天然高野豆腐作り ![]() 橋本市郷土資料館資料より ![]() トップページへ戻る_ |
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橋本市山田、吉原の天然高野豆腐(凍豆腐しみとうふ)作り 〜橋本市史より 紀見峠から岩湧山への登山道の海抜900メートルの尾根沿いで、冬の寒さを利用して、むかし高野豆腐を作っていた作業場の跡にいくつか出会えます。 高野口町伏原の羽右衛門が1807年(文化4年)に岩湧山の山頂近く(五葉谷)で藩の許しを得て、商品として製造を始め、その後橋本市山田、吉原の人も凍豆腐つくりに従事するようになりました。「葛城峰凍豆腐仲間」という株仲間を組織し、江戸後期には、製造技術が大和国や播磨国にも伝わり高野豆腐の名を全国に広めました。 昭和9年(1934)には、但馬や因幡からの出稼ぎも加わり約300人から500人の人が従事した、当地最大の「地場産業」になっていました。 師走の頃から翌年の3月初旬まで冬季のきびしい労働でした。 上の写真のように大豆を牛の背に乗せ、三石山から岩湧山への道を登っていき、冬の寒さを利用するたいへんな仕事ですが、農閑期の副業として現金収入になる魅力のある仕事でした。 明治の末には「葛城凍豆腐製造同業組合」も作られ、大正7年頃には最盛期を迎えました。 その後工場生産の冷蔵凍豆腐や新興産地の増産に押されて次第に生産を減らし、昭和15年には組合も解散しました。 戦後の昭和25年には全ての製造場が閉鎖し、橋本の天然凍豆腐作りも幕が下ろされました。 (凍豆腐作り) 近郷の大豆から作った豆腐を小切りにし、棚場に干し板を並べ、自然の寒気にさらす。凍った豆腐を7〜10日間熟冷させ、熱湯を注いでモドし、絞って水切りし海綿状にする。 その後に、ホイロという乾燥室で乾燥させ約10時間冷まし、形を正方形に整え、千切りを1箱として、木箱に詰めて出荷しました。 「凍豆腐ひき歌」 何の因果で豆腐屋行き習ろた 夜の夜中に豆挽き通し 豆腐屋百日 終(しも)たら帰(い)んで 冬の寒さは 寝て忘れよ |
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吉原から岩湧山への 名前がない「なぞの山」の道は、かつて大豆を背中に乗せた牛が登った、もうひとつの「まめ街道」かもしれません。 その道も今は舗装され材木を運ぶ林道に変わっています。 その道路脇の地面の上で、ハギ類などの草の種や、昆虫類などを盛んに食べる冬の小鳥たちに出会えます。 アトリ科の真っ赤な顔の「オオマシコ」(猿子ましこの顔のように赤いからか)や、ホオジロ科のカナリヤのような黄色い頭の 「ミヤマホオジロ」、それに熊野の妖怪?「アオジ」など群れを作ってエサを採っていました。 2006.12.23
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マヒワ Siskin
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アオジ(ホオジロ科) Black-faced Bunting 日本列島を北から南まで、秋にはおびただしい数のアオジが南下します。高い山から郊外の住宅地の藪でも出会える冬の代表的な小鳥です。 |
熊野の妖怪?「オクリスズメ」 は 「アオジ」のことでしょうか。 冬から早春にかけて、夜の山道を歩いていると、チン、チン、チンと鐘を叩くような音が聞こえてきます。歩いている前や後ろをついてくるのです。 歩みを速めても、走ってみても、なかなか離れてくれません。 オクリスズが山道を送ってくれているようです。 探してみても懐中電灯の明かりではわかりません。 「オクリスズメ」はオオカミの使いだと聞きました。 山道を歩いている人に、オオカミがついてきて、他の野獣や魔物から守ってくれるのだそうです。 どんな鳥か姿を確かめたいものです。 熊野には人の背丈ほどの小枝でチィ チィと鳴きながら、地面に舞い降りて、落ち葉の中の木の実などを食べる「ババダマシ」もいます。人が近寄っても遠くへ逃げようとせず、「おばあさん」さえも、ついだまされて追いかけるから名づけられたそうです。 夜、山道を送ってくれる 「オクリスズメ」 は、 「ババダマシ」 と同じ鳥なんでしょうか。 |