第六部 中国の友人たち
3.教え子の手料理(無錫)(2008年10月)

J.Y君と会うことが今度(200810月)の旅行の目的の一つであった。彼は、3年前、私が淮海工学院で日本語を教えた学生で、いつまでも折に触れ、便りをくれていた。そんな彼が、日本留学を希望しているということもあって、一度、直接、話がしたく、会いたかった。この思いは、半年前からあったけれど、前回、5月の中国旅行の時には機会が作れなかった。そんなわけで、今回はどうしても、彼の住む無錫に寄りたかった。
  連雲港から上海への帰り、夜行列車の無錫着が3時5分という、朝というより夜中に近い時間で、長い逡巡ののち、やっと、途中下車を決断した。ホテルは24時間、チェックインが可能なので、予約さえできておれば心配はないと判断した。ホテルは、彼が無錫駅に近いところを予約してくれた。ところが、彼は、「駅まで迎えに行きます」と言う。私は、「ホテルさえ決まっておれば大丈夫」と断ったが、ことばが二人の間で、何度も行ったり来たりした末、結局、彼の好意に甘えることになった。

靄って霞む無錫駅 無錫駅前

1029日、列車は、20分ほど遅れて無錫に着いた。3時半といった、まだ、早朝とはいえない時間なのに、改札口は、降りてくる客と出迎えの人とで混雑していた。彼は背が高いので、すぐにわかった。彼は、私たちの家へ来てくださいという。私たちというのは、G.SさんとX.B君で、3人で共同生活をしているという。
  彼らの家は、無錫駅からタクシーで15分ほどのところにあった。4時前に家に着き、他の2人が起きだす6時過ぎまで、留学について話し込んだ。3人とも私の教え子なので、他の二人が、起きてくればそれはそれで良いわと、早晨の密談を決め込んだ。
  窓の外が白んできたので、私は夜の再訪を約してホテルへ向かった。
  今日は水曜日で、彼らは仕事なので、昼間、私は、無錫駅へ翌日の上海までの切符を買いに行き、そのあと、太湖に続いた蠡湖(れいこ)の畔、蠡湖公園で遊んだ。今度の旅行、傘の要らない日がないほど、よく雨に降られた。この日も降ったり止んだりで、一日中、靄っていた。

上海駅に停車中の和諧号

まず、無錫駅での切符の購入であるが、私は、列車にしても、バスにしても、もう慣れて、一人で買うのに何の不安もなくなった。ただ、J.Y君から、“動車組”の切符を買うようにとのメールが入っていた。何のことかと問い返し、和諧号だとわかった。
 和諧号は北京→上海など幹線に投入されている。最高時速200キロメートル(部分的に250km)。CRH1型はカナダ、 CRH2型は川崎重工業、CRH3型はドイツ、 CRH5型はフランスの技術が導入されている。CRH2のベースは長野新幹線の「はやて」「あさま」で、最も投入数が多い。
 この和諧号が一日に、何十本と走っており、それをまとめて“動車組”といっているのだ。和諧号は、今年の5月の旅行時に上海駅で見かけたが、まだ乗ったことはなかった。これは、シメタッ!と早速、その切符を買った。大きな荷物を持っているので一等にした。一等は待合室から別で楽である。無錫→上海、47元(1元は約15円)。
  そのあと、折角、無錫へ来ているのだからと太湖へ行くことにする。一口に太湖といっても広いので、地図で調べて、太湖に続く蠡湖へ行くことにした。蠡湖の蠡とは、越王勾践の名参謀範蠡(はんれい)のことである。私は、無錫は初めてで、この地に、範蠡に因んだ名所があることを知らなかった。蠡湖の中に西施(せいし)庄という島(愛情島ともいう)もある。この日は、雨も降っていて、観光客が少ないので、この西施庄へ行く舟は出ていなかった。

靄っている蠡湖公園 新婚カップルの撮影風景
呉を滅ぼしたあとの範蠡と西施の愛の生活についての説明板
愛情島への舟、西施号 この日は舫ったまま 雨で人けのない蠡湖公園

夜になって、7時前、彼らの家を再訪。G.Sさんが餃子作りの最中。X.B君の彼女も手伝いに来ていて、料理は、G.Sさんを中心に男女4人で準備してくれたよう。心のこもったご馳走であった。彼らの共同生活は、大学時代の寮生活を発展させたようなスタイルで、なんとも、ほほえましく、また羨ましかった。

「もうちょっと待ってね!」とG.Sさん
教え子たちと
仲良く後片付け
  
  翌日、9時12分発の和諧号で上海へ戻った。所要時間、丁度1時間。
  J.Yの故郷が焼物の町として有名な無錫の宜興ということなので、今度は、宜興へ行きたいと思う。