引自由化と1764年に穀物輸出の自由化の王令が出される。やはりというべきか、穀物価格は不作年の1766年頃から徐々に上昇を始め、1768年には異常な高騰となる。当局は価格高騰の原因を投機や買占めにあるとみて規制を強化した。結局自由化二法も廃止されてしまう。
 1774年即位したルイ十六世は、チュルゴーを財務総監に抜擢する。チュルゴーは、直前まで自ら志願した貧困地域のリムーザン財務管区地方長官に就任(1761-1774)していた。そこで、彼はリムーザン州の飢饉(1770-71年)を経験している。この過酷な経験は、独創的な政策的制度を考案させたし、著作「穀物取引に関する財務総監(テレー)宛書簡」(1770)を生み出すことになる。主著『富に関する考察』(1766)が書かれたのもこの時代である。飢饉を体験して、チュルゴーは堅固な自由主義経済政策の支持者になる。不作の地域に剰余のある地方から穀物を輸送するのは商人であり、この活動を妨げてはならない。穀物取引の自由は生産者・消費者双方にとってだけでなく、経済の発展にも有利であるとする考えは、「狂信」(エドガール・フォール)にまで高まっていたのである。重農主義経済学者の頭目でもあった彼は財務総監就任直後、自由化二法を復活させる。
 しかしチュルゴーにとって残念なことには、1775年小麦不作によって「小麦(粉)暴動」が起ったことである。パンの高騰が各地の暴動を引き起こし、パリでは暴徒が王宮に乱入する騒ぎになった。穀物取引の自由に固執する彼は軍隊の力で、暴動を鎮圧する。事態は収拾できたが、これがチュルゴーの失脚の原因となり、以後自由化政策は後退することになった。
 すでに穀物取引の自由を巡っては、百科全書派をも巻き込んだ論争があった。ディトロの意を受けて、ガリアニが『穀物取引に関する対話』(1769)で重農主義者の現実感覚の欠如を批判し、モルレが、『穀物取引に関する対話と題された著書への反駁』(1774)でそれに応じた。次いで出版されたのがチュルゴーの穀物政策を批判した本書である。偶然にも、パリでの「小麦粉戦争」勃発の当日に初版が発刊された。ネッケル批判は直ちに、ボードー、コンドルセ、モルレから相次いだ。特に、チュルゴーの片腕であり造幣局総監であったコンドルセからは、二度にわたってなされる。ピカルディの一農民の立場で著した『禁止主義の著作者N氏(ネッケルのこと:記者)へのピカルディの一農民の手紙』(1775)および『小麦取引についての考察』(1775)である。元々数学者であったコンドルセはチュルゴーの知遇に応え、チュルゴーをはじめとする重農主義の経済学を学び、すでに『穀物取引に関する手紙』(1774)を書いていた。ちなみに先にとり上げたコンディヤック『商業と政治』(1776)も、チュルゴー擁護側であるが、一連の穀物取引論争のなかで上梓されたものである。

 本書の編別の内容に入る前に、全編を通じてのネッケルと(重農主義の立場に立つ)その反対者との対立点をみる。以下は論点の選定他、安藤裕介論文に拠る所が多い。
 第一点は民意あるいは世論についてである。民衆にとっては、穀物は特別な財で、一般の財のように利益を求める商業の対象にすべきでないと考える。「公正価格」を求め、価格高騰の原因を投機や買占めにあるとみがちで、規制の強化を希求する(注3)。
 ネッケルには、世論は意図的な理性の産物ではないが、長い年月を掛けて人々の間に形成された集合知である。サロンに出入りする知識人の高等なそれとは異なるであろうが、生活に根ざした意見であり、それなりに信頼すべきものであった。社会的にみて無視できぬ事実となっており、それを前提に政策を立案せねばならない。そして、ネッケルの議論は民意を代弁するという形をとっている。
 ネッケルを批判するコンドルセにとって、公正価格を求める世論は「無知な群集の幻想」にすぎず、ポリス当局の規制の根源にもこうした誤謬の共有がある。「聡明な人々の意見」が尊重されるべきで、世論はそれに従うべきである。誤った民意は排除しても自由化を推進せねばならない。彼には、自由化とその利益への信頼はゆるぎない。
 第二に市場の観点である。チュルゴーらには、自由化への規制は財産権への侵害と考えられた。そして、なにより自由化による生産者・消費者、さらには経済全体にもたらす競争の恩恵は明白であった。ディトロはすでに、所有権と自由競争原則の絶対的な主張は、買占めの自由や独占を招きかねないとしていた。ネッケルも、自由化に疑いを抱く。穀物取引に関する規制が必要と考えたのである。そもそも人間の認識能力には限界があり、穀物取引の完全な自由化は市場に混乱を与える。市場の自由な拡大は「可視性、公開性」原則に反し、参加者の不安を招き、収穫高の増減とは無関係な価格変動に民衆をさらすことになる。合理的・機械的な均衡価格が実現するとは限らず、不合理な情緒が市場を支配するかもしれないのである。
 さらには、市場において売り手と買い手は対称的ではなく、対等な力関係にあるのではない。価格は模索過程(タトヌマン)を経て中立的均衡点に決まるのではない。穀物の場合、売り手は売り時を見計らう余裕があるのに対して、買い手は生きるための最低量は是非とも買わねばならい。市場取引に規制が必要な所以である。
 ネッケルには貧富の差の存在は当然である。しかし、富者と貧者の対立を明確にとらえていた。ほとんどすべての市民の施設は富者のために作られている。それは、法典全書を一見すれば明らかである。数多い貧者のためにはほとんど何も作られなかった。ネッケルはフランス革命のパンフレット(ジャコバン派のと付け加えるべきか)ばりの言辞を連ねる。「あなたがたの所有の法は、われわれにとって、どういう意義があるのか? われわれは何物をも自由に使うことができないのである。あなたがたの法は公正な裁判であろうか? われわれには擁護すべき何物もないのでる。あなた方の法は自由なものであろうか? われわれが翌日働かないなら、われわれは死ぬのである。」(ヴォルギン、1989、p.158の訳より)あるいは、民衆は普段、従順でおとなしいが、「必要なものすらなくなりかけると、咆哮する獅子以外の何物でもなくなる。」(リシュタンベルジェ、1881、p.263の訳より)のである。ここらあたりが本人の保守的性格にかかわらず、「社会主義の先駆者」とされるところであろう。
 第三にその政治経済学上の技法である。チュルゴーやコンドルセと異なり、ネッケルには「政治経済学という学問は、時間や空間を越えて適用可能な「一般性をもった科学(la science des gėnėralitės)」ではなく、個別の状況を見ながら臨機応変なかじ取りをおこなう「均衡の技法(l'art de l'ėquilibre)」であると理解されていた」(注4)(安藤裕介、2011、p.32)。自然科学は少数の普遍的原理から演繹をおこなう。経済学でも、真理は一つだとしても、制度や人間の感情の影響を受け、それは精密科学たりえない。重農主義者が推進した穀物取引の自由化は、あまりの原理先行で民衆の反発を招いた。改革はその負の部分も考慮して、総合的に勘案しなければならない。為政者に必要とされる「為政の才」は、科学者に必要な「瞑想の才」とは別物である。為政者に求められるのは、一般的原理の導出・適用ではなく、状況に応じた判断・措置である。
 ネッケルは、自然科学と社会科学の相違を説いて秀逸だと思えるが、そこに単なる無原則を見ることもできるであろう。また、その為政者像は「まるで自由化による調和的ユートピアが後退する代わりに、あらゆる事態に対応できる全知全能な為政者が導き出されてしまうようである。・・・ネッケルは政治権力の恣意的な行使について楽観的だったと言えるのであろうか。」(安藤裕介、2011、p.34)ともされるが、彼は自分こそがその全能の為政者と考えたのかもしれない。なにしろ「この著作はとりわけ、モールパに対して発せられた(財務総監への:記者)立候補の意味をもった。」(プテフィス、2008、p.391)ものであるから。
 ようやく本書の編別に即した内容に入る(主として高橋の本に拠る)。第一編は、「穀物の輸出について」である。経済学者は、農業の奨励と市民的自由の権利を根拠として、恒久的な自由輸出を当然とする。しかし、この問題は国家の繁栄の観点から考えねばならない。国力の二源泉は、富と特に人口である。大国の人口はその国土で生産される生存資料に比例してしか増加しない。農業は人口の第一源泉である。次に、その人口支持に必要なのは、社会で生産された諸種の生存資料が住民扶養に使用される事である。小麦を多く生産しても、絶えず外国に売却する国は不完全な人口しか有せない。
 (恒久的)穀物輸出の自由はフランス農業にとって、不必要かつ有害である。小麦所有者の利益と農業奨励に必要なことは別である。耕作可能面積に応じて、人口を最大にまで増加させるには、その国の諸職業、技術及び製造業が充分発達する事が必要である。穀物輸出の自由は製造業を損傷する。穀物輸出の自由から生じる穀物価格の高騰は農業奨励にとっては不必要であり、その国の製造品の輸出を不利とし、輸入を増やす。外国の製造品を輸入することは、自国の繁栄を犠牲にし、外国の富・人口を増加させる。製造品貿易は小麦貿易に優越する。輸出商品の価値に占める労働の価値の割合が多いほど、貿易は自国人口増加に役立つと著者は考える。多くの著者が小麦輸出こそが一国に最も有利だとするのは、人口ではなく富を考える為ではないか。ネッケルは富の見地からも、製造品輸出が最も便宜だと証明できると考える。彼にとって、工業は農業と競合するものではなく、補完し合うものである。
 穀物価格が高騰し、貧民の生活が不安定になる時、彼らは輸出やその不幸・不安の原因と考える国法に抗する。庶民の困窮を省察するに、ただ穀物に関する法律だけが、その運命を緩和できる。財産の自由の乱用を最大の不幸の原因とし、財産と自由の諸権利の名の下に、不作時にも高値で売却可能なら穀物輸出をする商人を難じた。経済学における無制限な自由の主張と自由規制に対する反対を幼稚な思考とした。
 ただし、穀物輸出禁止については、小麦は腐敗しやすい性質をもつので、翌年に対する慎重な備蓄以上の余剰は別であるとも考える。この部分の輸出停止は腐敗しやすい貨物=穀物を永続的貨物=貨幣に転換することを妨げるものであるからである。
 第二編「王国内の穀物取引」である。穀物取引の絶対的自由の利益・不利益から初める。小麦取引における商人の介在が、売り手の数を減少させ、売り手・買い手間の力の不平等を著しく増大させた。これが、穀物価格を高騰させたと述べ、商人が取引において如何に彼らの力を悪用できるかを論じた。
 第三編「穀物取引に対する諸修正の考察」である。自由を絶対的に擁護あるいは排斥するすべての法制は国家の福祉に反する。不利益を免れる体制を確立出来るか、あるいは大きな欠陥を免れるだけで満足しなければならない。
 まずは穀物輸出の自由に対する修正――輸出許可価格や数量の決定、輸出地に関する規定、穀物輸出の課税、奨励金等々を論ずる。次いで、国内商業の自由に対する修正――これについての古法、特定市場以外での購入禁止策、一定市場一定日に穀物を搬入することを小作人・地主に命ずる策の是非、穀物価格決定の得失、取引への政府直接干渉、輸入奨励金、国内流通奨励金等々を論じる。
 列挙した修正は困難に対する不完全なる救済策である。完全なものは存在しない。最も危険な過ち防止し、最も多くの不利益を回避できる永続的法制、すなわち例外を認め、最も優秀な強制手腕を要求するもの、が採用されるべきである。こうして、穀粉のみ輸出が許可されること、小麦輸出場所の隣接二市場において価格差が一定値以下に下落した場合のみ輸出が許可されること、これら法規は10年間のみ存続すべきこと、すべての場合において外国輸入小麦の輸出を許可すべきことを主張した。
 民衆は法律の作成に関与せず、日々の労働により知識を得る余裕がないため、絶えず統治者の保護を求めていることを忘れてはならない。富者は自由と正義を求めるが、何物も持たぬ者は統治者の慈悲や治安法が財産の力を緩和することを求めている。彼らの求める唯一の財は最低限の必要品である。特に、彼らの福利厚生を推進できるのは、適切な穀物法制であるとネッケルは重ねて強調する。
 第四編「最適体制についての見解」では、穀物の新法制の実施時期、および穀物問題・経済学を研究する態度一般について等が論じられている。

 フランスの古書店より購入。ネッケルの自筆書簡が付いているので、第二版にもかかわらず購入した。書簡は見返し(free end paper)に貼付されている。もっとも、書簡(1770年7月27日付)の内容は、小生には全く読めない。

(注1)今日でいえば、財務、厚生労働、農業水産、経済産業、国土交通の各省及び総務省の一部を兼ねて所管した程の権限があった。
(注2)ネッケル就任(8月25日)直前の16日、国家諸支払いの6週間延期及び今後の支払は5分の3を現金、5分の2を利付証券でなされることを閣議決定した。ここに、フランス王国は事実上破産したのである。
(注3)阿河論文には、穀物価格高騰の原因を商人の価格操作にありとする見方を、アダム・スミスが「民衆の偏見」と形容したと書かれている。スミスは、穀物取引の自由化を論じて、買占め・先買いに対する民衆の懸念を妖術に例えている(第4篇第5章余論)。スミスがチュルゴーの影響を受けたものの一つかもしれない。
(注4)いわずもがなであるが、ここでの「均衡」は「均衡価格」を意味するものではない。

(参考文献)
  1. 阿河雄二郎 「十八世紀パリの穀物政策 ―「国王の穀物」と「飢餓の陰謀」―」(中村賢二郎編 『歴史のなかの都市 ―続 都市の社会史― 』ミネルヴァ書房、1986年)
  2. 安藤隆穂 『フランス自由主義の成立 公共圏の思想史』 名古屋大学出版会、2007年
  3. 安藤裕介 「ネッケルにおける技法としての政治経済学:世論・市場・介入主義」 一橋大学社会科学古典資料センター年報、31: 25-37、2011年
  4. ヴァチェスラフ・ペ・ヴォルギン 森宏一訳 『十八世紀フランスの社会思想の発展 (上)』 同時代社、1989年
  5. 高橋誠一郎 『古版西洋経済書解題』 慶応出版社、1943年
  6. エドガール・フォール 渡辺恭彦訳 『チュルゴーの失脚 上・下 1776年5月12日のドラマ』 法政大学出版局、2007年
  7. ジャン=クリスチャン・プティフィス 小倉孝誠監訳 『ルイ十六世 上』 中央公論新社、2008年
  8. アンドレ・リシュタンベルジェ 野沢協訳 『十八世紀社会主義』 法政大学出版局、1881年
  9. Courtois, A., "Necker, Jacque(1732-1804)" in The New Palgrave Dictionary of Economics, Macmillan, 1998




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(H23.9.29記)



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