「うわぁ〜!」
桟橋に降り立つと、は感嘆の声を上げた。
空と海が織りなす青のグラデーションも、白壁の建物を彩る色とりどりの花や看板も、
往来を楽しげに行き交う人々も、何もかもが鮮やかに輝いて見えたのだ。
ギリシャに来てから海を見たのは、何もこれが初めてという訳ではない。
だが、この島に来たのは初めてだ。
そして。
「あんまりキョロキョロするなよ。海に落ちるぞ。」
プライベートでカノンと二人きりで出掛けるのも、これが初めてだった。
は振り返ると、皮肉めいた笑いを浮かべているカノンに笑いかけた。
「平気よ!足元はちゃんと見てるってば!」
「フフン、どうだかな。お前はどんくさいから。」
「そんな事ないわよ!」
「ま、はしゃぐのも程々にしておけ。本当にドボンなんて事になったら、折角めかし込んで来たのが台無しになるぞ?」
「だーから大丈夫だってば!」
カノンの皮肉に顔を顰めては見せたが、何となく、頬が締まりきらないのが自分でも分かる。
しかし、初めてのデートではしゃぐなという方が無理な話なのだ。
実のところ、カノンに『美味いシーフードを出す店に連れて行ってやる』と誘われた時から、
そしてそれが、ちょっとした旅行レベルの遠出になると分かった時から、は舞い上がっていた。
かなり、相当に、浮かれていた。
それがあんまり露骨に分かると恥ずかしいからと、カノンに対しては極力普通に振舞ってきたが、
新しい服を買い、全身磨き上げて、水面下で一人密かに、今日のこの日の為に準備を整えてきたのである。
そしてついに迎えた初デート。
楽しくない訳がない。
浮かれずに済む筈がない。
「美味しいシーフードかぁ、楽しみだな〜!あ〜、何か早くもお腹空いてきちゃった!」
「フフ、まあそう焦らずに我慢しておけ。まずは少しそこらを散策するというのはどうだ?
お前、そういうの好きだろう?」
「うん!じゃあ、折角来たんだから、あちこち見て歩こうよ!」
「フッ、分かった分かった。」
はカノンの手を取り、弾む気持ちに任せて歩き始めた。
町は昼下がりの陽光に眩く輝いていた。
通り沿いにはカフェや食料品店が軒を連ねており、二人はあちこちと店先を覗きながら歩いた。
尤も、殆どはがカノンを引っ張っていく形で、だったが。
「あっ、可愛い〜!」
はふと目に留まった雑貨屋の軒先に駆け寄った。
バスケットに山盛りになっている、何やら可愛らしい小物が目を惹いたのだ。
近寄ってバスケットの中を覗き込んで見ると、それはマグネットだった。
種類が多い上にどれもこれも可愛くて、見れば見る程目移りしてしまう。
「ねえカノン、見て見て、ほら!」
は腰を屈めたまま、特に気に入った一つ二つを手に取ってカノンに見せようと振り返った。
「これ可愛いと思わない!?ね!?」
「あ、ああ」
「どうしよう〜、買っちゃおうかなぁ〜!?」
カノンの反応は今一つだったのだが、マグネットの可愛さにすっかり夢中になっていたはまるで気付かず、またマグネットの籠に向き直った。
「あ〜でもどうしよう、今買ったら邪魔になるかな?帰りにした方が良いかな?」
「おい・・・・・・」
「ああぁ〜ごめん待たせて!でももうちょっとだけ待ってて!」
「いやそうじゃなくて・・・・・」
「でも小さいからそんな邪魔にはならないよね・・・・?」
「おい・・・・・・」
「ああ〜でもなぁ!うぅ〜んどうしよう・・・・・・!」
買おうか買うまいか。
悩みに悩んだ挙句、はその答えをカノンに求めるべく、また後ろを振り返った。
すると。
「ねぇカノン・・・って吃驚したぁ!何でそんなすぐ後ろに張り付いてるの!?」
さっきまで数歩下がった所に居た筈のカノンが、今はのすぐ後ろにピッタリと張り付くように立っていた。
「・・・・・・別に。」
「・・・・・?変なの。まあ良いや!ねぇ、これ今買っても良いと思う?」
「良い。今買え。すぐ買え。そら行け。」
「あっ、ちょっ・・・・!」
カノンはの上体を強引に起こし、まるで追い立てるように背中を押した。
そう言えば心なしか仏頂面になっていたし、待たせたせいでちょっと不機嫌になったのだろうか。
ものの数分も待たせてはいない筈なのだが。
そんな事を考えながら、はレジへと向かった。
カノンはもしや超ド短気なのだろうか、それとも、女の買い物に付き合うのが大っ嫌いなのだろうかと
一瞬心配になったのだが、雑貨屋を出るとカノンの様子は元に戻った。
ごく自然な感じに腕を組んで歩いてくれるし、仏頂面でもない。
その事に安心したは、ひとまず気を取り直していた。
「カノンは何処か見たい所とかないの?」
「俺は別に。強いて言えば、少し喉が渇いたな。」
「じゃあ、カフェでも入ろうか?」
「そうだな。」
二人はごくごくいつも通りに会話を交わし、カフェを目指して歩いていた。
その時、二人の前に一匹の猫がヒョイと現れた。
その猫はかなり人慣れしているのか、甘えるような声で鳴きながらの足元に纏わりついた。
「やーん、可愛いー!」
は、足元にスリスリと身を擦り付けるその猫を撫でようと、腰を屈めた。
頭を撫でてやると、猫は更に身を擦り寄せ、狂おしく熱烈に甘え始めた。
「可愛い〜!ほら見てカノン!すっごく人懐っこいね、この子!」
その魔性とも言える程の可愛い仕草に絆されたは、目を細めてカノンの方を向いた。
が。
「・・・・ってまた後ろに張り付いてる!何、どうしたの!?」
カノンはまたもやのすぐ後ろにビッタリと張り付いていたのだ。
おまけに顔も、またしても何となく仏頂面になっているような気がする。
「・・・・・・別に。」
「・・・・・?そう?なら良いけど・・・・。カノンって猫嫌いだったっけ?ふふっ、それともまさか、
怖かったりして!こーんなに可愛いのに!」
「そんな訳あるか。野良猫だ、放っておけ。下手に構うとずっとついて来るぞ。」
「あっ、ちょっ・・・・!」
そしてまた、強引にの腕を引いて歩き始めたのであった。
「・・・・やれやれ。やっと一息つけたな。」
近くのカフェに入って冷たいコーヒーを一口飲んでから、カノンの表情はやっと和らいだ。
「・・・・・ねぇ。もしかして何か怒ってる?」
はジュースを飲みながら、おずおずとそう尋ねた。
何度考えても、特に怒らせるような事をした覚えはなかったのだが、それでももし、
万一にもカノンを怒らせていたとしたら、早く自覚して謝っておかねばと思ったのだ。
「別に怒ってなどいない。何故そんな事を言うんだ?」
「別に・・・・・、ただ何となく。怒らせちゃったのかなぁって思っただけ・・・・・」
「フフッ、何だそれ。そんなに俺に嫌われたくないのか?ベタ惚れなんだな。」
ところがカノンは、至って普通だった。
その皮肉めいた笑みも、余裕の口ぶりも、何もかもが。
「なっ・・・・!そ、そんなんじゃ・・・」
「違うのか?」
「っ〜〜〜・・・・・!」
悔しいが、事実であるが故に言い返せない。
先に気持ちを打ち明けてくれたのはカノンの方だったが、それは偶々そうなっただけで、
自分から告白していても何ら不思議はなかった位、もカノンに惹かれていた。
だからこそ、今日が楽しくて楽しくて仕方がなかったのだが、それは自分だけなのだろうか。
ふとそんな事を思うと、まるで快晴の青空が薄い雲に翳っていくように、不安が広がり始める。
は小さく溜息を吐くと、冷たいジュースをまた一口飲んだ。
「どうした?そっちこそ急にテンション下がったじゃないか。早くもはしゃぎ疲れたか?」
「そんなんじゃないわよ、ただちょっと・・・・・・、気になっただけ。」
「何が?」
「もしかしてカノン・・・・・、あんまり楽しくない?」
が恐る恐るそう尋ねると、カノンは一瞬唖然としてから、フンと鼻で笑った。
「何を言うかと思えば。楽しくなければ最初から連れて来るか。」
「本当・・・・?」
「本当に決まっているだろう。全く、どれだけベタ惚れなんだ。」
「ちっが・・・・!そういう事じゃなくて・・・・・!」
ニヤニヤと笑うカノンにからかわれて、は思わず狼狽してしまった。
その時、反射的に『違う違う』と振ってしまった手が、テーブルの上に置いてあったカノンのサングラスを払い落してしまった。
あっと思った時にはもう遅く、サングラスは床に落ちてテーブルの下に潜り込んでしまった後だった。
「あっ、ごめん!」
「いや、いい。」
は慌てて拾おうとしたのだが、カノンはそれを制し、自分で拾おうとテーブルの下を覗き込んだ。
「ごめんね!割れてない!?」
「・・・・・・・」
「カノン?」
暫くして身を起こしたカノンは。
「・・・・・・・・」
「カ、カノン・・・・・?」
これまでの比ではない程明らかに、はっきりと、苦々しい顔をしていた。
「ま、まさか割れちゃった!?ご、ごめん!本当にごめん!ごめんなさい!」
はじめ、はそれを、サングラスが割れたせいだとばかり思っていた。
「・・・・・って、あれ?」
ところが、カノンが再び掛けたそれは、割れているどころかヒビ一つ入ってはいなかった。
「サングラス無事だったの?何だぁ、良かったぁ!」
「・・・・・・ったく、お前という奴は・・・・・・」
「あっ・・・・!ご、ごめんなさい、不注意で・・・・・!」
しかしそれにしては、カノンの虫の居所が明らかに悪そうである。
は慌てて平身低頭謝った。
しかしカノンは、もうニコリとも笑ってくれなかった。
「・・・・・出るぞ。来い。」
「えっ?でもまだ来たばっかり・・・」
「いいから来い。」
「あっ、ちょっ・・・・!」
そうしては、またしても強引に手を引かれていく事となった。
手を引くというよりは、『引き摺る』という方が近い位の勢いで。
「ちょ、ちょっと待ってよカノン!どうしたの!?」
カノンに引き摺られて小走りになりながら、は呼びかけ続けた。
しかし、カノンが返事をしてくれる事はなかった。