彦狭嶋命
Hikosashima
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彦狭嶋命は、伊豫皇子と云ふ。人皇第七代孝靈天皇の第三皇子なり。御母は、大皇后細媛命(磯城縣主 大目命の女なり)。

ある時、彦狭嶋命は勅命を蒙りて伊豫國に下り、伊豫郡神崎之庄に住して、三嶋明神に仕へ奉り、西南鎮護を兼ねる。而して大ひに勲功有りて、「西南鎮護の藩屏」と称せられ「和気媛」を恩賞に賜ふ。

媛はのちに同胞より三子を産む。彦狭嶋命は、これを奇異に思ひて三つの方舟を造りて、之を棄つ。方舟は流れて風に隨ひ、漂泊ふて其々三ヶ所に流れ着くと。 一子は、伊豆國三嶋に着く。これ大三宅氏の祖なり。二子は吉備國兒嶋に漂着す。これ三宅氏の祖なり。三子は、伊豫國三津之濱に着く。則ち小千氏の祖なり。これを「小千御子」と謂ふ。
この御子、天性敬剛にして人智に深し。故に「この御子を宜しく育てよ」との命あり。 のち人皇九代開化天皇の御代に「祭祀」と「西南鎮護藩屏職」を譲る。のち命せられて京師に帰り、 遥かに年月を經て、人皇十二代景行天皇の御代の五十五年乙丑年に神去給ふ。 伊豫國伊豫郡神崎庄に神廟を建て奉り、霊宮として齋祭り「大明神」と奉崇された。


譜云「彦狭嶋命(孝靈天皇第三皇子)。御母者大皇后細媛命、是磯城縣主大目命娘也。命蒙勅而、下伊豫國、居伊豫郡神崎之庄。三嶋明神仕奉、兼西南鎮護。有大勲依之、西南鎮護藩屏称。于時、命娶和気媛。於同胞生三子。奇也思召而、被 造無相扁舟而棄之。放流風隨漂泊而着三所。一子者、着伊豆國三嶋。是大三宅祖也。二子者、着吉備國兒嶋。是三宅氏之祖也。三子者、着伊豫國三津之濱。是則小千祖也。謂小千御子。此御子、天性敬剛而深智人也。故、命此御子爲愛育而、人皇九代開化天皇御宇、譲祭祀及西南鎮護藩屏職而后、命帰京師。遥經年月而、人皇十二代景行天皇五十五年乙丑年、神去給。奉建神廟、於伊豫國伊豫郡神崎庄。而齋祭霊宮。大明神爲奉崇也」

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