トップページ    紀伊丹生川を遡る

この文章は紀伊丹生川ダム建設を考える会会報の「玉川峡」に掲載された、和歌山大学名誉教授 多田道夫先生の執筆によるものです。

   「丹生について」    明 神 岩

―はじめに―

地球の歴史46億年を1年に換算すると、やっと5月ごろ光合成が始まって、酸素ができはじめたといわれています。6月15日に原生生物が誕生しました。

11月21日に背骨ができ、恐竜や鳥が繁栄するようになったそうです。12月31日18時17分(300万年前)にやっと人が猿と分かれ始め、23時58分51秒(1万年前)、わずか1分9秒前にやっと人口が増え始めたのです。

 ほんのわずかな瞬間に私たちが生きているのです。気の遠くなるような時間をかけて作られたこの地球環境を、私たちの世代に破壊していいのでしょうか。

人類はこのままではあと80年で滅ぶともいわれています。二酸化炭素が大気中で3%を超えればわれわれは生きていけないのです。

植物界(生産)、動物界(消費)、菌界(分解)がそれぞれの役目を果たし、地下にしまいこんでくれた大気中の二酸化炭素(石炭や石油に変えてしまいこんでくれたのです)を、政治科(家)、実業科(家)といわれる生き物(霊長目哺乳類ヒト科の亜種とでもいうのでしょうか)が産業や経済の発展成長を旗印に、せっせと掘り出し、ふんだんに消費し、其の努力を無にしているのです。

 「人の常識は、地球の非常識」ではないでしょうか。

地球がいかに有り難いか、自然の大切さを皆さんに知っていただくため、この話を掲載しました。

入力の誤りや、誤字脱字等がありましたらお許しください。またこの記事を執筆していただいた、多田先生や、ダム建設を考える会の諸先生方に深く感謝します。      K.I                                  

 

先月、岩畑氏から提案があって、丹生川流域の歴史探訪の番組制作を放送局に働きかけようという事になつた。たまたま私が「丹生川に関心があったので、それでは、とこの川にまつわる丹生の歴史を書いてみた。

にわか勉強でザット書いたのだから間違いいだらけかも知れないが、今回臨時にそのお話をお届けする。

先月22日、世話人会で30分程時間をもらって、これを元に話をした。放送局廻りする時は、その折の資料集をもう少しふくらませてこれに添えて持参しようと思っている。誰か丹生川沿いの高野古道について,書いてくれまいか。これも岩畑氏からの呼びかけである。

 

「丹生について」  (1)

銀種はもともと水銀と硫黄が化合した流下水銀ですが、中にタングステン、鉛、ヒ素など、他の元素もごく微量眼まれていて、産地によってその含有量に微妙な差異があります。今から約40年前大和天神山古墳で発見された水銀朱が、今回そのヒ素含有量の多さから大和宇陀産のものと同定され、その研究成果が日本文化財科学会で発表されました。大和天神山古墳は、崇神天皇陵に比定される天理市の行燈塚古墳の陪塚です。

ここには遺体埋葬の形跡はなく、41キロもの水銀朱が、鉄剣4ロと共に、20面の鏡(大部分は舶載鏡)に囲まれて桧の木櫃に収められ、竪穴式石室に安置されていました.数ある色彩の中で朱色は旧石器時代以来、人類普通のきわ立った嗜好対象です。その原料はベンガラ(酸化第二鉄)、水銀未(酸化水銀)の二種ですが、水銀朱の方が採取量が少く、彩色が鮮明で珍重されました。

塗料、顔料、防磨剤、研磨材、水銀精製原料として用途は広く、水銀そのものは、薬用、金銀精製、メツキ用に欠かせぬ素材でした。この貴重な水銀朱の産地は、日本では二フ、二ホと呼ばれ、今日全国に分布する丹生、入、仁保等これに類する地名又神社名の多くは、その旧産地と考えられま

「丹生について」NHKテレビは先々月(24日タ方6時、27日朝7時の二ュース)古代水銀朱の新しい研究の開始を報道しました。土砂中の水銀の微量分析による水銀朱産池の推定は、以前から行われていましたが、今度新たに橿原考古学研究所が近幾大学に協力を依頼して、水銀朱中の数種の元素の微量分析に成功し、古代遺跡出土の水銀朱の産地の特定が可能になった、という二ュースです。産地が特定されれば、その流通経路が判明し、長らく一般の関心の対象外にあった水銀朱も、今後原始古代の政治権力関係の謎を解く鍵のひとつとして脚光を浴びる事になります。

す。これについては、その土地の土砂中の水銀の含有量によっても実証されますが、文献資料にも証左があって、「古事記」の翌年編纂された「風土記」の豊後、播磨二国の二つの記事が、その最古のものです。播磨国の記事では水銀朱の女神の神話が語られます。そして、紀伊丹生川の川上の藤白の峯が、その女神の最初の鎮座地とされています。

丹生の研究家、松田寿男氏の調査によりますと、日本全国の丹生神社の半数以上が和歌山県一県に集中し、その和歌山県下で、鎮座密度の最も高いのが紀伊丹生川流域です。「風土記」の記事はデタラメではありませんでした。紀伊丹生川では、川中の岩石さえ、水銀朱の女神、丹生明神にゆかりがあります。

一つは「明神岩」で、「紀伊続風土記」下筒香の項に、「村より二十町許り西にて川の中にあり。此辺り川床一面の石にて、平なる事畳を敷くが如し。其上に明神岩といふあり。人の据へ置くが如く、形は一の大桃を盤に盛るに似たり。其奇絶言葉に尽しがたし。土人これを明神影向の岩といふ。」とあります。

もう一つは「祝詞の石」で、十五世紀の記録「玉川由来記」に、川中に有、高さ七尺、巾一丈三尺、長二丈。春、丹生明神玉出嶋え流され行給し時、告刀言を奉りたる石と云うなり」と、その名の由来が記されています.ここに「丹生明神玉出嶋え流され行給し時」とあるのは、丹生明神の「浜降り」神事の誤伝と思われます。

この「祝詞の石」から西へ約6キロの天野に、全国の丹生神社の総本社格の丹生都比売神社がありますが、この神社は15世紀中ごろまで、毎年9月16日、和歌浦玉津島への神輿渡御の神事を行っていました。

古代、和歌浦は紀ノ川の河口で、そこに五つ六つの小さな島が浮かんでいました。それが玉津島です。神輿は天野からその一番沖合いの島まで下ってきて、その島のまだその先の海中の岩でミソギをし、一夜を洞窟で明かして明る日天野へ帰ります。この「浜降り」「輿洗い」神事がいつ始まったのかはわかりません。

中絶は応仁の乱による、といわれます.丹生明神がミソギした輿洗岩は、幕末アーチ石橋の礎石となって姿を消し、丹生明神が宿った輿窟は、明治以後塩竈神社になりました。しかし、天野ではこの神事のなごりが「渡御の儀」として残存し、毎年1回、神輿の行列が楼門から太鼓橋を渡って境内の祝詞台まで進み、神官がその石の台上に平伏して玉津島を遥拝します。

興味深いのは紀伊丹生川にも「祝詞の石」があることです。「玉川由来記」によりますと、ここで祝詞が唱えられたのは、丹生明神が玉出嶋へ流された時という事になっていますが、これは「浜降り」神事が中絶した後、その思い出が「島流し」として語り告継がれたのではないでしようか。玉出嶋というのは玉津島の別名です。神功皇后伝説の影響で、平安時代以後この別名が生まれました。ここにこんな伝承がある事からすると、春は丹生川の丹生親神も「浜降り」していたのでしょうか。いや、「浜降り」神幸を創始したのは、この川の川上に日本で最初に鎮座した丹生明神だったのではないでしようか。

水銀朱は日本から大陵へ輪出されていた時期もあるようです.「浜降り」には、舟荷の水銀朱の海路安全祈願の意もこめられていたでしょうか。古代和歌浦は、難波津や、住吉津同様、九州、大陸へ向かって開かれた要港でしたから。

 

明  神  岩

やっと気侯がよくなった。夏休みが続いていた紀伊丹生川の遡上を又始める事にする。今回は明神岩の現状を報告したい。これまで私は何度も明神岩について書きながら、画と写真しか見ていなかったが、7月18日、漸く初めて現地に行って明神岩を見る事が出来た。(以前約束した和歌浦と関係の深い祝詞石の話は前回のせた放送局向けの作文に少し書いた。話のあら筋はあれで尽きている。)

当日は梅雨のなごりの雨もよいの空だったが、一行10人、3台の草に分乗して、途中キヤンパーに署名をもらいながら明神岩に向う。明神岩の所在を知っているのは木ノ本さん唯一人。だから河合橋で一且落ち合い、木ノ木さんの車を先頭に3台車をつらねて行く。私は遠藤さん、岩畑さん、と一緒に、小川さんの車に乗せてもらった。

私達の車がまっさきに河合橋に到着、橋の上から川上を見る。両側から険しく山が迫り、狭く深い峡谷が奥ぶかく続いているずい。明神岩はどの辺りにあるのだろう。200年前、ここを実地踏査した「紀伊続風土記」の著者はこう書いている。「摩尼川と落合ふ所を川合といふ。其所に橋あり。川合橋といふ、。此辺峰聳え澗深くして、井底より天を望むが如く、険峻蒙密の中、澗水雷吼し、心神凄然たらしむ」だが、今は道も橋も山腹に作られているから、「澗深くして井底より天を望むが如く」ではない。

この言葉を実感するには、橋からハルカ下の河原に降りなけれぱならない。小川さんと遠藤さんは、橋から谷底を見おろして、河原に小さな花をつけた野生のギボウシを目ざとく見つけた。ギボウシは今も「井底より天を望む」思いをしているだろう。「続風土記」の文体は漢文の訓読体だから、時々表現がコケオドシや紋切り型になる。ここもそう見えない事もないが、この文章と現在の間には激動の2世紀が流れている.現に私達はアスファルト舗装の道を車で走ってここに来た。昔の人は山道をおそらく一日歩いてここに来た。アプローチの仕方がまるで違う。それだけで場所の見え方も違うはずだ。

その上場所そのものも変ってしまっている。昔と同じに見えるはずがない。「続風土記」の実地路査の一行は、富貴から筒香へ降りて来たと思われる.「(筒香)三村、人家甚隔たらず.上村人家尽れぱ中村の人家あり.中村の人家終れば下村の人家出づ。続きに非れ共、遠く離るる所なし。・・・・三村何れも谷合なれども、上村は谷も広く、斜田なれ共緩にして平地なり。下村は谷大に狭く、人家の外寸地の平なる所なし。基は皆斜にして足を立がたし。三村を通じて両山高く聳へて、唯一帯の藍流縈回して山脚を流れ、下村の村端より下は、川に傍ひて樵夫の纔に行く細径あるのみ」と、河合橋に到る道中を書いている。

文面はまるで山水画中を行くようだ.「統風土記」の著者達、当時23軒あった(「角川日本地名大辞典」によると、この戸数は現在も変っていない)下筒香の村はずれから、川に沿って「樵夫の纔に行く細径」を20町ほど降って来て、川床中に立つ明神岩を見つけた。そして又2町ほど隆って河合橋に到った。私逮が明神岩を目指して河合橋を出発する前に、昔の人がこの岩を見た時の驚きをもう一度思い出しておこう.私逮が今この岩に会いに行こうとしてるのは、昔の人の大きな驚きに惹かれての事だから。

当時、明神岩の辺りの川床は、畳を敷いたように平らに見えた、という.(ホントカナ)明神岩の面を見ても、川床に当る所にはさざ波のような小さな岩の起伏しか描いていない。

そんな川床に巨大な桃の形をした岩が立っていた,明治維新の前と後では桃の形まで違う。

桃太郎の絵木の桃を思い出してほしい。あの桃は果頂部が尖っていた。その尖った果頂部を下にお盆のように平らな川床に奇蹟のように大きな岩が立っていた。高さ7メートル、周囲12メートル。「其奇絶言葉に尽しがたし」大都会の近くにあったら、見物人がドツト押し寄せるだろうに、深い山中で知る人もなく返す返すも残念だ。「惜むらくは深山無人の境にありて、知る人稀にして其名の聞えざるは嘆息するに堪へたり」「紀伊続風土記」本篇全97巻中、こんな嘆息は外に例がない。(ト思ウ)これは19世紀始めの人の驚きだが、もっと昔の人の驚きはもっと大きかった。それはこの岩の名が語っている。「土人これを明神影向の岩といふ、」

私はこういう伝承をアホラシとは思わない.私自身詩を読んだりお能を見たりして、何度も幻視を体験している。ある時この岩に丹生明神が姿を現すのを見た人がいたとしても少しもおかしくない。幻視は、この世のものとも思えない色や形が、突然せ鮮明に目に見えるのだから印象は強烈だ。それを一つの事件として記念したくなる位だ。

湯浅の白上の峯に「文殊浮空中現形之処」と刻んだ右の塔婆が違っている。鎌倉時代の僧、明恵が、空中に文殊菩薩が現れるのを見た場所だ。この時の幻視は、明恵の一生を決定する出来事であった。だが幻視は明恵のようなポワイヤンや精神病者だけのものではない。私は自分の経験から、普通の人も昔の人ほどよく幻視を体験した、と思う。そして、それは大きな意味を持っていた、と思う。19世紀始めの人逮が、明神岩が観光の一大スボットにならない、といって慨嘆しているのはどんなものか。

昔の人の話はこれ位にして、今は現実の明神岩に向おう。河合橋から南へl 00メートルほど上るとこれまで南北に流れていた丹生川が、東に向って緩やかにカーブして東西の流れに変る.又100メートル行く。道は一つ小さくくねって次の曲り角で先頭車が停止した。そこには幸い車3台分の駐車スペースがある。立て札が立っている.見れば、憎らしいダム建設管理事務所の管理境界の標識だ。ダムの満水時、水面はここまで来る、という事だろう。

木ノ本さんの後について、皆一列になって河原に下る.人一人しか通れない道が小高い雑木の茂みの右側を巻くようにして、下りながら細々と続いている。「樵夫の,纔に行く細径」とはこういうのをいうのか.右手は断崖だ.自然と気持が引引緊る。雑木の高木こ覆われた下を、足許が危険だからうつ向いて歩く。岩も苔も草も、先程までの雨に濡れて、美しい。ここは日陰だから、草も丈高いものはない.清々しい芝のような野草しか生えていない。ゴミクズなど勿論一つも見つからない。しかも道はよく踏み固められている。上から下まで塵一つなく掃き清められた、といった感じだ。所がその道は河原へ降り立つ寸前に断たれたようになっていて河原へは岩にとりすがって降りなければならない。

大小の右のゴロゴロした河原を少し移動すると、上流側から明神岩に真向う形になる.