第二部 江蘇省の歴史を歩く
5.淮安に琉球国使節の墓を訪ねる

帰国を間近に控えた1月8日、二回目の淮安旅行に出かけた。旅行といっても、朝8時のバスで連雲港を出て、夕方の便で帰って来るという日帰り旅行である。今回の淮安行きの目的は二つあった。一つは、琉球国使節、鄭文英の墓を尋ねることで、もう一つは、「南船北馬舎舟登陸碑」を探すことだった。結果、前者は観光案内図にもあり、なんとか見つかった。しかし、後者については、何の情報も得られないまま帰ってきた。
  午前10時、淮安着。観光地図を見ると、「鄭文英墓」は、汽車站(バスターミナル)からタクシーに乗れば10分とかからない距離である。汽車站前で客待ちをしているタクシーの運転手に地図を見せて、「鄭文英墓」の文字を指差して、「ここへ行きたい」と言うと、「知らない」と答える。別の運転手に聞いても同じ返事。その時、私とタクシーの運転手とのやり取りを聞いていた高齢の男性が、「知っている」と割り込んできた。私は、てっきり、白タクの運転手と思ったが、場所を知っているなら、この際、いいだろうと思い、「いくら?」と聞くと、「10元(1元は約15円)」との返事。多少高いがOKする。ところがなんと、タクシーの運転手ではなかった。おじさんの後について行った先にあったのは、幌もない三輪自転車で、これに乗れという。三輪自転車と運転手のおじさん。筆者は、後ろの荷台の部分にしゃがんで乗ったこれには呆れて、「エッ!」と声に出てしまう。暫し逡巡の後、私は覚悟を決めて、三輪自転車の荷台にしゃがむ。出発!やがて、緩い坂にかかる。おじさんは立ち漕ぎをし、辛そう。私は、荷台で風が冷たいが、おじさんは顔にうっすら汗さえかいている。ついに、おじさんは降りて押し始める。ギブアップ!私にも「降りろ」と言う。私も、私より年配に見えるおじさんに、これ以上、無理はさせられないので降りる。更に、一緒に「押せ」と言う。何かおかしな雲行きになってくる。それでも、目的地を知っているのだからと全てを受け入れる。ところが、今度は、何と、私の地図を見せてくれという。「何ッ!」。目的の場所を知らないのだ。10元欲しさに嘘をついたのだ。これには私もカチンと来た。全て、目的の場所を知っているからと辛抱しているのに、知らないのなら、このおじさんに頼んだ意味がない。でも、ここまで来たからには仕方ないと諦め、「その橋を渡る」、「橋を渡ったら右に曲がる」と、地図を見ながら荷台から、私が指示を出す。地図によると、ほぼ、目的の場所に着いているので、おじさんに、この地図を持って、その辺の人に聞いてきてくれるように頼む。なかなか帰ってこない。何処へ行ったのか、三輪自転車を置いて雲隠れするはずはないしと思っていると、10分以上も経って、「見つかった!」と、にこにこしながら帰ってきた。とてもうれしそう。憎めない。「鄭文英墓」は、非常にわかりにくいところ、通りから中へ入ったところに小さな図書館があって、更にその裏にあった。これでは、私一人ではとても探し当てられなかっただろう。結果的には、このおじさんに頼んだのは正解だったのかもしれない。
  まず、墓の門の壁の説明書き、「琉球国京都通事鄭文英墓」を訳す。
 「鄭文英(17441793)別名大嶺親雲上、原籍は福建長楽。明の洪武二十五年(1392年)、その祖先はビン地の36姓人に従い、中国の文化と先進技術を携えて、琉球へ渡り、その地を開拓した。鄭文英は、その十五世である。清乾隆五十八年(1793年)一月二十三日、鄭文英は命を受け使者として来貢したが、その途上、十一月十四日、病死し、王営清口駅(今の淮陰区図書館裏庭)にて埋葬された」
(訳注:「親雲上」はペーチンと読む。廃藩前の位階名で、通常、一村を領する。「ビン地」のビンは門構えの中に虫。福建省の別称。「36姓・・」は福建省から多くの人が沖縄に来て、久米村を中心に住みついたことを言っている)

「鄭文英墓」のプレート 「鄭文英墓」門前で
「鄭文英墓」 「鄭文英墓」説明プレート

この説明書きに関して、少し補足をしておこう。
  琉球は中国名。日本では沖縄。オキナワは島民の自称。「沖縄」の字は、江戸時代中期、新井白石の《南島志》に初めて見える。15世紀初め、尚氏が沖縄本島を統一、琉球王国を建てた。琉球王国は明の冊封を受けていたが、以前より貿易を通じて特に交渉の多かった島津氏は、1609年に江戸幕府の許可を得て、沖縄征討の軍をおこし、首里を陥落させた。これ以降、沖縄は、明・清の冊封が続く一方、薩摩藩島津氏を通じて日本に服属することとなった。つまり、日中両属である。明治維新後の1871年、政府は、沖縄を鹿児島に編入。宗主権を主張する清国はこれを認めず、日本と清国との間に琉球帰属問題がおこる。この問題は、日清戦争に日本が勝ち、沖縄の日本帰属が確定するまで続いた。
 私は、「琉球の日中両属問題」については、一時期、かなり本気で調べたことがあるので、淮安の「琉球国京都通事鄭文英墓」については、非常に興味があった。もう少し、説明を続けよう。
 この、「琉球国京都通事鄭文英墓」については、松浦章著「清乾隆五十七年貢期の琉球進貢と鄭文英の客死」(『南島史学』第51号)という論文がある。この論文、及び、渡久山寛三著『琉球処分』新人物往来社刊、にもとづき、この年の進貢使節団の足跡を辿ってみよう。
 正使毛國棟以下、総勢116名は2隻の船に分乗、琉球王国を出帆。清乾隆五十八年(1793年)八月、福州着。
福州には、柔遠(じゅうえん)駅、別名琉球公館があり、使節一行の長期宿泊の施設となった。9月18日、正副使、通訳、書記など二十人ほどで福州を立ち、北京を目指した。この使節団は、途上、運河を利用して北上、福州を出発してから2ヵ月半を要し、12月5日、北京に着いている。鄭文英は、11月14日、北京に到着することなく、運河の重要な中継地点、淮安で客死した。
 朝貢国の朝貢間隔、規模等については、乾隆『大清會典』において取り決めがあり、琉球については、「二年一貢」、「進貢船は二隻で、各船百名、合計二百名」その内、「北京に赴く使者は二十名」を、それぞれ、越えることはできなかった。また、「清乾隆五十七年貢期の琉球進貢」の使節団が、福州から北京まで、どんな経路をとったかについて、公式記録はない。ただ、淮安を通ったことだけは、「鄭文英墓」により、明らかである。魏學源の『福建進京水路路程』によれば、琉球進貢使節の一般的経路は、揚州以北について略記すると、邵伯駅、高郵州孟城駅、宝応縣安平駅、淮安府山陽縣淮陰駅、清江浦、過河(黄河)王家営、・・と続くが、これらは全て、私にとって、実際にその地へ行った馴染みの地名である。「琉球国京都通事鄭文英墓」については、まだまだ書きたいことがあるが、今は、ここまでとしておこう。

 次は、「南船北馬舎舟登陸碑」を探す番である。
  淮安市の市街地は4つの区からなっている。連雲港からの長距離バスが着く汽車站(バスターミナル)がある清河区を中心にして、北に淮陰区、南に清浦区があり、これらは一続きで淮安の中心をなしている。ここから20キロほど南に離れて楚州区がある。「琉球国京都通事鄭文英墓」を訪れた後、私はタクシーで、「南船北馬舎舟登陸碑」を探して楚州区へ行った。私が、初めて運河を見たのが楚州区だし、「総督漕運公署遺址」があるのも楚州区で、運河に関係のあることは楚州区との先入観があったからだ。しかし、この判断は間違っていた。

楚州区、中心街の賑わい
「鎮淮楼」の陽だまりでトランプをする高齢者

楚州区に到り、「南船北馬舎舟登陸碑」の所在を、街を行く人、城門の陽だまりでトランプをしている人などなど、たくさんの人に聞いたが結局分からなかった。仕方ないので、「漕運総督遺址公園」の芝生に座って昼食休憩。通りで買った焼き芋を食べる。私は胃腸が弱く、中国旅行をすると、慣れない食べ物でよく下痢をした。しかし、焼き芋は、焼き上がって即、食べるので、絶対安全だ。
  昼食が終わって行動再開。「総督漕運公署遺址」見学。「総督漕運公署」について、いくつかの説明書きを合わせると次のようになる。
 「淮安楚州は南北水運の要であり、且つ、東西交通の橋梁であった。南の米を北に運ぶのにも、北の塩を南に運ぶのにも、すべて、楚州を経由したので、楚州は漕運の一大集散地となった。ここに置かれた漕運総署は全国の漕運を主管する最高機構であった。明清代、その組織は広大、権力は盛大で、駐在する官兵は22,000を数えた。清末になって、運河は壊れたままになりその機能を停止した。漕運総署は廃止され、建物は江北陸軍学校に変わった。後、1940年代、日本軍の爆撃によって破壊された」
  現在、正面、門の部分のみが再建され、「漕運総督遺址公園」になっている。破壊された建物の礎石は、ほとんどがそのままに残されている。これは、日本人としてつらい。土地の人は、ほとんど毎日のように廃墟を眼にし、一方、日本人のほとんどは、こういう場所があることすら知らない。

復元された「総督漕運部院」の門 写真中央、何もないところが、日本軍の爆撃による廃墟。現在、建物の礎石だけが残っている