すぐそこに人の気配を感じて、デスマスクはそちらへ視線を向けた。
「・・・・・・・・」
そこにはシュラが呆然とした表情で立ち尽くしていた。
「お前達・・・・・、一体何をしているんだ・・・・・・」
「・・・・・・シュラ・・・・!?」
「何だよ、これからって時にナイトのご到着か。ついてねぇな。」
「貴様・・・・・!」
シュラの顔が見る見る内に怒りに染まり、その瞳が憎悪を帯びてくる。
そんな友の変貌を、デスマスクはまるで他人事のように眺めていた。
「離れろ!!今すぐ離れろ!!!」
こうして今、胸倉を掴みかかられている事さえ。
ただ一つ、我が事として痛切に感じたのは、の温もりが遠ざかった事だけだった。
まだすぐそこにあるのに、もう二度と、決して手に入る事はないだろうあの温もりが。
「お前達、こんな事をして只で済むとは思っていまいな!?」
「・・・・・・なんだよ、邪魔すんなよ、シュラ。」
まだを恋しがっている己を服の中に閉じ込めてしまうと、急に怒りがこみ上げてきた。
今夜は最初で最後の夜だったのだ。恐らく、きっとそうなった。
はもう二度と、隙を見せてはくれないだろうから。
心を許してはくれないだろうから。
『友情』という名の、時には愛より強い絆を自ら手放してまで、仮初の温もりを求めたのだ。
飢えた獣のように、みっともなく形振り構わずに。
そうして多大な犠牲を払ったにも関わらず、結局はその幻すら掴めないのか。
一時の夢すら、見る事は叶わないのか。
そう思うと、悔しくて仕方がなかった。
「別に良いじゃねえか。お前にを独占出来る権利が、何処にあるってんだよ。」
「何だと!?お前も知っているだろう、は俺の・・・」
「恋人だから、か?ハッ、下らねえ。俺がそんな倫理観に捉われるような男じゃない事ぐらい・・・・・・、お前が一番良く知ってるだろう?」
「ほざくな!間男のような真似をして、恥を知れ!!」
「間男?・・・・・ほざいてるのはどっちだ?何食わぬ顔して、横から人の大事なもん掻っ攫っていきやがって。」
「何だと!?」
情けない間男の振りをしてコソコソと逃げ帰ってやるには、破れた夢は余りにも眩しすぎた。
何故、どうして。
問いかけても仕方の無い、答えなど何処にも無い疑問だけが頭を駆け巡り、それはやがてデスマスクの拳をも突き動かしていた。
「ぐあっ!!」
「シュラ!?」
「くっ・・・・・!」
「シュラ、しっかりして!!」
「立てよ、シュラ。」
己の拳をシュラに叩き付けて、それで何が報われる訳ではない。
そんな事は百も承知の上だったが、やり場のない憤りは、爆発する場所を求めて拳を握らせるのだ。
それはデスマスク自身にも、どうにも止めようのない事だった。
ましてや、シュラを庇おうと立ち塞がる非力ななどに、何が出来ただろうか。
「デス、もう止めて!」
「退け、・・・・・」
「っ・・・・・!」
報復に頬へ叩き付けられたシュラの拳は、とてつもなく重かった。
そう、シュラのへの愛が深く重い事ぐらい、最初から分かっていたのだ。
でなければ、こんな無意味な争いなどするまでもなく、今頃はをこの腕に攫っていた。
少しでも尻込みをすれば、この男に負けてしまう。それだけは嫌だった。
負けを認めてしまえば、己の気持ちが嘘になってしまうではないか。
誰よりも深くを愛しているという己の中の真実が、只の安っぽい甘言になってしまうではないか。
「ククッ、悔しいか?を俺に奪われて悔しいかよ!?」
「ぐっ!!・・・・黙れ!!この恥知らずが!!よくも・・・・!」
「ぐふっ・・・!・・・・ケッ、何とでも好きに言えよ!だがな、はもう俺が抱いた!」
「がはっ!」
「やめて二人共!!!」
本当に闘っているのは、心と心。拳の応戦などは、それを代弁する術に過ぎない。
だから、身を張って止めに入ったを押し退けてまで、続ける理由はなかった。
しかし、それはあくまで肉体的な争いの話だ。
シュラの目は、まだ強く鋭くこちらを射抜いている。
それに負ける訳にはいかないのだ。
己の真実が、真実のままでいられる為には。
「高潔なお前の事だ、もうの事を許せねえだろう?恥知らずなこの俺と違ってな。」
人の弱みを攻撃する事は、いとも容易い。
そして、己が優位に立つのに一番効果的な方法だ。
シュラの動揺した顔を見たデスマスクは、畳み掛けるように言い続けた。
「無理すんなよ。そうなんだろう?」
「・・・・・そんな事は・・・・・・」
「そうか?だったら抱いてみせろよ。たった今まで俺が抱いていたを、抱いてみろよ。」
「くっ・・・・・!」
「俺は別に気にならなかったぜ。お前が散々抱いた身体でもな。お前の匂いなんざ、全く気にならなかった。」
シュラが先程の光景を見て、ショックを受けていない筈はない。
だからデスマスクは、敢えてあの光景を思い出させるように挑発した。
卑劣と言われようが、恥知らずと罵られようが構わなかった。
今更シュラに何と言われようが、悔しくも何ともない。
元より正義の仮面を被っているつもりはないのだから。
「・・・・・・黙れ・・・・・」
「お前の痕なんざ、すぐに幾らでも塗り替えられる。実際は、俺に抱かれてよがって・・・」
「やめろ!!」
「・・・・・・悔しいか、シュラ。」
「出て行け、デスマスク。今すぐ出て行け。」
シュラは随分動揺しているようだった。ただ、それを必死で隠そうとしているだけで。
何しろ長い付き合いだから、それ位は手に取るように分かる。
これでもう十分だと悟ったデスマスクは、シュラとに背を向けた。
「・・・・・・これだけは覚えておけ。俺の悔しさはな、今のお前の比じゃなかった。」
そうだ。悔しさなら、もう十分に味わった。
もう十分ままならぬ人の縁を恨み、何も手に出来ない己を呪い尽くした。
そして、今また新たに、惨めな気分を味わっている。
泣きながら、それでもシュラに寄り添っている、これが答えだ。
少なくともは、シュラの側に居る事を望んでいる。
だからシュラの悔しさなど、己の比ではない。
シュラは手にしているではないか。己の一番欲しいものを。
「・・・・・・。」
「・・・・・・な・・・に・・・?」
「さっきの事、もしお前がそれに気付いていたら・・・・・、お前は俺を愛したか?」
「・・・・・・」
と一番最初に出逢ったのは、を一番長く見ていたのは、
そして、を一番早く、深く愛したのは。
もしもがそれに気付いてくれていたら、は己を愛してくれただろうか。
この期に及んで、まだこんな往生際の悪い仮定が脳裏をよぎるのだから、我ながら呆れたものだ。
自分は一体いつの間に、こんなに諦めの悪い野暮な男に成り下がったのだろうか。
黙っているところを見ると、きっとも幻滅しているのだろう。
デスマスクは自嘲の笑いを小さく零すと、が口を開かない内に自らそれを打ち消した。
「・・・・・なんてな。もしも話なんてしても意味ねえな。忘れてくれ。」
こんなみっともない台詞など、には早く忘れて欲しかった。
だが、本当にそれを忘れて欲しいのは、他ならぬ己自身だった。
「おう。何しに来た?」
「話がある。入るぞ。」
それから数日後の夕方、シュラが不意に訪ねて来た。
あの夜からお互い必要な事以外口も利かず、ろくに顔も合わせて来なかったのだ。
そのまま永遠に仲違いをし続けていくか、或いはいずれ正面対決する事になるかとデスマスクは考えていたのだが、どうやら後者になったらしい。
シュラの話が何なのかを察した上で、デスマスクは飄々と尋ねた。
「何だ、話って。」
「結論から言う。俺はとは別れない。もそれを望んだ。」
なるほど、要点だけを端的に述べるという辺り、この男らしい対決の仕方だとデスマスクは思った。
決して多くは語らない、その代わりに、発した数少ない言葉には、千の言葉よりも重みがある。
それを聞かされた者が、頷くしか出来ないような強さが。
「・・・・・そうか。」
「あの夜の事は、もう忘れてやる。報復なら、あの時散々殴ってやったしな。」
「ああ全くだ。力加減もしねぇでな。」
「それはお互い様だ。」
あの夜受けたシュラの拳は、いつになく重かった。
だがきっと、己がシュラに叩きつけた拳も重かった筈だ。
あの夜、ずっと目を逸らし続けてきた己の心の奥底の欲望に囚われた時の失態を思い出して、デスマスクは苦笑を浮かべていた。
そして、シュラも。
しかし、お互いその笑みは長くは続かなかった。
如何に無様であろうが、あの時はシュラもデスマスク自身も、取り乱さずには居られなかった。
あれがお互いの本心だったのだから。
を手に入れたい、を失いたくないという気持ちに、お互い偽りはなかった。
それだけは確かだった。
「・・・・・だから、お前も忘れろ。仮にも俺達は数多の闘いを共に潜り抜けてきた同胞だし、これからも恐らく死ぬまで運命を共にする事になる。」
「ああ、多分な。」
「だからもう忘れろ。あの時の事も、への気持ちも・・・・・・・、忘れてくれ。」
俺達は別れない、お前がを諦めてくれ。
シュラの言葉は、言い換えればそういう事だ。
全く予想していなかった結果ではないが、いざ正面からはっきり言われると、まだ断ち切れないでいるへの想いが首をもたげてくる。
しかし、全く予想していなかった結果ではない。
シュラとの二人がこういう結末を選ぶ事は、心の何処かで分かっていた。
あの夜、遂に心を開いてはくれなかったを無理に抱いた時に。
泣いて怯えながらも、シュラの側を離れようとしなかったを見た時に。
「何かと思えば、そんな事言いにわざわざ来たのかよ。だったら帰れ帰れ。」
「おい、デスマスク・・・・!」
「俺は忙しいんだよ。これからデートなんだ。遅刻したらお前のせいだぞ。」
「お前・・・・・」
だったらもう、邪魔者が入り込む隙間など一分もないではないか。
どうあっても、がこの手を取ってくれる事はないのだから。
自分でも驚く位、そう結論付けるのに時間は掛からなかった。
「・・・・・・分かった。出掛けに邪魔をして済まなかったな。」
「ああ、全くだ。ほら、帰った帰った!」
「背中を押すな。そんな事されなくても帰る。」
そうと決まれば、これ以上シュラと二人の事に関わるつもりはない、などと言えばシュラは怒るだろうか。
人の恋人を寝取った分際で勝手な事を言うな、元はといえばお前のせいだ、と。
多分そう言って怒ると考えて、デスマスクは敢えて余計な事は言わないように口を噤んだ。
「・・・・・邪魔したな。」
シュラが去っていく。恐らく、の待つ場所へ帰るのだろう。
それがシュラの出した結論だ。
今更余計な事を言って再び蒸し返す気も、まして詫びる気もなかった。
街角の女を引っ掛けるように、中途半端な軽い気持ちで手を出したのなら詫びもする気になっただろうが、そうではなかった。
己の心の奥底に巣食っていた欲望は、紛れもなく愛だった。
「待てよ。」
そう思ったら、頭で考えるより先に口が動いて、シュラを呼び止めていた。
「お前は・・・・・、本当にそれで良いんだな?」
「・・・・・何の事だ?」
「を許してやれるんだな?」
を愛しているから、その幸せを願う為に潔く身を引いてやるのではない。
ただ己の負けである事が確実だから、負け犬らしく背を向けてやるのだ。
勝者は手に入れ、敗者は掴めない。それがこの世の揺るがない条理なのだから。
ただ、憎むべき略奪者が消えた後まで、が苦しむ事がないように。
「・・・・・ああ。もう許している。」
「・・・・・そうか。」
「ああ。」
「は・・・・・、アイツは・・・・・、心底お前に惚れてるみたいだからよ、大事にしてやれよ。」
「分かっている。お前に言われるまでもない。」
小さく笑って巨蟹宮を出て行くシュラを、デスマスクは期待と僅かな妬みを込めた瞳で見送った。
「お前に言われるまでもない、か。んな事は俺だって分かってる。それこそお前に言われるまでもなく、な。」
誰に言うでもなく独り言ちて、デスマスクは苦笑を浮かべた。
折角負けてやったのだから、確実に幸せになって貰わねば割が合わないというものだ。
これで『やはり許せない』などと言うようなら、今度こそ遠慮なく奪ってやる。
そう思うと同時に、恐らくその『今度』はないだろうとも思う。
「・・・・当分厳しいな、こりゃ。」
まだを恋しがる己の内なる声が完全に消えるまで、それなりに時間を要しそうだと思ったデスマスクは、髪を一掻きして宮の外に出た。
この胸の痛みも、への愛も、強い酒で全て飲み下してしまおう。
そうすれば、いつかこの手に負えない未練も影を潜めていくだろう。
「今夜は長いぜ。」
名残惜しげな夕陽に照らされ石畳に伸びた己の影に向かって、デスマスクはそう呟いた。