ピンポーン。
は、玄関チャイムの鳴る音で我に返った。
ピンポンピンポンピンポンピンポーン!
この嫌がらせじみた鳴らし方は。
ドアの向こうの顔を思い浮かべてムッとしながら、は床に散らばった物を飛び越えて玄関へと駆けて行った。
「はーいはーい、はいはいはいはい!!」
勢い良く扉を開くと、やはり予感的中。
「よっ。」
「やっぱりデスだー!」
そこに居たのはデスマスクであった。
他に、シュラとアフロディーテも居るには居るが、チャイム連打の犯人は間違いなくデスマスクだ。
こんな下らない事をして遊ぶのは彼ぐらいだから。
「やっぱりって何だよ?っていうか何怒ってんだよ、感じ悪いなぁ。」
「今忙しいのよ!もー、何!?このややこしい時に!」
「一緒に昼飯食おうぜ。何かねぇの?」
「あんっったねぇ・・・・・!」
思い切り眉間に皺を寄せるを、シュラとアフロディーテが苦笑いを浮かべて宥め始めた。
「忙しいところに突然押しかけて悪かったな、。誘いに行くついでに、今日はお前の所で、と勝手に思っていたんだが。」
「立て込んでいるのなら、またにするよ。」
「あ・・・・・、ううん、良いの。こっちこそごめん。」
一呼吸置いて苛々が治まったは、恥ずかしそうに笑って言った。
「ちょっと部屋の片付けしてて、今、部屋の中がゴチャゴチャになってんのよ。そんな所にピンポンピンポン鳴らされたから、ついイラッとして。ごめんね、エヘヘ。」
「んだよ、八つ当たりかよ!」
「八つ当たりじゃないわよ、デスが悪いんでしょー!鳴らすならもっと静かに鳴らしてよ!ピンポンピンポン五月蝿いんだから!・・・・まあ良いわ、皆、上がって上がって!」
は笑いながら、三人を招き入れた。
「良いのか?部屋の掃除中だろう?」
「良いの良いの。どうせ私もお昼まだだし。」
靴を脱ぎつつも、気後れしたように言うシュラに、は首を振った。
ここらで休憩を挟む方が、にとってもベストだったからだ。
何故なら。
「そうか、それなら良いんだが・・・・ってオイ・・・」
「うわぉ。これはまた随分派手に散らかしてるね。」
「おいおい、夜逃げでもする気かぁ?」
玄関を入ってすぐの所にあるの寝室は、三人が呆れ返る程にゴッチャゴチャに散らかっていたのである。
これが全部片付くには、まだまだ時間が掛かる。
「違うけど、思い立ったから掃除してみただけ。だいぶ物も増えちゃったし。とにかく、何か作るから、皆リビングに・・・」
従っては、先に三人と昼食を済ませようとしたのだが。
「あのベッドの上に積んであるの、もしかしてのアルバムかな?」
「ほう。見てみたいな。」
「よっしゃ野郎共、漁れ漁れぇぇぇ!!!」
「ギャーーッ!!ちょっと止めてよ!勝手に見ないでったらー!」
当の三人は、本来の目的などそっちのけで、の寝室に雪崩れ込んで行った。
今、寝室はとても無防備な状態だ。
普段は人目につかない場所に仕舞いこんであるあんな物やこんな物が、どうぞ見て下さいと言わんばかりにそこらに散らばっている。
こうなっては最早昼食どころではなく、は必死の形相で三人を追って寝室に飛び込んだ。
昼食をそっちのけてまで三人を追いかけた甲斐があったか、と問われると。
「おいおいおいおい、誰だぁこの男〜!?」
「綺麗だよ、。君のキモノ姿なんて初めて見た。」
「ヤマトナデシコってやつだな。・・・・お、セーラー服の写真があった。、この頃からあまり顔が変わっていないな。」
答えはNo、だ。
三人はの抵抗など難なくかわし、見たい物を見たいだけ、思う存分見てくれたのである。
もう今更抵抗しても遅いと諦めたは、渋々三人と一緒にアルバムを見始めた。
「それは中学時代の同級生で只の友達。そっちは成人式の時の写真。で、そのセーラー服の写真は高校時代のものです。」
「ふ〜ん・・・・お?これ何だ?」
百歩譲ってアルバムだけならまだ許せる。
しかし、友達との交換日記やらサイン帳やらを見られては、明日から生きていけなくなる。
思春期の少女特有の恋や友情に対する桃色思考は、その当時は真面目な考えのつもりであっても、大人になって思い返すと、悲鳴を上げながらマッハで走り去りたい位こっ恥ずかしいものなのである。
それも思い出の一つと思って手元に保管しておく事は出来ても、他人には死んでも見られたくない。
「何っ、何よっ!?今度は何見つけたのっっ!?」
従って、はデスマスクが摘み上げていた物を、慌ててひったくろうとしたのだが。
「・・・・・あれ?これ・・・」
それを見て、ふと手を止めた。
「ねぇ、デス。これ何処で見つけたの?」
「あぁ?このダンボールの底に入ってたぜ。」
「や・・・だぁ・・・・・。なーんだぁ!そんな所にあったんだぁ!良かったぁ〜!!」
急にキャイキャイとはしゃぎ出したを見て、三人は呆気に取られた。
急にはしゃぎ出した事自体も不思議だったが、その原因になった物もまた不思議だったからだ。
「何だそれは?お前が使うにしては少々、いやかなり無理があると思うんだが・・・・。」
「私もそう思う。かなりその・・・・、少女趣味じゃないかな?というか、有り体に言うと幼すぎるような。」
「つーか、ぶっちゃけガキ用だろ、それ?」
シュラ・アフロディーテ・デスマスクが訝しげに眉を顰めるのを見て、は小さく吹き出した。
「分かってるわよ、そんな事。誰もこれを持って出掛けるとは言ってないでしょ。・・・・・これはね、私の宝物なの。」
は、それを目の高さにまで掲げて眩しそうに見つめた。
幼い女の子が好みそうな、淡いパールピンクの子供用のハンドバッグを。
「宝物?それが?」
「そう。」
「ふ〜ん・・・・、ちょっと見せて貰っても良いかい?」
「うん。」
からバッグを受け取ったアフロディーテは、ファスナーを開いて中を見た。
まるでおとぎの国のお姫様が使うようなそのバッグから出て来た物は、レースのハンカチでも香水の小瓶でもなく。
「これ・・・・・・」
正方形に折り畳まれた、星模様の包装紙だった。
クシャクシャと皺が入っていて、明らかに使用後と思われるような、ゴミ同然の。
「気を悪くしないで欲しいんだが・・・・、この紙、宝物のバッグに入れておく程の物か?」
シュラがにそう尋ねた瞬間、アフロディーテが『あ、まだ何か入っていた』と声を上げた。
「今度は写真かよ・・・・・って、おいこれ・・・・・」
「もしかしてこれ・・・・・、の小さい頃かい?」
デスマスクとアフロディーテが驚いたように目を丸く見開くのを見て、は苦笑しつつ頷いた。
「これね、全部宝物なの。これが3歳までの私の全て。」
バッグとその中身を返して貰ったは、それら一つ一つを手に取りながら、独り言のように静かに話し始めた。
「私、3歳までは母と暮らしてたの。でも、その頃の事は殆ど何も覚えていないし、何も残っていない。私、母の顔もはっきり覚えていないのよ。」
が改めて三人に見せたその古い写真には、幼いだけしか映っていなかった。
「この写真は母が撮ったの。多分これは・・・」
「君のお母さんが撮った唯一の写真、だね?」
「うん、多分ね。どうして分かったの?」
「君のアルバムの中に、これより幼い頃の写真が一枚も無かったから。」
「・・・ふふっ。凄い観察眼ね、アフロ。」
「フッ、有難う。」
「この日の事だけは良く覚えているの。暑い日だった、凄く暑い日だった・・・・・・」
は、その当時の光景を瞼の裏に見ようとするかのように、一瞬瞳を閉じた。
「母が急にデパートに連れて行ってくれたの。それで、何でも好きな物買ってあげるって言われて。それで買って貰ったのが、このバッグ。写真にも写ってるでしょ、ほら。」
の言う通り、その時買って貰った物が、幼いと共に写真に写っていた。
淡いパールピンクのハンドバッグが、小さな手に大事そうに握られている。
「そんな事初めてだったのよ。だから凄く嬉しかった。子供心に『今日は最高の日だー!』って思ってた。あんまり嬉しくて、バッグを包んで貰った包装紙まで宝物にしちゃったの、ふふっ。ほら、この写真も、そんな顔で写ってるでしょ?」
濃緑の瑞々しい葉が茂る大きな木の下で、ノースリーブの水玉のワンピースを着た小さな女の子が立っている。
まるでお姫様が使うようなピンクのハンドバッグを手に持って。
そして。
その表情は、笑顔。
零れ落ちるような、無邪気な笑顔だった。
「・・・・・本当、最高の日だったんだけどね。」
「けど・・・・・?」
訊き難そうに尋ねたシュラに向かって、は口元だけで小さく笑った。
「この日に、母は私の前から居なくなっちゃった。」
耳をつんざくような蝉時雨。
真夏の太陽に焼け付いた鉄棒。
転がるボールと、子供達のはしゃぐ声。
そんな細切れの記憶を辿りながら、は話した。
「この写真を撮った後、詳しくは覚えていないんだけど、気が付いたら私は、保育園のグラウンドみたいな所で、沢山の子供達と遊んでいたの。楽しかった。鉄棒をしたり、サッカーしたりして。母は、『用事があるからここで遊んでなさい』って言って、誰か大人の人と何処かに行ってしまったの。終わったら迎えに来るからって。だから私、何も考えずにただ皆と遊んでいた。でも・・・・」
傾いた夕陽を浴びて黄金色に染まっていた向日葵と、地面に黒く伸びる自分の影。
「・・・・・母は、いつまで経っても来てくれなかった。日が暮れてきて皆が何処かへ行っちゃった後も、私は一人で外で待ち続けたけど、母は来てくれなかった。」
「・・・・・それで、どうなったんだい?」
「その内に、私は誰かに部屋の中に連れて行かれたわ。そうしたら、昼間一緒に遊んだ子達が皆いて、ご飯を食べていたの。そこで先生みたいな人が、『今日からこのちゃんも皆の家族よ』って。」
「要するにそこは・・・・、君の育った星の子学園だったって事?」
「うん。そういう事。」
アフロディーテの質問に、は微笑んで頷いた。
「私が高校を卒業して、学園を出て行く時、園長先生がその当時の事を簡単に聞かせてくれたの。この写真もね、あの日、母が園長先生にフィルムを預けて行ったんだって。でもそれだけ。母がどんな人かとか、居所とかは分からなかった。だから、この写真とバッグと包装紙、この3つが私にとっての母の全てなの。それで、捨てられなくて。」
「・・・・こう言っちゃあ何だが、つまり、お前のお袋はお前を捨てたんだろ。憎くねぇのか?」
「君は今でもまだ、いつかお母さんに迎えに来て欲しいと思っているのかい?」
「お前の親父さんは?話には少しも出て来なかったが。」
の話を聞いた三人は、それぞれに思った事をに尋ねた。
どれもこれもが率直かつ難しい質問だったが、はそのどれにもサバサバとした口調で答えた。
「うーん、憎いとか何とか、もうそういう事じゃないのよね。もう随分昔の話だし、今の私にとっての家族は、孤児院の皆だって思ってるし。ただ、私にも血の繋がった母が居たって事実は、捨てちゃいけない気がして。大切にしておかなきゃいけない気がして。」
「・・・・・ま、そう言われりゃそうかもな。」
「だから、迎えに来て欲しいとか会いたいとか、それもちょっと違うのよね。そりゃ、会えるものならいつか会ってみたいけど、何が何でも、必死に捜してまで、って程じゃなくて、ただ漠然と思っているだけというか。」
「・・・・なるほど。」
「ちなみに、父の事は母の事以上に知らないのよ。全く、何も、皆目、さっぱり。」
「そ、そうなのか;」
「でも、何にしてもぜーんぶ昔の事!全部済んだ事よ!これはあくまでも思い出!」
はそう言って、屈託なく笑った。
「さっ、そろそろお昼食べようよ!ほら皆、出て出て!!」
三人をシッシッと部屋の外に追い出す仕草をするは、いつもと何も変わらなかった。
感傷に浸っている訳でもなく、切なさを無理に押し殺している風でもなく、本当にいつも通りのだった。
子供には、幼さ故の柔軟性がある。大人とは違って、どんな環境にも適応して生きていける能力がある。
親の居ない子は、はじめは親を恋しがって泣いても、やがてその環境をごく当然の事として受け入れて生きていく。
もきっとそうして生きて来て、別れた肉親の事は既に完全に割り切れているのだろう。
自分達もそうであるように。
三人は顔を見合わせて一瞬フッと笑うと、に促されるままリビングへと向かった。
「あっ、ご飯が沢山残ってる。ねぇ、炒飯で良いわよねー!」
「おいおい、炒飯だけかよー!せめてスープとサラダぐらいつけろよ!」
「だって、材料無いんだもんー!具無しの醤油スープで良いなら作ってあげるけど?」
「ふざけんなよ!」
「おいデスマスク、我侭を言うな。抜き打ちで押しかけたんだから、炒飯だけでもありつけるだけマシと思え。」
「そうだそうだ。文句があるなら、君が自分の冷蔵庫から材料を持って来るべきだ。」
「嫌なこった、面倒くせぇ!」
キッチンに立ったと、リビングでテーブルの支度を整えている三人は、それぞれの分担をこなしつつ、いつもの調子で馬鹿騒ぎをしていた。
すると。
「こんにちは、。勝手にお邪魔しましたよ。」
「あっ、ムウ!いらっしゃーい!」
キッチンにひょいとムウが顔を出した。
「貴女に郵便ですよ。ここに置いておきますね。」
「有難う〜!ごめんね、わざわざ届けてくれて!」
「いいえ。私の分を取りに行ったついでですから。」
カウンターに宛ての郵便物を置いたムウは、と会話をしながらリビングへと移動していった。
その動きは、まるで自宮の中を歩いているかのようにごく自然である。
「今から皆でお昼にするところなの。良かったらムウもどう?」
「ええ、是非。」
「君も大概遠慮がないね、ムウ。」
「貴方に言われたくありませんよ、アフロディーテ。」
「おいムウ、お前は予定外のゲストなんだからな。遠慮して食えよ。俺様の分が減るから。」
「心配しなくても、そんなに食べやしませんよ。本当に意地汚いですね、蟹は。」
「ああ、そうだムウ。この間頼んでおいた俺の聖衣の修復はどうなっている?」
「ああ、あれですか。ええ、まあ、その内。」
「おいっ!その内ってどういう事だ!?」
「山羊の角の部分に少し傷がついているだけじゃないですか。昨日、もっと切羽詰った状態の聖衣が運び込まれて、今はそっちで手一杯なんですよ。その内、暇になったら直してあげますから。」
「何だそのいい加減な言い方は!その内っていつになるんだ!?」
いや、ムウだけではない。
デスマスクもシュラもアフロディーテも、今はこの場に居ない黄金聖闘士達全員が、の家を居心地良く感じている。
が居る今の聖域を、居心地良く感じている。
そしてもまた、彼らと同じ気持ちで日々を過ごしていた。
とんだハプニングのお陰でこの聖域に来て、もう随分時が経った。
今となっては、あのハプニングに感謝している。
時が経つにつれて良い事も悪い事も色々起きたが、側にはいつでも彼らが居る。
強く、優しく、信頼出来る黄金聖闘士達が。
彼らを信頼し、彼らに信頼されつつ過ごす毎日は、とても充実していて楽しい。
にとってこの生活は、何にも替え難い宝物だった。
「さてさて、誰からの手紙かしらね?」
リビングで騒いでいる四人を微笑ましげに見つめた後、はムウが届けてくれた手紙を手に取った。
「あれ、園長先生だ。」
封筒の裏に書かれてあった住所と氏名は、星の子学園の住所と園長の名前だった。
この聖域に来てから、園長は時折、の様子を伺う手紙をくれている。
尤も、園長はが聖域に居る事を知らない。
グラード財団のギリシャ支部に勤務していると思っている。がそう言っておいたのだ。
仕事の様子や健康を気遣ってくれ、偶には顔を見せに帰って来いと言ってくれる園長の優しさが遠く離れた日本から届く度、は胸が仄かに温まるような安らぎを覚えていた。
これが多分、郷愁という気持ちだろう。
人間には、誰しもが故郷と呼べる場所を持っている。
そして、にとっての故郷はあの孤児院だった。
「え〜っと、なになに・・・・」
は丁寧に封を破って、便箋を取り出した。
開いてみれば、園長の達筆な文字が目に飛び込んで来る。
は微笑混じりにそれを目で追い始めた。
が。
「?どうかしましたか?」
次第にその微笑が消えていき、やがて動揺しているような不安げな瞳で、食い入るように手紙の文字を追い始めた。
異変に気付いたムウが声を掛けても、全く聞こえていないかのように、一心不乱に。
「?どうかしたかい?」
「おい、どうしたんだ、?」
「どこぶっ飛んでんだぁ?おーいー?」
ムウに続いてアフロディーテ・シュラ・デスマスクが声を掛けても、は返事をしなかった。
そして、不意に手紙を固く握り締めると、地に足のついていないような歩き方で、携帯電話を掴んで玄関の方へと歩き始めた。
「おいっ、何処行くんだよ!?俺様の炒飯は!?」
「・・・・・・ごめん、ちょっと出て来る。」
慌てて後を追って来たデスマスクにそう言い残すと、は外に出て行った。