その日、城戸沙織はいつになく沈んでいた。
ここは教皇の間にある沙織の私室。
黄金聖闘士達との謁見が終わった後、沙織はだけを連れてこの部屋に引き篭もっていた。
「で、どうしたの、沙織ちゃん?話って何?」
「ええ・・・・・・・」
温かいアールグレイを一口飲むと、沙織はカップから立ち昇るベルガモットの香りのような仄かな溜息をついた。
「なぁに、どうしたの?溜息なんかついちゃって!」
「さんにこのような事をお話しするのは気が引けるのですが・・・・、でもやっぱり私には・・・・・、こんな事を相談出来る相手はさんしかいなくて・・・・・」
「・・・・・どうしたの?話してみて。」
沙織の様子から只ならぬ雰囲気を読み取ったは、真剣な顔付きで沙織を促した。
すると沙織はもう一度溜息をつき、今にも消え入りそうな声でぽつりと呟いた。
「星矢は・・・・・・、一体誰が好きなのでしょう・・・・・・」
「え?」
「彼の周りには、いつも彼に想いを寄せる女の子が・・・・・。なのに彼は、どうしてかしら・・・・・、誰にでも優しい・・・・・・。」
「・・・・・・・プ」
「プ?」
「プーーッ!!!」
口元を押さえて吹き出すを見て、沙織は瞬く間に頬をピンクに染めた。
「酷いわ、さん!笑うなんて!!」
「ごっ、ごめんなさい!そんなつもりじゃなかったの!ただちょっと可笑しくて!あっ、沙織ちゃんの事じゃないのよ!?星矢の事よ!だって、あの星矢がそんな風に女の子に想われるなんて・・・・・、考えただけでもおっかしくて・・・・・!」
「そ、そうでしょうか?」
「いや〜、私のイメージでは、あの子そんなに女の子にモテるようにはどうしても思えないからさ〜。」
ようやく笑いを引っ込めたは、咳払いを一つすると、改めて沙織に向き直った。
「つまり、沙織ちゃんのその浮かない顔の原因って、あの子なのね?」
「・・・・・・ええ。」
「何があったか、詳しく話して?」
「・・・・・でも、誰にも言わないで下さいね?」
「勿論。」
― なるほど、女神は相変わらずペガサスにご執心でいらしたのだな・・・・
しかし、その女同士の秘密の会話を盗み聞きしていた男が一人居た。
アフロディーテだ。
何処となく沈んだ様子の沙織を喜ばせようと、今朝咲いたばかりの薄いピンクの薔薇の花束を持って来たのだが、この様子では渡せそうにないと、アフロディーテは柱の影に身を潜めていた。
勿論ジェントルマンたるもの、この場はこれ以上何も聞かずに立ち去るのが正しいマナーと言えよう。
しかし、気になるものは仕方がない。
「実は最近、星矢があまり私の屋敷の方に来てくれないのです・・・・・」
密かに聞き耳を立てているアフロディーテに気付く事なく、沙織は堰を切ったように話し始めていた。
「どうして?」
「辰巳に調べさせましたところ、このところは毎日のように星の子学園で過ごしているようで・・・・」
「孤児院で?」
「孤児院には・・・・・・、美穂さんがいらっしゃいますから・・・・・」
「あ」
美穂の名を聞いて、は沙織の言わんとしている事が全て分かったような気がした。
美穂は星矢やと同じ、星の子学園で育った娘だ。
二人は幼い頃からの付き合いで、しかも美穂は昔から、星矢に仄かな恋心を寄せている。
勿論、沙織とて星矢とは古い付き合いなのだが、その沙織も知らない星矢を知っている美穂に、沙織が嫉妬の念を抱いたとて、何の不思議があろうか。
「な、なるほどね・・・・・・・。それで、星矢と美穂ちゃんの事、心配してるんだ?」
「し、心配だなんて・・・・!私、そういうつもりでは・・・・!」
「ふふっ、ここまで話しておいて、今更隠さなくても良いじゃない。星矢が美穂ちゃんとベッタリくっついている気がして、心配なんでしょ?」
「・・・・・・・・ええ。」
恥ずかしそうに、しかし確かに、沙織はこっくりと頷いた。
それもこれも全て、と女同士二人きりだという安心感がそうさせたに違いない。
しかし生憎と、この場には招かれざる男二人が潜んでいた。
そう、二人だ。
「しまった・・・・・、来る時を誤った・・・・・・」
「今更後悔しても遅い。聞いてしまった以上は、しっかり身を隠していたまえ。」
アフロディーテに押し込められるようにして柱の影に身を隠しながら、シュラは己のタイミングの悪さを嘆いていた。
今日、沙織と辰巳が日本へ帰る際にはシュラが空港まで送る事になっている為、飛行機の時間を訊こうとしただけだったのだが、そんなつまらない用事ならば後に回せば良かった、
いや、辰巳で間に合わせておけば良かったとシュラは激しく後悔したのだが、アフロディーテの言う通り、もう遅い。
の、『な、なるほどね・・・・・・・』の辺りから、バッチリ話を聞いてしまったのだ。
「・・・・・どうでも良いが狭いぞ。少し横に寄れ、アフロディーテ。」
「無理だ。私がはみ出してしまうだろう。私だって君と肌を摺り寄せるなど耐え難いが、辛抱しているのだ。君も我慢したまえ。」
「気色の悪い言い方をするな。」
「シッ、静かに。女神とに聞こえてしまう。」
などという会話がボソボソと繰り広げられている事にも気付かず、沙織は更に話を続けた。
「美穂さんは、星矢の事が好きです。そして多分・・・・・、星矢も・・・・・。私、まだ殿方とお付き合いなどした事はないのですが、それでもそれ位は分かります・・・・・。」
「沙織ちゃん・・・・・・」
「それを言うなら、シャイナも星矢の事が好きなようですが、シャイナは青銅聖闘士の星矢より格上の白銀聖闘士であり、年上という事もあります。だから星矢は、彼女に対しては少し気後れしているようです。そう、女の子として見るというよりは、先輩という風に見ている感じで・・・・。」
「なるほどね・・・・・」
「でも美穂さんは同い年で、普通の女の子です。私のように女神の化身でもなければ、シャイナのように聖闘士である訳でもない、普通の女の子・・・・・・。彼女は私達と違い、自分の気持ちに正直に生きる事が出来ます。私は彼女が羨ましい・・・・・。」
憂いを帯びた沙織の横顔を、は居た堪れない気持ちで見つめていた。
沙織は若くして、いや、幼くしてと言った方が正しいだろうか、とにかく誰もが羨む美貌と富と権力を持ち、尚且つこの地球上に二人と居ない、特別な運命を背負う少女だ。
彼女の言う普通の女の子ならば、彼女のステータスに憧れ、代わって貰えるものなら代わって欲しいと願う少女達も多い筈。
しかし、それは沙織とて同じ事なのだ。
両親・兄弟姉妹の居る賑やかな家庭で暮らし、毎日学校に通い、同じ年頃の少女達と遊んだり、ボーイフレンドと連れ立って歩いたり。
沙織はそんな他愛のない生活に憧れを抱いている。
自身にも覚えのある事だが、所詮人はないものねだりをしながら己の一生を全うする生物のようだ。
それは如何に女神の化身である沙織とて、例外ではなかった。
「でもね、沙織ちゃん。星矢の事はともかくとして、そんな風に自分を決め付けるのは悲しくない?」
「・・・・・・・」
「そりゃ、何も知らない私が言っても、ただ沙織ちゃんの気を悪くさせるだけかも知れないけど、恋の一つぐらい、したって良いじゃない?年頃の女の子なんだもの。そういう、自分ではどうにも出来ない感情まで無理に押し殺す事はないと私は思うんだけどなぁ。だって、女神の化身と言ったって、沙織ちゃんは生身の人間でしょ?恋だって嫉妬だって、して当然よ。」
「さん・・・・・・」
沙織はそこで初めて、嬉しそうに薄らと微笑んだ。
しかし、それはそう長くは続かなかった。
「でも・・・・・、やっぱり駄目なのです・・・・・」
「どうして?」
「私・・・・・、怖いのです・・・・・。」
「何が?」
「もし私が・・・・・・・、星矢に想いを打ち明けたとしても・・・・・・、もしもその時星矢が私の気持ちに応えてくれなかったらと、そう思うと・・・・・・」
不安そうに睫毛を伏せる沙織は、やはりどこまでも普通の少女だった。
常日頃は女神として、またグラード財団の総帥として大人顔負けの気丈な振舞いを見せていても、本当の彼女は普通の少女達と何ら変わらない、純真な心を持った少女だった。
「さんも、こんな気持ちになった事はありますか?」
沙織は今、只の一人の少女として、まるで母か姉にでも問うように、心細げにに尋ねた。
それをしかと聞き届けている男が三人居るとも知らないで。
そう、二人ではない。三人だ。
「へ〜・・・・・、あの気位の高いお嬢さんがねぇ・・・・・」
「シッ、静かにしろ、デスマスク。」
「見つかったら事だぞ、しっかり隠れたまえ。」
シュラとアフロディーテと重なり合うように柱の影に身を隠しながら、デスマスクは初めて見た沙織の頼りなげな素顔を意外そうにまじまじと見つめていた。
にちょっとした用があって呼びに来たのだが、まさかここで男子禁制の女の子トークが繰り広げられていたとは、夢にも思っていなかったのだ。
「あのお嬢さん、本気でペガサスの小僧に惚れてたんだな。」
「・・・・あの方も女性だ。好いた男の一人ぐらい、居ても可笑しくはあるまい。しかし、それが何故にペガサスなのかが謎だが。」
「そうだな。礼儀正しくて大人びたうちの紫龍ならばまだ話も分かるが。」
「誰がお前んとこの紫龍なんだよ、シュラ。」
「紫龍はこの俺が全てを託した男だ。だが、紫龍には既に春麗というものがあるからな。二人の仲を裂かれる事は、それはそれで困るのだが、しかしまたよりによってペガサスなどとは・・・・・。」
「全く同感だね。ペガサスは聖闘士としてはともかく、男としてはまだまだ未熟な坊やだ。全く、女神も彼の何処が良いのだか・・・・・・」
「言えてるぜ。色気より食い気なやんちゃくれで、鉄砲玉みてぇな元気だけが取り柄と言うかよ。」
沙織にとって星矢は、胸が痛くなる程想いを寄せる相手だ。
にも関わらずこの男達三人は、沙織やに気付かれないよう気配を消しているのを良い事に、星矢の事を好き放題にこき下ろしていた。
「勿論あるわよ。もしも告白して振られちゃったら・・・って考えると、怖いんだよね。」
「ええ・・・・・。だから、そんな事になる位なら、このまま何も変わらない方が側に居られるかもしれない、と思ってしまって・・・・・。」
「分かるわ、その気持ち。告白しない内は、今の関係が保証されてるもんね。」
「そう、そうなのです・・・・!」
女二人組はそんな事になっているとは露知らず、会話のボルテージを上げ始めた。
「でも私・・・・・!私・・・・・、やっぱり駄目なのです!一歩前に踏み出す勇気など持てないのに、それでも諦めきれなくて・・・・!」
「うん、分かる、分かるわ・・・・・・」
「一歩先の未来が見えたら、どんなに良い事か!でも、そんな事は不可能なのです!仮にも女神の化身なのに、私には何の力もない・・・・!」
「皆そう思うわよ。だから占いなんてものがあったりするんだと思うわ。」
「ええ。でも私は、確実な未来が見たいのです・・・・!ですからさん!!」
「な、なぁに!?急に大声出して!?」
「私、さんにお願いが・・・」
沙織がそう言いかけた時、デスマスクの隣に立っていたアフロディーテの長い金髪が一本、秋の微風にたなびいてデスマスクの鼻先を擽った。
「っへ・・・・・、へっ・・・・・・」
「?・・・・・・おい・・・・!?」
「堪えろ、デスマスク・・・・!ここでしては・・・」
「ヘーーーックショイ!!!とくらぁ!」
デスマスクの異変に気付いたシュラとアフロディーテが何とか止めようとしたが、紙一重で間に合わず、デスマスクは『何でわざわざそんな大声出すの?』と訊きたくなるような馬鹿デカい声を張り上げて、豪快なクシャミを飛ばした。
そうなれば、当然こうなる。
『あ』
『あ゛』
『あ゛〜〜・・・・』などと唸りながら洟を啜るデスマスクを他所に、沙織と、そしてシュラとアフロディーテは、気まずそうな顔を突き合わせ、暫し沈黙する事となった。
「酷いわ、皆さん!立ち聞きするなんて!」
羞恥の余り怒り心頭な沙織の前に跪き、シュラとアフロディーテは平身低頭謝罪をしていた。
「も、申し訳ございません、女神!このシュラ、断じて立ち聞きするつもりなどでは!ただ、出るに出そびれたと申しますか何と申しますか・・・・」
「失礼しました、女神。お詫びといっては何ですが、この薔薇を。」
沙織に薔薇の花束を渡したアフロディーテは、一応隣で跪いているデスマスクに向かって、刺すような視線を送った。
「それにつけてもデスマスク!私の髪を鼻の中に入れるとはどういう了見だ!?」
「そんなモン、好き好んで入れる訳ねぇだろ!!テメェがその鬱陶しい長髪をソヨソヨソヨソヨたなびかせてやがるから入って来たんだろうが!!」
「何だと!?言葉が過ぎるぞ、デスマスク!!まずは一言詫びろ!!」
「うっせー!誰が詫びるか!!テメェこそその鬱陶しい髪の毛を切りやがれ!!」
「おのれ、やる気かデスマスク!!!」
「上等だ、かかって来いや!!!」
「やめんか馬鹿共!!!!」
今にもおっ始めようとしていたデスマスクとアフロディーテを腕力で鎮圧し、シュラは再び沙織の前に跪いた。
「かっ、重ね重ね申し訳ありません!!こいつらは俺が責任を持って始末致しますので!!」
「始末って!シュラもちょっと落ち着いて!!今はそんなどころじゃないのよ!!」
「何?」
に小突かれたシュラは、目の前の沙織を見てハッと口を噤んだ。
「女神・・・・・・・」
沙織は、今にも泣き出しそうな顔を俯かせていた。
同じ女であるにだからこそ話せた事を、あろう事か黄金聖闘士達に立ち聞きされ、おまけにそのショックも癒えぬ内に、何だか良く分からない、しかし確実に下らない理由でギャンギャンと騒がれたのだ。
怒っていいやら泣いていいやら、沙織としてもどうしたら良いのか分からないのだろう。
「さ、沙織ちゃん・・・・・、落ち着いて、ね!?」
「さん・・・・・・・、私・・・・・・」
「あっ、じゃあ、場所を変えようか!?ね!?私の家に来る!?」
精一杯気を利かせたつもりのに、沙織は力なく首を横に振った。
「いえ・・・・、もう良いんです・・・・・・」
「でも沙織ちゃん・・・・・、私にまだ何か話したい事があったんでしょ?」
「ええ、ですからここで。」
「えっ!?い、良いの!?だって、この人達居るのよ?」
に指を指された『この人達』は、揃って居心地の悪そうな顔をし、退室する素振りを見せた。
「し、失礼しました。直ちに退がりますので、ごゆっくりどうぞ、女神。」
「申し訳ございませんでした、女神。デスマスク、君も頭を下げろ!!」
「ヘーヘー、申し訳ございませんでした。んじゃ、そういう事で。」
「待って下さい、皆さん。」
しかし、それを沙織が呼び止めた。
「私の恥ずかしい話を立ち聞きしておいて、今更知らん顔は余りに酷いではありませんか。」
「恥ずかしい話って、その言い方はどうかと思いますぜ、女神。」
「あら、どうしてですの、デスマスク?」
「普通そういう言い回しをするのは猥だ・・・・・・・・、いえ、何でもないッス。」
シュラとアフロディーテに殺人光線のような眼差しを浴びせられたデスマスクは、皆まで言わない内に口を閉ざした。
「そうですか、何だか良く分かりませんが・・・・・、ともかく、私の話を聞いた以上、あなた方にも是非協力をお願いします。」
「は?」
「へ?」
「な、何を?」
きょとんと目を点にするアフロディーテ、デスマスク、シュラに向かって、沙織は意を決したように口を開いた。