色に喩えるなら、桃色。
花に喩えるなら、綻びかけの蕾。
胸が苦しくて、四六時中もぼんやりと頭に薄ピンク色の靄がかかったようで。
何もまともに手がつかない。
なのにずっとそのまま浸っていたいと思う、そんな始末に終えない気分の名は、恋。
そう。
は今、恋をしていた。
「。塩、使い終わったのなら借りて良いか?」
「ん〜・・・・・・・・・」
「?」
「・・・・・・・・・」
話しかけても上の空、塩の小瓶を持ったまま遠くを見つめるを不審に思ったシュラは、首を傾げての目の前で手を振った。
「おい、?生きてるか?」
「・・・・えっ!?はっ、はい!何!?」
「どうしたんだ?さっきからずっとぼんやりして。」
「え?う、ううん、何でもないの!何?」
「いや、だから塩。借りて良いか?」
「えっ、あっ!はいはい、どうぞ〜!」
慌てて取り繕って塩を手渡すは、やはり怪しい。
シュラは大いに不審そうな表情を浮かべつつも、それを受け取った。
そのまま暫く様子を見ている事5分。
再びの動きが止まった。
「・・・・・まただ。」
隣で低く呟くシュラの声を聞いたアフロディーテが、フォークを持つ手を止めた。
「何が?」
「だ。見ろ、さっきからずっとあの調子なんだ。ぼーっとして・・・・」
「どれ?・・・・・ああ、本当だ。」
「具合でも悪いのか?」
「いや、あれは多分・・・・・違う。」
「どういう事だ?」
盛大に首を捻るシュラをその場に残して、アフロディーテはをじっと見つめた。
はアフロディーテに見つめられている事にも気付かず、依然心此処に在らずといった風である。
「。」
「・・・・・・・」
「。」
「っはい!?あ、なんだアフロ・・・・。吃驚した・・・・」
「ふふ、ぼんやりするのも結構だけど、せめてランチ位は済ませてからの方が良いんじゃないか?」
「あ・・・・・・、そうね・・・・・。」
「ま、それはともかく。ところで、最近少し綺麗になったんじゃないかい?」
「なっ!?何言ってんのもう!!やだーーもう!!あははは、お世辞にしたって言いすぎよーー!!」
アフロディーテの言葉に激しく照れたは、照れ隠しに爆笑しつつアフロディーテの肩をバシバシと叩いた。
その声と音の大きさに、熱心に新聞を読んでいたカノンや、食事に集中していたアルデバラン・アイオリアまでもが、何事かと顔を上げて驚いている。
「痛い痛い、痛いよ、・・・・・。」
「あ、ごめん!!ごめんね!!」
「ふふふ、でもお世辞じゃないんだけどね。近頃本当に綺麗になったと思うよ。恋でもしているのかな?」
「こっ、恋!?」
の声が裏返っている。
どうやら当たりのようだと、アフロディーテはにんまりと微笑んだ。
「やだ違うわよそんな・・・・・恋・・・・だなんて・・・・・。あっ、私コーヒー淹れてこようっと!皆も飲むでしょ?食後のコーヒーは最高だな〜〜っと♪」
尤も、本人はバレバレな態度ですっ呆けて逃げて行ってしまったが。
が行ってしまった後、カノンはアフロディーテに問いかけた。
「おいアフロディーテ、恋って何の話だ?」
「見れば分かるだろ?あれはどこからどう見ても、恋する女の姿だ。」
アフロディーテは、一人納得したように頷いた。
綺麗になったと言ったのは、本当にお世辞ではない。
睫毛を伏せた横顔が、切なげに窓の向こうを見つめる黒い瞳が、少し前より魅力を増している気がしたのだ。
見慣れている人間だからこそ気付く変化と言おうか。
ただ問題は、誰がにそんな顔をさせているかという事なのだが。
一方カノンは、アフロディーテの短い言葉で大よそを察したらしく、更に突っ込んだ質問を投げ掛けた。
「あいつが?恋って誰にだ?」
「私に訊かれても知らないよ。」
「ふん・・・・・・・。何やら面白そうな匂いがしてきたな。」
「おいカノン。また妙な事を考えているのではなかろうな?」
カノンの底知れぬ微笑に些か畏怖の念を抱いたアイオリアが、恐る恐る顔色を伺うように窘める。
しかしカノンは、その不敵な笑みを消さぬまま、さも当然のように言い放った。
「確かめる。」
『確かめる!?』
一同の声がハモる。
「何故!?」
「この退屈極まりない聖域で、折角暇を潰せそうな出来事にありついたのだ。当然だろう?」
「おっ、お前という奴は・・・・・・!」
人の恋路を邪魔するどころか玩具にしようとするカノンに呆れ果てて、言葉を失うアルデバラン。
「どうやって!?」
「うむ。まずは本人を締め上げて吐かせてみるが・・・・・、あいつの事だ。素直に全部吐くかどうか。まあその辺は俺に任せておけ。それともお前がやるか、アイオリア?」
「うっ、いや俺はそういうのは・・・・・!」
ぶんぶんと頭を振るアイオリア。
そんな彼らを見ていたシュラは、小さく溜息をついてカノンに向き直った。
「しかしカノン。もし恋なら恋で、誰を好きになろうがの勝手だろうが。放っておいてやれ。いい年こいた男が雁首揃えてキャーキャー騒ぐ話でもあるまい。しかもこの中で最年長のお前が先頭きって騒いでどうする。」
「黙れ。年の事は言うな。だがな、シュラ。退屈凌ぎ云々を抜きにしても、気にならんか?なんだかんだでがここへ来てからもう随分経つが、こんな事など今までなかっただろう?」
「そ、それは・・・・・・」
「ようやくが、この中の誰かに惚れたんだ。そいつが誰か、気になるだろう?」
「う・・・・・」
カノンの言葉に、全員が一瞬言葉に詰まる。
確かにカノンの言う事は否定出来ない。
男盛りの野郎ばかりがひしめき合って暮らしてきた、この狭い世界に突如現れた適齢の女性、。
正直、すぐにでも誰かと恋仲になるのではないかと、皆口には出さねどそう思っていた。
実際、はみるみる内に自分達と打ち解け、親しく付き合うようになった。
だが、当初の予想に反して、未だ誰一人として恋愛関係に至る事はなかったのである。
そのが、ようやく誰かに恋をしたとあれば、その相手が誰か、確かに気になるところではある。
「・・・・・・確かに。少し気になるね。」
「ほらみろ。アフロディーテもこう言っている。お前達はどうだ?正直なところを言ってみろ。」
「それは・・・・・・、確かに・・・・・・」
「多少はな・・・・・・・・」
「気になるが・・・・・な・・・・・・」
アルデバランが、アイオリアが、シュラが、それぞれに口籠る。
カノンは、それを満足げに聞き届けて頷いた。
「決まり、だな。」
何やら不穏な決定が休憩室で下されていたその頃、給湯室では・・・・・・・。
「はぁ・・・・・・・」
が深々と溜息をついていた。
何をしていても、頭にあるのは先週の事ばかり。
そう、つい先週の事だったのだ・・・・・。
『麻生貴臣です。よろしく。』
『です。よろしくお願いします・・・・・。』
何度思い出しても、顔がにやけてしまう。
先週、近くの町で買い物の途中、ちょっとしたトラブルに見舞われた。
何の事はない。
東洋人の若い女だからと高を括られ、買おうとした物に法外な値段をつけられたのである。
次第に増えてきたとはいえ、まだまだボキャブラリーの少ないのギリシャ語では、こういったピンチを切り抜けるのは至難の業である。
そんな時に助けてくれたのが、彼だった。
その後、お礼代わりにほんの一時間ばかりお茶を飲んだのだが、その時の事が忘れられない。
その時の温かい笑顔に一目惚れだった。
そして、聖域に戻った頃にはもう、の心には彼のその笑顔がくっきりと刻み込まれていたのだ。
『さんと知り合えて良かった。』
奥二重の涼しげな黒い瞳に、すっきり通った鼻筋。
優しく綻ぶ口元は、笑うと笑窪が出る。
筋張った長い指と、少し硬そうな黒髪と、背の高いがっしりした体格が男らしくて。
見た目の賛辞など、幾らでも出てくる。
でもそれだけじゃない。
耳障りの良い低い声での気取らないお喋りにも、さり気ない優しさにも、全てに惹かれた。
彼に恋をしてしまったのだ。
「麻生さん・・・・・、今日も取材してるのかな・・・・・」
別れ際に貰った名刺には、フリールポライターとあった。
携帯の番号も記されてはいるが、まだ電話はしていない。
やけに緊張して、電話を持つ手が躊躇ってしまうのだ。
そして再び紡ぎ出される溜息。
自分の気持ちを持て余し、胸苦しく眠れぬ夜がやって来る。
しかし、それも含めて恋というもの。
は今、充実していた。
「はぁ・・・・・・・」
隣で盛んに湯気を立てているケトルの状態にも気付かず、はただひたすら溜息をついていた。
「はぁ・・・・・・・」
手にしたボールペンを無意味に分解しつつ、は小さく首を振りながら溜息をついている。
一同はそんなの様子を注意深く観察していた。
「おい、とうとうボールペンがバラバラになったぞ;」
「あ、戻そうとしている・・・・・」
「なかなか戻らんな。まあ、心此処に在らずなようだから、無理もないが・・・・」
「諦めたか・・・・・。おい、今度は消しゴムを千切り始めたぞ;」
シュラが、アフロディーテが、アルデバランが、アイオリアが、それぞれに小声での行動に突っ込んでいる横を、男が一人素通りして行く。
その男は言うまでもなく、カノンであった。
彼は一歩また一歩と、に近付いていく。
その様子をも、一同はじっと見守った。
『こうして外国で日本の方に会うと、何だかほっとしますよね。』
「はぁ・・・・・・・・」
『さんと知り合えて良かった。』
― 私も・・・・・・
「素敵だ、・・・・・・」
「やだ、そんな・・・・・・」
「今夜は帰したくない・・・・・」
「えぇっ!?そんな私達まだ・・・・・って、カノン!?」
「くくっ、何をときめいてるんだ?」
回想の途中から何かがおかしいと思ったら、物思いに耽っている横からカノンが茶々を入れていたようだ。
我に返ったは、顔を真っ赤にしながらカノンの肩を叩いた。
「何よーー!!横から変な事言わないでよ!!」
「ん?真っ昼間から変な事でも考えてたのか?」
「ちっ、違うわよ!!も〜いいからあっち行って!あっち!ハウス!!」
「犬か俺は。もう少しマシな言い方をしろ。しかしな、俺達の目を誤魔化そうったって、そうはいかんぞ?」
「なっ、何よ・・・・・」
顎を持ち上げて睨みつけてくるカノンに若干怯えつつ、は目線を宙に泳がせた。
「黙って見ていれば、ハァハァハァハァ溜息ばかり。それでバレない訳がなかろう。白状しろ、ほら。」
「な、何を?」
「誰に惚れている?ん?言ってみろ。」
「そっ!!」
そんな事言える訳ない!!
そう言いたいのを堪えて、は黙り込んだ。
カノンは明らかに面白がっている。
まだ芽生えたばかりの密かな恋心を、玩具にされては堪らない。
従って、は黙秘を貫こうとした。
だが。
「お前達も知りたいだろう?」
と、カノンは皆に向かって声を掛けたのだ。
それがきっかけになったのか、一同がぞろぞろと集まってくる。
「なぁアルデバラン?お前だって気になるだろ?」
「まぁその・・・・・、少しは・・・・、気になる、な。なぁ、アイオリア?」
「うっ、うむ・・・・・。いや俺は別にその、君のプライベートな部分に踏み込むつもりはないのだが・・・・。なぁ、アフロディーテ?」
「まあ、こういう類の事は他人がとやかく詮索する事ではないのだが・・・・・、シュラが知りたがって五月蝿くてね・・・・・」
「そこで俺の名を出すな!どうせ出すならカノンの名を出せ!カノンの方が、俺の100倍は知りたがっているだろうが。」
「という事だ。言え。」
他はともかく、にっこりと微笑むカノンが恐ろしい。
確かにこの聖域は娯楽に欠けている。
楽しい刺激がなさ過ぎるせいか、皆すっかり興味津々である。
おまけに、こういう時に助けてくれそうなサガは、生憎今日に限って留守ときている。
しかし、今回ばかりは冗談のタネにされたくはない。
は必死になって口を噤み、シラを切った。
「べ、別に何も・・・・・・。何の事だかさっぱり・・・・・」
「嘘をつけ。ネタは上がってるんだぞ。これ以上手間を掛けさせるなら、てっとり早く身体に訊いてやろうか?ん?」
厭らしく動くカノンの手に、は怯えた。
カノンは本気だ。
冗談だけど本気だ。
その手は一旦自分を捕らえたが最後、白状するまで容赦なく自分を攻め立てるだろう。
今にも脇腹に伸びてきそうなその手に恐怖したは、観念して口を開いた。