世界には、眉唾ものの情報が数多く流れている。
掌をかざしただけで怪我が治るとか、水を飲んだだけで病気が治るとか。
見るからに嘘臭い雑誌の広告やドキュメンタリー番組などを目にする度に、人はそれを『嘘つけ〜』と鼻でせせら笑い、『それで治りゃ病院なんか要らねんだよ』と毒づく。
そしてそれきり、そんな情報があった事自体を忘れてしまう。
しかし彼は、ある日気付いてしまったのだ。
己の力をもってすれば、奇跡が起こせるという事に。
そんなとある日の昼下がり、チャンスは突然巡って来た。
獲物が自ら火の中に飛び込んで来たのである。
「なぁ、。」
「なぁに〜?」
特に用もなくやって来て、巨蟹宮のリビングでのびのびと寛いでいるに、デスマスクは珍しく猫撫で声で話しかけた。
「いや、ちょっとな。お前、どっか悪いところねぇか?」
「悪いところ?」
「おう。頭と顔以外でな。」
「何よそれー!いきなり失礼ねー!」
「イテ、イテテテッ!冗談だよ冗談!」
にボコボコと殴られながらも、デスマスクはヘラヘラと笑って繰り返した。
「頭と顔は冗談だけどよ、冗談抜きでどっか悪いところねぇのか?」
「え?何よ急に?私、具合悪そうに見える?」
「いやいやそうじゃねんだけど、どうかな〜〜・・・・と思って、さ。」
は暫し考え込んで、そういえばと頷いた。
「そうねぇ・・・・・、強いて言えば首が痛い、かな?」
「首?どうしたんだよ?」
「今朝寝違えたの。横向くと痛くてさ〜。」
『放っとけば治るんだけどね〜』と続けるの言葉は無視して、デスマスクはポンと手を打った。
「よし、その寝違えた首、このデスマスク様が治してやろうじゃねぇか。」
「え、デスが?どうやって?ま、まさか無理矢理首の筋を伸ばしたりするんじゃないでしょうね!?駄目っ、駄目駄目駄目っっ!駄目だからね!!触らないで!!!」
「何もそんなに拒絶しなくても良いじゃねぇかよ。誰も力任せに治すとは言ってねぇだろうが!ちゃあ〜んと良い方法があるんだよ。」
「良い方法?」
「おう。実に画期的な、人類の常識を超えた治療法がな。」
食えない笑みを浮かべたデスマスクに手招きされるまま、は彼の口元に耳を近づけた。
「おい、デスマスク。入るぞ・・・・・・、っと・・・・・・」
そこへ本日二人目の客が巨蟹宮を訪ねて来た。
シュラである。
何が起きているかなど知る由もないシュラは、巨蟹宮のリビングに入るや否や、そこに広がっている光景を目にして、切れ長の瞳を目一杯見開いた。
「あっ、シュラー!!助けてーー!!殺されるーーー!!!」
シュラが目にしたものは、テーブル上で倒れたカップから零れているコーヒー、リビング内に渦巻く気味の悪い澱んだ空気の渦、それを作り出しているデスマスク。
そして、悲痛な顔で床に這い蹲っているの姿であった。
「おい!?何をしているんだ!?!?デスマスクお前ッ、を殺す気か!?」
「うっせー、黙ってろシュラ!!」
「助けてシュラーーッッ!!」
「とち狂ったか、デスマスク!?やめろ、早まるな!!相手は無力な女だぞ!!これは殺人だぞ!!」
「だーから引っ込んでろっての!!これには未来が掛かってんだよ!!」
止めに入ったシュラを猛然と押し退けて、デスマスクは積尺気への入口を大きく開いた。
一層暗さと深さを増したおどろおどろしい穴のような渦が、魂を呑み込む瞬間を今か今かと待ち侘びているように見える。
「そろそろ年貢の納め時だぜ、。」
「嫌、嫌・・・・・、本当にやめてよデス・・・・・!そんなの絶対無理だって・・・・!」
それでもは、最後まで力を振り絞って果敢に抵抗を続けていた。
零れたコーヒーでセーターの袖口が汚れるのも構わずに、指先が白くなる程力一杯床にしがみ付いている。
だがそれも時間の問題、所詮は虚しい抵抗であった。
「さあ、観念して逝って来いや!!」
「いやああああーーーーッ!!!!」
「ーーーー!!!」
シュラが虚しく手を差し伸べた先で、は急にガクリと力を失った。
そう、デスマスクの手によって、とうとう魂を積尺気に飛ばされてしまったのだ。
「・・・・・・・!」
もしもが聖闘士であったなら、或いは積尺気から生還を果たす事が出来たかもしれない。
しかしは何の心得もない普通の女、積尺気に送られては事実上死んだも同然である。
シュラは目の前でデスマスクに殺されたを愕然と見つめ、それから激しい怒りを瞳に湛えてデスマスクの胸倉を掴んだ。
「貴様・・・・・・!どういうつもりだ!!!」
「落ち着け、落ち着けってばよ!!」
「これのどこが落ち着ける状況だと言うのだ!!!ええい、お前も今すぐ積尺気に飛んで、の魂を呼び戻して来い!!」
「おう、今から行くとこだよ。早くしねぇと本当に死んじまったら困るからな。」
「お前の始末はその後だ!俺のエクスカリバーで、欠片も残らぬ程切り刻んでやるから覚悟しておけ!!・・・・・・・・って・・・・・・・・・・、何だと?」
デスマスクの言葉に我に返ったシュラは、彼の胸倉を掴んでいた手をようやく離したのであった。
「・・・・・・・つまり、何か?お前の力を医学に役立てたい、と。こういう事か?」
「そうそう、そんな感じだ。不治の病なんかで苦しんでる人間を救えるのは、この俺様の力しかねぇって事に気付いた訳よ。」
「その方法が、積尺気冥界波、という事か?」
「おうよ。最新の医療技術をもってしても助からねぇ程イカレた身体を治す方法はたった一つ、一度死んでリセットする事だ。それが出来るのはこの俺様の技・積尺気冥界波だけってこった。」
床にうつ伏せた状態のの遺体(?)を前に、デスマスクはシュラの尋問を受けていた。
放置されているには実に気の毒な状態だが、本当の殺人現場に於いても、刑事や鑑識は被害者の亡骸を前に、最低限必要な実況見分を進めるではないか。
従ってシュラも、最低限現状を把握する為の情報を、デスマスクから聞き出していたのである。
「生と死は紙一重、陰と陽、表裏一体。死を司る俺様は、逆の見方をすれば生をも司るって訳だ。俺ってある意味神じゃねぇ?」
「何が神だ、たわけ。」
「たわけとは何だよ。現に俺の積尺気冥界波を喰らって、紫龍は見えなかった目が見えるようになったじゃねぇか。」
「しかし、あれは紫龍がお前を倒す為に極限まで小宇宙を燃やした事で起きた奇跡じゃなかったのか?或いは、春麗の紫龍を想う心が生んだ奇跡か・・・・・」
「いーや違う!!俺はそうは思わねぇぞ!!一度死の国(の入口)まで行って帰って来た事が大きな要因だ!!!」
シュラの言葉を力一杯否定して、デスマスクは力説を続けた。
「死の国は、普通のモンじゃそうそう行けやしないところだぜ。亡者、逆の観点で捉えれば、これから生まれ変わる予定の魂しか行く事が出来ねぇ。そんでもって、これから生まれ変わる魂はまっさらの状態だ。怪我も病気もしていない、何のダメージも受けていないまっさらの、な。この状態で生還すれば、身体を蝕んでいたものから解放されるって訳だ。」
「どんな理屈だ、それは・・・・」
「お前だって人間の精神力の凄さは知っているだろ?魂は肉体をも変化させる。」
デスマスクの分かったような分からないような理屈、いや屁理屈に、シュラは、渋々ではあったが、とうとう納得してしまった。
容疑者の供述に簡単に納得しては刑事失格だが、生憎とシュラはサツの手の者ではない。
とにかく、呆れ半分で納得したところで、シュラはふと湧いた疑問を口にした。
「しかし、それでどうしてを?」
「にはな、この人類史上最大の歴史の幕開けに一役買って貰ったんだよ。」
「それなら何もでなくても、俺達聖闘士で試せば良かったんじゃないのか?」
「それじゃ意味ねぇんだよ。もし実験台が聖闘士だったら、小宇宙を燃やしたせいで治ったのか、積尺気パワーのお陰で治ったのか、そこんとこがハッキリしねぇだろ?俺の持論は後者だが、そいつを証明する必要があるからな。奇跡が起こる理由を正確に弾き出してこそ、世の中に広める事が出来るんだ。」
「う、そ、それは・・・・・・」
「それにな、世の中の大半は非力な一般人だ。そいつらでもちゃ〜んと積尺気から生還出来るという証明もしたい。そこまで成し遂げて、初めて人を救う事が出来る。」
「どうでも良いが、お前の口からそんな言葉を聞く日が来ようとはな。」
シュラは驚きや呆れや皮肉、その他諸々の心情が混ざった声でこう言った。
今しがた展開されたデスマスクの話は、もっともらしすぎて気味が悪い、というのがシュラの本音だったのである。
「うるせぇ。とにかく、は人類の更なる発展の為に身を呈してくれた訳だ。」
「しかし、は健康そのものだぞ?」
「それがな、うまい具合に首を寝違えててくれたんだよ、アイツ。」
「命を懸けて実験台になっても、得るものはたかが寝違えの治癒だけか。不憫な・・・・・」
「立派な女だぜ、あいつは。」
ウンウンと頷くデスマスクの前では、が相変わらずうつ伏せで死んでいる。
床を引っ掻くような形で抵抗した跡を残しているその指先に、シュラはふと注目した。
「ん?が何か書き残しているぞ。」
「ん?何だぁ?」
「D・・・・・・・・?」
零れたコーヒーで床に書き記された文字は、確かに『D』の形をしていた。
それを見たシュラは、暫し首を傾げて考え込んだ後、頭に浮かんだ推測を口にした。
「D、D・・・・・、デスマスク、これはお前の頭文字じゃないか?」
「ああ、なるほどな。確かにDだ。」
「もしかして、これが俗に言うダイイングメッセージというやつだろうか?」
「多分そうじゃねぇの?」
「人類の発展の為に身を呈した割には、死にたくないオーラがひしひしと伝わってくるな。」
「まあまあ、細かい事ぁ良いじゃねぇかよ。」
「開き直りおって・・・・・・・・・・。しかし何だな、目の前で現場を目撃していた俺が居たのに、わざわざダイイングメッセージまで残さなくてもな;」
「ははは。アイツ用意周到すぎて、時々無駄な事するよな。あと、TVの見すぎだ。」
「確かに否めん・・・・・・・;」
デスマスクがカラカラと笑うなか、シュラはバッタリと倒れているの後頭部に、心底不憫そうな視線を投げ掛けたのであった。
「さてっと。んじゃ俺もそろそろ行ってくるわ。」
「さっさと行け。幾ら世の為人の為だからとて、万が一にもしもの事があったら、只ではおかんからな。」
「心配すんなよ。ああそうだ。お前さあ、暇ならここで一応様子見ててくれよ。」
「・・・・・・分かった。」
留守をシュラに頼み、デスマスクは自らも積尺気へと赴いた。
シュラから見えないよう背けた顔に、あくどい笑みを浮かべながら。