御同朋の社会を目指して!




tomoの同朋運動


 

「差別事件から何を学ぶのか?」
 以前ある研修会で、私たちの教団内で起きたハンセン病差別布教問題につい て学んだ。この問題に関してはそれまでにも何度か学ぶ機会があった。でもすべ て「S布教使」というイニシャルで話を聞いてきた。ところが、その時は初めてイニ シャルではなく実名で講義が行われた。
 講義の後、参加者全員で討論する機会があった。その時、一人の参加者が次 のように発言した。自分はその布教使さんを知っている。すごく熱心な方で、人間 的にも魅力のあるいい方だった。差別布教をした後も、すごく反省されていた。 確かに差別布教をしたことはいけない。でも、あえてこの場で実名を出して講義 する必要があるのか?違和感を覚えるという内容だった。
 私自身、「どんなにいい人であろうと、差別を受けた側からすれば、そんなの関 係ない。差別をしたことに間違いなく、それ以外の場でどんなにいい人であろう と、差別が許されるはずもない」と思いつつも、「実名まで出す必要もないのかも しれない。確かにその人も可哀相だよな」とその人の発言を聞きながら考えてい た。

 すると続いて別の参加者がこう発言した。「私たち(僧侶、念仏者、教団)は、イ ニシャルでないと、実名を隠さないと、その差別した布教使さんを支えることがで きないのか?もしそうなら悲しい」と。

 その発言を聞いて思わずハッとした。
 それまで私は、この差別布教をした布教使さんと自分は違うと考えていた。そ の人は特別な存在≠ナあり、自分は絶対に差別などしないと。全く自分の問題 としてとらえていなかった。「さるべき業縁のもよほさばいかなるふるまいもすべ し」と親鸞聖人がお示しくださっているのに・・。
 また、それと同時に、その差別した布教使さんを同情の目でしか見ていなかっ た私に気づかされた。その人の苦しみに寄り添おうとか、支えようとか、共にその 課題を共有しながら差別者としての私≠ゥら解放される道を歩もうとか、そん な気持ちなどさらさらなかった。「阿弥陀様という仏様は、私たちの悲しみを自ら の悲しみとして、共にその悲しみを担ってこの人生を歩んでくださるんですよ。有 難いですね」と法話などで語っておきながら・・

 イニシャルだろうが、実名だろうが関係ないのかもしれない。このハンセン病差 別布教問題から一体私は何を学ばなければいけなかったのだろうか?
 自分だけをどこか一段高い所において「自分だけは間違いを犯さない」、そう考 えている自分はいないのか?苦しんでいる人、悲しんでいる人を前にして、私は 何をするのか?「可哀相に」と同情するだけなのか?それともその人の辛さ、苦 しみに思いを寄せ、支えながら、共にその課題を背負って歩もうとするのか?そ のことをこの問題を通してもう一度振り返ってみる、考え直してみるべきだったの かもしれない。

 そうすることによってはじめて、被差別者の苦しみ、怒りのたとえ僅かでも和ら げることが出来るのかもしれない。それが、差別をし、差別を許してきた教団とし ての、私の責任なのかもしれない。それが差別・被差別からの解放!御同朋の 社会を目指して!ということなのかもしれない。

 06.5.26(tomo)


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