第六部 中国の友人たち
2.江南水郷古鎮めぐり
(4)南潯(なんじん)、周荘(しゅうそう) (2011年11月)
 ここに紹介します南潯(なんじん)と周荘(しゅうそう)はどちらも、私一人での旅行であって、中国の友人たちとの交流ではないが、江南水郷古鎮ということで、ここに取り上げました。ご了承ください。

南潯(なんじん)「水郷古鎮」の地図を見てください)


南潯:小蓮荘  清の高官、劉鏞(りゅうよう)が造営した園林、小蓮荘。その外園は広大な蓮池で池畔には西洋風建築が立ち並ぶ。

 今回の中国旅行(1110日~17日)は、上海で教え子に会った以外は、基本的に一人旅であった。
  1113日、紹興発織里行のバスは、朝7時15分、紹興客運中心汽車站を定刻に出発。終点は織里(太湖の南岸、湖州市の近くの町だということは後でわかった)だが、私は途中、烏鎮で下りる(46元)。烏鎮には、昨年の5月にもツアーで行ったが、見残したところが多かったので、もう一度、行ってみたかった。その後、南潯へというのが今回の私の計画だった。
  紹興を出て、最初、バスは一般道路の走行が長く、あまりスピードは上がらなかった。でも、杭州を過ぎたあたりから、高速道路に乗り、紹興を出てから2時間余りで桐郷の大きなバスターミナルに着いた。烏鎮も行政的には桐郷市に属する。ここまで来ると烏鎮はあと一息である。私は、バスは、一度来たことがある烏鎮のバスターミナルに着くとばかり思っていた。窓の外の景色を見ながら、「もう着くかな、もう着くかな」と、下りる態勢を取っていた。しかし、どうもおかしい。「ヤバイ!」と思って、運転手に、「烏鎮で下りる」といいながら切符を見せた。バスは路肩に急停車。「とっくに通り過ぎた」、「反対方向のバスに乗れ」とつれない。バスは、路線バスで、烏鎮のバスターミナルには入らず、幹線道路を走行し、下りる客がいないと判断し、通過してしまったのだ。
  これからが大変だった。私は、バス停も無い、こんな田舎の道路脇で、自分一人ではとてもバスを止められないととっさに判断し、車掌の腕をつかみ、道路を横断し、反対方向の路線バスを止めてくれと言った。車掌も、私の剣幕に拒絶できず、自分のバスを止めたまま、私の指示に従った。やっと、一台が止まってくれたが、行き先が違うと乗れなかった。5、6分して、車掌も自分のバスに戻り、発車。甲斐なく、私は道路脇に一人残された。
  中国の道路の路肩は狭く、大型トラックがすごいスピードで通り過ぎていくので、危険極まりない。烏鎮方向に歩きながら、トラックに注意しながら、振り向いては路線バスに手を挙げた。でも止まってくれない。そうしていると、一台の小型乗用車がそんな私を見つけ停車。白タクだった。既に客が乗っており、その客が下りた後、烏鎮へ送ってやるという。先客の行き先は何処でもよかった。とにかく、窮地から脱出でき私はほっとした。
  その後もいろいろあって、結局、烏鎮へは行かず、随分遠回りをして南潯着。

 南潯は明代中期から清代の中期にかけて経済的な隆盛を迎え、生糸商をはじめとする多くの富豪を生んだ。彼らはその資産の多さによって「4頭の象、8頭の牛、36匹の大きな金毛の犬、72匹の小さな金毛の犬」と喩えられた。その「4頭の象」のひとりが、清の高官である劉鏞(りゅうよう)で、彼の造営した園林が小蓮荘である(この頁のトップ)。
 小蓮荘のほか、張石銘旧宅、嘉業蔵書楼、百間楼など江南の巨万の富を象徴する名所旧跡が多い。入鎮料、高齢者半額で50元。
 鎮の水郷風景を紹介します。

私が泊まったホテル 屋根付き橋も憩いの場
運河沿いの雑貨商店 嘉業堂蔵書楼の前で
運河の観光船のドック 橋のたもとの飲食店
  上のような運河沿に張り出した茶楼で休憩。               お茶、20元。ピーナツ付。                          お湯は何度でも足してくれる。
張石銘旧宅の西洋風建築 建築には精緻な彫刻
芭蕉のデザインがあちらこちらに 張石銘旧宅の裏庭
米商 生糸商
百間楼 百間楼

南潯で興味深い人物に出会う。出会ったといっても、故人であるが。張静江(ちょうせいこう:18771950)である。ウィキペディアでは、「中華民国の政治家、実業家。中国同盟会以来の革命派人士で、後に中国国民党、国民政府の政治家となった。また、浙江財閥の指導者の一人としても知られる」と説明されている。それだけでは、どうと言うことはないが、張静江の故居での次のような展示には、強く惹きつけられた。
  まず、梅屋庄吉から贈られた孫文の胸像や孫文から贈られた「天下為公」の書が展示されていた。続いて、「彼は、孫文が最後の床にあったとき、上海を経て、北京に赴き、孫文の傍らにあって、心を込めて介抱した。そして、併せて、孫文の病状、治療過程について、詳細な記録を残している」という説明文とともに、その5枚に及ぶ長い記録が展示されていた。

張静江故居 孫文が張静江に贈った書
梅屋庄吉から贈られた孫文像 孫文の病状・治療の記録

上海、地下鉄2号線南京西路駅

1114日、1140分発のバスで南潯から上海へ戻った。このバスは速かった。ほとんど高速道路を走り、上海も虹橋に着くので、渋滞に巻き込まれることがない。午後一時前には到着。あと、地下鉄2号線南京西路駅近くのホテルに戻る。

地下鉄2号線南京西路駅を出たところ
地下鉄2号線南京西路駅を出たところにある吉野家  ここは重宝した、20元

15日は、地下鉄を乗り継ぎ、一人で七宝見学。面白かったがここでは省略。16日は、これも一人で、周荘一日バスツアーに参加。周荘は6年前にも、上海体育館近くのバス駅から同じようなツアーに参加した。この時はカメラが故障していて一枚の写真もない。それが、もう一度行こうと思った一番の理由。私は、盗まれたり、タクシーに置き忘れたり、故障したり、カメラのトラブルが頗る多い。

周荘(しゅうそう)

  周荘というと、沈万三(しんまんさん 13301379)ということになるらしい。沈万三が生きたのは、丁度、元から明(1368~)へと時代が変わる時期である。彼は水運の便をいかして貿易をおこない、巨万の富を築いた。以来、周荘は糧食、シルク、陶磁器、手工芸品の集散地として、明清代には江南の一大地方都市となった。
 沈万三について私が興味をひかれたのは、彼と明の太祖朱元璋との関係である。
沈万三の後裔の邸宅である沈庁では、銅版のレリーフに朱元璋が沈万三を迫害している場面が展示されている。しかし一方、『聚宝盆』という中国映画では、朱元璋と沈万三が友人として描かれているらしい。いずれにしても、二人に接点があったというのが興味深い。 

周荘、水郷風景 青年旅舎(ユースホステル)
水郷風景 水郷風景、知らない人
水郷風景
沈万三水塚 万三の名を冠した豚肉の脚の部分の醤油煮込み
古戯台での上演 周荘の古戯台は立派
水郷風景 路地でツアー客を案内する添乗員

 それからもう一つ、周荘の名が知られるようになったのは、アメリカ在住の画家陳逸飛の周荘の双橋を描いた一枚の絵『故郷の追憶』が1985年の国連発行切手の記念カバー図案に採用されたことが一役買っているらしい。周荘に陳逸飛の記念館もあって、私も入ったが、その絵は複製品もなかった。
 帰国の1117日、飛行機までに時間があったので、上海美術館へ行った。ここで、丁度、陳逸飛の弟、陳逸鳴の展覧会をしていたのは偶然にしては幸いであった。そして、会場での撮影可にはびっくりした。私は、多少の後ろめたさを感じながらもたくさんの作品を撮影した。一枚だけ紹介します。
上海美術館 陳逸鳴の作品