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紀伊丹生川ダム建設を考える会 筆者:多田道夫先生 この文章は「紀伊丹生川ダム建設を考える会」の会報に掲載されたものです。 (誤字、脱字お許しください) |
「玉川四十八石」とは何か。「玉川由来記」はこういっている。
「古老目く、筒香村の流れより九度山村に至る迄七里の間、流れしたたるを田摩川と云。
此の眼目たる処は、丹生川村に田摩山と云う山三ケ所有。此の山より上に丹生明神の社有り。是故に丹生の川上の社とも云う。此の田摩川の流六七里の間に、神遊ぱせ給ひし鎮座の怪巌石四十八ケ所有。各石如に名有り。」この後、その名、位置、形状、寸法、命名の由来etc.と続くが、ここには名だけ書き写す.(位置、形状、寸法、命名の由来etc.は、別紙で1石ずつ紹介する折取り上げる。)
「塩竈」「赤石」「朝日石」「隅滝」「幸神石」「女夫石」「山伏石」「螺石」「聖人の竈」「馬背山」「静窟石」
「烏幅子石」「祝詞の石」「矢頃石」「若子石」「三つ滝」「茶壷石」「亀石」「澤滝」「八丈石」「玉山」「桝石」
「キツネ淵」「比良石」「猿飛石」「甲石」「筋石」「上玉山」「座石」「丹生滝」「括石」「戸立岩」「弓張石」
「橋立」「休石」「鏡右」「烏帽子岩」「編滝」「赤子鳴岩」「涼嵢」「宿り滝」「水神石」「明神石」「喚ケ滝」
「獨狗石」「座頭石」「大原石]「滝之本」「石の本石」「神子石」「容護石」以上。
この記録は文章として読んでもオモシロイ。始めに「古老日く」とある通り、土地の古老から話を直かに聞く感じがある。「四十八石」の解説はこの文章にそって進めるが、その前に大急ぎでこの写本の成り立ちに触れておく。原本は嘉吉元年(1441)正月一日、
刀祢左近四郎源家近筆。亨徳元年(1452)正月吉日、写本作成。筆者、刀祢左近四郎。 戻る
この写本が虫に喰われて、幕永五年(1852)二月三目、小松孫ヱ門が再度筆写。今私の手許にあるのは、その二度目の写本のその又写本のコピー。多分今から4、50年前、元河根村の高齢者、西保太郎氏が、二度目の写本が又々虫喰いにあったのを、老眼鏡で判読しいしい万年筆で写し書きした、そのコピー。「六百年近い昔の筆でありますから其の点御判読下さいませ.特に筆者は目が悪るく、小さな文字は書き難いので御許を乞。」と断り書きをつけてある。
では文章を見ていこう。
「古老日く」の書き出しで、原本の筆者は何がいいたかったか。古老の話だから間違いない、といいたかったか.何だかアヤシゲな所もあるが、とにかく古老の言葉通り筆記しました、私に責任ありません、といいたかったか。この時代の事だからおそらく前者のつもりだろう.現代の私達にエンリョはイラナイ。古老の話は古老の話として聞くまでだ。
古老らしい目の利きようをヨロシと聞く事もあれぱ、ナンダ、ソンナ世迷事と聞き捨てる事もあるだろう。勿論、アアいい事を教わる、と思う事もあるだろう。
筒香から九度山まで七里、という古老の計算はどうか。一里=36町=約4Kという現代のキマリからすれば少々オーバーだが、昔の人にはいろんな1里があったらしい。(江戸時代の主要街道でも一律ではなかった。1里塚のあった東海道、中山道ではl里36町だったが、伊勢路は48町、佐渡は50町、山陽道は72町と大差があった。因みに36町1里に統一されたのは明治2年。)歩きやすさと歩きにくさで道の里程が伸び縮みしたんだから、丹生川の峡谷路が七里、はウナズケル。
「流れしたたる」は特別オモシロイ。玉川の流れを「したたる」というのは現代語法では誤用だが、昔は滝をしたたる」ともいった。こんな古体な言い回しがナニゲナクまぎれ込んでいるんだから、この「由来記」は古記録として信用できる。
「田摩川」のタマの表記については今は目ヲツブル。この写本のタイトルは「玉川由来記」だし、「四十八石」の名に「玉山」「上玉山」とあるのに、ここだけなぜ「由摩川」「田摩山」か、など考え始めたら又紙面がなくなる。先を急ごう。ヤヤコシイのは「玉川」と「丹生川の異同の方だ。古老もこれにかかずらって話がシドロモドロになっている。
古老は「丹生川の本流を筒香の最上流まで、全部「田摩川」にしてしまいたい。「丹生川」など始めからなかった事にしたい。だが、古老がいくらガンバッテもそれはムリな話だ。「此の眼目たる処は」と理屈をつけようとしても、理屈はコジツケになり、話は従つてコンガラガル。
古老は何がいいたいか、「田摩川」の名はこの川の中流に3つある「田摩山」から起った。だから本流の名前は元から「田摩川」だ。ではその「田摩山」のある村名がなぜ「丹生川村」で「田磨川村」でないか。
「田摩山」より川上に丹生明神の社があって、これを「丹生の川上の社」という。だからその社のある村を「丹生川村」という.つまり、「丹生川村」は「丹生の川上の杜のある村」の縮約形、というのが古老の理屈だ。だが、それはヘリクツというものだ。
中流の「丹生川村」に3つ「田摩山」があるのは、新しい「玉川」の名の魅力の大きさを物語るに過ぎない。由緒の古さからいって「玉川」は「丹生川」と比べものにならない。「日本書紀」と「風土記」の伝説を信じれぱ、「丹生川」の名は3世紀まで遡る。筒香の川上の山頂に丹生都比売の神が鎮座して、ここが日本の丹生(水銀朱産地)の中心地になった、それ以来の歴史を持つ。
「玉川」の名は9世紀高野開創以後の生まれだ。始め「丹生川」の支流、現在の「清川」が「摩尼川」=「玉川」と呼ぱれ、今は忘れられた旧名に代って定着して行く。問題はその後だ。「玉」の名は鮮明だった。「丹生」の名は蒼古で、元の意味は忘れられた。発音もniuは仄暗いが、tamaはアカルイ。イメージも「玉」はクッキリと美しい。それこ丹生と高野二つの信仰のカの消長も重なって、「玉」は「丹生」を冒して行く。
1支流の「玉川」が、川合で本流「丹生川」に合流した後も、流水と共にその名も下流に流れ下る。そして3つの「田摩山」が生まれ、「玉川四十八石」が生まれ.、「王川峡」が生まれた。
すると「玉川」の名は川合から流れに逆らって、筒香まで遡ることにもなった。こんな風に考えて来れば、古老が「田摩川」を言い張るのも分らぬ事もない。だが、「玉川」と「丹生川」で本流の名を奪い合うのは間違っている。本流の2つの名は元々性格が遵う。「玉川」はあくまでも名勝としての名前だ。人名なら文名、号のようなもの。地名なら歌枕としての名のようなもの。だから本流のどこからどこまでが「丹生川」で、どこからどこまでが「玉川」か、名勝指定する時でもないかぎりセンサクするのはナンセンスだ。
最後に「四十八石」の間題が残っている。先ず「四十八」は何を意味するか。上に挙げた「四十八石」を数えても、48より数が多い。なのになぜ「四十八」か。48の同様の名数で一番有名なのは「赤目四十八滝」だが、ここの滝も48より数が多い.赤目は元々修験の行場で、阿弥陀如来の本願「四十八願」が語源だろうという。熊野にも「那智四十八滝」があって、これも事情は同じだろう。
「石」についても同様で、「四十八」=48 ではないように、「石」=岩石ではない。「四十八石」全て51石中、岩右は37、他は滝7、山3、洞穴2、淵1、正体不明の物1。
もう紙面がなくなった。「神遊ばせ給いし.」に一と言。前回、紀伊丹生川を遡る(5)を送ったら、折り返し木ノ本さんからファクスが入った。「赤石」の紹介文に「神遊ばせ給ひし」はただの文飾ではない、とあるが、あれはどういう意昧か、と。これを納得してもらうにはこのシリ一ズ10回分の言葉がいる。私はそれが言いたくてこれを書き続けている。