◆ ◆ ◆

 ひとつの感覚が損なわれると、他の感覚がそれを補うかのように鋭くなる――と聞いた事があるけど、今の状態がまさしくその通りだ。
 視覚が利かない代わりに、聴覚は、どんな音も聞き逃さないよう常に耳をそばだて、臭覚は、相手の動きによる空気の流れを嗅ぎ取り、触覚――悔しい事に両手の自由が利かない――は、触れてくるその指先に過剰に反応して、身体全体が勝手に震えてしまう。
 そして、味覚は――、
「――これ、舐めてみて?」
「……、」
 一体、何をさせようとするのか。相手の意図が見えない分、厭(いや)な予感が頭の中を掠(かす)める。
 自分の中に吹き荒れる途惑いを気取られたくないから、ただ無反応でいると、ヒタ、と何かが口唇(くちびる)に押し付けられた。
「っ……、」
 冷たい――氷じゃないか。
 あまりの冷たさにびっくりして、全身に震えが走った。だが、その氷はじっとりと口唇に押し付けられたまま、動こうとしない。
 両手をタオルで拘束されて自由を奪われ、視覚もままならない今、悔しいけど相手のいう通りにするしかない。何より氷によって、痛いくらい冷たくなっていく口唇に耐えられず、仕方なしにその氷へと舌を伸ばした。
 冷たい刺激が、舌を痺れさせる。
「んんっ……っ、」
 氷の溶けた水が滴(したた)り落ちて、顎へ伝い首筋へと流れていく。たかが氷の雫なのに目が見えないというだけで、その流れていく感触がいやらしく愛撫されているような錯覚に陥る。まるで甘美なまでの媚薬が皮膚吸収されていくかのように、己の意思に反して身体が勝手に熱くなっていく。
 そんな反応に気付かない――気付かれたくもないけど――鈍感な相手は、これでもか、と氷を押し付けてくる。
「ん、ん……っ」
 舌がその冷たさに痺れ出すのと反比例して、その塊は小さくなっていき、やがて消えてなくなった。だが、氷と共にあった指が残って、まだ口腔内を支配されたまま。
「ちょ……っ、ふ、んんっ、ん、」
 厭ならその指を噛んでもして追い出せば済む事なのに、何故か出来ない。逆に舌を妖しく蠢(うごめ)かせて、その指に絡ませてしまう。

 ――どうして、こんな事になってしまったんだ?
 そのきっかけを作ったのは、多分――いや、他ならない自分だ。それだけに悔しくてたまらない。その反面、相手に支配される歓びも確かにあって、それが更に悔しさを倍増させてもいた……。

◆ ◆ ◆
 ――大学のレポート提出の期限が迫っていた。
 連日の徹夜で睡眠不足の状態が続いたけど、レポートを無事提出させた。そして、学校から戻るとすぐにベッドへ直行して、そのまま眠ってしまったのがいけなかった。
 翌朝、雀の囀(さえず)りで眠りから覚め、目を開こうと――、開かない。いや、瞼(まぶた)を上げようとしても、痛くて上がらなかった。どうにかしないと、とタオルで冷やしたりもしたけど、ダメだった。
 こんな時、独り暮らしは不便だ、とつくづく思い知らされた。でも、面白い事に頼れる身内がいなかったらいないで、変に冷静さを保っていられる。どこかの感覚が麻痺してしまうのかな? 冷めた思考を張り巡らしながら、もう一方では、この状態でどう対処したらいいのか頭を悩ませた。だからといって、救急車を呼ぶにはどうにも気恥ずかしく、憚(はば)かられる。また別の方法も思い浮かんだのだけど、これも絶対に避けたかった。
 ああでもない、こうでもない、と考えた末、運良く同じ学校に通う顔見知りが、同じワンルームマンションに住んでいたから、何とか頼んで病院へ連れて行ってもらった。
 そして、診察を受けると、コンタクトを装着したまま何日も過ごし、睡眠を取ったのが原因だった。こんな事はたまにあるらしく、医者の慣れた手付きでコンタクトを外され、
「今日一日は、閉じたまま安静にいるように」と、目を包帯でぐるぐる巻きにされてしまった。
 とにかく病院に行けば、万事解決だと思ってたのに、包帯を巻かれるとは……。病院に連れ立ってくれた顔見知りは、既に学校へ行ってしまって、ここにはいない。これじゃあ、どうやってマンションに帰ればいいんだ?
 今度こそ、どうにもならない状況に陥ってしまった、その時。
 さっき浮かんだ別の方法。なるべくなら避けたかった――、でも仕方ない。
 覚束(おぼつか)ない手で、ジーンズのポケットにしまっていた携帯電話を取り出し、ある人物を呼び出す。
 それは、唯一、大切で恋しい存在。
 本音としては、こんな事態になってしまって、情けなくて恥かしくて、正直呼びたくなかった。でも、視界を閉ざされて心許(こころもと)ない時は、その恋しい存在がそばにいて欲しい、というのも本当で……。複雑な思いを交差させながら、電話に出るのを待った――。
 だけど、呼び出したのが、そもそもの間違いだった。それに気付いた時は、何もかもが手遅れで……。
 事態を話した途端、講義の途中にも拘(かか)わらず――とはいえ、既に昼を過ぎていて、昼飯の最中だったらしいが――、すぐに駆けつけてくれたのには一種の感動モノだった。そして、マンションまで送ってくれたのも良かった。――だが、その後だ。
 別にそういう雰囲気でもなかったのに、何がどうなって、そういう雰囲気になだれ込んだのか――、しかも、目が見えないのをいい事に、手を縛って自由を奪い、いいように弄(もてあそ)ばれて――。
 何が「昔、観た映画のような事をしたい」ってんだ。目隠しプレイするような映画なんか知らない。さしずめ十八禁モノに決まってるってんだ。
 なのに、強引で、しかも倒錯的(とうさくてき)な行為に腹が立つというのに、逐一反応してしまう己の身体が恨めしいよ、まったく――。


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