清々しい朝の光の中で、サガは目覚めた。
今日もまた、平穏な一日が始まる。
その幸せを噛み締めながら、まだ眠そうに半分伏せた目を擦り、サガはベッドサイドに置いていた手帳を開いた。
近日中の予定位は大抵メモを見ずとも覚えているのだが、どういう訳か今朝は一応確認してみようという気持ちになったのだ。
「今日は4月1日だったな。うむ、やはり特に何も・・・・・・何ぃぃぃ!?」
確認してみようと思ったのは、虫の報せだったのだろうか。
眠そうに睫毛を伏せていた眼を目一杯大きく見開いて叫ぶと、サガは大慌てでベッドから飛び起きた。
その頃。
はまどろみの中にいた。
目覚めてはいるが、ベッドの温もりと夢の続きに漂う。
そんな一日の中で一番心地良い時間を、名残惜しげに味わっていたのだが。
ゴンゴンゴンゴンゴン!!!
それは突然何の前触れもなく打ち破られた。
遠慮の欠片もない、盛大なノックの音で。
「も〜〜、朝っぱらから誰よ・・・・・」
ブツブツ文句を言いつつも、出ない訳にはいかない。
は手近にあったカーディガンをパジャマの上から羽織ると、実に面倒臭そうに玄関に出た。
「はぁい・・・・・」
「!!」
「サガ!?こんな時間にパジャマのままでどうしたの?まだ7時にもなってないわよ?」
「大変なんだ、一大事なんだ!!とにかく上がらせて貰うぞ!」
「ど、どうぞ・・・・・」
「おお、言い忘れていた。おはよう!」
「お、おはよう・・・・・」
朝っぱらからテンパっているサガに気圧されつつ、はひとまずコーヒーぐらい出すかとキッチンへ向かった。
「それで?どうしたっていうの?そんなに血相変えて。」
「うむ、実はな。今日は特別な客が来る事をうっかりすっかり忘れていてな・・・・」
「特別な客?誰なの?」
「ギリシャ正教の総主教聖下がお越しになるのだ。」
「そっ、そんな大事な事忘れてたの!?」
目を見開いて驚く。
サガは面目なさそうに顔を曇らせ、出されたコーヒーを一口飲んだ。
「でさ、その人何しに来るわけ?」
「視察を兼ねた会談だ。と言っても、実質は大した話などせんがな。」
「ふぅん・・・・・」
「しかし多少の準備はせねばならない。教会関係の資料を大至急纏めねばならないのだ。」
「今から!?大丈夫なの!?」
「ああ。血ヘドを吐いても何とかする。だからには、他の連中と共に聖下をお迎えし、教皇の間まで連れて来て貰いたいのだ。」
「分かった。あ、ちょっと待ってね。」
キッチンでトースターがチン、と音を立てたので、はひとまず話を中断し、キッチンへ立った。
「お待たせ。その様子じゃ朝ご飯まだでしょ?せめてトーストぐらい食べていきなよ。」
「済まんな。有り難く頂く。」
「それで?その総主教聖下は何時に来るの?」
「8時だ。」
トーストにバターを塗りながら、サガは憂鬱そうに呟いた。
「8時ぃ!?何でそんなに早いの!?」
「年寄りは朝の方が強いのだろう。」
「そんなに早いんだったら、9時になる前には教皇の間に着くわよ!?」
「大丈夫。彼は高齢だからな。12宮の階段が何よりの足止めになるだろう。出来るだけゆっくり来てくれ。」
「う・・・、分かった・・・・」
「それから、聖闘士の事は絶対バレる事のないようにな。ギリシャ正教の司祭といいつつ、実質は違う女神を崇めてワケの分からん殺し屋集団のボスやってます、などと知れたら、この聖域が大変な事になってしまう。」
「そりゃそうね・・・・・」
「だから、他の連中にもくれぐれも気をつけろと言ってくれ。黄金聖衣着用など、以ての外だとな。」
「OK。あ、じゃあ服はどうすれば良いの?僧衣なんてシャカの袈裟以外心当たり無いけど、何着てても良いの?」
「袈裟も論外だ。シャカには特に釘を刺しておいてくれ。服は私の物を用意してきた。これだ。」
そう言って、サガは傍らにどっさりと積んであった教皇の法衣をに渡した。
「の分も入れて全員分ある筈だ。これを着て、何とか僧侶のように振舞って欲しい。」
「・・・・・善処するわ。」
「頼んだぞ。さて、それでは私はそろそろ行くとしよう。雑兵や他の聖闘士達にも、今日は外をうろつくなと通達せねばならんからな。」
「あぁ、大変・・・・・・」
「全くだ・・・・・。ではな。朝食を有難う。また後で!」
サガはコーヒーを一気飲みし、まだ食べかけのトーストを咥えて外に飛び出して行ってしまった。
その後姿を見送ってふと時計を見れば、早くも7時20分。
「いやぁぁ!!間に合わない!!」
時計を見て悲鳴を上げた後、はトーストを丸飲みにしてマッハで支度に取り掛かった。
「ムウ様〜、お姉ちゃんが来てますよ〜。」
「が?」
朝食の真っ最中だったムウは、マグカップを置くとを出迎えに行った。
「あっ、ムウ!おはよう!」
「おはようございます。どうしました、そんなに慌てて。」
「たっ、大変なの、緊急事態なの!」
「落ち着いて。とにかく何があったのか話して下さい。」
物静かな声で諭され、は先程のサガの話を伝えた。
「・・・・・なるほど。」
「ね?大変でしょ!?」
「確かに。全く、あの人も時々抜けてますからね。まあ今更言っても仕方ないでしょう。8時においでになるのでしたら、もう後15分もありませんね。」
「うん・・・・・」
「今から全員に理由を説明して回るのは無理でしょうね。第一きっと殆ど全員まだ寝てるか、寝起き状態でしょう。テレパシーもシカトされる事間違いなしですね。」
「じゃあ、行きしなに説明して合流して貰うしかない・・・・か・・・・」
「でしょうね。ともかく聖下を出迎えに参りましょう。私の分の法衣を下さい。」
「はい、これ。あ、私も着なくちゃ。」
ムウとは法衣を手早く纏うと、貴鬼に留守番を言いつけてと共に白羊宮を出た。
二人が聖域の入口に到着したのは、8時3分前だった。
まだ誰もおらず、どうやらギリギリ間に合ったようである。
「あぁ・・・・、緊張する・・・・」
「大丈夫ですよ。総主教の一人や二人、何てことはありません。」
「でも緊張するもの・・・・・。それに皆の反応とか・・・・」
「そっちは要注意ですね。失礼な事をしでかさなければ良いのですが・・・・。」
「あっ、あれじゃない!?」
向こうの方から黒塗りの乗用車が走って来たのを目に留めたは、法衣の襟元を正した。
車はみるみる内に近付いて、とうとう二人の目の前で停車した。
まず運転手が出てきて、後部座席のドアを開く。
中から現れたのは、白髪の老人であった。
小柄な身体ながら、纏うオーラは大きく深い気がする。
その老人は、ムウとを見ると、皺だらけの顔を笑顔にしてみせた。
「おはようございます。私がギリシャ正教の総主教、ガリゴリ・ゴリグレオでございます。出迎えご苦労様です。」
「おはようございます、え〜と・・・・、ガリガリ・ガリグレオ聖下?」
「ガリゴリ・ゴリグレオ聖下ですよ、。この度は遠い所をようこそ、聖下。」
「はっ!し、失礼致しました聖下!!」
「いえいえ。構いませんよ。私の名は呼び難いとよく言われます。」
「さぁ聖下、このような所で立ち話も何ですし、サガ司祭も聖下のお越しをお待ちしております故、早速参りましょうか。」
ムウは柔らかな物腰で、全くの大嘘をしゃあしゃあと言ってのけた。
いつまでもこんな所で立たせておく訳にもいかないので、こう言うしかなかったのである。
今頃サガは総主教を待ち侘びているどころか、血ヘドを吐いている頃だろう。
微笑んで頷いた総主教に、付き添いの運転手が共に行くと申し出たようだが、総主教はそれを断り、ムウとに向き直った。
「さあ、では参りましょうか。」
「「はい。」」
本当のところ、参りたくはない。
この先に待ち受けている最強(凶)の連中の面々を思い浮かべて、ムウとは総主教に聞こえないように小さく溜息をついた。
黄金聖闘士達は除くとして、若いでもこの階段を頂上まで上がるのはそれなりに疲れる。
高齢の総主教ならば、途中で力尽きたり、転がり落ちて骨の10本位折ってしまうかもしれない。
そう案じたは、頼りなく杖をついて階段を登る総主教に申し出た。
「聖下、宜しければ手をお貸ししましょうか?」
「おお、これはこれは。有難うございます。」
「どうぞごゆっくりお登り下さいね。足元にお気をつけて。」
「はい。」
にこにこと微笑む総主教の手を取りながら、は殊更ゆっくりと階段を登った。
それは何もサガの言いつけに従っているとか、総主教の身を案じているというだけではない。
自分自身も恐ろしいのだ。
何しろサガの法衣はやたらにデカく、裾を引き摺る程である。
うっかりしていると、裾を踏みつけて転びそうになるのだ。
そうはならないように、空いた方の手で法衣をたくし上げて持っているが、気が気でない。
「、大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。」
「でも貴女、自分自身で一杯一杯に見えますよ。言ってくれたらいつでも代わりますから、くれぐれも転ばないで下さいね。」
「あはは、有難う。気をつける。」
総主教に聞かれないように小声で会話していると、総主教はの方をじっと見てにこりと微笑んだ。
「貴女はアジアの方なのですね。日本ですか、中国?韓国?」
「日本です。あ、申し遅れました。私、あの・・・・シ、シスターと申します。」
「ほう。これはまたはるばる日本から。どういったいきさつでシスターに?」
「そっ、それは・・・・・!」
デスマスクに殺されかけたところを助けて貰った代わりにここに来た、などとは言えない。
は曖昧に笑って誤魔化した。
「え、ええ。まあ色々と紆余曲折があって・・・・・、それで・・・・」
「ほほう、そうでしたか。シスター、これからも頑張って下さいね。」
「は、はい、有難うございます〜・・・・・」
「そういえば、そちらの貴方。貴方もギリシャ人ではなさそうですね。」
「私ですか?はい、出身はチベットでして・・・・」
「ほう、チベット。これはまた珍しい。お名前は?」
「ムウと申します。」
「それはそれは、チベットからわざわざ。色々と大変でしたでしょう。」
「えぇ、まあそれなりに・・・・・」
大変だったのは聖闘士稼業の方で、ギリシャ正教に関わった事などないのだが、そうは言えない。
ムウは適当に笑って誤魔化した。
「これまたどういったいきさつで僧侶に?」
「まあ、色々と紆余曲折がありまして・・・・・。大恩あるサガ司祭にお仕えするように・・・・」
恩らしい恩など取り立てて何もない、というかむしろ師匠を殺されこっ酷い目に遭わされたと言っても良いが、ムウは敢えてそう言っておいた。
「ほほう。彼はまだ若いが、良い司祭だと噂の高い人物。流石ですな。」
「・・・・・そうですね。」
「ときにチベットの方は、皆そのような眉をされるのですか?こう、丸く・・・・」
「・・・・・・・いいえ。私の民族だけです。」
「ムウ、笑顔が怖いよ・・・・!」
笑顔が瞬時に剣呑な色を帯びたのを見たは、慌ててムウの脇腹を肘で突付いて小声で咎めた。
「おや、そうですか?見間違いでしょう、ふふふ。さて、ようやく金牛宮が見えてきましたね。」
「アルデバラン、黄金聖衣なんか着てないでしょうね・・・・・。」
「可能性は大ですね。」
「私、先に行って声掛けてくる!服も渡さなきゃいけないし。聖下をお願いね!」
「分かりました。」
はムウに総主教を託すと、一礼をして一足先に駆けていった。
階段を飛ばし飛ばしに駆け上がり、金牛宮に転がり込めば、嫌な予感は的中していた。
「アルデバラン!!!」
「おお、。おはよう。どうした、そんなに目を吊り上げて?それにその格好は・・・・」
「脱いで!今すぐ脱いで!!」
「なっ!?いきなり何を言い出すんだ!?」
突然の爆弾発言に大いに驚いたアルデバランに、はずかずかと詰め寄った。
「聖衣よ聖衣!!それ着てちゃ駄目なの!!」
「何だ、聖衣か;・・・・・・なに?どういう事だ?」
「あのね、かくかくしかじか・・・・・」
は手短に事情を説明した。
「何だって!?」
「もうそこまで来てるの!早く早く早くーーー!!」
「わ、分かった。すぐ用意する!」
事情を飲み込んだアルデバランは、手早く聖衣を脱ぐと、に手渡された法衣を纏った。
「・・・・短いな。アホみたいじゃないか?」
「気にしちゃ駄目よ。私なんか逆に長くて間抜けに見えるでしょ?」
確かに。
アルデバランは丈が足らずにちんちくりんだし、は長すぎて子供が大人の服を着ているように見える。
互いの不恰好な姿を見て溜息をつきながら、アルデバランとは、ムウと総主教の到着を待った。
ややあって。
「やあ、お二人とも。お待たせしました。」
「聖下、お疲れではありませんか?」
「ええ、大丈夫ですよ。」
「アルデバラン。こちらがギリシャ正教の総主教、ガリゴリ・ゴリグレオ聖下です。ご挨拶を。」
「これは聖下、このような僻地までようこそお越し下さいました。」
「出迎えご苦労様です。ガリゴリ・ゴリグレオです。以後宜しく。」
「はっ。こちらこそ。聖下、お疲れでなければ、早速参りましょうか。」
「はい。それにしても貴方は大きな方ですね。僧侶というよりは、まるで格闘家のようだ。」
まるでもなにも、正にそっち系の人間なのだが、アルデバランはヘラヘラと笑ってお茶を濁した。
「貴方もギリシャ人には見えませんが、失礼ながらご出身は?」
「ブラジルです。」
「ほほう。これはこれは。こちらの区画の僧は随分外国人が多いのですね。」
「ええ、まあ・・・・・。友好と信仰は国境を越えると言いますか・・・・」
「ううむ、素晴らしい。」
全くのハッタリなのに、それでも総主教は気付かず感心したように頷いている。
それ以上深く突っ込まれない内にと、三人は総主教を連れて司祭のアジト、双児宮に向かった。
同じ顔をした弟の出方を恐れながら。