一 明治
寒山寺摂心会の前身である茶隴山摂心会は明治37年に創立されました。時あたかも日露戦争の最中、住友家総理事鈴木馬左也氏が、禅風を作興し、国民の士気昂揚と確固不抜の精神の涵養が急務であると考えられ、同好の友、時の大阪地方裁判所長河村善益氏と協力して同志を集めて、この摂心会を組織しました。
摂心会は指導者に大徳寺の広州老師を拝請し、参禅弁道が始められました。当初は主に大阪石町の鈴木氏邸が会場となりましたが、やがて住友部内の者に限らず、志があって入会を希望する者に対しては、広く門戸を開放して喜んでこれを迎え、共に研鑽するようになりました。
その後漸く会員が増加して上寺町法雲寺に会場を移したのですが、一定の専用の場所を持たぬことは修行の上からも、普及の点からも種々不便であったので、鈴木馬左也氏は草鹿卯次郎氏(住友家理事)等と相談して、道場の建設を計画しました。
偶々この事を耳にされた住友家家長の吉左衛門友純公は、これを殊のほか喜ばれ、進んで天王寺茶臼山邸内の一部を敷地として開放されました。さらに工事が始まると、庭樹・庭石の配置等までも指示して、この道場の建設に非常な関心を寄せられました。
二 大正
新しい道場は大正11年11月落成、茶隴山道場と命名され、同月19日妙心寺柏陰室湘山澄老師を拝請して、開単式及び摂心会が挙行されました。
会員は本堂に集まって師家より禅語録(碧眼録、臨済録、無門関、四部録等)の提唱を聴聞した上、禅堂にて坐禅し、師家から頂いた公案を工夫し、師家に参禅してその見解を呈し、鑑定を仰ぐ形式の整った本格的な修行ができるようになりました。
静かな環境と整った設備に恵まれ、会員が一段と精進向上するにつれて茶隴山道場は稀に見る居士林としてその名が知られるに至り、大正13年3月15日組織を財団法人に改めて会の基礎を固めました。
三 戦前から戦中
茶隴山摂心会は益々隆盛となり、参禅弁道大いに世道人心を裨益(ひえき)するところとなりました。
昭和6年月20日から昭和35年7月までは松蔭軒晦宗(かいしゅう)老師鉗鎚(けんつい)のもとに修行が続けられました。
この間、昭和12年には日華事変の勃発、同16年には大東亜戦争の開始等、世情の日々厳しくなっていきましたが、会員は参禅弁道を一日も忽(ゆるがせ)にすることなく、各々互いに切磋琢磨し以ってこの困難を打破せんことを誓い合いました。
しかし、戦局は益々不利となり、遂に東京を始め各地が空襲の下に曝されるに至りました。
昭和20年3月、大阪は空襲を受け、茶臼山茶隴山道場は不幸にして戦火のため遂に烏有に帰しました。
四 戦後
昭和20年8月15日に終戦を迎えると、我が国の政治経済文化等あらゆる面における機能は停止しました。
人心は極度に動揺し、恐怖戦慄して去就に迷い、道義は地に墜ち、至る所に醜態を暴露してその帰趨測るべからざる状況となったのです。
このようなときにこそ大いに禅風を作興して、救国の実を挙ぐべし、混乱収まらぬ昭和21年5月小倉正恒氏邸に於いて晦宗老師鉗鎚(けんつい)の下、戦後第一回の摂心会が開かれ、翌22年5月からは妙心寺東海庵に於いて毎月一回開催されることになりました。
昭和25年3月、晦宗老師が東福寺管長の職に就かれました。これに伴い会場を同寺開山堂に移しましたが、昭和26年8月会員参集の便宜の為、会場を大阪近郊の住友金属工業会社の岡山寮に移しました。
ところが、ここもやがて同社の都合により継続して借用することができなくなったので、やむを得ず昭和34年迄大阪釣鐘町の住友生命保険会社の有信寮を借用しました。 このように会場が転々と移動して落ち着かないのは、修行上少なからぬ不便なことでしたので、茶隴山道場の早期復興の機運が徐々に高まっていきました。
そこで住友吉左エ門公が再び立ち上がられて、住友関係各社の寄付を受けて住友銀行の所有地である鰻谷の旧住友本邸跡に道場が再建されました。落慶式が執り行われたのは昭和34年4月21日でした。
因みにこの再建された道場は、設立された宗教法人茶隴山道場の所有とされました。
昭和35年7月、晦宗老師が下山されたので、昭和36年3月19日より妙心寺専門道場師家 暮雲文光老師を拝請し、昭和47年秋頃に老師が健康を害されるまで一層厳格な修行が続けられました。
暮雲文光老師後任の師家として、昭和48年1月より専門道場より松山寛惠老師を拝請しました。
(「茶隴山道場の栞」から部分的に改変)
寒山寺摂心会へ
昭和の終わりの頃、住友から茶隴山道場を明け渡して欲しいと申し出がありました。そこにコンピュータ関係の建物を建てたいということの他、現会員のなかに住友関係者がほとんどいなかったことがその理由と推測されます。細部の話は、松山寛惠老師と鈴木法音禅士(当時)が当たられ、会員では真野進と宇治田勇の両居士(ともに物故されました)が直接話を聞かれたようです。
まさに存続が危ぶまれた摂心会でしたが、当時の会員が是が非でも続けたいという一心で会場候補地を探された結果、縁あって現在の寒山寺で引き受けて下さることになりました。
明治37年の創立以来、紆余曲折しながらも脈々と受け継がれた茶隴山摂心会の伝統は、平成元年2月26日の茶隴山道場の閉単、同年4月29日の寒山寺での開単を経て、寒山寺摂心会に引き継がれることになりました。
その後も、松山寛惠老師の指導の下で参禅弁道が続きましたが、老師は平成6年5月に妙心寺管長の職に就かれ、新しく天授院(妙心寺専門道場)師家には総見寺から雪丸令敏老師が入られました。
松山管長の薦めにより平成9年度より雪丸令敏老師を寒山寺にお迎えし、今日に至るまで参禅弁道をご指導いただいています。なお、雪丸令敏老師の天授院晋山式は、平成11年6月27日でした。
現在、寒山寺摂心会は財団法人でも宗教法人でもなく、会員の自主運営による任意団体です。
規約により幹事の任期を二年と定め、再選は問わないとしています。