天秤宮を選んだは、嬉々として童虎の後について行った。
何しろ、こんなチャンスなど滅多にないのだから。
「さあ、茶が入ったぞ。」
「ありがとう。んーっ、美味しい!」
「そうか。」
湯呑みを抱えて美味そうに茶を飲むに、童虎は細めた目で笑いかけた。
肉体の年齢こその方が上だが、その表情はまるで娘か孫娘に向けそうな感じのものである。
だが、はれっきとした童虎の恋人であった。
尤もそれを知る者は誰も居ないが。
「しかし災難じゃったのう。気を落とすでないぞ。」
「ん〜、実はあんまりそうでもなかったりして。」
「ほう?」
「不謹慎だけど、ちょっと嬉しいな、なんて。たとえ数日でも童虎と一緒に暮らせるもの。」
そう言って、は嬉しそうに微笑んだ。
他の者達の気持ちは有り難いが、やはり共に暮すなら愛する者とが良い。
それに、童虎本人を前にして、彼以外の男を選ぶ事も出来ないではないか。
それが、がこの天秤宮を選んだ理由であった。
だが、今後の日々を思って浮かれるに、童虎は申し訳なさそうな顔を見せた。
「済まんが、儂はすぐここを離れる。」
「えーーッ!!??なんで!?何処に行くの!?」
「五老峰じゃ。紫龍に稽古をつける約束があっての。」
「そんなぁ・・・・・」
思い描いていた夢が一気に萎んだ感じがし、はあからさまに落胆した。
「一応訊きたいんだけど・・・・、それってここじゃ駄目なの?」
「うむ。それに何より・・・・、いや、これは理由にはならんかも知れんが・・・・。儂はやはりあの五老峰が一番落ち着くのじゃ。ここはどうも騒がしくて性に合わん。」
「そう・・・・・」
童虎はこう言うが、その思いの頑なさをは知っていた。
見た目こそ若い盛りの青年だが、童虎にはひどく頑固なところがあるのだ。
恋人の一人や二人の言葉で、己の生き方や価値観を変えるような人物ではない。
既にこれ以上ない程完璧に形成され終わっている性分を、誰が今更どうこう出来るであろうか。
「それに、ここのところ儂も紫龍も暫く五老峰を空けておったのでな。春麗が一人で心細い思いをしておるのじゃ。」
「そう・・・・・」
更に春麗の事まで出されては、もうどうしようもない。
山奥で一人寂しく暮す少女の事を考えれば、にはそれ以上もう何も言えなかった。
「済まんな。また近い内に顔を見に来る故、堪忍してくれ。」
「うん・・・・・」
申し訳なさそうに告げる童虎に、はただ頷くしかなかった。
たとえ、内心は納得などしていなくても。
「あ〜あ・・・・、つまんない・・・・・」
童虎のベッドで横になりながら、は浮かない顔をしていた。
あの後、童虎はすぐさま聖域を発った。
『自分の家と思って気楽に過ごせ』という言葉を残して。
「気楽もなにも・・・・、何もする気がおきないわよ・・・・」
一人残されたは、早々に床に入り、不貞寝を決め込んだのであった。
楽しみにしていた気持ちの分、いやそれ以上に、寂しさや虚しさがとてつもなく大きい。
「やってらんない・・・・。童虎の馬鹿・・・・・。私だって・・・・」
そこまで言って、不覚にも涙が出そうになった。
私だって寂しいのよ・・・・!
そもそも日頃から留守がちで、あんまり会えないのにさ。
偶のこんな時ぐらい、せめて一晩ぐらい一緒に居てくれても良いじゃないの・・・・
口に出すと本格的に泣いてしまいそうで、は心の叫びをあくまでも心の中だけで押し留めた。
「っあーー!!段々腹立ってきた!!もう知らない!!」
何となくつん、としてきた鼻の奥を啜ってから、はやけを起こしたように大声でそう叫び、布団を引っ被った。
それからの日々を、は開き直って過ごした。
ある事をしながら。
それは・・・・・
「何だぁ、この部屋!?」
「あぁ、デス。いらっしゃい。」
「いらっしゃいじゃねぇよ、お前これ・・・・」
天秤宮を通り抜けるついでに私室を訪ねてきたデスマスクは、その内装を見て盛大に呆れ果てた。
「何だよ、この能天気な部屋は・・・・」
「可愛いでしょ?」
「可愛い・・・・、ん〜〜、微妙だな。少なくとも俺の趣味じゃねぇ。」
口をへの字に曲げるデスマスクに、は苦笑して見せた。
今の内装は、元々の雰囲気からは100万光年程かけ離れた感じになっている。
元は質素な中国様式だったが、バーゲンセールで買った苺柄のカーテンやクッションが、その味を見事に殺していた。
確かに絵柄的には可愛いが、室内装飾品としては遠慮したい代物、室内がそんな小物で溢れ返っているのである。
「お前よー、こんな事して老師に怒られても知らねぇぞ?」
「だって、童虎が『自分の家と思え』って言ったもの。」
「それにしたって限度があるだろうがよ・・・・。しかしお前、こんな趣味だったか?」
「まぁ、何となく・・・・、心境の変化ってやつよ。」
デスマスクの質問を、は適当にはぐらかした。
本当の答えは『ノー』だからだ。
つまり、この模様替えはの趣味に基づいたものではない。
帰って来た時に、このとんでもない部屋を見て困れば良い。
ただ単に、そんな悪戯心でした事であった。
「ま、良いけどよ。それより今からシュラんとこで飲むんだけどよ、お前も行くか?」
「う〜〜ん・・・・、今日はパス。」
「またかよ?最近付き合い悪ぃな〜。」
「ごめんごめん!」
「ま、良いけどよ。・・・・・程々にな。」
「・・・・・・」
肩を竦めたデスマスクは、引っ掛かる言葉を残して天秤宮を立ち去った。
もしかしたら、勘の良い彼には気付かれたかもしれない。
だが、今はそんな事を気にする気にはなれなかった。
やり場のない腹立ちやら寂しさやらで、胸が一杯だったからだ。
にも関わらず、は天秤宮を完全に明ける事はしなかった。
誰かに誘われても、大概は断る。
また、断らずに付き合っても、夜は必ず戻って天秤宮で眠っていた。
今日もこうしてデスマスクの誘いを断り、は一人で夜を迎えていた。
「今日も帰って来なかったなぁ・・・・」
もうかなり身体に馴染んできたベッドに一人横たわり、はぼんやりと呟いた。
執務で忙しく立ち振る舞ったり、ささやかな意地悪のつもりの模様替えをしたりしていると、日中は気が紛れる。
だが、夜になると決まって寂しさが舞い戻ってくるのだ。
「近々また来るって言ってたくせに・・・、どうなってんのよ・・・・」
ここに来てからもう1週間程も経つが、未だ帰らない童虎が小憎らしい。
小憎らしく感じるのは、それ程彼を恋しく思う気持ちが強いからだ。
だが、こんなに想っているのに童虎は帰って来ない。
「童虎の馬鹿・・・・、早く帰って来ないと、部屋がどうなっても知らないから・・・」
部屋を人質にとったところで無意味極まりないのは承知しているが、それでも今のには、模様替えに勤しむ事ぐらいしか暇な時間を潰す術がなかった。
いつ童虎が戻って来るとも限らないのだから。
その時は、やっぱり彼を出迎えたいと思うのだから。
そして、翌日の昼下がりの事。
「さ〜、今日もはりきってやるわよ〜!」
殆どやけくそ状態のは、本日が非番である事もあって、更に無謀な真似を始めようとしていた。
それは、木肌がそのままの素朴な天秤宮のテーブルを、白くペイントする事であった。
「ぃよっし!いっちょやりますか!」
ペンキはたっぷり用意した。刷毛も軍手もある。
エプロンを掛け、髪を纏め、袖を捲り上げて。
準備万端整えたは、刷毛にたっぷりとペンキを含ませ、豪快に腕を振り上げた。
その少し前。
「いかんな、随分待たせてしもうた・・・・」
童虎はようやく聖域に戻って来た。
慣れた土地の居心地の良さに、つい時間を忘れてしまったが、彼は今ようやくとの約束を果たしに来ていたのだ。
ただでさえ日頃から寂しい思いをさせているのは分かっている。
なのに今回これでは流石に少々可哀想だったかと、反省する事しきりだ。
とにかく今は、早く会って顔を見たい。
童虎は誰彼への挨拶も忘れて、ひたすら十二宮の階段を駆け上がって行った。
一つ、また一つと宮を抜け、自宮へとひた走る童虎。
そしてようやく、天秤宮に辿り着いたのだが。
「なっ・・・、こ、これは!!??」
宮に入りかけた途端、つんと鼻につく匂いがまず童虎を襲った。
そして目に飛び込んできたのは、手に『匂いの素』を握り締め、通路で掛け声も勇ましくテーブルと向き合うであった。
「待て待て待てぃ、!!!」
「童虎!?」
突如童虎に呼び止められて驚いたは、今正に振りかぶらんとしていた腕を止めた。
お陰でテーブルは危機一髪、ペンキの一撃を免れる事が出来た。
「お主何をしておるのじゃ!!??」
「何って・・・・、模様替え。」
「模様替えとな!?と、ともかくそれは一時中止じゃ、刷毛を置いて中へ入れ!ほれ、早う!ペンキ臭うて敵わん!」
「あ、ちょっと・・・・!」
は刷毛をひったくられ、有無を言わさず童虎に室内へと連行された。
それから数分後、二人は茶を片手に向き合って座っていた。
テーブルは外なので、湯呑みを置くところがないのが不便である。
「何をしているかと思えば奇怪な事を・・・・。何じゃこの部屋は・・・・」
背中に当てていた苺のクッションを引っ張り出して眺めながら、童虎は困惑した表情を浮かべた。
私室に入った童虎は、の目論見通り驚いてくれた。
つい数日前までとは全く違う間抜けな内装に変わっていたのだから、当然の反応といえばそうであるのだが。
「訳を聞かせて貰おうか?」
「・・・・・だって、童虎が言ったんじゃない。」
「何をだ?」
「自分の家と思って良いって。」
「た、確かに言うたが・・・・」
『だからといって、こう出るか』と、童虎の困惑した表情が物語っている。
それはの見たいと思っていた顔であった。
だが、何故だろうか。
やっと会いに来てくれて、かつ思った通りの反応が見られて嬉しい筈なのに。
実際は嬉しいどころか、妙に腹が立ってきたではないか。
「しかしまた・・・・童女のような部屋じゃの・・・。お主いつから部屋の趣味が変わったのじゃ?」
「さぁ、どうかしらね」
「・・・・・何を怒っておるのじゃ?」
「別に。」
「・・・・・まぁ良い。とにかく、部屋は元通りに直しておくのじゃぞ。このような浮ついた部屋では腰が落ち着か・・・」
「私直さないわよ。」
童虎の言葉が終わらぬ内に、は自分の意思を告げた。
「元通りにしたかったら、自分でやる事ね。」
「何じゃと!?、お主・・・」
童虎はこの時、一瞬腹を立てかけた。
それはそうだろう。
主に無断で部屋の模様替えを行い(しかもよりによってこんな浮かれた感じにされて)、
それを元通りにしろと言えば、謝るどころか『自分でやれ』ときたのだから。
だが、その一瞬の腹立ちは、の次の言葉で消える事になった。
「尤も、直してもまた私が変えちゃうから。これ以上部屋を改造されたくなかったら、ここに居て私を見張ってた方が良いと思うけど?」
童虎は黙ったままを見つめ、はそんな童虎の視線を避けるように目を逸らす。
それからほんの少しだけ、無言の時が流れた。
― なるほど、そういう事か・・・・
まだそっぽを向いたままのに、童虎は小さく苦笑を漏らした。
どうも自分が思っていた以上に、寂しい思いをさせていたようだ。
他の連中に囲まれて、打ち込める執務もあって、毎日を生き生きと過ごしているに少々高を括っていたらしい。
だが友は友、仕事は仕事であって、愛や恋とは別物なのだ。
それらが恋愛の領域までをも満たす事はないのに。
何故今までそれを忘れていたのだろう。
「・・・・なるほど。あい分かった。そうしよう。」
「・・・・そうして。」
「留守にして済まなかったな。」
「・・・・・いいえ。」
下手くそなアピールで寂しさを訴えるの肩を、童虎はそっと抱いた。
「部屋を元通りにするから、手伝ってくれるかな?」
「・・・・・折角模様替えしたのに。」
「しかし、儂のような爺にこの部屋はなかろうが。」
「プッ・・・・・、案外似合ってるわよ?」
「馬鹿を申すでない!早う元の部屋に戻すぞ!・・・・時に、元々あったカーテンやら何やらは捨ててしもうたのか?」
「ちゃーんととってあります。」
「そうか!いやはや、それだけでも幸いじゃ!買い物に行かずに済んだ!」
その後半日、天秤宮からは忙しげな音と共に、童虎との弾んだ声がずっと聞こえていた。
次の日も、そのまた次の日も。