GRAUNT, JOHN,
Natural and Political OBSERVATIONS Mentioned in a following INDEX, and made upon the Bills of Mortality. With reference to the Government, Religion, Trade, Growth, Air, Diseases, and the several Changes of the said CITY. The Fifth Edition, much Enlarged, London, Printed by John Martyn, Printer to Royal Society, at the Sign of the Bell in St. Paul's Church-yard, 1676, pp.36+150+ two folding tables, 8vo.

 グラント『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』、1676年刊第5版(初版は1662年刊)。
 著者略歴:ジョン・グラントJohn Graunt(1620-1674)。父ヘンリ、母メアリィとの間に、7人(8人とも)の子供の長男として生まれる。父は、ハンプシャー出身で、ロンドンのバーチン・レイン(ロンバート街近く)で毛織物商を営んでいた。読み書き教育は家庭で受けたようである。毎日早朝に起床して、開店前にフランス語とラテン語を学んだ。父親の死までその商売を助け、紳士用装身具商(Haberdasher)として大をなし、シティの有力な商人となる。1650年30歳にして、ウィリアム・ペティのためにグレシャム・カレッジの音楽教授の地位を斡旋するほどの勢力家であった。慎重で公正な性格で人受けが良く、たびたび商売上の揉め事を調停する仲裁人に選ばれた。種々のロンドン市の役職を務め、1669-71年に市会議員となる。時期は明らかではないが、標題紙の著者肩書にあるように、訓練部隊(Trained band:民兵隊、教導団と訳すべきか)の大尉(後大佐)も務めた。
  グラントが歴史上に名を残すのは、本書『諸観察』1662年の著者としてである。「彼は私が誇にする尊敬すべき友である」とするオーブリ(Aubrey, J.,1626 – 1697:『名士小伝』)の著者)は、「彼は『死亡表に関する諸観察』を独創的に書いた、しかし私はそう信じているし、一部知っているのだが、かれは懇意で親しい友人であるサー・ウィリアム・ペティからヒントを得たのだ、ペティは、公刊後それにいくつか『追加』(Addittions)を付け加えた」(Aubrey's Brief Lives,Grauntの項)としている。1662年3月24日ピープスも一部購って「一目みたところでは、これはとても気にきいた本」(ピープス、1662、p.65)であるとの感想を記している(注1)。本書は、広く江湖の好評を博し、初版刊行年に、早くも第二版が出されている。そして、グラントはこの本によって、他ならぬ国王の推挽により王立協会の会員となった。
 グラントは、ピューリタンの環境の下で成長し、長年説教を聞いて得意の速記を取った。一時ソッツイーニ派(レリオ・ソッツイーニの創始した宗教運動)の教えを信奉したものの、ロンドン大火の前後にカソリックに改宗し、熱心な旧教徒として死んだ。娘の一人(彼には息子一人と娘が三人いた)はベルギーで尼僧となっている。国教徒でないので、様々な政治上・経済上の不利益を味わったであろう。1662年のロンドン大火では、家を焼かれ、その痛手から立ち直れないまま、他の商売上の困難もあり破産する。1666年を最後に、王立協会の記録からも消える。零落したまま、バーチン・レインの自宅において黄疸で死に、フリート・ストリートの聖ダンデステン教会に埋葬される。
  なお、公職引退後、グラントは、New River Company(水道会社)の経営陣に入った。カトリックだったがゆえに、彼はロンドン大火の前夜に給水を止めたと噂された(Aubrey、1949)。

 標題紙に著者グラントと明示されているのにも関わらず、真の著者はペティだとする説が古くからある。同時代人のオーブリの上記記述やイーヴリン(Evelyn, J. M.、1620-1706:『日記』の著者として知られる) の著作の中に、それをうかがわせる記述がある。またペティが自筆の著作目録中に『ロンドンの死亡表にかんする諸観察、1660年』(1662年ではない)をあげていたこと等による。特に私蔵の第5版はペティの監修であると書かれたものが多い。ペティ実著者説については、彼の著作集を編んだハルによる否定的な見解の研究(1896)や、ペティ末裔のランズダウン卿の肯定説(1927)、それに対する統計学者グリーンウッドの批判(1928)などが主なところである。
 グラントの生存中は、『諸観察』の著者であることが、一般的に認められ疑義はなかった。好評に版を重ね、この著書によって王立協会員に加えられた。しかるに、彼の死後1675年あるいは1705年の頃から、ペティがその著者であるとのささやきが漏れ始めたのである。なるほど、ペティは著作執筆の動機を与え、医師として死因等に説明で相談に乗り、自分の出身地の教区の死亡表を取り寄せる便宜を図った。のみならず、第3版の増補に協力し、第5版に「追加(的観察)」を増訂する等の作業を行った。そのため、一時は、ペティ自身、自分が真の著者だと考えたらしい。しかし、直ぐに考え直して、くりかえしそれをグラントの著として認めている。
 本書に対するペティの寄与は疑うべきもないが、彼を共著者とするほどのものではないことは、確かと思える。『諸観察』の著者の名誉はグラントにあるのである。以上は、邦訳の解題の「著者詮議」(33頁にも及ぶ)によるもので、最近の研究は見つけられていないが、大筋で間違いないものと思う。

 本書と重大な関係があるペストについては「付論」として後掲する。本書の内容に入る前に、まずは死亡表について説明する。

(死亡表)
 ロンドンでは、教区に死亡者が出ると打鐘か寺男への埋葬依頼を通じて検死役に通知される。検死役がおもむいて死因を決定する。検死役は身寄りのない老婦人が救貧目的で任用されることが多いので医学知識もなく、死因はしばしば俗語の病名であった。決定された死因は、教区書記に報告される。クロムウェルの1653年の法律によって、教区ごとに1人の教区登記役(たいてい教区書記と同一人物)を選挙すべきこと、登記役は出生・死亡には1件につき4ペンスを限度に費用を徴収することが規定された。法的に明確化されただけで、当然それ以前も同様に出生・死亡登記が行われていたに相違ない。
 ちなみに、洗礼記録は、埋葬よりも遺漏が多いとグラントは考えた。第一に、洗礼を不法あるいは不要と考える宗教上の見解があることであり、第二は子供に洗礼させる資格が親にあるかを厳格に考える牧師がいることである(注2)(グラント、1968、p.64:以下訳書からの引用・参考は頁のみを表示)。
 各教区書記は毎週火曜日の晩に、その一週間に生じた埋葬と洗礼の記録を教区書記会館の書記に通知する。水曜日に死亡表が調整され印刷される。木曜日には、一部1ペニーか年4シリングの代金を支払う購読者に配布される。そして、毎年1回概括的記録がクリスマス前の木曜日に出された。ロンドンの死亡表作成は1562年に始まるが、1603年からは、中断されずに毎週継続的に記録・公表された。この年がペスト流行の年であったことからもわかるように、その主たる目的は明らかである。
 毎週の死亡表を継続購読している人は、それによって「金持ちは転地の必要の有無を判断し、商人は各自の商売における取引の見込みを推測」していた。ペスト菌を媒介するネズミやノミの移動はランダムではなく、漸進的である。「死亡表」で汚染地区を押さえておけば、その拡大範囲を予想できた。しかし、グラントは、それ「以外には、それらの表をほとんど利用していないことを常々目撃していた」(以上、p.31)。
 そこで、「わが市の諸賢たちがこれらの記録をとりかつ配布する賞賛すべき慣行を設計した本来の目的は、上述のものとは別な、もっと大きな利用にあったに相違ない、あるいは少なくとも、それらについて何らかの他の利用がなされうるであろうと考えた。[中略]できる限りの表をさがし、(簡単にいえば)教区書記の会館にまでお願いして得られる限りのこの種の材料を手に入れることに努めた。そして[中略]右の材料を全部一まとめに見られるようにしようと思って、それらを若干の表[テーブル](その写しが本書中に挿入されている)に要約した。[中略]さらに、私の表[テーブル]から理由と動機とを見出したとき、新たなものを認めたのである」(p.31)。
  ここでいう「死亡表」はBills of Mortalityのことである。「死亡告知表」と訳される時もある。現在「死亡表」といえば、普通、年齢別の死亡者数を表示した表を意味するから念のため断っておく。当時の「死亡表」の現物の写真を上げておく。"The Diseases and Casualties this Week"なる標題が記されているが、もっと古いものには標題が記されていないものもある。上側(表面?)写真が死因別の表、下側(裏面?)写真が教区別の埋葬数とペスト死の数を印刷していると思われる。


  


   (図1)死亡表(注3)



 グラントはできる限りの「表(票とすべきか)」Billsを収集して、それを整理加工して「表」Tablesに仕立てた。「さて私は(いかなる偶然によってかは存じませんが)死亡表に思いをいたしまして、膨大な錯綜している数巻の記録を若干の明瞭な表[テーブル]に要約し、そしてそれから自然に生じてきたもろもろの観察を、くだくだしい演釈を長々と連ねることなしに若干の簡潔な節[パラグラフ]に短縮しました程度に成功いたしました」(ママ、p.12)という。著者は自らの方法で新事実や、法則を発見したことを誇りにしており、「本書においてはbillと tableとは特に意識的に対照的に用いられて」(「訳者はしがき」、p.3)いるのである。
 余談を付け加えておくと、メィトランド(Maitland, W、1693-1757)が『ロンドン史』(History of London,1739)を書こうと資料を探している際に、1664年以前の教区登記簿を発見できなかった。グラントがこの著作のため借り出したまま、返却しなかったらしい。なにがし、量子力学の「観察者効果」を想起させる出来事である。

 (『諸観察』の内容)
 この本の標題紙には、「死亡表に関する自然的および政治的観察」と掲げられている。グラント自らが言うところを、箇条書きにしてみると。観察によって分かったのは、1.乞食で餓死する者が少ない、2.一夫多妻は人口を増やさない、3.ペスト時の籠居は効果がない、4.ペストによる人口減も地方からの移住で直ぐに復元する、5.戦争や植民地による男子の喪失は女子との比率を害さない、6.ペストは王の登極時に起こるというのはデマである、7.ロンドンは大きすぎる、他の地方の3倍速度で成長する、8.諸教区は人口の極端な不均衡がある、9.寺院は宗教に適していない、10.ロンドン市街及び商業は西に移動している、11.城内の市は全市街の1/5にすぎない、12.古い街路は大四輪馬車には狭い、13.ロンドン付近の兵隊適齢者は大軍を3個編成するに足る、14.政治家は、人頭税決定時に人口数を誤った(p.13)である。ほとんどが、「政治的観察」であって、明確に「自然的観察」としては良いのは2、5、くらいか。重要な発見は、自然的観察の部分にありそうである。
 『ペティ経済学著作集』の編集者ハル(Hull, C. H.)によるとグラントの主たる業績は以下の4点である(訳書解題・余論)。1.偶然的と思われる社会事象に規則性を発見したこと(最初の観察の一つが、ある種の死因による死者数が総死亡者数に対して恒常的比率であることであった)、2.女子に対する男子の出生数超過と、男女数のほぼ等しいこと、3.幼年期死亡率の高いこと、4.地方に対する都市の死亡率の超過、である。
  前二者については、これまで誰も気付かなかったもので、ありグラントによってはじめて発見された。後二者は、以前から憶測されていたものの、統計記録によってグラントが最初に証明した事実である。前二者について、付け加える。
  まず、第一点について。グラントは、死因について調べているうちに、ある種の死因が全死者数のほぼ一定の比率を占めることにまず気付き、その他の自然的事象にも、同様に恒常的な比率が存在することを発見したのではないかと私には思える。
 「第2章 死因についての一般的観察」において、「個々の死因について語る前に、われわれはこういうことを観察するであろう。それは、死因のうちのあるものが埋葬の総数に対して恒常的比率を保つということである」(p.53)という。ここでの恒常的比率を保つ死因としてあげられているのが、肺病(Consumption and Cough)、水腫および膨張(Dropsie and Tympany)、黄疸(Jaundice)等の慢性病、および溺死(Drowned)、自殺(Hanged, and made away themselves)等の事故である。ケトレーが道徳統計で強調した自殺比率の恒常性にも、既に気付いている。「しかるに伝染性および悪性の諸病、例えばペスト、紫斑病、班熱、疱瘡、および麻疹のようなものはかかる一様性をもたないで、ある年または月においては他の年または月における10倍もの死者を出しているのである」(p.53)。伝染性のペスト盛衰を知るための道具である「死亡表」の分析を通じて、恒常的なものを掘り当てたのである。
  グラントの作成した「死因の表」で検証してみる。対象期間は、表の中で単年度ごとの表示がある、1629-1636、1647-1660、の22年間である。この表で記載された各年の死因別死亡者数を「ロンドンにおける埋葬および洗礼の表」の「全教区の埋葬」(この中にはペスト死者は含まれず、外数になっている)数で割ってみる。「全教区の埋葬」数を用いたのは「死因の表」には年別の合計が記載されていないからである(死因別の死亡者数を合計してみると正確は一致しないがほぼ等しい)。
 まず、ペスト死亡者数が埋葬数のどれくらいに当たるか(占率ではない)を計算してみると、ペスト以外の死亡者の1/3(0.344倍、3597人)に当たる年(1647年)から、全くペスト死亡者がいない年(1629、1633、1635年)と変動幅が大きい。一方、慢性病を見ると、「肺病」の普通死亡数での占率は、最大26.9%から18.9%までの変動幅である。最大値を除くとほぼ24~19%の範囲内である。「水腫および膨張」の死亡者占率は、6.8~1.8%の範囲で、最大と最小を除けばほぼ6.2~2.4%の範囲である。「黄疸」死者占率は、0.6~0.4%である。事故を見ると、「溺死」占率は0.5から0.3%であり、「自殺」は、0.3~0.2%である。まずは、「恒常的」といっていいのではないか。
 第二点ではまず、主たる発見である男女出生比率について書く。男女出生比率の違いについては、「第8章 男女の数の相違について」で明らかにされている。1628年から1662年に至る間の(両端の年を除く)期間中におけるロンドンの洗礼数は、男は139,782人であり、女は130,866である。これから、直ちに「13人の女に対し14人の男があったということ」(p.81)、「ロンドンでは14人の男子に対して13人の女子の出生があった」(p.97)との結論が導かれる。これによると、男子出生超過率は7.7%である。
  残念ながら、グラントには「大数の法則」に気付かず、男子出生率を過大に見積もっている。先の引用をその継続部分と共に再掲する。「ロンドンでは14人の男子に対して13人の女子の出生があったが、この教区では、16人の男子に対して15人の女子の出生があったこと」(p.97)と、小さな地方教区を持ち出してロンドンと比較し、「しかし私は、この割合の差異の問題をもまた、好事家の調査に委ねたいと思う」(p.97)と述べている。観察数を大きくすれば、不規則性が消え真実に近づくという自覚がない。これに対しズュースミルヒは、『神の秩序』(1969、p.120)のなかで、大量の史料を集めて「すなわち娘の息子に対する比率は1000対1050であって、それは20対21である」と正しく判断している。ちなみに、現在日本の厚生労働省人口動態調査でも、概ね男性105、女性100の比率を維持している。男女出生比率は、国を越え時代を超え一定比率が認められるのである。
  上記ハルの記述では、グラントは「男女数のほぼ等しい」(下線引用者)と見たとしている。しかし、実際は、グラントは、戦争や植民地入植による男子の喪失は、女子人口に対する男子人口の優位を害さないと観察している(第8章)。ついでながら、ズュースミルヒは、男女出生比率の男子優位は、男女幼児死亡率の男子の劣位(女子より高率)において男女人口数の均衡が保たれるとした(実際の日本の人口統計でも、戦前・戦後4歳までの男子死亡率は女子より高い(注4))。

 (生残表)
 グラントが用いたロンドンの死亡表には、死者の年齢は記載されていない。生残表(死亡表ともいわれるが、混同を避けるためここでは生残表とする)を作成するに当たっては、死因から死亡年齢を推算したのである。その推算の基礎となったのは、二の年齢層であるように思う。「われわれは100の出生者中約36は6歳になる前に死亡するということ、また76歳以上まで生き延びるものはおそらく1人しかいないだろうということを明らかにした」(p.94)と書かれている。最初に6歳以下の死亡者数(率)36人、76以上の生存者数(率)を1人と推算した。
 この二つの数字を求めるために、死因別死亡者数の表が利用されたのである。そのことは、後に述べるとして、まず、その二つの年齢階層から他の年齢層の生残者数、死亡者数を推算した(と思える)方法を述べてみる。(表1)「生残表」を見てもらいたい。グラントの表(p.94-95)そのものは、ごたついているので、小杉(1969、p.49)をもとに書き改めた。100人の出生者数に対するものである。よって人数は率(%)と一致する。なお、静止人口では、生存者数(率)はその年齢の人口数(率)に一致する。
  
 年令(歳)  死亡者数  年令(歳  生残者数
 0-6  36 6   64
 6-16  24  16  40
 16-26  15  26  25
 26-36  9  36  16
 36-46  6  46  10
 46-56  4  56  6
 56-66  3  66  34
 66-76  2  76  12
 76-86  1  86  0

(表1)生残表

 ウェスターゴード(1943、p.25)はいう、「即ち六歳未満の小児死亡数に関する結論(36人死亡:引用者)は上掲のごとく真実らしく思われるが、これに反して六歳以上の死亡数の年齢別分布については何らの基準を示して居らない。そして全く独断的に、全死亡数の二十四パーセントを六歳乃至十六歳の死亡数と定めたが、これは明らかに非常に大きな誇張である」と。死亡者数の根拠がわからないとしているのである。
 しかし、ここでは、第4列の生存者数を注目していただきたい。グラント自身は「われわれは、6歳における生存者である64人と76歳以上まで生き延びる1人の間に6個の比例中数(原文mean proportional numbers:引用者)を求めた」としている。ここの意味するところは、もう一つよく理解できないものの、第4列の生存者数は、初項を64、公比を0.62(あるいは5/8)とする等比数列で再現できることが、つとに統計学者から指摘されている(訳書「解題」参照)。実際計算すると、56-66、66-76の年齢層を除いて(カッコ内の数字が計算上の数字である)は、四捨五入で整数にすると一致する。もっとも、グラントが本当のところ、どのようにしてこれらの数字を得たかは、依然不明である。
 しかしながら、生存率が一定(生存者数が等比)だという上記の指摘を裏返していうと、少なくとも6-16乃至46-56の5つの年齢階層における死亡率は一定(1-0.62=0.38)であることは確かである。これでは、せっかく年齢別に死亡率を求めても、利用価値がないと思うのは、私が生命保険会社に勤務していた偏見か。
 「彼は人間の死亡率は長い一生を通じて大体年齢に依存しないと考えていた。併し生命の危険が、たとえ当時は今日と大いに事情をことにするにもせよ、この過程は結局支持し得ないものであろう。/併し以上のごとき欠点にも関わらず、われわれは彼が始めて死亡率の法則を発見せんと努めたことに対して賛嘆せざるをえない。彼の作成した死亡表が極めて不完全であるのは事実である。併し彼が科学の研究に極めて重要なる新分野を開拓したことを顧みるとき、斯くの如きは何等意に介するに足りない」(ウェスターゴード、1943、p.26)。また、小杉(1969、p.49)も「彼が生残表の根本概念をつかんでいたことは明らかである。この表で作ったことだけによっても、彼は科学の研究にきわめて重要な分野を開拓したといい得る」と評価する。

 さて、先に後回しにしていた、6歳以下と76以上の死亡者数(率)を求めるために、死因別死亡者数の表が利用されたことについて書く。
 第一に、6歳以下の死亡数(率)が求められる(p.49-50)。彼は、20年間(1629-1636及び1647-1658)の死者を死因別に「死因の表」(p.119)にまとめた。その20年間の死亡者数229,250人のうち、17,000人が「かの異常な死因」ペストで死ぬから(うち、1936年が流行年で、14,000人が死亡)控除して、普通死亡者数を212,250人(①)とする。普通死亡者のうち、71,124人(②)は、4,5歳以下の子供のみが掛かる病気(鵞口瘡、早産等)が原因で死ぬ。また、普通死亡者で、その他の一定の死因(疱瘡、麻疹等)での死者12,210人は、その半分6,105人(③)が6歳以下と仮定する。こうして、「総出生者[原文quick conceptions:引用者]中の約36パーセントは6歳になる前に死んだことになるであろう」(p.50)とする。「 ( ②+③ )/① 」の比率に一致した数字である。ここには、不審な点(注5)があるが、通常の解説どおり100人の出生者に対し6歳までに36人が死亡するとしておく。
 第二は老人の死亡数(率)が求められる。「また76歳以上まで生き伸びるものはおそらく1人しかいないだろう」(p.94)とグラントは書いている。しかし、同じく「第2章 死因についての一般的観察」では、20年間の死亡者のうち、「老人」(老衰のこと)とされたものは15,757人(注6)である。これを総死亡数229,250人で割れば、7%となる。そして老年は、ダヴィデがそう呼んだように、70歳以上とする(p.52)と、70歳以上の死亡者数は7人となる。この死亡数と76歳以上の生存者数1人との関係は明らかではない。そもそも上記「生残表」では、66歳以上の死亡者数は3人(%)である。この辺は私にはよく理解できない。

 グラントはこの「生残表」を使って、年齢別の人口分布も推計している(p.95)。残念ながらこれは計算を誤っているが、少し触れておく。グラントは、総出生者のうち、16歳以上の現在生存者が40%、56歳以上の生存者が6%だから、16歳乃至56歳のものは、全人口の40-6=34%を占めるとする。そして、ロンドンの男子人口数に0.34を乗じて壮丁(戦闘適齢者)人数を推算している。しかし、生存者数の差によって、彼が求めたものは当該年齢層の死亡者数であることに気付かなかった(注7)。

 最後にジュースミルヒの言葉を引く、「われわれの出生及び死亡の中には一見何らの秩序もないように考えられるから、この秩序はますます長い間見出されえなかったのである。[中略]しかるに教会の記録は、これら規律の確認のための大きな補助手段である。この記録はすでに、教会用並びに民事用のために数世紀以来とられており、そしてとくに宗教改革時代以来から正確にとられていた。しかしグラント以前に、誰が、これを、この秩序を洞察するために用いたか?その発見はアメリカの発見と同様に可能であった。しかし、古くからの既知の事実や情報を、他人よりさらに一層深く観察する一人のコロンブスがいなかったのである。こうしてグラントは、初めてロンドンの死亡及び疾病の記録の中に一つの秩序を認めるのに成功し、かつこれによって、人間生活の他部面にもまた同様の秩序が存在するはずであるとの巧緻な結論にたどり着いた」(Die göttlich Ordnung 4thed. Ch1§15、p.56-57:訳は諸書を参考にした)。
 1950年代に創始された「歴史人口学」では、教会の出生、結婚、埋葬の記録(小教区簿冊)を活用することで昔の人口動態を明らかにしたが、教会記録の活用はグラントによって、その300年も前に手が付けられていたわけである。もっとも、初期斯学の史料となったフランスの簿冊は、法的な関心から作成されたもののため、一般的に死因は記録されていない。

 (付論:ペスト・黒死病)
 最近は歴史における伝染病の役割が大きく注目されるようになった感がある。今回参考にしたジンサーやマクニールの本はそのはしりであろうし、近くはダイアモンド『銃・病原菌・鉄』がベストセラーとなった。ここでは、ペスト・黒死病についてまとめてみた。
 ペストの世界的大流行は三回あったとされる。1.六世紀ユスティニアヌス帝時代、2.十四世紀の黒死病の時代、3.二十世紀以来のもの、である。もっとも、これらは、西ヨーロッパの体験を中心にした見方で、それ以外の地域での流行が反映されていないという批判がある。そもそも、西欧以外は疫病に関する良好な史料が残っていないためである。一番研究が進んでいるのは、英国でのペストの歴史研究だそうだ。中国等の研究は語学の関係もあって研究が進んでいないらしい。

 まず、ペストそのものについて見てみる。ペストは、「エルシニア・ペスティス」あるいは「パストゥラ・ペスティス」と呼ばれるペスト菌により引き起こされる病気である。ペストは、大きく分けて、ノミに刺されて起こる腺ペストと、鼻と喉を通じて飛沫感染する肺ペストに区分できる。前者は鼠径部等リンパ節が腫脹し、一週間程度の発熱、昏睡、衰弱の後、リンパ節が崩れ病原菌が血液中に流入すると敗血症を起こし、死に至る。後者は肺組織が破壊される激越な症状を呈し、数時間で死ぬ例もある。肺ペストは非常に危険ではあるが、それゆえに患者は長く生存出来ず、広範に拡散しない。症例はまれで、中世では確認できないと書いた本(マクニール、1985、p.154)もある。
 普通ペストといえば、腺ペストのことなのである。これはペスト菌が、ネズミ→ノミ→人間の経路で感染する。ネズミといっても、ドブネズミではなく天井裏を住みかとするクマネズミ(英名:black rat, roof rat)という種が主に媒介する。ついでながら、この、ペストはねずみのノミが媒介して流行することを証明したのは、台湾のペストを研究した緒方正規(1853-1919)である。1897年にドイツの学会誌で発表した。調べてみると、緒方洪庵との血縁はないようだが、外国の本(もちろん訳書である)を読んでいて、突如日本人の名前が出てくるとなんとなく嬉しいものである。
 さて、ノミは、発病したネズミに寄生し、それを咬む(刺す)ことにより菌を体内に取り込む。ネズミが死ぬと、宿主を人間に変える。そして、ペスト菌を保有するノミが咬むことにより人間が感染する。ノミは10℃以下では硬直状態となり活動しないので、冬季にはペストの感染力は弱まる。クマネズミが増殖するのは初秋であるから、ペストの最流行も秋となる。『諸観察』でもペスト死者数を週毎にまとめた表があるが、9月から10月初頭がピークである。1665年のペストを描いたデフォー『ペスト』(1973、p.356)でも、「九月の最後の週になると、疫病はその危機に達し、従ってその猛威は漸次衰えはじめた」と書かれている。
 ペストは、紀元前にも北アフリカや近東に流行していたことがはっきりしているし、聖書にもその猖獗が記されている。但し、近代になって聖書等を訳すときに、悪疫には普通plague(プレイグ:ペスト、流行病の意味もある)という語をあてた。それは、当時ヨーロッパで繰り返し経験した致命的な病気が腺ペストbubonic plagueだからであった。古代に記された悪疫がすべて腺ペストであったわけではない。それらは、天然痘、インフルエンザ、腸チフスや赤痢であったかも知れないのである(マクニール、1985、p.81)。近代でも、『諸観察』の時代の英国の悪疫を、記者などは、当然ペストを思い込んでいるが、ジンサー(1984、p.305)のように「ペストと発疹チフスの流行」ととらえ、「1665年の激しい冬、ロンドンのペストの大流行にひきつづいて、発疹チフスが発生し、ペストを上回る犠牲者を出した」としている学者もある。ペストとされていても、他の病気が含まれている可能性がある。
 それにもまして考慮しなければならないのは、現在ペスト、パストゥラ・ペスティスと呼ばれるペスト菌による病気が、歴史的には、一定不変のものではなく、その性質が変化することである。そもそも、伝染病とは、細菌、原虫、リケッチアのような単細胞生物、あるいはウィルスなどが動植物(特に人間)に侵入し、寄生する状態なのである。免疫のない寄生生物に侵入された宿主は抵抗力がなく、侵入微生物は非常な速さ(最適条件下では1時間に2世代)で繁殖するので、(エイズ・ウィルスのごとく)突然変異も起こり易く、進化してゆく。
 余りに早く宿主を殺す病原体は、他の宿主に移動する間もなく宿主を失い、自らの危機を招く。高度に致死的な病原体は、「彼らはまだヒトという宿主への生物学的適応のごく初期の段階にとどまっている」(マクニール、1985、p.16)のである。病原体は生き残りのため、宿主を生かすように進化する。また、人間の方でも、免疫を獲得する。宿主たる人間と病原体の双方の個体数がある程度以上で、双方の関係が何世代も長く継続した場合は、相互に共存を可能とする体制が構築される(注8)。
 こうして、初めての病原体が人間に侵入したときは、その宿主・人間の反応は激甚なものであったろう。人間が死んだときもあれば、病原菌が殺された場合もある。しかし、病原体と人間の相互適応の少しの変化が、臨床学的な病状の大きな変化を招来することもある。適応過程が継続するうちに、反応も穏やかになり、病気は慢性化・軽症化する。その典型的な例は新大陸から持ち込まれとされる梅毒の流行に見られる。流行の伝染病は、その様相は常に変化しており、歴史的にみる場合、静的なものではなくダィナミックに理解しなければならない。

 以上の点を踏まえて、ペストの歴史に戻る。「不発に終わった」20世紀のペストは省略し、当面関係する中世のペストが中心である。不思議なことにユスティニアヌス帝の時代のペスト(542-543年、広くとって6、7世紀の流行)は、ヨーロッパに甚大な被害を与えた後、キリスト教のヨーロッパ世界から完全に姿を消したのである。1347年に現れるまで、およそ5世紀半、ヨーロッパの地上には現れない。1348年のペストが、大流行の後、次第に地域を限り、軽症化しながらも、ヨーロッパと西アジアに根を下ろし慢性化したのとは大きな対照となっている。
 次に、ヨーロッパ人口のほぼ三分の一が死亡したとされている大流行が、1348年のペストである。1347-50年の四年間に、普通ヨーロッパ全人口の1/3が死んだとされ、あるいは1/4(ヘッケルの推計)が死んだともいわれる。研究が進んだ英国でさえ、人口減は20%から40%の間と推計されているにすぎない。大体この程度の人口減少があったのである。それにしても大きな厄災である。1348年を中心とする流行は、大ペストともいわれ、「黒死病」(英: Black Death, 独: Schwarzer Tod)という言葉は、本来この時の大流行を指す言葉らしい(ヴォヴェル、1996)。
 1347年ペストが、欧州に再侵入したのは、マクニール(1985、第3章)によるとモンゴル帝国の版図拡大と関係がある。ペスト菌を宿した野生の齧歯類が安定したコロニーを結成している地域、ペストの感染源は古くから世界に三つあった。その一つがインド・中国の国境付近のヒマラヤ山麓にある。これらのペスト感染源の土地では、ペスト菌は穴居性齧歯類には、風土病として根付いていた。しかし、現地民は人間への感染を防ぐ、非常に有効なタブーや習慣を保持していた。他所から来た人間が、迷信としてこれを守らないときに、人間への感染が生れた。1253年フビライ汗の「雲南・大理遠征」により、騎馬兵または食料に潜り込んだネズミ等を通じて、当地から直接、あるいは当地から新たに形成された満州・蒙古の感染源から、1331年中国にペストが持ち込まれた。ペスト菌はまた、シルクロードの隊商路を通って、草原の穴居性齧歯類のコロニーを感染させながらユーラシア大陸を横断した。地上の人間やネズミ、ノミはその致死性ゆえにペスト菌は安定的に生息できないが、地下の齧歯類は安定した住みかであった。1347年クリミア半島の通商都市カッファを包囲していたモンゴル軍に、ペストが突発した。ヨーロッパ世界への登場である。
 そして、ヨーロッパでは、1291年にジェノヴァの商人にして雇われ海軍提督のベネット・ザッカリアが、ジブラルタルで航行の障害となっていたイスラム勢力のモロッコ艦隊を撃破する。13世紀の船舶の改良と航海術の進歩が、季節を問わず航行を可能とした。これらが相まって、キリスト教徒の船舶が地中海と西・北欧との間を自由に航海できるようになっていた。元々、ネズミにとっても船舶は格好の移動手段であった。クマネズミは、登攀能力に恵まれていたから、もやいのロープを伝って乗下船できた。航海期間も罹患したネズミが死に絶えるほど長くはなかった(高速の蒸気船が運航してからペストは世界に広がる)。こうして、ペスト菌は、船に乗って港から港へ、そして港から街道沿いに内陸部へと、地中海という限界を超えて、全ヨーロッパの範囲に拡散することとなった。その惨状については、いくつもの本に、これでもかとばかりに描かれているので割愛する。
 中世のペストによる人口減少を回復するのには、約5、6世代、100-130年の日時を要した。1348年の最初の大流行の後も、ペストは消滅することなく、何度か不規則にヨーロッパを襲った。既述のように、次第にその病状が変わり、軽症化する例も多かった。この『諸観察』の対象となる1665年のロンドンのペスト大流行が、北欧・西洋の最後のペスト流行であり、以後姿を現さなくなった。翌年(1666年)のロンドン大火が、病気を浄化したのではないかと噂された。復興街区の再建過程で藁葺屋根から瓦葺きの屋根に変って、クマネズミが住みにくい環境になったのではないかという説もある。

 中世ペストの社会経済的な影響に少しふれておくと、まず神が人間を罰しようとしているのではないかと、鞭打ち苦行者行列の宗教運動が各地に行われたこと。井戸に毒を入れたとして、ユダヤ人の迫害・虐殺(ボグロム)が起こったことである。また、多くの人が短期間に死んだため、北欧のノルウェーから、南欧のイタリアまで全欧州にわたって、領地や不動産の所有者が変ったことである。動産についても、貴族の豪華な衣服等を庶民が身に纏うような風俗が見られた。生存者(あるいは教会・修道院)は、死者の富を無償で入手した。労働に対して資本が過剰になったが、新しい事業に投下されることなく、遊興に費消されたとされている。
 当時の人々がペストを恐れたのは、死そのものを恐れだけでなく、「準備なき死」(ベルクトルド、1997、p.133)を恐れたことでもある。すなわち、終油の秘蹟を司祭から受けることなく死ぬことで、永遠の業火に焼かれる(この辺記者は不案内で記述に自信がない)と信じられていたのである。本人の急死だけでなく、司祭も罹病して、あるいは逃避して秘蹟を受けられない場合もあった。医師についても、古代以来治せない病気の患者は見る必要がないという伝統があったそうで、医者が忌避しない場合でも、初診以外は診てもらえずとも文句は言えなかった。至高の神の罰に、医者が取れる手段はなかった。むしろ、ペストの治療を云々する医者はインチキだとみなされた。近代医学が発達するまでは、転地で猖獗の地から離れるのが唯一の有効な対処法であった。
 イギリスの古書店より購入。表紙のヒンジの部分が離れている。テキスト部分は良好なコンデション。17世紀の本にしては、値段は安かった。
 CiNiiを見ると、重版(5版まで)を含めても、国内の大学図書館には10冊ほどしか所蔵されていないようである。初版本は1,000万円ほどの値段が付いているのを見たことがある。
(注1)ペストの事について書かれているのは、邦訳第6巻1665年である。4月30日が初出で、年末の30日まで記事がある。
(注2)正式な婚姻関係でない出生子のことかと私には思えるが、ヨーンの説明(1956、p.171)では、「あらたに生まれたものをその両親の信仰が異なるゆえに、洗礼をうけさせられない」場合としている。そんな例が多いとも思えない。いずれにしても、「これらの出生児は記録簿の管理権を持たない牧師から洗礼を受けなければならなかったのである」(同)。
(注3)出典は、Wellcome images (https://wellcomeimages.org/)のBills of mortalityからである。『サミュエル・ピープスの日記 第6巻 1665年』の口絵写真にも同様の「死亡表」が掲載されている。
(注4)戦前昭和10年、戦後昭和53年の統計(岡崎、1980)による。
(注5)(②+③)/① は、出生数ではなく、総死亡数で割った数字である。表の性質上、静態人口、総出生数=総死亡数を仮定しているのだろうか。ロンドンの死亡表で対象期間の数字を集計すると、総死亡者数は、216,559人、うちペスト死亡者16,384人、総出生差数153,928人である。死亡者数も一致していないが、出生者数とは大きな差がある。
 この点については、周到な注を付している訳本に何の注記もない。小杉、浅谷の著書の記述は奇妙に似ているが何等この点の説明はない。
 ちなみに、②と③の年齢範囲が違っているのは、原文とおり。
(注6)「死因の表」では、20年の総計は15,759人である。
(注7)正しい方法は、26歳-36歳の生存者数は、年齢階層の始めと終わりの年齢の生存者数の平均[(25人+16人)/2 = 20.5] に年齢の数10を乗じた205人である。以下同様に、36歳-46歳、46歳-56歳の生存者数を求め、これらの数を総生存者数(同様に求める:1,822人)で割れば当該年齢層の占率が算出される。
(注8)病原体の宿主となる生物が複数種ある場合、病原菌が人間以外の種に適応・進化を特化するならば、人間にとってその病原菌の致死性は不変である。


(参考文献)
  1. 浅谷輝夫 『生命保険の歴史』 四季社、1957年
  2. ウェスターゴード 森谷喜一郎訳 『統計学史』 栗田書店、1943年
  3. ミシェル・ヴォヴェル 池上俊一監修 『死の歴史』 創元社、1996年
  4. 岡崎陽一 『人口統計学』 古今書院、1980年
  5. ピエール・グベール 塚忠躬・藤田苑子訳 『歴史人口学序説 17・18世紀ボーヴェ地方の人口動態構造』 岩波書店、1992年
  6. グラント 久留間鮫造訳 『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』(大原社会問題研究所編統計学古典選集復刻版第1巻) 栗田出版会、1968年
  7. 小杉肇『統計学史通論』 恒星者厚生閣、1969年
  8. ジュースミルヒ 高野岩三郎・森戸辰男訳 『神の秩序』(大原社会問題研究所編統計学古典選集復刻版第3巻) 栗田出版会、1969年
  9. ハンス・ジンサー 橋本雅一訳 『ネズミ・シラミ・文明 伝染病の歴史的伝記』 みすず書房、新装版1984年
  10. スティーブン・ソロモン 矢野真千子訳 『水が世界を支配する』 集英社、2011年
  11. デフォー 平井正穂訳 『ペスト』 中公文庫、1973年
  12. サミュエル・ピープス 臼田昭訳 『サミュエル・ピープスの日記 第3巻 1662年』 国文社、1988年
  13. サミュエル・ピープス 臼田昭訳 『サミュエル・ピープスの日記 第6巻 1665年』 国文社、1990年
  14. クラウス・ベルクドルト 宮原啓子・渡邊芳子訳 『ヨーロッパの黒死病 -大ペストと中世ヨーロッパの終焉』 国文社、1997年
  15. W・H・マクニール 佐々木昭夫訳 『疾病と世界史』 新潮社、1985年
  16. 見市雅俊 『ロンドン=炎が生んだ世界都市 大火・ペスト・反カソリック』 講談社、1999年
  17. V・ヨーン 足利末男訳 『統計学史』 有斐閣、1956年
  18. E・A・リグリィ 速水融訳 『人口と歴史』 平凡社、1971年
  19. Dick, O. L. ed. “Aubrey`s Brief Lives”, Secker and Warburg, 1949




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(2017/7/4記)


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