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カラン…… グラスに入った氷が、涼やかな音を奏でる。その氷はグラスの曲面に沿って滑り落ち、かの人の口唇(くちびる)に触れた。 「……、」 口唇に触れただけで、それは氷ではなくなり、熟れた果実から滴(したた)る甘い汁に変わる。「彼」という果実の甘美な蜜液に。 「……んっ、」 その甘い蜜に誘われて、気が付けば彼の口唇に触れていた。 「……な、にする……んん」 蜜を舐め取るように舌で口唇をなぞると、甘い息を吐き出し、その隙を狙って、より深い口付けを交わした。 「……昔、映画で見たんだけど、」 「――映画?」 覗き込むように首を傾げてくるが、そこにある筈の高慢で強い色を帯びた瞳が今はない。そこには真新しい包帯で隠されていて、痛々しい姿を晒(さら)している。でも、その痛々しさが逆に官能的で、奥深くに閉ざしている欲望を簡単に煽ってくる。 「どんな内容だったかは、忘れてしまったんだけど、主人公が恋人に目隠しをして……って、そういうシーンがあって、」 「それって、まさか……?」 彼は、こちらの意図に気付いたようだ。だけど、その後の言葉が出ないらしく、口をぽかんと開いたままだった。 だから、一言、 「うん、してみたい。いい?」 |
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事の発端は、いきなりの呼び出しだった。 派手な外見と裏腹に根は真面目な彼が、大学に来ていない、携帯電話にかけても繋がらない。何か事故にでも巻き込まれたのか、と心配していた矢先だった。昼食中に携帯電話が鳴り響き、受話器からの一声がこうだった。 「病院まで迎えに来い」 何事かと慌てて言われた病院へ駆けつけると、彼は会計の待合室にいた。遠目からでもその姿はすぐに分かる。すらりとしなやかに伸びた手足。触れてしまえば壊れそうな程、細く華奢でガラス細工のような姿態。この人の前に立つ度、自分のような人間がそばにいてもいいのだろうか、と思い悩んでしまう。 だが、今、目の前にいる相手を認めた途端、それは塵よりも軽い悩みでしかなくなり、意識の外へと転げ落ちた。 「……どうしたの、それ?」 瞳の上に包帯が巻かれている姿に、驚きを隠せなかった。 「どうでもいいだろう」 「どうでも、いいって……」 呼び出された時も驚いたが、その痛々しい姿に一気に全身の血が頭に上った。 「も、もしかして、失明……っ、痛ぇ〜」 言いかけた言葉は、脛(すね)の衝撃で最後まで言う事が出来なかった。加減無しの蹴りは、脳天にまで響いて星が飛んだ。 「ばかっ。こんな場所(とこ)で、滅多な事言うんじゃねぇよっ」 はっ、として口に手をあてる。場所をわきまえなくてはいけない、という事をすっかり忘れていた。だけど、仕方がないじゃないか。理由もなく「病院まで迎えに来い」と言われて急いで駆けつけたら、無二唯一の人が目に包帯を巻かれている。そんな姿を目の当たりにされたら、世間の常識なんか一瞬にして吹き飛んで、冷静でいられない。 「おいっ」 「え……?」 目の前に手を差し出されたが、どうすれば分からず、そのまま固まっていたら、 「あのな、包帯は明日にでも取れるんだよ。だから、それまで目の代わりをしろって言ってんの」 ――ああ、そうか。それで、自分は呼ばれたのか。 「ごめん、」 慌ててその手を取ると、 「――ったく、気が利かねぇんだから、」 ブチブチ、愚痴を零す相手にもう一度「ごめん」と謝った。 出逢った頃は、そう言われる度、自分が情けなくて仕方がなかったけど、それがこの人の照れ隠しだって分かった時、本当の姿を見極められた、と嬉しく感じた。その時から――いや、初めてその人の存在を認識した時から、自分はこの人に恋焦がれている。 全体的に綺麗な容貌をして、冷たく気の強い雰囲気を纏(まと)って、性質もそれに倣(なら)ったようなものだけど、この人の本質は、とても優しい。さっき自分の失言に怒ったのも、その本質から来ている。だから、この人の言葉で傷つく事は滅多にない。 しかし、どうしてそういう事態になったのかは、堅く口を閉ざしてまま、決して話してはくれなかった――。 |
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