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 藤沢目次総目次

見つけました、藤沢周平さんを。

書籍・新聞・テレビなどで見つけた藤沢さん関係のページです。


この頁の内容

■藤沢周平・枝川公一・他『深川江戸散歩』  ■『失われた心 城山三郎対談集』から「日本の美しい心」■朝日新聞「この1000年“日本の文学者”読者人気投票」  ■佐高信『葬送譜』  ■鷲田小彌太『時代小説にみる親子もよう』  ■伊藤伸二『新・吃音者宣言』  ■雑誌『アミューズ』小説舞台を歩く  ■関川夏央『豪雨の前兆』  ■『名文章名表現辞典』  ■文春『藤沢周平句集』  ■田辺聖子『楽老抄』集英社  ■岩波書店『広辞苑』第五版  ■『文芸春秋』98.12月号  ■講談社文庫版『義民が駆ける』  ■『藤沢周平読本』  ■関川夏央「東北の明るさ」 ■雑誌『小説新潮』新発見俳句  ■雑誌『俳句あるふあ』  ■雑誌『サライ』藤沢さんの散歩道   ■雑誌『歴史小説の世紀』


いまごろ「見つけました」ともいえない本ですが・・・。

藤沢周平「私の「深川絵図」」  (2001.10 記)


『深川江戸散歩』
藤沢周平・枝川公一・他
『深川江戸散歩』

新潮社・とんぼの本 1990.7.20 97.4.10 7刷 1500円



■藤沢周平さんが存命時の出版。
■写真と文章で構成されている本。江戸の深川地区の昔と今。

■藤沢周平『私の「深川絵図」』

 「私の小説に市井物という分野があって、よく深川を舞台にした物語を書く。もちろん、深川だけでなく、神田、下谷、浅草、本所といった、現在の中央区、さらに台東区、墨田区に相当するあたりもよく書くけれども、小説に登場する頻度から言うと、やはり深川、現在の江東区が圧倒的に多いだろうと思う」

 いちど訪れたいなあ。宮部みゆきさんが書くのもこのあたりだろうか。

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青春と戦争が重なる世代〜昭和2年生まれの対談  (2000.8 記)

『失われた心 城山三郎対談集』
文春文庫 2000.8.10 476円


 財界小説・経済小説?の城山氏の 藤沢周平氏ほか10人との対談集 1993.8月『オール讀物』に掲載されたものの再録。

■城山・藤沢対談「日本の美しい心」
 ●青春と戦争が重なる世代 ●専制国家の怖さ ●清貧より清富を ●旅の楽しみ
 ●美しき日本人 ●死生観 

文春97.4月臨時増刊号『藤沢周平のすべて』に収められた吉村昭・城山三郎対談の「語りつぐべきもの」では、吉村氏が自分と藤沢氏の結核治療についても語っている。

 藤沢氏と城山氏との接点が何だったか忘れた。が、ぼくは城山氏には興味がない。『もう君には頼まない』を読んで、「なんだなんだ政財界人よいしょ作家か」とうんざりした記憶はある。その後、雑誌新聞などで読んだ印象は、日本を憂う小言じいさん、大物政財界人待望論・作家というところです。一歩転べば、政財界人版司馬遼太朗になるのではないかと、思う。(そこまで書いていいんか、と言われそう。(笑))

 どうもこの対談はミスマッチというか、藤沢さんは城山氏の憂国の士ぶりにあおられたのか。はたまた、まあ対談だから話をあわされた部分もあるような気がする。「人を煽ることはしたくない」「声高な主義・思想にたいする嫌悪感がある」と藤沢さんは語ってはいるが。どうもかみあわない(笑)

(34頁 死生観より抜粋)
 昔は小説は、特に時代小説は、ずいぶん人生訓みたいなことを言っていたんですよ。自分の一種の使命感があって、啓蒙的な役割を担っていたんですね。
 でも、私にはできない。「何を偉そうなことを言うんじゃない」と思ってしまう。

 実は『三屋清左衛門残日録』のおしまいのほう(卒中の幼友達の平八さんがリハビリをしているのを見た処)で、ちょっと死生観めいたことを書いたんですよ。「人間はそうあるべきなのだろう。-----いよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ」と。

 でも、本になってから恥ずかしくなりましてね。あんな利いたふうなことを書かなきゃよかったと、いまだに頭の隅にひっかかっているんです。


 
「青春と戦争が重なる世代」(12頁)について私見

 “日の丸、君が代へ天皇体験からくる拒絶反応”があると語っている。とくに、お二人は君が代にたいするこだわりがあるようだ。

 ところが、藤沢さんは「いまの学校で日の丸・君が代のときに立たない生徒がいるのが気になりますね」「戦後どのような教育がなされてきたにしろ 一応は、国旗・国歌とされているものですから、マナーとして立って敬意を表することは必要だと思います」「外国に行ったらそんな無礼な事はことは通りませんよ」と話しています。

 まず、「一応」と言ってはいますが、この対談の時(1993年以前)はまだ「日の丸・君が代は国旗・国歌」ではありませんでした。(法制化したのは二千円札首相時代です)だから、「国旗・国歌とされている」訳でもありません。まあ、文部省は法律にもないのに勝手にそう学校に押しつけていたのに過ぎません。
 次に、「マナーとして立って敬意を表す」と言ってますが、そう言われるのは外国の国旗・国歌の場合のことではないでしょうか。
 かと言って、日本の学校に在籍する在日外国人に「立つのはマナーだぞ」とは言い難いと思います。まして、在日朝鮮人には。
(この部分編集の段階で外国ではの部分を編集した可能性もありますが)

 ちなみに私(昭和13年生)は城山・藤沢氏とは、11才の年齢差があります。一世代違います。この違いは大きいと思います。

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133票/2万569通で 第26位  (2000.7 記)

「この1000年“日本の文学者”読者人気投票」
朝日新聞 2000.6.29


 ミレニアム珍企画である。笑うよりほかはない。

▲1位 夏目漱石 (なんか書いていることがエラソーな人・作品より紙幣で国民的人気があるのでは 3500票)
▲2位 紫式部 (あのころボクの先祖は竪穴式住宅に住んでいたもんなあ 3200票)
▲3位 司馬遼太郎 (ウサンクサイ人ダと思う 1500票)
▲4位 宮沢賢治 (『宮沢賢治殺人事件』はおもしろかった 1300票)
▲以下 龍之介・芭蕉・太宰・清張・康成・三島---略

26位 藤沢周平  その上に高村光太郎 下に島崎藤村がいる。少し下位に藤沢さんも書いた小林一茶。近松、世阿弥、兼好法師、西行、藤原定家もいる。赤川次郎もいるぞ。

 しかし、朝日新聞も珍妙なことをするもんだぜ。

 葉書に「藤沢周平」と書いて投函した133人の方に拍手をおくります(笑)

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「江戸城は大工と左官がつくった」という立場に身を置いて
(2000.3.10 記)

佐高 信『葬送譜(おくるうた)』
岩波書店 1500円 2000.3.7


 雑誌『世界』に連載された三十六人の葬送譜。久野収・丸山眞男・土門拳・沢村貞子
・伊藤ルイ・桂枝雀----著者の守備範囲が経済評論だけでないことをうかがえる

 「江戸城は誰がつくったか」という問いかけがある。太田道灌と答えると正解で、大工と左官がつくったというと笑われるが、しかし、多分、藤沢は笑わないだろう。大工と左官の立場に身を置いて書かれたのが藤沢の小説だった。そして、太田道灌と答えて疑問をもたない立場から書かれたのが司馬の時代小説と言えるのである。

  この佐高氏の論は『司馬遼太郎と藤沢周平』にもくわしく論じられている。
 この岩波の本で初めて知った藤沢さんの政治的行動がある。「共に練馬に住んでいたとはいえ、あまり政治に関わらなかったと思われる藤沢が、旧社会党の、それも最左派の高沢(虎男)の推薦人になった」とある。国会で爆弾男と評せられ権力をするどく追求していた高沢にカンパもしたらしい。
 意外とも感じられない。


じつは、

 藤沢さんの故郷鶴岡市の市立図書館には「郷土の作家コーナー」がある。鶴岡公園の大宝館にも「郷土の文人コーナー」がある。

 藤沢周平・丸谷才一・渡辺昇一(淳一でない・笑)氏の写真や原稿、ご本が並べられている。市民でないボクがとやかくいうことではないが、その取り合わせには困惑・閉口してしまいました。

 伝えられるところによると、丸谷氏の文壇での生き方がどうも生臭いものらしい。その文壇権力も、取り上げられる人物像も藤沢さんとは違いすぎる。
 渡辺昇一氏は--------------。氏の写真と藤沢さんのを並べられるともう--------------。人間にたいする思想が違いすぎます。


 『葬送譜』の石垣綾子の出だしで佐高 信は次のように書いています。

「サタカさんは渡辺昇一と同郷ですね」と言われると、私は、
「いや、彼は鶴岡で、私は酒田です」と答える。しかし、同じ鶴岡でも、
「藤沢周平と同郷ですね」と問われれば、
「ええ、そうです」と誇らしげに答えるのである。


 この3人の作家は並べないのがいいと思います。

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三屋清左衛門さんと息子・又四郎さんは
“得難い〜包容”的親子ですって。
  (2000.3.4 記)

鷲田小彌太『時代小説にみる親子もよう』
東京書籍 2000.1.10

 “時代小説に親子の姿を探る”というこの本は、親子関係を分類して書評をしている。

●「幸福な親子--例 子母沢『父子鷹』他」 ●「得難い親子--有吉『華岡青州の妻』」●「子を殺す親、親を殺す子--司馬『国盗り物語』」 ●「立派な親・子を持つと「池波『鬼平犯科帳』」

 書名を見たとき「はてさて藤沢作品で“親子関係”が云々されるのはどの作品だろうか」と首をひねった。“親子関係”が主題になっている作品がすぐ浮かばなかったからだ。『父とよべ』〜あれは、他人の関係だったはずだし-----。

 目次で『三屋清左衛門残日録』を見つけたときは、意表をつかれた。あれって、“親子関係”というより、“おじいちゃんと息子のお嫁さん”がうまく語られている作品だもんなあ、と思った。清左衛門←→息子の嫁←→息子又四郎という図式で描かれていて、息子さんは影が薄く、お嫁さんの里絵さんが際だって描かれています。

 鷲田は「隠居した父に用向き外の仕事がきたら、子はどういう態度をとるか」と4つに分けています。
  1. 息子はそれを止める。(俺をさしおいて何かするな)
  2. 父にまけじとガンバル。
  3. 父がエラすぎて負け犬になり、不満分子になる。
  4. 父を自在に活躍させ、場合によっては父をサポートし、自分はわが道をゆく。

 ★ちなみに我が家では 5.お互いに知らん顔をするという断絶不干渉タイプ(笑)です。

 又四郎のタイプは第四です。もっとも賢い態度でしょう。-----
 清左衛門は又四郎に対して、なんの心配もしていません。父は子に「信」をおいています。子もまた同じです。そんな言葉はどこにも出てきません。しかし、一分の疑いもありません。-----------。

 私たちは、清左衛門に、リタイアーした後の男の、理想的な姿を発見して、ため息をつきます。一番羨ましいのは、又四郎のような息子をもったことに対する羨望ではないでしょうか。-----

 ★なんかちょっと言い過ぎではないの。そこまでは書いてないけどなあ。まあ言わんとすることはわかる。
 又四郎のような“できた”息子は、“できてない”俺には似合わない。愚息は又又十郎くらいだし。
 でも、嫁の里絵さんはいいなあ。(笑)

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吃音だった子どもの頃   (1999.12.21 記)

伊藤伸二『新・吃音者宣言』
芳賀書店 1999

「藤沢周平さんの生き方」
「日本吃音臨床研究会のホームページ」(ここから行けます)

   「宮崎先生」(『周平独言』中公文庫)に

「私の手もとに「吃音者宣言」という一冊の本がある。言友会という吃音者の組織があってそこから送られてきた本である。私はいまはどもりではないが、子供のころどもりで苦しんだ時期があって、そこでこういう本が送られてくるのである」
との書き出しで、小学5年生のときに「緊張すると声の出なくなる性質」のどもりになられたと書かれています。

  なぜかそのことが印象に残っていました。子どものころ、吃音の人の真似をしていて、軽いどもり状態になったという苦い経験もあったからです。

 インターネットで藤沢周平さんを検索しているうちに、発見したのがこのホームページとご本です。藤沢さんの書かれていた本の著者が分かりました。メールで『新・吃音者宣言』があり、第一章のタイトルの「藤沢周平さんの生き方」に同名の文章が所収されていることを知りました。

 以下、ホームページと同書から 要約紹介させていただきます。

 吃音で悩んできた人と接すると、とても優しい人が多いと感じる。

 どもりに悩んだことが、小説家になるきっかけになっているという藤沢周平さん。
  吃っていた時の感性をそのまま持ち続けた人だ。 怖がっていた教師が担任に決まったことで、その恐怖感から、周平さんはどもりになったという。敏感で、真面目で、やさしい子どもだったのだろう。怒鳴ったり、人を叱りつけたり、人を欺いたりできる人ではなかった。

  小説に出てくる主人公は、その藤沢さんがそのままに出ているかのようだった。
 その目は、常に温かいまなざしをもっていた。 暗い話も、結局は、「人間って いいな」と、読者にメッセージを送り続けていた。

  藤沢さんは、私の著書『吃音者宣言』(註:日本吃音臨床研究会代表 伊藤伸二)をずっと手元に持っていて下さったようだ。どもりに関心を持ち続けて下さり、《治す努力の否定》の問題提起に対し、全面的に賛意を表しながらも、「治るという希望は捨てないで」と言っておられた。

 このメッセージは、暗い、辛い中にも、常に希望を失わない、藤沢周平さんならではの私たちへの思いやりであったのだろう。


 「周平さん、今、私たちは治るということに、あまり希望はもっていないんですよ」どもりが治らなくても、希望はもてることを、もっと藤沢さんとどもりについて話したかった。語り合えば、23年前にいただいたメッセージとは違うものを返して下さるのではないかと思う。 どもりに悩んだ頃の感性をそのまま持ちつつ、その人なりの人生を歩むことの素晴らしさを、藤沢周平さんは、自分の人生、小説を通して語りかけてくれているようだ。
上記ホームページや本をご覧ください。
私の思ってもみなかった視野からの藤沢さん論です。ここにも藤沢さんを愛する人がおられました。

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藤沢周平 小説舞台を歩く   (1999.8.10 記)
『アミューズ』
雑誌『アミューズ』
毎日新聞社 490円 99.8.25号

■用心棒日月抄 元禄の面影に出逢う  江戸の残り香を辿る
■蝉しぐれ   故郷鶴岡に海坂を探す

■「兄・藤沢周平」実弟に語った藤沢文学の要諦 実弟から見た作家

■インタビュー 常磐新平=藤沢作品の魅力 日本ハム会長=業界紙時代から
■証言     藤沢さんのいった料亭・本屋さん
■海坂藩考  ■愛した宿  ■東京で楽しむ庄内の味 ■庄内の名産など

 今なお多くの読者を魅了し続ける藤沢周平。時代小説でありながら、声高に天下国家を語るのでもないし、めっぽう腕の立つヒーローが縦横無尽に活躍するわけでもない。
 登場するのは強さの中にも脆さを抱えて、ひたむきに生きる人たちである。我々と等身大に見えるが、決して同質ではない。振り返ればかつてこの国にはそういう真摯な人たちが身近にいたはずだった。
 だからこそ、藤沢作品の読者は強烈な郷愁に心を焦がし、取り戻せぬ日々に思いを馳せようとページをめくる。名作の舞台を巡り、その魅力の一端に迫る。 -----目次 コメント----

■私は、上のコメント「取り戻せぬ日々に思いを馳せよう」とページはめくらないなあ。
 今でもその日々はあるし、人々はいると思う。

■藤沢さんの弟小菅繁治氏がお兄さんとの思い出を書いているそうです。
 タイトルは『遠いこだま』。「兄貴については、その作品とオーバーラップさせて、聖人君子のように語られがちですが、兄、小菅留治として描きたいのです」。
 読んでみたいエッセイです。

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「藤沢周平という人生」   (1999.5.16 記)

関川夏央『豪雨の前兆』
文春 1429円 99.5

 このエッセイは、雑誌『新潮45・97.3月』に初出。その後、新人物往来社『藤沢周平読本』98.10に転載されたものの再々録。

 作家はいいなあ、同じもので何度も飯がくえて、なんてつぶやきつつ再読すると、これがなかなかの藤沢周平さんへのオマージュであり、藤沢さんの生涯への洞察である。藤沢さんがはじめての人にはぜひ紹介したい「藤沢さん入門」でもあると思う。


  このように(闘病生活・失職・最初の奥様の死去・・・など)藤沢周平は、いわばやむを得ず作家になったのである。あるいは必然的な偶然に導かれて作家になったのである。そして、小説を書くことによって自らを救済したあとは、持ち前の物語の才能、むかし東北の農村で鍛え打たれたモラルを芯に、習練と克己を厚く重ねてさらに美しく開花させ、日本社会の多数の生活者に慰籍を与えつつ、彼らの疲れた心を救済したのである。

 そして、エッセイは『半生の記』の最後の先妻の墓参りにいくシーンを引用し(このホームページの「私の好きな作品・エッセイ」にあります) こんな、美しくも哀切な文章を書いた三年後、千九百九十七年一月に藤沢周平は亡くなった。この偉大なる小説家の生涯は六十九年と一カ月であった。」とおわる。

 うまいものだ。関川夏央さんもいい。とくに、テレビの書評番組での彼の語りはいい。



“藤沢周平さんの名文”   (1999.5.12 記)

日本漢字学会編『名文章名表現辞典』
小学館文庫 638円 98.3


 選定の根拠はわからないが、シェイクスピアから99年東京都知事まで 250人の作家たちの文章が集められている。いわゆる名文家から、へえこんな人も取り上げるの?! と不思議に思う人まで。編集の「日本漢字学会」って何者だろう。それに漢字と名文とどんな関係があるのかなあ。


 藤沢周平さんの作品から「雨、男、女、枯れ葉、後悔、笛の音、祭り、森」が集められている。
 たとえば、「雨」は

「するとついにこらえかねたように暗い夜空から雨が降ってきた。といっても、霧かと思うような音もなく顔を濡らす雨である」

『蝉しぐれ』のラストの近くの文を「後悔」との項目に選定している。

「文四郎さんの御子が私の子で、私の子供が文四郎さんの御子であるような道はなかったでしょうか」「それができなかったことを、それがし、生涯の悔いとしております」「----この世に悔いを持たぬ人などいないでしょうから」

 この部分だけ取り出してもふたりは何を悔いているかわからない。それにしても、ふたりのいっている「悔い」は「後悔」という言葉でくくることはできないと思うが、どうだろうか。

 また、この本の藤沢さん部分の選択には大いに不満が残る。せっかく選ぶならもっといい表現がたくさんあると思うが。

 ところでこのような他の本の引用の著作権はどうなっているのだろうか。この本のように、書名なしで作家名だけでの引用も許されるのだろうか。ただで引用できたとしたら、安くできた本だ。

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“藤沢周平さん 最後の贈り物”   (1999.3.27 記)

『藤沢周平句集』
文芸春秋社 1429円 99.3

 帯に「この作家二十代の療養生活。諦念をひめた静かな叙情。句作時代はみじかいけれど、百余句がのこされた。その、明澄な世界は藤沢文学の源泉そのものである」

内容
■「海坂」の由来 「海坂藩」のもとは 
■「のびどめ」より 俳句 ■拾遺 として、七句
■随想九編 俳句に関連するもの

湯田川中学校碑文
花合歓や畦を溢るる雨後の水

記念碑



  同書「「海坂」、節のことなど」に架空の「海坂藩」の由来が書かれています。

 「海坂」とは、静岡の馬酔木系の俳誌の名前で、藤沢さんは療養生活時代にそこに投句していたそうです。
 「小説を書くにあたって「海坂」の名前を無断借用したのである」「海辺に立って一望の海を眺めると、水平線がゆるやかな弧を描く。そのあるかなきかのゆるやかな傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。うつくしい言葉である」


 さらに文芸春秋社は帯でいう「愛読者のみなさまへ 藤沢さん最後の贈り物」と。

 最後なんていわずに 未刊の文章を集めてほしい。庄内・山形の編集物に書かれたものもさがせばあるだろうし、業界新聞時代の文章も、教員時代の資料もある だろう。たくさんの藤沢作品を刊行した出版社として、それくらいのことはできると思う。やっていただきたいと思う。

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〈物静かな、佳(え)えおひとやった〉   (1999.3.1 記)

田辺聖子『楽老抄』より「藤沢周平さんのユーモア」
集英社 1470円 99.2

 田辺さんは 1974年ころ講演で鶴岡市へ。丸谷才一氏と直木賞受賞されたあとだったらしい藤沢氏とともに訪れる。 田辺さんは、〈好きな鶴岡を母にも見せてやりたい〉とお母様とご一緒される。
 講演会後の宴が催された・・・


 宴がすすんで、地元のことゆえ、旧知の人々が次々に藤沢さんを囲んだ。藤沢さんは微笑を浮かべ、その都度、髪がはらりと垂れるほど、ていねいな叩頭をされ、ときには叩頭も忘れ、おお、とあべこべに身を反らせる知己もあった。嬉しげな笑顔の隅はいっそう濃くなっている。
-----ふるさとみな有情、見ていてもたのしくなる雰囲気だった。謙抑でありつつ、情の濃さは抑えようなく匂い立つような、藤沢さんのたたずまいだった。


 藤沢さんの訃報を聞いて、九十二になる私の老母は、たった一ぺん、あの席でお目にかかったご縁ながら、〈物静かな佳えおひとやったのに・・・〉と悲しんだ。
 “佳えおひとやった”と何十年もの間だ記憶されるようなお人柄から、あの物語この物語が紡ぎ出されたのだ、---と思ったりする。


 田辺さんは「私は藤沢さんの小説のユーモアをことに賞玩する」と書き、なかでも「一顆の瓜」(お家騒動で働いたのに褒美は一個の瓜だったという話)がおきにいりのようである。「藤沢さんのお作品は人の鬱懐をほぐすような明るさと暖かみがあるが、それは氏が人しれずかくし持っていられるユーモアやお茶目なところから出るのであろう」と言う。
 このお茶目なところは、家庭生活を書いたエッセイでも拝見できる。私もついつい再読するのは、ユーモラスな作品である。

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藤沢さんは“故人”だなあ   (1998.11.24 記)

『広辞苑・第五版』
岩波書店・紙の普通版 6800円  CD-ROM版 11000円 98.11

 『広辞苑』は故人になった人しか人名は掲載されない。(と思う)
98.11月発売の第五版に、藤沢周平さんが出ています。「う〜ん、やはり藤沢さんも故人だなあ」と掲載されているのは嬉しいが、掲載されていることが寂しい。

「端正な文章で政争に巻きこまれた下級武士や市井の人びとの生き方を描く」と。作品としては『暗殺の年輪』『蝉しぐれ』が選ばれている。

 CD-ROM版には腕組みをしてやや上を見ている写真が納められている。

 『広辞苑』で「時代小説」を引くと、「古い時代の事件や人物に題材をとった通俗小説」と。そりゃあそうだが、愛想ない説明ですねえ。


藤沢さんの中学時代の同僚の手記   (1998.11.11 記)

大井 晴「あの小菅留治先生が「藤沢周平」になるまで」
『文芸春秋』98.12月号・「平成日本50人のレクエイム」

 この文章で初めて知ったこともあります。以下少々引用させていただきます。

「(赴任してきた小菅先生が)初めて職員室に入ってきたとき、先生なのに黒の詰め襟を着て、カバンを持ち、ていねいに深々と頭を下げたので、なんと礼儀正しいのだろう、どこか違っていると感じました」

「(教員の中には惰性で授業をし向上の努力をしない人や村の実力者に取り入る人も いたが) 小菅先生は違いました。(単に教科書に従って授業を進めるのではなく、いろいろの工夫をしていました)」
「先生は国語と社会の免状を持っていて英語は専門外ですが、教師の数が不足していて他の教科も担当させられていました。英語もきちんとこなしておられたのです」

「三度の結核の手術に耐え、退院、鶴岡に戻って再就職先を探し、できれば 教師に復帰したいと思っていたようです。しかし、何かと小菅先生に目をかけていたはずの校長先生が、拒否するところとなり、あきらめざるを得なかった」

 著者の大井氏の紹介で業界紙に就職。
「その業界紙は、社長と女事務員が昼間からイチャイチャしているようなところで、 月給未払いの時もあったそうで、小菅さんのような人には耐えられなかったはずです。実際すぐにお辞めになって今度は自分で就職活動をされた」

 この文章は短すぎて、ただ出来事を並べただけで枚数が終わっているのが残念。
鶴岡・山形・東京での藤沢さんとかかわりのあった人の思いでを集めた本をどこかで企画してはいかが。

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版権の不思議   (1998.10.20 記)

風変わりな帯をつけた『義民が駆ける』をみつけました

「へえ!」と感じたのは私だけではないようです。
書評雑誌『本の雑誌』98.11月のご隠居と熊さんもそうみたいです。引用します。

熊  講談社文庫から藤沢周平『義民が駆ける』が出たんですけど、
   その帯に「講談社文庫にも登場」ってあるんですよ。
隠居 それが?
熊  いや、その意味がわからないんで。だって藤沢周平の作品は
   講談社文庫に、八冊入っていて、これが九冊目ですよ。
   いまさらどうして「講談社文庫にも登場」って言うんですか。
   なんだか版元がすごく嬉しがっているコピーですよね。
隠居 その作品が中公文庫にも入っているからだろう。つまり、『義民が駆ける』は
   講談社文庫でもやっと読めるようになりましたってわけさ。
熊  えっ、それだけのことなんで?
隠居 それしか考えられないなあ。

 私もそう思う。講談社が版権を入手して嬉しがっているみたい。ところで 今後も藤沢作品の版権ってこんなに動くのだろうか。
 ついでに書くと、全集に収録されてない作品を入れた『藤沢周平全集』の続編を出して欲しいなあ。文春社様、検討してください。
 

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藤沢周平アンソロジー   (1998.10.2 記)
藤沢周平読本表紙
雑誌増刊号『藤沢周平読本』

新人物往来社『別冊歴史読本・作家シリーズ』1800円 98.10.24



 これは各社の書籍に収録されたものを再編集して再録したもの。

■対談「藤沢周平の世界」 時代小説・推理小説の宮部みゆきと山形庄内
酒田市出身の佐高信「藤沢さんの作品は、凍えた気持ちとか魂を、火に当
てるっていうより雪で摩擦するみたいなところが」と。

■藤沢周平の魅力(養老孟司ほか) ■藤沢周平論(関川夏央・川本三郎ほか)

■藤沢周平の読み方(用心棒・残日録・蝉しぐれ・ほか)

■名作採録 (上意改まる 長門守の陰謀 振子の城)

■ほか


 このようにあちらこちらの文章が収録されているとまとめて読むことができて、重宝なものです。
 また、「藤沢周平の読み方」を読み、またまた藤沢さんの本を読み返すことになりました。


東北の明るさ   (1998.9.23 記)

「本よみの虫干し」朝日新聞連載コラム(98.9.20)から
関川夏央「走れメロス」

(関川は、太宰治の「走れメロス」について書いた文書のなかで、次のように書いている)

 太宰作品を特徴づけるのは、単純な美への強い憧れと、
夏の日ざかりに似た 明度の高いユーモアの気配である。

 壇一雄は、その友太宰をこう評した。
「剽軽と云って言い足りないとしたら 、剽重とでも呼べそうな、土着の快活」。
棟方志功、無着成恭、それから藤沢周平にもたしかに感じられた「東北の明るさ」である。


「剽重とでも呼べそうな、土着の快活」「東北の明るさ」とは、どんなものだろうか。関西人の私に理解できるものであろうか。藤沢周平さんの“黒い情念”の作品にも引かれるが、明るいユーモアをたたえた作品にもほっとするものを感じて好きだ。

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藤沢周平さんの俳句・テレビドラマ   (1998.8.23 記)
小説新潮表紙
雑誌『小説新潮』
「藤沢周平特集」
新潮社 98.9号 840円


■新発見 病床にあった若き日の処女句集 『のびどめ』の句全六十七

□掛川栄三「『のびどめ』が見つかるまで」

■再録『用心棒日月抄』 第一話 「犬を飼う女」

□川本三郎 紀行エッセイ「水の町〜藤沢周平の本所深川」


 藤沢さんが結核療養所で作ったこれらの俳句は、下記の『俳句あるふぁ』毎日新聞にも所収されている。
 『小説新潮』は、「『俳句あるふぁ』誌は、著作権継承者である藤沢さんのご遺族に、正式な掲載許可の手続きを経ず無断で掲載したものです。従って公式には小誌が初公開となります」という。

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藤沢周平さんの俳句・他   (1998.5.15 記)

 
雑誌『俳句あるふぁ』
特集「藤沢周平の俳句的こころ」

毎日新聞社 98.5,7号(NO.29) 1000円

■藤沢周平の全俳句   ■藤沢周平〜小説を生んだ俳句的こころ
■藤沢周平の俳句(斉藤英雄)   ■藤沢周平を詠む(石 寒太)
■アンケート「私の好きな藤沢作品」  ■藤沢周平年譜


 藤沢さんが結核で療養入院中に俳句の勉強をされて、投稿した俳誌「海坂」の誌名から、作品の舞台“海坂藩”を拝借したとエッセイにあります。
藤沢さんの俳句は、『藤沢周平のすべて』(文春)などにありますが、この特集は俳句から藤沢作品をよもうとする企画です。

 また、藤沢さんの記念碑(湯田川小学校玄関)にも俳句が彫られています。
 このホームページの「藤沢さんをめぐる旅」の「中学教員時代」をご覧ください。

 それにしても、私には俳句って結構むつかしい。俗物の私は、俳句の情景の世界より、〈俳句には著作権がない〉という話題の方に興味をひかれるなあ。

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『歴史小説の世紀〜戦後傑作短編55選』
(「新潮」臨時増刊)
 (1998.3.28 記)
新潮社・1400円・1998.3.30

藤沢作品は、「驟り雨」です。例の善人?の盗人の話です。
座談会「歴史小説から日本人が見える」つき。



藤沢周平さんの散歩道    (1998.3.4 記)

雑誌『サライ』
特集「名作を生んだ道を歩く〜文士の散歩道」

小学館 98.3.19号 430円
坂口、芥川、室生、樋口一葉、泉鏡花らとならんで藤沢さんが取り上げられいます。


 藤沢さんを「文士」というのには違和感があります。藤沢周平さんは、なんか市民とはかけはなれた存在の“文士”ではないと思うからです。“文士”らしくない普通の市民として生活していたらしいことは、エッセイや藤沢さんをご存知の方のお話から想像できます。

 それから、特集でとりあげられている作家たちはもう完全に文学史上の人たちです。これらの人たちの世界に藤沢さんもお入りになったのは、事実としてもなにかちがうと思います。
 こんなにすばやく鬼籍のお仲間にいれることはないと思いますが。

 さて、特集は「藤沢文学の揺藍となった江戸時代のままの田舎道」との見出しです。(「江戸時代のまま」とは大げさです) 藤沢さんが中学の教師として勤められた湯田川(温泉)の神社や共同風呂・旅館・記念碑・郷土料理などの写真などが二頁の見開きに組まれています。

 これらの写真は冬景色です。夏の湯田川の風景は、「故郷を巡る旅」→「5.中学教員時代」をご覧ください。

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