たとえば、パートナーは一生持たないと思っていた、持てないと思っていた男が居たとしよう。
理由は、その男が己の正体を偽って本気の恋が出来る程、器用ではなかったからだ。
その男を通り過ぎていった女は皆、男の事など何一つ知らなかった。
男も教える気はなかった。それで良いと思っていた。
だがそこに、男が何者かを知った上で、男に微笑みかけてくれる女が現れたとしよう。
男はどうなるだろうか?
答えは簡単だ。
男は恋に落ちた。
「シュ〜ラ、お待たせ〜!」
「遅かったな、。」
「ごめんごめん、帰る途中デスに捕まっちゃってさ〜!」
もうすっかり習慣になってしまった、二人だけの夕食。
週に半分以上はこうしてどちらかの部屋で摂り、そのまま何をするでもない時間を共に過ごす。
もうなくてはならない、大切な時間だった。
「また残業の道連れか?」
「うん。それでちょっと手伝ってたんだけど。遅くなってごめんね。」
「いや、別に構わんが・・・・・・」
シュラは何気なく返答すると、すっかり冷めてしまっていた料理を温め始めた。
「またあいつは何かちょっかいをかけたんじゃないか?お前に。」
「あはは、それはいつもの事だから慣れっこよ。」
クスクスと笑いながら、は『何か手伝う』と辺りをうろうろし始めた。
「じゃあ、これを頼む。」
「OK。」
と愛し合っているのは自分だ。それは揺るがない事実。
だが、何故だろう。時々ふと不安に駆られる事がある。
これが所謂『嫉妬』なのだろうか?
だが、相手が他の連中ならば、さして気にもならない。
は誰とも友好的な関係を築いているからだ。
連中のちょっとしたちょっかいに一々目くじらを立てるつもりはないし、自身も笑い飛ばしている。
しかし、デスマスクだけは別だった。
デスマスクのを見る目付きは、他の誰とも少し違っていて。
お決まりの下品な冗談を飛ばす時も、時折洒落では済まされないような瞳をしていて。
なのには、全く気付いていない。
余りに無防備すぎて、こちらが危機感を覚える程である。
万が一力ずくで迫られた時のの身の危険も心配だが、もう一つ心配な事がある。
もっと根本的な部分に関わる事だ。
まさかは、本当はデスマスクを求めているのではないか?
「どうしたの、シュラ?」
「・・・・・・っ!いや、何でもない!」
「そう?ふふっ、変なシュラ。」
今目の前で楽しそうに笑っているを見つめて、シュラは己の猜疑心を必死になって打ち消した。
そんな事は金輪際有り得ない、ある筈がないのだ、と。
そう、ある筈がないのだ。
こんなにも幸せなのだから。
愛し合って、信じ合って、満たし満たされて。
こんな気持ちになれたのは、生まれて初めてだったのだから。
もう月が高く昇っている。
ひっそりと静まり返った十二宮の階段を、シュラは上機嫌で下りていた。
本来なら、今夜は会えないところだった。
任務の報告書を書かねばならない為、今夜は自室でデスクワークに励むつもりだったのだ。
そんな時、は決して邪魔をしない。一人で集中出来る環境を作ってくれる。
それはシュラにとっても有り難い事だった。
例えば部屋で待っていられたら、勿論嬉しいには違いないが、たちまち集中力が途切れて気もそぞろになり、大事な仕事が出来なくなるではないか。
の事は愛しているし、大切に思っているが、それとこれとは話が別だ。
そしても、そういう感覚の持ち主である。
それに、の心遣いを感じられるのはそこだけではなかった。
今夜の予定をに告げた時、は『夜食を作って届ける』と申し出てくれたのだ。
部屋で料理をすれば仕事の邪魔をしてしまうから、弁当を作って届ける、と。
他愛の無い事だったが、シュラにはそれが嬉しかった。
いや、そんな取るに足らない事だからこそ、愛されていると感じる事が出来る。
ほんのちょっとした心配りだが、それは全て己に向けられているのだから。
となれば、気が逸るのも無理はない。
夜更けにわざわざこの十二宮を上まで上がって来させるのが申し訳なくて、仕事が一段落した今、シュラは自ら受け取りに出向いて来たのである。
白羊宮を抜ければ、の家はもうすぐそこだ。
遠目に見える小さな家の窓辺から漏れる灯りに心を和ませて、シュラは一直線にそこを目指した。
だが、辿り着いた先でシュラが見たものは、信じ難い光景だった。
「・・・・・・・・」
一瞬我が目を疑った。夢なら醒めて欲しいと願った。
まさかこんな状況になっているなど、少し前までの自分にどうやって想像出来ただろうか。
とデスマスクが、明るいリビングの中で痴態を演じているなど。
「お前達・・・・・、一体何をしているんだ・・・・・・」
「・・・・・・シュラ・・・・!?」
「何だよ、これからって時にナイトのご到着か。ついてねぇな。」
「貴様・・・・・!」
うつ伏せたを背後から抱えたままのデスマスクに、シュラは激しい怒りを覚えて駆け寄った。
「離れろ!!今すぐ離れろ!!!」
シュラはまだ服を着たままのデスマスクの胸倉を乱暴に掴み、力任せに引き剥がした。
そのせいでとデスマスクの結合が勢い良く解かれてしまい、が小さな悲鳴を上げた。
そう、冷静な思考など無かったのだ。
のそんな生理的反応を、嬌態と受け取ってしまったのだから。
「お前達、こんな事をして只で済むとは思っていまいな!?」
デスマスクだけを責めなかったのは、きっと心の何処かで、を疑っていたからだろう。
二人合意の上で己の目を盗み、通じ合っていたと。
頭に血が昇っていたこの時のシュラは、そう思い込んでいた。
「・・・・・・なんだよ、邪魔すんなよ、シュラ。」
いつの間にか身なりを整えたデスマスクが、シュラの前に立ち塞がった。
およそ罪悪感や焦燥感など感じていないような、むしろ怒りすら感じているような目で。
「別に良いじゃねえか。お前にを独占出来る権利が、何処にあるってんだよ。」
「何だと!?お前も知っているだろう、は俺の・・・」
「恋人だから、か?ハッ、下らねえ。俺がそんな倫理観に捉われるような男じゃない事ぐらい・・・・・・、お前が一番良く知ってるだろう?」
「ほざくな!間男のような真似をして、恥を知れ!!」
「間男?・・・・・ほざいてるのはどっちだ?何食わぬ顔して、横から人の大事なもん掻っ攫っていきやがって。」
「何だと!?」
大事なものを横から攫われたのは、こちらの方だ。
なのに何故、デスマスクの声はこれ程の怒りを湛えているのだろうか。
そう思った瞬間、シュラはデスマスクの拳を頬に喰らって吹き飛んだ。
「ぐあっ!!」
「シュラ!?」
身を隠すものなど何も無く、あられもない姿のまま、それでもはそんな我が身を顧みる事なく、シュラに向かって駆け寄った。
「くっ・・・・・!」
「シュラ、しっかりして!!」
「立てよ、シュラ。」
「デス、もう止めて!」
「退け、・・・・・」
己を庇おうとしたを押し退けて、シュラは己が喰らった一撃をそっくりそのままデスマスクに返した。
同じようにデスマスクが部屋の隅に吹き飛び、そこらの物が派手な音を立てて四散する。
「っ・・・・・!ククッ、悔しいか?を俺に奪われて悔しいかよ!?」
「ぐっ!!・・・・黙れ!!この恥知らずが!!よくも・・・・!」
「ぐふっ・・・!・・・・ケッ、何とでも好きに言えよ!だがな、はもう俺が抱いた!」
「がはっ!」
「やめて二人共!!!」
尚も掴み合い、殴り合う二人の間に割って入ったが涙ながらに叫び、その声でようやく二人の諍いは、ひとまず治まった。
だが、まだどちらの気も済んではいないようだ。
距離を保ちつつも、互いに今にも火のつきそうな鋭い視線をぶつけ合っている。
「高潔なお前の事だ、もうの事を許せねえだろう?恥知らずなこの俺と違ってな。」
デスマスクが肩で息をしながら吐き捨てた言葉に、シュラは不本意ながらも言い返す事が出来なかった。
悔しいが、自分でも自信がなかった。
すぐ隣で己の様子を伺い続けているの泣き顔を、まともに見る事が出来なかった。
名前も顔も知らぬ過去の男などは気にならないが、このデスマスクだけは違うのだから。
「無理すんなよ。そうなんだろう?」
「・・・・・そんな事は・・・・・・」
「そうか?だったら抱いてみせろよ。たった今まで俺が抱いていたを、抱いてみろよ。」
「くっ・・・・・!」
「俺は別に気にならなかったぜ。お前が散々抱いた身体でもな。お前の匂いなんざ、全く気にならなかった。」
「・・・・・・黙れ・・・・・」
「お前の痕なんざ、すぐに幾らでも塗り替えられる。実際は、俺に抱かれてよがって・・・」
「やめろ!!」
聞くに堪えない挑発を、シュラは一喝の下に断ち切った。
「・・・・・・悔しいか、シュラ。」
「出て行け、デスマスク。今すぐ出て行け。」
「・・・・・・これだけは覚えておけ。俺の悔しさはな、今のお前の比じゃなかった。」
一瞬この男のふてぶてしい顔が泣き顔に見えたのは、目の錯覚だったのだろうか。
そう感じた時には、デスマスクはもうこちらに背を向けていたから、今となっては確かめる術など無いのだが。
立ち去りかけたその背をじっと見据えていると、不意にデスマスクは立ち止まり、振り返らずに呟いた。
「・・・・・・。」
「・・・・・・な・・・に・・・?」
「さっきの事、もしお前がそれに気付いていたら・・・・・、お前は俺を愛したか?」
「・・・・・・」
「・・・・・なんてな。もしも話なんてしても意味ねえな。忘れてくれ。」
立ち去り際のデスマスクの小さな笑い声が、何故か耳についていつまでも離れなかった。
先程までの喧騒が嘘のように静まり返った部屋に、の啜り泣きだけが響いている。
泣きながら傷の手当てをしてくれるを、シュラは苦々しい表情で見つめていた。
傷など別に大した事はない。
当然だ、聖闘士としての力など使わず、ただ拳のみでやり合っただけなのだから。
そう、あの時の自分達は、聖闘士ではなかった。
ただの一人の男として、一人の女を奪い合ったのだ。
「・・・・・・情けない」
大きな使命を背負う聖闘士ともあろう者が、情けない。
だがシュラは、己の個人的な感情を、への気持ちを、取るに足りない事と割り切れなかった。
「ごめん・・・・・なさい・・・・・」
良いように貞操を奪われた事を責めているように聞こえたのだろうか、は涙に濡れた顔を伏せてそう呟いた。
違う、お前の事ではない、そう言いかけて結局言葉に出来なかったのは、心の何処かでを疑っていたからだろうか。
それとも、先程のデスマスクの言葉が、まだ頭の中にこびり付いているからだろうか。
もうを許せない。
何故ならは、ずっとデスマスクを求めていたのだから。
だが、その一方で信じたい。
そんな筈はないと。が愛しているのは、この己自身なのだと。
「・・・・・・・分かるのか?」
「え・・・・・・?」
「抱けば・・・・・・・、答えが出るのか・・・・・・?」
「シュラ・・・・?何を・・・、きゃあッ!」
「来い!」
シュラは突然声を荒げると、の腕を強く掴んで浴室へと引き摺っていった。
怯えているを無理に抱いて、今にも狂ってしまいそうなこの心を更に荒ませて、
それで何が分かるのか。それが果たして本当に最良の策なのか、実のところ分からない。
下手をすれば却って最悪の事態を引き起こす、一か八かの賭けのようなものだ。
だがそれでも、考え付く術はこれだけだった。
ぴったりと重なり合っていた筈の、己との心。
一旦離れてしまいそうになったそれは、今ここで身体ごと重ねてしまわねば、恐らくもう二度と元に戻る事はないだろう、それだけは確かだった。
だから早く、今すぐに。
ようやく掴んだ安らぎを、失う覚悟はまだ出来ていないのだから。