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 藤沢目次総目次


2015.5 記

    未発表草稿発見

作家・藤沢周平、デビュー前後の草稿など700点発見
    (2015.3.30 朝日新聞デジタル)   


鈴木文彦 藤沢周平、幻の未発表草稿初公開
    (2015.4 文藝春秋 『オール讀物』4月号) 

朝日新聞と『オール讀物』の要約

■ 山形県鶴岡市の「藤沢周平記念館」開設5周年の企画展のために、自宅を整理していた藤沢さんの長女が自宅からダンボール箱の書類を発見した。生前の父親から「捨てるように」と言われていたものらしい。

■箱の中には、文壇デビューする前後に書いた小説の草稿やメモ類約700点が見つかった。73年の直木賞受賞作「暗殺の年輪」の草稿や、題名しか知られていない作品も含まれ、時代小説に独自の世界を開いた作家の修行時代を読み取ることができる貴重な資料だ。

■「オール読物新人賞」に65年に応募したが受賞できず、題名の記録しか残っていない「蒿里曲(こうりきょく)」は、鶴岡市の寺を舞台にしたあだ討ちもので、後の作品「又蔵の火」に類似しており、原型だった可能性が高い。

■  「暗殺の年輪」の草稿もある。藤沢さんは、作品が編集者に渡った当初は「手」という題だったことをエッセーに記しているが、他にも「襲撃」「刺客」「眼の中の刃」など6通りの題が考えられていたことがわかった。書き出しも約10通りあるという。

■  藤沢周平記念館の鈴木晃館長は「完璧な作品を数多く書いた藤沢さんが、良い作品を残すため推敲(すいこう)に推敲を重ねていたことが伝わってくる」と感慨深げだ。

*****

 藤沢周平さんが「処分するように」と言ったものが 発表されるのには少々抵抗もあるが、藤沢文学の理解のための資料として、 活用されることを期待したい。

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08.8 記

    発見・評論、エッセイ

藤沢周平『未刊行エッセイ集 帰省』 文春 08.7.30   1600 

   (文芸春秋社 08.7.30 1600円)

出版のいきさつ
 「エッ! こんなにまだ未発表のエッセイがあるの!」と思いました。なかには「グラフ山形」「庄内・・・」などの地方出版物からのもの、 家庭通信のようなものもあり、収集、収録しきれなかっただろうと想像される ものもあります。

 しかし、中央出版の「週刊誌」「月刊雑誌」『周平独言』もあり、あれあれ?とあきれつつ(?)、「まだまだ藤沢さんを読めるぞ」と嬉しい出版でした。


 このことについて 文春で藤沢さんの編集者だった阿部達二氏は「解題」で次のように書いています。

 要約すると「その後、全集から漏れているのが少なからず見つかったのは、発行責任者の不手際で、お詫びする。
 弁解を許していただくなら、藤沢は〈自分の書いたものをすべて残しておくという 作家としてのごく普通の習慣を持たなかった----。 エッセイは殆ど書き捨てのつもりだったらしい〉」と。 

★ ★ ★ ★

 藤沢さんは、政治・イデオロギーのことには寡黙な作家だった。記憶にあるのは、 「天皇の映像」、「共産党の同級生の選挙応援をした」の短い文章くらいだった。
 この書には、「大衆と政治1」「大衆と政治2」(55ぺ)、「村の論理」(96)があり興味深い。

 「大衆の政治」では、三島由起夫の割腹自殺に〈異様な感じがした〉といい、川端康成が秦野章(元警視庁総監)の都知事選の応援にたったときも〈似たような感じを受けた〉とあり、同感である。その報道をみたとき、大阪弁で「おっさん、なにするねん。ようやるわ」とおもった記憶がある。

  「大衆と政治2」は興味深く、共感しながら読んだ。内容に興味のある人は本文を読んで頂きたい。
 戦後政権を手に入れた社会党がその座から滑りおちたままだが、藤沢さんは「だが私にはこんなはずはなかったという気持ちが強い」といい、「こんなはずはなかったという、一ファンの呟きは、まだまだつづきそうだ」
 と書く。私もテレビで社会党→社会民主党の党首のみなさんを拝見すると、心のなかで「がんばれ」と声援をおくったりしている。

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08.3 記

    続・発見

藤沢周平「浮世絵師」 

  『オール読物』08.4月号 (文芸春秋社 08.4.1 920円)

発見のいきさつ
志村有弘(相模女子大)氏の蔵書『忍者読切小説』 に藤沢周平のペンネームで「浮世絵師」が発見された。

この浮世絵師とは北斎と広重のことで、藤沢周平の「溟(くら)い海」 の原型といってもいい作品である。

■志村有弘「藤沢周平幻の一編「浮世絵師」を読む〜大衆文芸誌は文学の宝庫」
■阿倍達二「失意と苦悩の中から」 も所収されています。

広重版画
(版画商で広重の絵をみていた北斎は、ある作品を)「北斎は、恐ろしいものを見るように、
「東海道五十三次のうち蒲原(かんばら)」と説明書のある一枚を見つめた。
底知れない暗さと静けさを闇が背景だった」
(本文より)

 阿倍氏によるとこの作品はこの作品は藤沢周平さんの最初の妻悦子さんの死の直後に書かれたそうです。
 阿倍氏は「そんな時期によく小説など書いていられたものだと考えるのは容易だが、
私はむしろ藤沢は小説でも書いていなければ精神の平衡を保ち得なかったのではないかと考える」と推測している。



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予期せぬ贈りもの

『藤沢周平 未刊行初期短篇』 

   2006.11.10 1714円

(表紙から) 藤沢周平、幻の短篇  書庫の片隅に眠っていた
無名時代の未刊行作品十四編
四十年の時を経て今、蘇る。

活字体が 昔の形のような気がするのは先入観のせいかな。

 急がずにゆっくり読もうとおもう。

それにしても この書籍の題名も不思議です。今、刊行したのに“未刊行”とは?


発掘された“幻の短編小説”

『オール讀物』
『オール讀物』文春 06.4月号 148ぺ


発見のきっかけと作品の掲載

■前のページの「藤沢周平さん関連のニュース」をごらんください。     また
■『オール讀物』06.4月号 144ぺ
「特集 発掘! 藤沢周平“幻の短編” 四十年の眠りから醒めて」
で、阿部達二氏(元文春編集者)が 詳しく書かれています。
 氏は冒頭で 「靭(つよ)さ、巧みさ、優しさ、清冽さとわずかな稚拙さーデビュー前の十四編には、確かに“若芽”の藤沢周平がいた」 と。
■掲載作品の巻末には、阿部氏の「作品解説」があります。作品を読むときの参考になります。

■荘内日報(06.3.22)によると、『オール讀物』で8月号まで 一編ずつ掲載されるそうです。発見された作品は14編だそうですから、そのなかの6編が読めるわけですね。 愉しみです。


■06.7.26記 結局4月~8月号に 計7編の小説と遠藤典子さんのエッセイが掲載されました。




作品7  「ひでこ節」 『オール讀物』06.8月号掲載

高橋書店『忍者小説集』昭和39年6月号 から再録

 
(人形師長次郎が お才に語る)


「今ごろ泣いても始まらないぜ。------」
不意に、お才の両手が、長次郎の両肩に力をこめてしがみつき、背にぴったりと顔を伏せてきた。女の生温かい息と涙が長次郎の背中をしめらせた。その格好て、お才は涙声で何か言った。
「なに? え? 帰れない? 帰れないと言ったのか」
長次郎は、-------------、まるで無理に押し出したように、ぽつりと洩らしたお才のひと言に胸を衝かれていた。それは、次第に大きな感動までひろがって行くようだった。   長次郎は、お才が話す言葉を始めて聞いたのだった。それは遠いところにある闇に、不意に小さな光が生れ、それがこちらの闇にとどいたように感じられた。

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作品6  「木曽の旅人」 『オール讀物』06.7月号掲載

高橋書店『読切劇場』昭和38年9月号 から再録


「どこかで読んだ話だなあ」とおもっていたら、阿部達二氏の解説を読んで納得した。
〈渡世人が故郷木曽に帰り、昔の恋人の娘の危機を救い、ふたたび旅にでる〉物語
「帰郷」(『又蔵の火』文春文庫)とおなじような話だ。

 
(木曽福島の宿場町の宿外れ)

 東西からはさんだ谷間の町を圧しつぶすように、山は樹の色の暗さを加えていたが、空にはまだ明るい光があった。
ぽつりと浮かんだ孤独な雲には、さきほど、 ひと時を火のように焼いた夕焼けの名残りか薄紅く留まっている。
山国の日没の時は短い。そして日が暮れると、秋を思わせるように、肌に迫る涼しさが押しよせてくるのである。

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遠藤展子「父、藤沢周平に思うこと」 
『オール讀物』06.6月号掲載

 (デビュー前の作品が再録されました)

 生前の父があらためては公にしなかった作品であり、それを公表するには大変なためらいがありました。

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 今回の件(『オール讀物』掲載)に関し、父がなぜこれらの作品のことを今まで公表しなかったか?という疑問を投げかけられることがしばしばあります。いろいろな憶測の中、父の性格を知る私はこう考えます。

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発見のいきさつ それらの作品が書かれた時期 発表のいきさつ 
お父さんの性格・考え方------を長女遠藤さんが書かれています。


作品5  「木地師宗吉」 『オール讀物』06.6月号掲載

高橋書店『読切劇場』昭和38年4月号 から再録

 
(宗吉は、裸になったお雪の姿から こけし人形の形を感じとる)

 「あたらしいこけしが生まれる。もう誰にも負けないすばらしいものだ。それが出来上がったら----」
 宗吉は、優しく眼を挙げた。
「叔父さんに頼んで、夫婦になろう」
 お雪の匂う身体が、花のように宗吉の胸の中に崩れた。昔そうしたように宗吉は、胸の中にお雪を抱きしめた。
 戸の外に、チ、チ、とみそさざいが啼いた。パラ色の朝の光が、山や、雪の野を染めはじめたようだ。

みそさざ
図版 岩波『広辞苑』第五版

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作品4  「残照十五里ヶ原」 『オール讀物』06.5月号掲載
 
(乱刃の中に、勝正の身体はゆっくりと膝をつき、それから音立てて転んだ。)

 戦場を血のような夕映えが染めていた。荘内勢はほとんど敗走したらしく、三三五五歩きまわっているのは、越軍の兵ばかりだった。彼等が身動きすると、腰のあたりの金具が強く夕照るを返すのである。
 西の方、尾浦城のあたりには、まだ白っぽい煙が立ちのぼり、それは雲のように、また霧のように横にたなびいて砂丘の麓にわだかまって行くようだった。大宝寺の方角には、すでに余燼も見えなかった。


作品3  「無用の隠密」 『オール讀物』06.5月号掲載
 
(隠密同士の戦いが終わり。ラスト。)

 砂丘も、青い海も明るい。その明るい光の中、ひと筋冷たい秋の気配が棲んでいる。直四郎(隠密)は、青地貫兵衛(隠密)の屍を見捨てて、西に向かって歩きだした。 胸の中に浮かんでくる幾代(隠密の娘)の面影に、俺は違う、俺は違うぞ、幾度もそう呼びかけながら。

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作品2 「佐賀屋喜七」 『オール讀物』06.4月号掲載
 
(喜七は昔奉公した主人に言われてお品をともなって外出した。
お品は 同じ家で養われていた。ふたりは同じ釜の飯食ったのだ。
道道二人は昔のことを語る。)

「喜七さん」
 いつの間に寄りそったお品が、喜七の胸に腕を投げかけていた。
「昔したように、一度でいいから、あたしを抱いてくださいな」
 しなやかな腕が首にまつわり、香しい息が喜七の顔に触れる。うつつともなく、喜七はお品を抱いた。思いがけない、豊かな身体だった。

 

(『蝉しぐれ』 殿の側室だったお福と助左衛門 (文四郎)はひさしぶりの最後の面会をする)

「この指を、おぼえておりますか」
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「蛇に噛まれた指です」
「さよう。それがしが血を吸ってさし上げた」
 お福さまはうつむくと、盃の酒を吸った。そして身体をすべらせると、助左衛門の腕に身を投げかけて来た。二人は抱き合った。

 

(『三屋清左衛門残日録』 隠居清左衛門に、田舎に帰るという
湧井のおかみみさは別れを告げる)

「みなさんにお別れするのが辛くて。とてもよくしていただいて。楽しゅうございました」
「何も出来なかった」
「いいえ」
 みさは首を振ると、つと 清左衛門に胸を寄せて来た。そして低い声で、ちょっとだけわたしを抱いてくださいませんかと言った。

 

(『用心棒日月抄シリーズ』 嗅ぎ足の佐知が 浪人又四郎と抱き合う場面) 
どの巻か思い出せないから引用できません。



作品1  「上意討ち」 『オール讀物』06.4月号掲載
 
(家老甚三郎と家士康平が上意討ちの討ち手について密談している)

 遠い塀のあたりで、この時微かに地上に音立てたものがあったので甚三郎は口を 噤(つぐ)んだ。たが音は一度だけで、あとは湿った夜の気配があるばかりである。
「花だ」
「辛夷(こぶし)でござりましょう」
二人は同時に言ったが、康平の言い方には確信があった。
南側の塀際に辛夷の大樹がある。宙天に傘のような枝を開く巨木は、白い豊麗な花弁を競い合っていた。花は量(かさ)が大きく、地上に落ちると、花弁とも思えぬ音を立てることがある。そう言えば、闇の中に、微かに濃厚な辛夷の花の香が流れている。甚三郎は夜の中を、空から落ち、暗い地上に転がった白い大きな花びらをなんとなく思い浮かべた。
「もそっと、こっちへ来い」

〈情景の描写がじつは、物語の描写〉であるという藤沢さんがよく使う書き方がここでももう使われています。

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