御同朋の社会を目指して!



お念仏の教え



「かけがえのない 自分の人生を そのまま受け取れない 自分がいる」
 
  今回のお話は、「賛同人」の一人でもある「けんしん」さんのご好意により、「け んしん」さんのHPより当ページに転載させていただきました。
 なお、原文には、出来るだけ沢山の人が読めるようにとの願いから、全ての漢 字にふり仮名がふってありました。しかし、私のコンピューターの腕が未熟なた め、編集の過程で削除せざるを得なくなってしまいました。この場を借りてお詫び 申し上げます。
05.1.19(tomo)



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 私たちはいま、間違いなく戦争の時代を生きています。イラクでアフガンで、チ ェチェンで、あるいはスーダンで、毎日どれほどの人びとが銃火器の犠牲になっ ているでしょうか。特にアフガンには後方支援という名目で、イラクには人道復興 支援という「大義」を掲げて、自衛隊を日本は派遣しています。まさに、戦争当事 国になっているにも拘らず、多くの日本人はその自覚さえないように思えます。そ して、彼の地で何が行われ、どれほどの生命が奪われているか、深い関心を寄 せる人びとが決)して多くないことに、言い知れぬ不気味さを感ずるのは私だけで しょうか。

 イラクでアメリカ兵が何人死んだという数字は細かく伝えられるのに、米軍など に攻撃されて死んでいったイラク民衆の人数は、正確に伝わってきてはいませ ん。カウントされる死とカウントされない死、死者さえもが差別されている現実が あります。
 「ひとのいのちは地球よりも重い」との理念もことばも虚しく響くばかりの現実 が、私たちの眼前に繰り広げられているなかで、「生命の尊厳」はどのように伝え ることができるのでしょうか。
 テレビなどを見ていて、社会的に弱者といわれる人びとを笑いものにしたり、貶 めたりする言動が近年多くなっていることが、とても気になります。
 差別事件も決して少なくなってはいません。巧妙で陰湿な差別は、職場や地域 で脈々と息衝いています。そのことに気づくことができないのは、私たちの側に差 別を見抜く感性が育まれていないからなのでありましょう。
  「教育基本法」を改訂しようという動きがあります。それを推進しようとする人 びとの中に「公」のために捧げる「個」を育てるという声があります。国のためにい のちをも捧げる人間(ひと)を作ろうということです。そのために、宗教教育まで利 用しようというのです。いまの日本の雰囲気の中で、とても危険な動きに思えてな りません。
 
 「なにものにも代えがたい、かけがえのないいのち」は、だんだん見えなくなって います。社会は、かけがえのない自己を発見する方向にではなく、まさに、いつで も取り換えのきくいのち、機械の歯車の一つとしてのいのちに、手段としてのい のちに押し込める方向に流れています。その流れのなかで私たちは、自己のか けがえのないいのちさえも見失っているように思えてなりません。そして、かけが えのない自己の人生に気づけない者が、かけがえのない他者の人生に気づくは ずもありません。現代の悲劇は、ここにあるように思えます。
 
 では一体なぜ、自己の人生(いのち)は、かけがえがないのでしょうか。いのち は二つとないからでしょうか。代わるものがないからでしょうか。
 もちろん、そのこともあるでしょう。しかし、それだけではなく、私たちのいのちは 縁起のなかに生まれ、縁起のなかに存在しているからだと私は受けとめていま す。
 私のいのちは単独で存在しているのではありません。表現し尽されないいのち との関係のなかに、私のいのちは成り立っています。相依られたいのちの連鎖 のなかに、私のいのちは成立しているのでありましょう。
 
 如来の法とは、この私のいのちそのものになりたいという阿弥陀如来の願いで す。一人(いちにん)たりとも漏らさずに、真実のいのちを与えようとはたらき続け ている如来の本願のなかに、気づこうが気づくまいが私たちは生きています。
 如来の願いがかけられていないいのちは一つもありません。必ず仏(ほとけ)に すると喚(よ)び続けて下さっているなかにあるいのちなのです。だからこそ、かけ がえのない大切な大切ないのちなのであります。


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 この文章は許可を得て以下のホームページより転載させていただきました。
 http://www8.plala.or.jp/daijyouji/


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