目の前に並ぶ黄金聖闘士達の中で、何故かカミュの瞳が一番気になった。
切なげな、何処か思いつめたようにも見える瞳が。
それに惹かれるようにして、カミュの手を取った。
「済まんが、鍵を掛けてくれ。」
宝瓶宮のドアをくぐったに、カミュは背中越しでそう頼んだ。
下での件が済んでから、初めて利いた口がこれである。
日頃は掛けない鍵を掛けてくれとは、一体どうしたというのか。
は訝しみながらも言われた通りに鍵を掛け、カミュについてリビングへと向かった。
痛い程の沈黙の中、はカミュがコーヒーを運んでくる姿を見つめていた。
確かにいつも固く唇を引き結んでいる事の多い彼であるが、今日はやはり様子がおかしい。
「カミュ?・・・・・何かあった?」
カミュが向かいの椅子に腰掛けたのを見計らって、は重い口調で話を切り出した。
近くで見ると、カミュの表情は何処となくやつれている。
一方、カップに口を付けたカミュは、コーヒーを一口飲み下すと、ふっと小さく溜息をついた。
「・・・・ああ、ちょっとな。分かるか?」
「うん。疲れた顔してる。私で良ければ何があったか話して?」
真剣な顔のに、カミュは初めて薄らと安堵の笑みを浮かべた。
「・・・・君が来てくれて本当に良かった。よくここを選んでくれた。感謝する。」
「感謝だなんて・・・・。カミュの表情が気になったから・・・・」
「もし君が他の者を選んだらどうしようかと、内心焦っていた。」
「カミュ・・・・・・」
一瞬戸惑うような台詞を儚げな表情で呟いたカミュは、席を立っての方へと歩み寄った。
ほんの僅かな距離だが、一歩一歩踏みしめるように。
ところが、その歩みはの隣に来てもまだ止まらず、カミュはとうとう隣室へ行ってしまった。
「カミュ??」
これは追いかけて来いという事なのだろうか?
判断に困るは、その場でまごまごするしかなかった。
だが、結果的に言えば追いかけずとも良かった。
カミュはほんの数秒で、再びリビングに姿を現したのだ。
あるものを腕に抱いて。
「実は・・・・、これなのだ。」
「・・・・・仔猫!?」
困惑した表情のカミュが差し出したのは、真っ白な産毛に覆われた、まだ目も開かない一匹の仔猫であった。
小さな小さなその生き物は、カミュの腕、正確に言えば掌の中で、にごにごと小さく動いている。
「かっ・・・、可愛い〜〜!どうしたのこの子!?」
「昨日買出しの帰りに見かけてしまったのだ・・・・。捨て猫など拾うつもりは断じてなかったのだが、昨日は冷たい雨が降っていただろう?それで気が付いたらつい・・・・」
「連れて帰ってきちゃった、と。見捨てて帰れなかったって訳ね?」
「・・・・・・甚だ不本意だったがな。」
カミュは僅かに頬を紅潮させると、手の中の仔猫をに預けた。
「軽〜い!こんな小っちゃな猫触るの初めて!」
「ときに、猫を飼った事はあるか?」
「孤児院に居た頃はね。子供達が拾って来た事があったわ。でもこの子よりもう少し大きかったけど。」
「そうか、それは心強い!誰にも相談出来ず困っていたのだ!」
「どうして皆に相談出来ないの?」
の素朴な質問に、カミュは狼狽しながら答えた。
「連中には口が裂けても言えん!『クールを口にしている割には絆され易いんだな』とか何とか言われて冷やかされるのがオチだ!」
「あはは、そんなに隠すような事じゃないと思うけどな〜!でもこんなに小さいと、世話が大変でしょ?」
「うむ。殆ど一日中乳を欲しがって鳴くものだから、流石に睡眠不足でな・・・・」
「でしょうね・・・・。で、この子飼うの?」
「・・・・・いや、それは無理だ。」
カミュは重々しい口調で言い切った。
「私のようないつ死ぬとも分からぬ者に、生き物を育てる事は不可能だ。」
「でも弟子は育てたじゃない?あと、一度死んで生き返ったって言ってたよね、確か??」
「聖闘士の養成と猫の飼育は別だ。それにあれはある種の特例だ。二度はない。だから・・・・」
「だから?」
「もう少ししゃんとする程度にまで面倒をみたら、里親を見つけようと思う。」
「里親・・・・・」
「頼む、!それまで協力してくれないか!?」
「い、良いけど・・・・・」
「本当か!?済まない、恩に着る!!」
礼を言うカミュに釣られるようにして、仔猫も「ミャ〜〜・・・」と鳴いた。
仮宿主のカミュに習って礼を述べたのか、ただ単に腹が減っているのか、それは定かではないが。
とにかく、それからカミュとによる、仔(猫)育てが始まった。
まず、何はなくとも固形物を自力で食べ、自力で排泄出来るようにならねばならない。
だがこんなに小さいと、その時期に至るまでが果てしなく長かった。
「良い子でちゅね〜、ほぉら一杯飲みなさい・・・・、ん〜〜良い子良い子♪」
「代わろう。その間に夕飯を済ませると良い。」
「うん、ありがとう!じゃあお願いね。」
「うっ、吐いたぞ!」
「詰まったんじゃない!?ゆっくり飲ませなきゃ!」
「なんと惰弱な・・・・!」
スポイトでの授乳に四苦八苦し、パニックになる事もあれば、
「・・・・・む、そろそろだ。」
「え?何が?」
「貸してみろ。」
「はい。・・・・・へぇ〜、上手いもんね!」
「こんなもの、タイミングさえ掴めば何て事はない。段々コツが掴めてきたぞ。」
「凄い凄い!」
授乳時刻と仔猫の出す僅かなサインから予測したタイミングが合致し、巧く排泄させる事が出来て浮かれる事もあれば。
とにかく一喜一憂、一進一退を繰り返しながら、二人は仔猫を着々と育てていった。
「んふふ〜、可愛い。」
「フッ、そうか?」
「うん。この子きっと綺麗な猫になるわよ。毛並みも綺麗で雪みたいだし。」
「尾も長いな。これなら貰い手も見つかり易そうだ。」
「そんな事言って、結局手放せなくなったりしてね?」
「まさか。」
寝入ってしまった仔猫を見守りながら、二人はぬくぬくとした気分に浸っていた。
「ねえカミュ?」
「何だ?」
「今更何なんだけど、いい加減この子に名前付けてあげない?」
「名前?別に不要だろう。」
「何で?」
首を傾げるに、カミュは掴み所のない無表情で答えた。
「この猫にはいずれ正式な飼い主を見つける。名などその者に付けて貰えば良い。それは私の役目ではない。」
「冷たい事言っちゃって・・・・。そんな事言って、本当は名前なんか付けたら情が移るから、なんじゃないの〜?」
「そんな事はない。」
「じゃあ何か付けてあげてよ。名前がないと呼び難いもの。」
「何故私が?」
「だってカミュが拾った猫でしょ?何でも良いから!ほら!」
「全く・・・・・・・。そうだな・・・・・・・・・、ツンドラ、はどうだ?」
「ツンドラ!?何それ!?」
「知らんのか?ロシアの凍原の事だ。気候の名にもなっている。」
「いや、それは知ってるけど・・・・、何でそんな地理チックなの?」
「インスピレーションだ。」
かくして、子猫の仮称は『ツンドラ』に決まった。
最初はを呼ぶ度に首を傾げていたであったが、それも次第に慣れてきたのか、
一日二日経つ頃にはその名もすっかり定着し、ツンドラ(仮)はカミュとの愛情を一心に受けて元気に育っていった。
それからも、二人は仔育てに励んだ。
二人揃って非番の日は二人で、どちらかが執務の日はもう一人が側について。
この頃にはもう二人の頭の中はツンドラ一色であり、外せない用以外は宝瓶宮から出ようともしなかった。
例えば今日も。
「おい、今日飲みにでも行かねぇか?カミュも誘ってよ。」
「う〜〜ん・・・、ごめん、パス!」
「オイオイ、またかよ!二人して毎日宝瓶宮でナニしてやがんだコラ?」
執務の最中であるが、デスマスクの疑問は皆思うところであったのだろう。
それぞれに手を止めて、ちらりとの方に視線を送ってきた。
「ナニって・・・・、別に何もないわよ。」
「嘘つけ。ここんとこいつも執務が終わったらすっ飛んで帰ってるじゃねぇか。カミュもそうだしよ。さてはお前ら・・・・」
「な、何よ??」
ニタリと笑うデスマスクに詰め寄られていると、そこに噂の人物がやって来た。
「デスマスク。何をしている?」
「お、噂をすれば影だな。今お前らの事を話してたんだよ。よお、を宝瓶宮に閉じ込めて毎日何してんだよ、このドスケベ大将?」
「ドスケベ大将はお前だろう。下世話な詮索はよせ。」
デスマスクを一睨みしたカミュは、そのままつかつかとサガの前へ歩いて行った。
「サガ。行ってくる。」
「ああ。頼んだぞ。」
今日はカミュの任務の日であった。
いかにツンドラが気になろうとも、それは外せない。
だからの執務が終わる頃を見計らって、交替で宝瓶宮を出る事にしたのであった。
ともかくサガに挨拶を終えたカミュは、労ってくる仲間にも返事を返すと、の元へ向かった。
「行ってらっしゃい、カミュ。」
「行ってくる。少し留守にするが、適当に寛いでいてくれ。」
「はいは〜い。」
取り立てて怪しげのない会話をわざと繰り広げる二人。
その面白みのない会話とサガに執務の手を急かされた事によって、他の者達の注意が逸れた。
その瞬間こそが、二人にとって最も貴重な時であった。
「ところでツンドラは?」
「20分前に吹雪は止んでいる。雪崩は3時に起きた。」
「了解。」
このやけにトーンダウンした会話は、勿論仔猫の事である。
ちなみに吹雪は乳を欲しがって鳴く事の隠語で、雪崩とは所謂『大』の隠語であった。
つまりこれを訳すと、
『20分前にミルクを与えた。”大”は3時に済ませた。』
という内容になる。
壁に耳あり障子に目あり、念には念をという訳で、このような暗号を用いて会話する二人であった。
こうして引継ぎを終えたカミュは、白いマントを翻して去って行った。
それから少し間を置いて、本日の執務を終えたも。
後に残ったのは、何も気付かず執務に精を出すその他諸々のメンツであった。
「ツンドラ?吹雪??雪崩???」
約一名、巨蟹宮の住人を除いて。
カミュは、かつてない程の速さで任務を終えた。
それはもう、任務というよりヤボ用を片付ける程の速さで。
そして、惜しむ事なく光速の動きを駆使した移動で宝瓶宮に戻ったのは、それから僅か数十分後の事であった。
「戻ったぞ、。」
「あっ、カミュ!良いところに!!」
「どうした、何かあったのか?」
「ツンドラが!!」
血相を変えたの只ならぬ様子を見てとったカミュは、無表情のまま室内へと駆け込んだ。
「どうした?」
「ずっと震えてるの!タオルで包んでも治まらなくて・・・・」
「何?」
「どうしようカミュ!?」
「とにかく落ち着け。もっとストーブを強く焚いてみてくれ。」
「う、うん!」
タオルですっぽりと包まれたツンドラは、確かに寒そうに震えている。
室温には気を配ったつもりであったが、もしかすると、先程出掛けに黄金聖衣を纏った際に、知らず知らず凍気を撒き散らしてしまったのだろうか。
表情は変わらずとも、カミュは内心焦っていた。
「何だってこんなに惰弱な生き物なのだ・・・・」
「だってまだこんなに小さいんだもの・・・・」
そう。
ツンドラはまだやっと目の開いた、離乳さえ始まっていない仔猫なのである。
ちょっとやそっとの事が命取りになる頃だ。
「ちらっと見たら眠ってたから、先に夕飯の支度し始めたの・・・、私の不注意だわ・・・」
は今にも泣きそうな顔をして、カミュの手の中にいるツンドラを覗き込む。
「ごめんね、ツンドラ・・・・、ごめん、カミュ・・・・」
「・・・・・のせいではない。生き物には持って生まれた生命力がある。弱ければ何をしても死に、強ければ何があっても生きる。このツンドラの生命力が強ければ、必ず復活する筈だ・・・・・」
「カミュ・・・・」
カミュの言葉には重みがあった。
それ以上何も言えず、はただカミュと共に、ツンドラが死線をくぐり抜けるのを願い続けた。
その時。
ゴンゴンゴン!!!
「誰だろ!?」
「こんな時に・・・・、仕方ない。、ツンドラを頼む。」
「分かった!」
カミュはにツンドラを託すと、鬼気迫る表情でドアへ向かった。
「デスマスク!?」
「よう、遊びに来たぜ!」
「帰ってくれ!悪いが今それどころではないのだ!」
「へっ、お取り込み中って訳か。」
「そうだ、分かっているなら済まんが早く・・・・」
「まさか氷プレイなんかしてんじゃねぇだろな?ん?このMr.マニアック?」
どうやら完全に冷やかしに来ただけのようである。
だが今は、それに付き合っている場合ではなかった。
一刻も早く帰らせて、早くツンドラの側に戻りたい。
そう、こんな小さな生き物を育てる事など、カミュとて初めての事だったのだ。
正直言って、以上に混乱しているといっても良いぐらいである。
従って。
「ああそうだ!だから邪魔をするな!!」
バタン!!
と、やってしまったのである。
それが後々、どういう事になるかなど考えもしないで。
二人の祈りが通じたのか、はたまた生命力が強かったのか、とにかくツンドラは何とか持ち直し、翌日はまた元気に『吹雪いて』いた。
徹夜で看護を続けたカミュとは、安堵に胸を撫で下ろしたのだが。
『カミュとは、夜な夜な氷プレイに興じている』
『そのプレイに、ツンドラという小道具を使用するらしい』
『そのツンドラは、吹雪や雪崩れの如く威力があるらしい』
という不名誉極まりない全くの出鱈目スキャンダルに、今度は頭を抱える事になったのであった。