CONDORCET, Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat
, Esquisse d'un Tableau Historique des progrès de l'esprit humain. , Paris, Chez AGASSE, L'an III. de la République., ppviii+389, 8vo.

 コンドルセ『人間精神進歩史素描』、1795年刊初版。
 著者略歴:コンドルセCondorcet, Marie Jean Antoine Nicolas Caritat, Marquis de (1743-1794)。
 帯剣貴族(注1)の子として北フランス、リブモンに生まれる。父はコンドルセ生後35日にしてオーストリア継承戦争に戦死したとされる。父はシャヴァリエ(騎士)とは呼ばれても、家系上のマルキ(侯爵)と呼ばれなかったことから解るように騎兵大尉で終わった。代々栄達には恵まれなかったが、激情家を生んだ家系で「雪に覆われた火山」(ダランベール)や「怒れる仔羊」(チュルゴー)と称された彼の性格もこの血筋ゆえか。母は再婚でコンドルセを生んだが、若くしてニ度夫に先立たれた不運のためか、聖母の庇護の名の下に8歳まで女性として育てた。彼の蒲柳の質もこのことと無関係ではないだろう。なお、彼の名前の上にあるマリとアントワヌは母と父の名前から取られている。
 それまで数字も書けなかったコンドルセは9歳の時、宗教家の伯父に預けられ初めて教育を受けた。13歳で当時教育の主流であったイエスズ会系の学校に行き、15歳でパリの名門コレージュ・ド・ナヴァール(この学校は当時科学の分野で最も先進的であった)に学ぶ。しかし、これら学校の宗教的及び貴族的雰囲気は、かえって彼にそれらへの反感を育てることになった。16歳の時、当代の数学権威であるダランベール他を審査員とするコレージュの数学審査において解析の難問を解き、将来を嘱望された。一旦帰郷の後、親族の反対を押して、数学で身を立てるべく、パリに戻る(1762)。
 自活のため法律を勉強して弁護士資格を取り、一度も法廷に立たぬまま医師になる勉強もした。しかし、志は数学にあり、数学に没頭することになる。最初の公刊論文「積分について」(1765)(注2)は、ダランベールやラクランジュが激賞した。続いて「三体問題について」(1767)「解析論」(1768)を書き、25歳で科学アカデミー会員に選出される(1769)。すぐに同アカデミーの物故会員の『頌伝』(エロォジュ)を書くことになり、数学のみならず自然科学全般についての深い理解を示した。これは世の賞賛と会員の信頼を勝ち取り、1773年には終身幹事補に挙げられる。『頌伝』は公務繁忙時期の一時中断はあったが、会員以外に古今の外国人学者にも対象を拡大して書き継がれる。このことは、社会の発展と自然科学の進歩について思索を深め、本書執筆の一契機となったであろう。
 自らは私生児であったダランベールは、境遇の似ていたコンドルセの変わらぬ庇護者となり、後に遺産の受取人に「愛児」コンドルセが指名する。自然とコンドルセはダランベールの愛人であるジュリー・レピナスの主宰するサロンに出入りするようになる。この縁でヴォルテールとチュルゴーに近づきとなった(彼の著作には『ヴォルテール伝』(1785-89)及び『チュルゴー伝』(1786)がある)。それは、彼の知的世界を拡大することになる。当時のヨーロッパ思想・文学界の最大の首領であるヴォルテールをその隠棲地フォルネに訪問した記憶はコンドルセの終生の思い出となった。
 そして、チュルゴーの知遇を得た影響はことに大きい。哲学思想および経済学におけるその影響は、数学における師匠ダランベールのそれに当たる。まず、主著である本書は、チュルゴーの全思想を一貫して流れる進歩思想の継承・発展とも見られる。経済学についても、チュルゴーを中心とした重農主義の諸著作を学んだ。チュルゴー政策批判のネッケル『立法および穀物取引論』に対する反批判の書として、コンドルセが『禁止主義の著作者N氏へのピカルディの一農民の手紙』(1775)および『小麦取引についての考察』(1775)を著したことは、ネッケルのページで述べた通りである。
 実務(政治)面でも、チュルゴーがフランス財政再建のため財務総監に任命された時、コンドルセは造幣総監に任じられている(1775)。自ら望んで、十年間適任者不在で空席となっていたこの地位に就いた。これも、理論のみならず実務面でも経済に精通していると、自他共に認めた所の証であろう。
 1782年には投票により天文学者バイイ(フランス革命時のパリ市長)を破りアカデミー・フランセーズの会員にも選出される。一方、常に社会正義を希求する情熱は、変名で『黒人の奴隷状態についての考察』(1781)を出版、後に奴隷解放を目指す「黒人の友の会」設立(1788)の契機となった。また、「車刑囚事件」では、強盗として残酷な刑を宣告された農民と判決に抗議して罷免されたボルドー高等法院長シャルル・デュパティを擁護すべくパンフレットを書いた(1786)。この縁で、デュパティの姪で才媛の誉れが高い(肖像画を見るに美人でもある)ソフィー・ド・グルシーと同年結婚する。時に、コンドルセ四十三歳、ソフィ嬢は二十二歳であった。新婚生活は造幣総監の壮麗な官邸で始まった。コンドルセはチュルゴーの辞任(1776)と去就を共にすべく、辞意を表明していたが受理されず、ここには住み続けたらしい。官邸で夫人の主宰するサロンは、レスピナス嬢やエルヴェシウス夫人のサロンを継ぐものとなり、(外国人)経済学者でいえばアダム・スミス、ガリアニ、ベッカリアが集った。夫人はスミスの『道徳感情論』の仏訳(コンドルセ自身も『国富論』の解説を書いている)をしたことでも知られる教養人である。
 結婚後数年にしてフランス革命が勃発。コンドルセもこの渦中に巻き込まれる(というより飛び込んだとすべきか)。『公人叢書』なる政治雑誌を刊行して、彼が最も重要とする公教育に関する意見を発表する。そして立法議会に公教育委員会が設置されると,議員であるコンドルセは議長に選出された。彼が中心となってまとめた『公教育一般組織に関する報告および法案』(1792)を議会に提出する。教育と宗教の分離、義務教育、初等教育の無償化、男女共学、成人教育を内容とするコンドルセの教育計画として知られるものである。しかしこの法案はオーストリア宣戦布告の喧騒の中で凍結されてしまう。1792年に立法議会が解散、国民公会が召集されると、引続き議員に席を占める。ここでも、憲法起草委員会の議長に選ばれ、草案を議会に提出する。しかしこの草案は斥けられ、モンターニュ派の提出した案が可決された。コンドルセは匿名パンフレット「新憲法に関してフランス市民への書簡」等を発行して新憲法法案を批判した。ために、革命裁判所はコンドルセの死刑および財産没収を宣告した。彼は逃亡し、パリ郊外で逮捕される。獄中で服毒自殺。ギロチンを避けるためだとされるが、虐殺とも言われる。
 コンドルセの主著とされるのは本書である。百科全書的な万能知識人であったが、その数学や哲学、思想も今日からみればそのほとんどは独創的と言えず「二流の人」であろう。『多数決の確率に対する解析の応用についての試論』(1785)によって「コンドルセのパラドックス」として知られる社会選択論の先駆者となったこと、および彼の教育思想が後世への最大の貢献と思われる。特に前者は、アロー、ブラック等に評価され、その真価が認められるまでに150年を要した(注3)。

 革命政府から死刑判決を受け、追われて逃亡中であったコンドルセは、逮捕され裁判に付される事を考え、自己弁護の書を草しようとしていた。しかし、夫人は「恐怖政治」の時代に自己弁護が無力であることを知っていて、僅かの生命を永らえるよりも、コンドルセが長期間暖めていた思索を完成し、後世に残すことを勧めた。こうして、自己弁護を断念し、「彼は自己を人類の前に弁明するよりも、人類そのものを弁明せんとするの動機に駆られて」(高橋、1943、p.400)本書を執筆する(注4)。身は革命のために滅ぼされるのを予感しながら、なお革命を弁護し、ゆるぎなき人類の進歩を信じる。
 本書にいう。「以上わたくしが素描し来たった精神の動向を、政府の政治制度と比較してみれば、一大革命の必至であることが容易に想像できたのである」。革命には人民自ら行うものと政府の手に拠るものの二つの方法がある。前者はより全体的であり、より迅速であるが、波瀾も多い。後者はより不完全であるが、比較的平穏である。前者はまた「一次的災難によって自由と幸福とを購わなければならなかった…政府が腐敗し無知である場合には、この第一の手段が選択された。そして理性と自由との迅速な勝利は、人類のために復讐を遂げたのである」(以上邦訳、p.207)。革命の大義のためには、一身の破滅も厭わない覚悟であったのだろう。実に、コンドルセ憐れむべしである。著者は逃亡中であり、本書序文にあるように、一冊の本もノートも参照することなしにこれを書いた。
 本書は、先述のごとく、チュルゴーの全思想を一貫して流れる進歩思想の継承・発展とも見られる。1750年チュルゴーがソルボンヌの僧院長となった際、慣例のラテン語講演の一つは『人知の継続的進歩の哲学概観』であった。それは、「前世紀に於いてパスカル、フォントネル、及びその他のカルテジアン(デカルト主義者:引用者)たちによって論議されたところの進歩思想を、広大なる世界史的構想のもとに発展させ、人類の無限完成性を究明しようと試みたものである」(田辺、1982、p.70)。本書でも、第九期に理性及び自由の抑圧者の根拠となった哲学は力を失い、「新しい理論が発展してきて、それが、すでに偏見がぐらついていた建物に最後の打撃を与えなければならぬようになって来た。その理論とは人類の無限の完成性についてのそれであり、チュルゴ、プライスおよびプリーストリらは、この理論の第一の、かつもっとも有名な使徒であった。」(邦訳、p.205)とチュルゴーが高く評価されている。
 本書は構成上大きく分けて、三の部分よりなる。第一は「序論」(「序」と「序論」)部分であり、本書の方法・原理を述べたものである。そして、第二に「素描」の本体部分、原始状態からフランス革命までの人間精神の発達が九期に分けて述べられている。そして第三に、第二部分に基づいて予測した人類精神の将来予測部分(第十期)である。
 まず、序論部分について。「わたくしが素描を企てているのは、人間精神の進歩に関する歴史的展望であって、地球上に相次いで現れたいろいろの民族の政治・法律・道徳・慣習・思想などについての歴史ではない」し、「科学・芸術・哲学に関する一般的歴史」でもない。それは、「人類の進歩、またあるときはその退歩を証明し、原因を発見し、その結果を明証するものである」。その目的のため「歴史の詳細な叙述と哲学的研究との間の公正な中庸を守」(以上邦訳、p.15-16) るとされている。
 すなわち「それは変化の秩序を表示し、おのおのの瞬間が、これに続く瞬間に及ぼした影響を説明しなければならぬ」。そして、過去の世紀に人類が絶えず革新して来た変化のうちに、この展望は「人類がこれまでたどり来たった歩みや、人類が真理や幸福の方向に為し遂げて来た足跡を証示しなければならない」。のみならず、人類の過去及び現在を「観察することは、…新しい進歩を確実にし、促進する手段を発見することになるであろう」(以上邦訳、p.22-23)。
 この著作の結果、推理と事実をもって明らかとなったのは、「自然は人間能力の完成に対して何等の限界をも示さなかったこと、人間の完成は真に無限であること、この完成への進歩は、これを停止しようとするすべての権力とは爾来全く関係なしに、自然がわれわれを生んだ地球が存続する限りは限界を有」(邦訳、p.23) しないこと、これである。「なぜに真理のみが永遠の勝利を確保しなければならぬか。如何なる連鎖によって、自然は知識の進歩と、自由の進歩、人間の自然権尊重の進歩とゆるぎなく結合しているのか。」(邦訳、p.30)を示さんとした進歩の信者である著者は、序論の最後に、革命への希望の言葉を置いている。
 われわれは人類の偉大な革命の一つの時代に近付いている。「われわれがその革命から何を期待すべきかについて解明し、革命運動の真最中にわれわれを導き入れるための確実な指針を提供するためには、これに先行し、これを準備してきた革命を展望することよりも適切なものがまたとあろうか。知識の現状よりみて、その革命の時代が幸福であろうことをわれわれは保証できる」(邦訳p.33) 。革命時代が約束している幸福を、なるべく犠牲を少なくして獲得し、拡大するため、如何なる障害を懸念せねばならないか、また如何なる手段をもっているかを、人類の歴史のうちに研究する必要があると。
 第二の本体部分については、ざっとは読んでみたが、今日から観れば、概要を記すほどの価値がある内容とも思えない。略して下記の各期標題(第十期を含む)から、内容を想像していただくことにする。第一~第三期が原始時代、第四期~第六期が古代・中世、第七期以降が近代となろうか。
 
第一期 人間は集って群団を作る
第二期 遊牧民族―この状態から農耕民族への推移
第三期 アルファベット文字の発明に至るまでの農耕民族の進歩
第四期 ギリシャにおける人間精神の進歩、アレキサンダー時代頃における科学の分化の時代まで
第五期 科学の進歩、その分化から衰頽まで
第六期 知識の衰退、十字軍時代頃のその復興まで
第七期 西洋の科学復興時代におけるその最初の進歩から印刷術まで
第八期 印刷術の発明から科学および哲学が権威の桎梏から解放された時代まで
第九期 デカルトからフランス共和国の成立まで
第十期 人間精神の将来の進歩

 次いで将来予測の第三部分である。人類の将来状態に対する希望は、三つの要点に要約できる。諸国民間の不平等の打破、同国民間の平等の発展、および人間の真の完成である。自由を享受できず、理性を行使できぬように運命づけられた国はない。現在の階級間の不平等は、社会的技術の不完全による。不平等は平等に地位を譲るべきである。科学技術による新発明およびその結果たる個人福祉と全体繁栄の手段に関する新発明により、さらには知的・道徳的・身体的能力の完成により、人類は改良されねばならない。過去の経験とこれまでの科学・文明の進歩の観察からも、自然は我々の希望に何等制限を設けなかったと信じられる。
 地球の現状を考えるに、まずヨーロッパでは、フランス憲法の原理がすべての文化人の原理となっているのを見る。暴君や司祭の圧迫にかかわらず、各国に浸透している。植民地でも、緩慢ではあるが確実な進歩を助長して、独立を齎すようになる。人種や信仰を異にする人々にとって、我々が有用な道具となり、彼らも自由人となる時が近づいているのは疑問がない。ヨーロッパ諸国民は独占的商事会社が、国民に課した租税にすぎないと学び、自由商業にのみ従い、他の民族の権利を軽視することなく、その独立を尊重するようになる。「かくて太陽はもはや地球上では、自己の理性以外には何らの主人をも認めぬ自由人しか照らさぬような時期が到来するであろう。そのときには暴君と奴隷、司祭とその愚かな道具または偽善の道具などは、もはや歴史のうちと舞台の上でなければ見られなくなるであろう」(邦訳、p.255)。
 歴史を観ると、法律上の市民の権利と実際の権利間には差異がある。この原因は主として三つある。1.富の不平等、2.生存手段が自己のため確保され、家族に伝えられる者と、生存手段が生涯の長さ(むしろ労働期間)に依存する者との間にある不平等、3.教育の不平等である。これら不平等を破壊するのは不合理で危険でもあるが、絶えず減少するようにしなければならない。コンドルセは、経済的自由の実現と老齢者・婦女子等の経済的弱者に対する扶助等で大分部の不平等は消滅できるとしているが、特に教育の平等化について詳述している。
 各人が家政や職業、能力を充分発達させるために、学習内容や教授法を適切に選択することにより、知るべきことをすべての民衆に教えることができる。また教育は、自己の権利と義務を認識し、自己と他人を適切に判断できるようにする。それは、盲目的な隷属や迷信からの解放を意味する。このとき、真の平等が生まれ、教育の優越性はその恩恵に与らない人にも利益となる。これらの不平等に関する原因は、互いに結合し、影響し合っているから、もし教育がもっと平等であれば、産業の内にもっと大きな平等が生じ、更に財産にも、もっと大きな平等が生じることになる。どの国でも、教育を更に普遍化すれば、科学進歩の希望が増大できる。現在、最も文化的な国家でも、天賦の才を持つ人の1/50だけが、才能開発に必要な教育を受けているにすぎない。
 そして、技術の進歩は生産品を製造する時間と労力を減少させ、同時にその完全性と正確性を増大させる。次第に面積の狭隘となる土地に、もっと有益、高価な商品を多く生産できるであろうし、もっと低費用で広範な快楽を享受できるであろう。「かくて同じ土地にも、もっと多くの人々を養うことができるばかりでなく、各人はそれほど骨の折れる仕事をせずにもっと生産的な方法で養われ、かれらの要求をもっと充分に満足させることができるであろう」(邦訳、p.267)。
 かくて、産業や福祉の進歩により人口は繁栄するようになる。しかし、その時には「人間の数の増加がその生活手段の増加を上回って、その必然の結果として、ついには、福祉と人口との不断の減少が行われないとしても、真に退歩的な歩み、少なくとも幸福と不幸との間の一種の振動を生ずるような極限に到達しなければならぬにではないか」(邦訳、p.267)。こうして極限に達した社会では、この振動は恒常的な貧困の原因となるのではないか。また、人間の完成にとって越えることのできない限界を示しているのではないか。このように、コンドルセは自問する。けれども、この時期は到来するとしても,遥かに遠い。それまでには、人類は現在では想像できない知識を獲得しているであろう、元素を変換する技術のごとき。そしてたとえ、生存資料の問題が科学技術で解決できぬ場合があったとしても、人口の限界は、「天命を完うせぬうちに死滅させるような結果の生ずるものであってはならぬ。それは自然に反し、生を受けて来た一部のものの社会的繁栄に矛盾するものであるからである」(邦訳、p.268)(注5)。
 最後に人類の完全性の発達が無制限であることに、人間自身の生命も付け加える。寿命の増大も無限であることを記して、この楽天的な進歩の思想の素描を終える。
 この書物の十期に分けた人間精神の発達の記述に、アダム・ファーファソンの本と共に後のドイツ歴史学派等に見られる経済発展段階説の揺籃をみることも可能であろう。また、この本の楽観的進歩思想はゴッドウィンの書物と共に、マルサスをして、『人口論』を執筆させる契機となった。結果的には、「陰鬱な科学」を生みはしたが、まことに人間の未来を信じた、楽天的な進歩と啓蒙の時代に生まれた本である。
 出版年が革命暦で「共和国第三年」(L’an III. De la République.)と記されているため、初版は、あるいは1794年とされ、あるいは1795年とされる。国民公会(実際は夫人の主導で)により3,000部印刷され、共和国教育機関等に配布されたことが本書冒頭に書かれている。実際は当時の発行部数から見て、1,000部位と書かれたものもあるが、古書初版本の流通状況から見て、小生の感覚ではやはり3,000部のような気がする。

 米国の古書展からの購入。経済学プロパーの本とはいえないため、元々購入する対象とは考えていなかった。たまたま、安価な本をサイバーカタログで見つけたのが、書店の丁度30%オフセールの最終日。Ex-libraryとなっていたが、値段に引かれてコンデションも問合せず発注した。現物は、図書館のポケットは着いていたものの、蔵書印も標題紙裏に小さいものがあるだけの美本。もうけものであった。

(注1)フランスの貴族は十字軍以来の武人の末裔の帯剣貴族と金で地位を購ったブルジュアの成り上がりである法官貴族に大別される。
(注2)この論文は、物理学者の太田浩一氏の本によると、ニュートン力学の微積分をライプニッツ流の記号で表記し直したもののようである。
(注3)パルグレーヴの「経済学辞典」の彼の項は、ほとんどすべてがその社会選択論の解説である。
 なお、フランス革命当時、三部会でも、身分別議決で行くか、全体として評決を取るかで紛糾したように、社会選択というか意見の集約法については切実な関心があったと思うが、時代状況と選択理論の関係については、書かれたものがあるのかどうか、詳しく調べていない。
(注4)『人間精神進歩史』と題された岩波文庫の邦訳では、第一部は「人間精神進歩に関する歴史的展望の総説」、第二部には「人間精神進歩に関する歴史的展望の断章」との標題が掲げられている。文庫にはなぜか解説が付されていず、その第一部と第二部の関係が明白ではない(特に第二部には、訳者序も付されていない)。隠岐の本(2011、p.352)を見るに、元々コンドルセには『人間精神進歩の歴史表』の構想があり、逃亡中その完成の困難を予感して、その簡略版・略図(esquisse)として書かれたのが『人間精神進歩史素描』であるとされている。これからすると、『素描』が、岩波文庫第一部となり、「断章」とされた文書が収められている文庫第二部は、『歴史表』の草稿の一部のようである。
 第一部を読むと諸所に「われわれは以上のことを証示するであろう」と書かれているが、以後にそれらしい記述が見られないのは、『歴史表』で詳述するということであろうか。
(注5)。この部分を、私には一寸不明であるが、高橋は「人口は産児制限によって抑制せらる可きであって、堕胎及び殺児の残忍野蛮なる方法によって過剰人口を減少せしむる必要の存せざる可きものと観たのである。」(1943、p.420)と解している。

(参考文献)
  1. 太田浩一 『ほかほかのパン 物理学者のいた町』 東京大学出版会、2008年
  2. 隠岐さや香 『科学アカデミーカデミーと「有用な科学」』 名古屋大学出版会、2011年
  3. コンドルセ 渡辺誠約 『人間精神進歩史 第一部』 岩波文庫、1951年(引用に際しては、邦訳と表記)
  4. 高橋誠一郎 『古版西洋経済書解題』 慶応出版社、1943年
  5. 田辺寿利 『田辺寿利著作集 第二巻 コンドルセとコント』 未来社、1982年
  6. 森岡邦泰 『増補版 深層のフランス啓蒙思想 ―ケネー ディドロ ドルバック ラ・メトリ コンドルセ―』 晃洋書房、2003年4月増補版第1刷
  7. 渡辺誠 『コンドルセ ―フランス革命教育史―』 岩波新書、1949年
  8. Moulin, H & Young, H. P.. “Condorcet, Marie Jean Antoine nicolas Caritat, marquis de (1743-1794)” in The New Palgrave Dictionary of Economics, Macmillan, 1998




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(H23.10.30記)



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