聖闘士88の中で最も美しい男、魚座のアフロディーテ。
それはその容姿だけに限らず、守護宮においてもそうであった。
必要最小限かつ最上級の質を誇る家具が、壁に掛かる趣味の良いリトグラフが、嫌味にならない程度の微香を放つ薔薇の花瓶が、実にリッチでノーブルな雰囲気を醸し出している。
は今、その優雅なリビングで、これまた優雅に食後の紅茶などを飲みながら、この宮の住人と歓談中であった。
「がここを選んでくれて嬉しいよ。暫くの間だが、仲良くやろうじゃないか。」
「うん、よろしくね!」
「で?まさか『ここが一番教皇の間に近いから』なんてつれない理由ではないだろうね?」
綻ばせた目元を探るようにに向けながら、アフロディーテはカップに口を付けた。
「やだ、何で分かったの!?」
「本当に!?」
「なーんてね、ウソウソ!まあそれも少しはあるけどね?」
は楽しげに笑って、アフロディーテ一押しのオレンジペコを啜った。
何しろ、一つ一つがまるで一流ホテルのようなこの双魚宮。
女心が鷲掴みにされるのも無理はない。
そう告げると、アフロディーテは整った顔に自信有りげな笑みを浮かべて立ち上がった。
「なるほど。ではご期待に応えて、早速我が双魚宮自慢のバスへご案内致しましょう、マドモアゼル?」
「あはは、そんな風に呼ばれると恥ずかしいじゃない!でも楽しみ〜♪」
「きっと気に入って貰えると思うよ。これでもかという程女心を擽る様に仕立ててあるから。」
さあどうぞと差し出されたアフロディーテの手を、は嬉しそうに借りて立ち上がった。
「フン、フフンフ〜ン、ララララフンフンフフンフ〜ン・・・・」
思わず歌詞を知らないシャンソンなどを口ずさんでしまう程、双魚宮のバスルームは小洒落れていた。
タイルの色模様からシャンプー類の容器に至るまで、何もかもが小粋な造りになっている。
中でも一際惹かれるのが、純白の浴槽一杯に色とりどりの薔薇の花弁が浮かんだ、ローズバスであった。
「ん〜〜、贅沢贅沢・・・・」
花弁に埋もれるようにして浸かると、何とも言えない優雅な気分になる。
肌の色が薔薇色に染まってしまいそうだ。
「アフロはいつもこんなお風呂に入っているのかしら・・・・?」
脳裏に浮かんだのは、艶然と微笑むアフロディーテの顔。
こんなロマンチックな風呂が似合いそうな男も珍しい。
しかもそれが嫌味にも気障にも思えないのだから、全く稀有なタイプだ。
「何であんなに綺麗なんだろ・・・・・」
水面にたゆたう花弁を胸にかき集めて、はしみじみと呟いた。
「私の顔に何か付いているかい?」
と入れ替わりに風呂に入ってきたアフロディーテは、ぼんやりとした視線を向けてくるに笑いかけた。
「え?あ、ううん、何でもないの。ただ・・・・」
「ただ?」
「ねえ、アフロってさ、何かしてる?」
今一つ理解出来ない質問と共に近付いてきたに、アフロディーテは首を傾げた。
「何かって?」
「スキンケアとか、ヘアケアとか。」
「ああ、そういう事か。」
質問の意味を理解出来たアフロディーテは、軽やかに笑って首を横に振った。
「特に何もしていないよ。」
「本当に!?じゃあ何でそんなに綺麗なの?」
「フフフ。お褒めに預かって光栄だが、何故といわれても分からないものは答えようがないな。」
「・・・・・納得出来ない。」
「何故?」
「パーツは生まれ持ってのものとしてもよ?アフロだって一応聖闘士でしょ?傷だらけになったりしてる筈なのに、どうしてそんなに肌や髪が綺麗なの?」
心底不思議そうに首を捻るに、アフロディーテは苦笑した。
「ふふっ、『一応』か。手厳しいね、。」
「あっっ!!ちっ、違うの!ごめんなさい!!そんな意味じゃなくて・・・・!」
「じゃなくて?」
「あのね、もし、もしもよ?何か秘訣があるんなら、是非教えて貰いたいなぁ・・・・なんて・・・・」
「もしやそれもここを選んだ理由、だったりするのかな?」
「だったり・・・・したりして・・・・エヘヘ・・・・」
アフロディーテの反応を伺うように、小さく笑う。
秘訣という程のものは何も無いのに、有ると思っているようだ。
少し、ほんの少しだけ心が毛羽立つのは、に男性として見られていない気がするからだろうか。
だからといって、怒っている訳でも、まして非紳士的な行動に出るつもりもない。
そうだ。
腹立たしいというよりは、がっかりしたとか、少しショックだとか、そんな気持ちの方が近い。
だから、湧き上がったこの小さな悪戯心は、コミュニケーションのつもりの他愛ないジョークなのだ。
アフロディーテは大輪の薔薇のような笑みを浮かべると、の手を取った。
「こ・・・・、これ!?」
「そう。特製ジュースだ。肌にてきめんに効く。」
「これを飲め、と・・・・?」
ドロドロの青緑色の液体がなみなみと入ったグラスを手に、恐る恐る尋ねてくるに、アフロディーテは小さく肩を竦めてみせた。
「薔薇風呂の後はそれに限る。私も毎日飲んでいるんだ。」
こんなのは勿論口から出任せ、ロイヤルデモンローズの如き深紅の大嘘である。
たった今思いつくまま、冷蔵庫の中の野菜を適当にジューサーにかけただけのものだ。
「さあ、飲んでごらん。」
『味の保証はしないが、体には良い筈だから』という続きの言葉を腹の底に隠しながら、アフロディーテは艶然と微笑んだ。
その笑顔に後押しされたは、渋々ながらグラスに口を付けたが。
「・・・・・う・・・・っ!?!?!?」
みるみる内に顔を歪め、傍らの水を一気飲みした。
「ごほっ、ごほっ!ほ、本当にこんなの毎日飲んでるの!?」
「美味しくなかったかい?」
「かなりね・・・・・。折角作って貰って悪いけど、これ全部は無理かも・・・・」
少々やりすぎただろうか。
せめて味見ぐらいしてやれば良かった。
ここまで言うのだから、というか見れば分かるが、きっと相当不味かったのだろう。
涙目のを見て、アフロディーテは苦笑しながらも少々申し訳なく思っていた。
「無理はしなくて良い。じゃあ次にいってみようか。」
「次?」
不安げな表情を見せたの髪を一撫でして、アフロディーテは不意にを抱え上げた。
「な、何なの!?」
「美容には睡眠・ビタミン・適度な運動。つまり・・・・」
「睡眠を取れって事?」
「いや、それはまだ早い。」
「え!?運動しろって!?ここで!?」
そう言って、は目を丸くした。
だが驚くのも無理はない。
アフロディーテの寝室、しかもベッドの上に運ばれたのだから。
ところが、アフロディーテはにっこり笑って頷くと、さも当然のようにベッドに上がってきた。
「そうだよ。さあ、脚を開いて。」
「なっ!?何、何する気!?」
「クスクス、そんなに警戒しなくても良いよ。何もいきなり無理な事はさせない。今夜のところは軽くストレッチだけだから。」
「ストレッチ・・・・・?」
「ああ。何だと思ったんだい?」
明らかに意識したような戸惑い顔のに、アフロディーテは含み笑いを浮かべた。
途端には、顔をさっと赤らめて勢い良く首を振る。
「うっ、ううん!別に何も!」
「そうかい?じゃ、早速始めようじゃないか。美容には睡眠・ビタミン・そして運動、だからね?」
尤もらしいこの台詞は、ただ一般論の受け売りである。
しかしは納得したように、或いは照れ隠しであろうか、何度も頷いている。
アフロディーテはにんまりと笑い、の背後に回った。
「さ、いくよ。」
「は、はぁい・・・・・・」
「・・・・・力を抜いて。」
触れたの背中が強張っている事に気付いたアフロディーテは、優しく諭すようにそう告げた。
それに従い、がゆるゆると全身の力を抜いていく。
何を身構えているのか、今一つ抜けきれてはいないが。
「・・・・・いくよ?」
「う、うん・・・・・!」
アフロディーテは、の上体をゆっくりと前へ押し始めた。
の背中が、じわじわとマットレスに近付いていく。
ところがそれは、ある一点で止まってしまった。
そして。
「痛っ!イタタタタっ!!!」
またもや身体を強張らせ、は苦悶の声を上げ始めた。
「大丈夫、もう少しいけるよ。」
「無理、無理無理無理!!お願いだからもう押さないでぇ〜!!」
「ふふふっ、仕方ないな。では・・・・・」
「もう止めてくれるの!?」
「この状態であと10秒我慢したらね。」
「・・・・・酷い〜〜〜!!!!」
それからの10秒は、にとって阿鼻叫喚の生き地獄だった。
何と長いテンカウントであった事か。
それでもは必死で耐えた。
これで解放されると信じて。
それなのに。
「痛ーーい!!!痛いっ、痛いってば!!」
「痛いのは運動不足な証拠だ。もう少し頑張ろう。」
「だからって上に乗らないでぇ〜!!」
「こうした方がしっかり筋を伸ばせるだろう?」
「やははっ、脇腹触らないで〜!!擽ったい!!」
「クスクス、そんなつもりじゃないんだけどね。」
「キャハハハ、擽ったい!あ、痛いっ、イタタタタっ!!や〜め〜て〜!!」
様々な姿勢で、その後延々とストレッチは続いたのであった。
その間、愉しげなアフロディーテの笑いを含んだ声と、の絶叫が響いていたのは言うまでもない。
「はい、お疲れ様。良く頑張ったね。」
アフロディーテの穏やかな声を、はぐったりと横たわりながら聞いた。
腕から脚から脇腹から、散々に嫌という程筋を伸ばされ、身体のどこにも力が入らない。
だが、アフロディーテはきちんと加減してくれていた。
決して力任せに無茶な事をされた訳ではない。
つまりこれは、偏に日頃の運動不足のせいであろう。
「も・・・・・駄目・・・・・」
肌にさらりと纏わりつくリネンや、頭を沈み込ませたふわふわの羽枕の心地良さが、まどろみを誘う。
ご多分に漏れずこの寝室も素晴らしい空間になっているのだろうが、それをゆっくりと堪能する余裕は今のには無かった。
「大丈夫かい、?」
「うん、平気平気・・・・・・。でもアフロ・・・・」
「ん?」
「美容の道って・・・・、険しいのね・・・・・・」
しみじみと呟くが可笑しくて、アフロディーテはつい声を上げて笑ってしまった。
「何で笑うの?」
「ははは、いや、何でもない。君の言葉が少し面白かっただけなんだ。でも・・・・・」
「でも?」
無造作に投げ出された肢体。
チェックのパジャマが少し肌蹴て、所々見えている肌。
薄く色付いた頬と、無防備な表情。
妙にしどけなく見えるを細めた目で見つめて、アフロディーテは呟いた。
「君は今のままでも十分魅力的だと思うけどね。」
「なっ・・・・・、何言ってんの全くもう・・・・・!」
「ふふっ、照れなくても良いだろう?」
「・・・・・・・・アフロにお世辞言われると、何か凄く恥ずかしいんだけど・・・・・」
「そんなつもりじゃないんだけどね。さ、うつ伏せになって。」
「まっ、まだ何かあるの!?」
「はははは、そんなに怖がらないでくれ。只のマッサージだよ。強張った身体を解さなきゃ。」
「マッサージ・・・・・。でも何か悪い気が・・・・・」
して貰いたそうだが遠慮がちなに肩を竦めてみせて、アフロディーテはその身体をゆっくりとうつ伏せにさせた。
「良いから。」
「でも・・・・・、本当に良いの?」
「勿論。さ、リラックスして。」
アフロディーテはシルクのパジャマの袖を捲った。
その柔らかい眼差しは、明らかに特別な相手に向けるようなものであったが。
うつ伏せて気持ち良さそうに瞳を閉じているには、生憎と見えていなかった。