聖戦が終わってからというもの、俺達聖闘士の仕事は変わってきた。
分かり易く喩えるなら、殺し屋から何でも屋に商売替えしたようなものだ。
短絡的に人の命を奪う仕事より、ボディガードやスパイの真似事のような仕事が多い。
それはあの幼い女神なりの、俺達への気遣いなのだろう。
俺自身はそんな事考えた事もなかったが、いつかサガが有り難そうにそう言っていたから。
歴史の裏で人知れず生きて死ぬ。
俺達はそんな使い捨ての道具ではない、そんな風にでも思っているかのように、何かにつけて俺達を表舞台に引っ張り出してくれる。
今日もまた。
ここはヨーロッパのとある小国。
デスマスクは今、その国の中で一番大きく豪華なホテルの大広間に居た。
今日はその国の陰の実力者と言われる大物の、六十何回目かの誕生パーティーだ。
その招待を受けた沙織の付き添い兼警護として、シュラとと共にパーティーに参加している。
シュラはデスマスクが最も信頼を寄せている人物の一人であり、腕も立つ。
を連れて来たのは沙織の個人的な希望という事もあるが、それでなくともパーティーには華の多い方が良い。
物々しい男ばかりを引き連れて現れるよりは、連れに女が混じっていた方が傍目にも友好的に見える。そんな理由もあるらしい。
ともかく、表面上は社交を楽しむのが仕事だ。
三人は沙織をエスコートしながらも、適度にパーティーを楽しんでいた。
「美味ぇシャンパンだな。一瓶くすねて帰りたいぜ。」
「行儀の悪い事言わないの!」
「冗談だよ冗談。なあ、シュラ?」
「お前が言うと冗談には聞こえん。手癖の悪い真似はよせよ。女神の評判を落とす真似は許さんからな。」
沙織は今、壇上で祝いのスピーチをしている。
三人はそれを壁際で見守りながら、仲良くグラスを傾けていた。
愛し合い信じ合う恋人達と、その二人を温かく見守る親友。
そんな絵に描いたような美しい関係であったならば、誰も苦しみはしなかっただろうに。
「ん?」
「え、何?どうしたの、デス?」
何かに気付いたように、デスマスクはふと遠くを見た。
その視線を辿ってみれば、向こうの方に女が一人見える。
気のせいか、こちらをじっと見ているような感じだ。
「・・・・・悪い。ちょっと外す。」
「外すって・・・・、何処行くの?」
の質問に、デスマスクは僅かに苦い顔をして『仕事だ』と呟いた。
「シュラ、後は頼んだぜ。女神には宜しく言っといてくれや。」
「・・・・・ああ。」
「それからもな。どこぞの害虫に絡まれないようによ。」
「分かった。」
グラスをに預けると、デスマスクは軽い身のこなしで人の波を掻き分けて行ってしまった。
「やっぱりあなただったのね。デスマスク、と仰ったかしら?」
「覚えて下さっていたとは光栄です、マダム。」
ここでの己の本当の仕事は、この女からある情報を訊き出す事だ。
目の前で優雅に微笑む女の胸元で光る大粒のダイヤを見つめて、デスマスクは薄く笑った。
この女はさる国の実力者の妻で、デスマスクの欲しいのはその夫の情報。
聞き次第殺して良いのなら男に直接当たる事も出来たが、それをしてはいけないとなると、顔が割れないようにする必要がある。
従ってデスマスクは、妻であるこの女にターゲットを絞っていた。
淫蕩と名高いだけあって、女は初めてコンタクトを取った時から色目を向けてきていた。
だが簡単になびいてやっては、女は口を割らない。
夢中にさせ、こちらの虜にする事が、この手の仕事を成功させる鍵となる。
そしてそれは、見事に成功していた。
「どうです、再会を祝ってあちらで。」
「良いわね。行きましょう。」
そろそろ本番だ。
デスマスクは女に分からないようにほくそ笑むと、恭しい手付きで女の手を取った。
大広間を離れてホテルのバーで少し飲んだ後、夜風に当たろうと誘って屋上の庭園へと連れて来た。
物欲しそうな匂いが、女の胸元からぷんぷん漂ってくる。
そのくどさに内心うんざりしながらも、デスマスクはそれまで以上に女の身体を抱き寄せ、庭園の中に入った。
「ふふふ、また会えて嬉しいわ。」
「俺もですよ。以前お会いした時は、こうしてゆっくりお話しする暇もありませんでしたからね。」
「本当ね。夫の付き合いで出るパーティーなんて嫌だったけど、あなたにまた会えたから、結果的には来て良かったわ。」
「今日はご主人は?」
「大丈夫よ。あの人にはお目当ての女が幾らでも居るんですもの。私がこうしてあなたと会っていても気付きゃしないわ。」
愛がどうの貞節がどうのと説教を垂れる気はない。
だが、お互い違う方向を見ている夫婦に意味はあるのか。それ位の事は思う。
そして、を想う。
万が一の愛を失うのなら、それはそこまで。
元々永遠の愛など信じてはいない。
だがその一方で、を失う事を恐れている己が居る。
そんな自分を皮肉りながら、デスマスクは女の顎をそっともたげた。
「こんなに美しくて素敵な奥方がいらっしゃるのに、困ったご主人だ。」
「あらお上手。お世辞でも嬉しいわ。」
「お世辞かどうか・・・・・・、確かめてご覧になりますか?」
「あん・・・・・・、ふふふ・・・・・」
そら来た。
軽く誘うようなキスに大胆な乗り方をして来た女を強く抱きしめて、デスマスクは益々冴えていく頭で次の行動を練っていた。
その恐れていた事態が正に今起きた事を知らずに。
カーテンを少し開いて窓の外の覗き込んで見れば、薄らと夜が明け始めるところだった。
デスマスクは吸っていた煙草を大理石の灰皿に押し付け、ソファから立ち上がって適当に身づくろいを済ませた。
灰皿から名残惜しげに細くたなびく煙は、エアコンの微風に乗ってベッドで寝ている女の元へと流れていく。
「あばよマダム。男遊びもいい加減にしとかねえと、今に痛い目を見るぜ。」
シーツから伸びている細い手足の爪に塗られた真っ赤なマニキュアを見下すように一瞥して、デスマスクは部屋を出た。
廊下はしんと静まり返って、まるで廃墟の中を歩いているかのようだ。
昨夜大勢いた華やかな紳士淑女は、この世のものではなかったのかもしれない。そう思える程に。
廊下を出て一瞬今居る場所が何処か分からなくなったが、すぐにああそうだと思い出して、デスマスクはエレベーターへ向かった。
― 多感な年頃のお嬢様の近くじゃ『お仕事』なんざ出来ねぇからな。教育に悪い。
胸の内で真面目ぶって呟いて、デスマスクは皮肉めいた笑みを薄く浮かべた。
左隣のシュラの一つ向こうに沙織が居ると思うとやりにくいのも事実だったが、何より右隣にが居る己の部屋で、あの女を抱く気にはなれなかった。
生憎とそれ位のデリカシーは持ち合わせている。
エレベーターに乗り込んで、ほんの一時一人きりになった今、考える事はの事だった。
もうあと何時間かしたら、の顔を見る事が出来るだろう。
開口一番『昨夜はどうして戻って来なかったのよ!?』と怒るだろうか。
それとも、見て見ぬ振りをして一切触れないだろうか。
それとも・・・・・・
「流石に今回はキツかったな。何もアイツが一緒に来てる時じゃなくても良いだろうによ・・・・。」
小さな声で愚痴ってみたが、仕方がなかったのはデスマスク本人が一番良く分かっていた。
接触のチャンスは、今回を逃せばまたいつになるか分からなかった。
任務である以上、『そのうち、いつかまた』などと曖昧な事は許されない。
そう、これは任務なのだ。
だから。
願わくば、との関係が何も変わらないように。
チン、と微かな音がして、エレベーターの扉が開く。
分厚い絨毯が敷かれた廊下を進むと、もうすぐ部屋に着く。
沙織の部屋を通り越し、シュラの部屋を過ぎてから、ふと足を止める。
己の部屋の一つ向こう、しっかりと閉ざされたドア。
そちらを開きたくなる衝動を堪えて、デスマスクは自室のドアノブに手を掛けた。
まだこんな時間だ。は起きてはいまい。
何より、この身体にまだあの女の名残が纏わり付いているようで。
「幾ら何でもさっきの今じゃ・・・な。」
ふっと笑って部屋に入りかけた時、誰かの手が肩を掴んだ。
「なんだシュラかよ。脅かすなよ。」
その手の持ち主はシュラだった。
デスマスクは笑ってその手を退けると、シュラに構わず部屋に入った。
シュラは付き合いの長い男だ。いちいち入室の許可を取ったり与えたりする間柄ではない。
案の定シュラはデスマスクの後について、当然のように部屋に入って来た。
「『任務』の方は?」
「上々よ。色々聞かせて貰ったぜ。」
「フン・・・・、流石だな。」
「おいおい止せよ、照れるぜ。」
シュラの声には尊敬の念など全く篭ってはいない。
それを承知でデスマスクはわざと軽口を叩いてみせ、冷蔵庫から飲物の缶を二つ取り出して一つをシュラに放り投げた。
「詳しい報告はまたにしてくれや。とりあえず一眠りさせてくれ。」
俺ぁ夜通し働いてきたんだからよ、そう言い足しながら缶の中身を一息に飲み干し、デスマスクはシャツのボタンを次々と外し始めた。
報告はまた改めて、だ。
今はこのべとついた身体をシャワーで流して、少し眠りたい。
だがシュラはまだ、そうさせてくれそうになかった。
「ご苦労な事だな。昨夜の女はどうだった、良かったか?」
「あぁん?何だよ急に。お前、あの女に興味でもあったのか?」
「答えろ。」
「チッ・・・・、ワケ分かんねえな。別に、良くも悪くもねえよ。ま、男好きのするタイプだとは思うがな。」
「ほう。」
「積極的を通り越して、淫乱だなありゃ。」
「ならばさぞかし相性が良かったんじゃないか?まともな女よりそういう女の方が、お前にとっては都合が良いだろう?」
デスマスクはさほど神経質な方ではない。
言い換えれば他人の言葉など、いつも大してまともに受け取っていない。
だが、明らかに毒のあるシュラのこの言葉には、流石のデスマスクといえども聞き流す事は出来なかった。
「・・・・・・なんだ、ご機嫌斜めか?悪いがこっちも寝不足なもんでな、相手してやれねえわ。八つ当たりなら他所でやってくれ。」
しかし、こんな下らない事でシュラと揉めるつもりはない。
一人になる事で今しがた感じた不愉快な気分を晴らす為、デスマスクはシュラに向かってぞんざいにそう言い放つと、脱ぎかけていたシャツをすっかり脱いでしまおうとした。
「奇遇だな。俺も実は寝不足なんだ。いや、俺達、か。」
「あぁ?何言ってやがる?」
「夜通し『仕事』していたのは、お前だけじゃないという事だ。知らんのはお前一人だ。」
「・・・・・・・どういう事だ、説明しやがれ。事と次第によっちゃ、お前といえども只じゃおかねえぜ?」
デスマスクは手を止めると、シュラに射るような視線を向けた。
シュラのいつになく挑戦的な目に、一瞬感じた嫌な予感に、負けないように。
一瞬脳裏をよぎった想像が外れている事を切望しながら。
だが、その予感は見事に的中していた。
「昨夜俺は・・・・・・・、を抱いた。」
「何・・・・・・だと・・・・・・・・」
「聞こえなかったか?は俺が抱いたと言ったのだ。お前が『任務』に勤しんでいた間にな。」
「お前・・・・・・、アイツが誰の女か知ってて・・・」
「知っているとも。お前の女だった。もう過去の話だ。」
「てめぇ・・・・・・・!」
一瞬にして湧き上がった滾るような怒りに我を忘れ、デスマスクは迷う事なくシュラに拳を向けた。
だが、シュラとて同じ黄金聖闘士。
むざむざとその拳を受ける筈はない。
繰り出された拳を掌で押し返されて、デスマスクはひとまず身を引いた。
「てめぇ・・・・・、何のつもりだ!?」
「お前は知らなかっただろうな。だが、俺もを愛していた。ずっとな。」
「な・・・・・・・・」
「それをお前などに攫われた俺の気持ち、お前に分かるか?」
「ふざけるな、それは俺の台詞だ!」
余りといえば余りに理不尽な言い草だ。
と愛し合っていたのは自分であって、横から割って入ったのはシュラである。
激昂したデスマスクは、シュラの狂おしい胸中を察する事も出来ず、感情のままに怒鳴った。
「そもそも、がお前の気持ちを受け入れる筈はねえ!は・・・・」
「お前を愛している、か?確かにそうかもしれんな。」
「お前まさか・・・・・・、無理矢理抱いたんじゃねえだろうな!?」
デスマスクの問いかけには答えず、シュラは低く呟いた。
「確かには、お前を愛しているかもしれん。だが、お前はどうだ?」
「何!?何言ってやがる!当然・・・」
「違う。お前はあいつの愛を得るに相応しい男なのか?」
「な・・・・・・・・」
鋭すぎる問いに言葉を失うデスマスクに、シュラは構わず続けた。
「は平気だとでも思っていたか?」
「何がだよ?」
「はああいう女だ。お前の言い分を、物分り良く納得してくれたかも知れん。だがお前はそれに胡坐を掻いて、の気持ちなど顧みた事はないだろう?」
「何が・・・・・・・・・、言いたい?」
「は、昨夜のお前を見ていたぞ。お前が屋上であの女と絡んでいる所をな。」
「なっ・・・・・・・!」
迂闊だった。全く気付かなかった。
まさか見られていたなんて。
「何で・・・・、何でアイツが・・・・・・」
「偶然だ。だが、必然と言うべきか。大切な女を傷つけながら、愛という言葉で縛り付けて飼い殺すなど、道理が通らん。所詮は許されん事だ。」
「てめぇ・・・・・、誰が誰を飼い殺してるだと!?」
「お前がにしているのは、飼い殺し以外の何物でもない。任務であれ何であれ、お前はを傷つけている。その事実は変わらんだろう?」
「くっ・・・・・・・!」
「反論のしようもない、か。当然だな。」
不敵な笑みを浮かべるシュラに、デスマスクは焦げるような苛立ちを覚えた。
だが、悔しいけれど反論出来ない己が居た。
「ヘッ・・・・・、じゃあ何か?お前はあいつに相応しい男だってのか?」
「・・・・・・・」
「何とか言えよ。抱いてものにした位なんだから、それ相応に自信があったんだろう?」
「・・・・・・・俺があいつに相応しかったら、お前は手を引くか?」
「ハッ、冗談・・・」
シュラの方がよりに相応しいかどうか。そんな事は問題ではない。
自分が。
他の誰でもない自分自身が、を愛しているのだ。
他の男に渡す事など考えた事もない。
考えてもみなかった。を手放す事など・・・・・・
揺れ始めている心の奥底を見透かされているかのように、シュラは更に追い討ちをかけてきた。
「良いかデスマスク。お前が愛してやれば愛してやる程、は一人で苦しまなければならなくなる。それで良いのか?」
「・・・・・・・・・・」
「任務を放棄する事は出来ない。俺達は今更聖闘士以外の何者にもなれない。だったらどうすれば良いか・・・・・、分かるな?」
どれをも選べない、酷な選択肢だ。
何も言い返せず黙ったままのデスマスクに、シュラは一瞬哀しそうな視線を投げ掛けて呟いた。
「もうこれ以上、悪戯に振り回してやるな。の幸福を望むならな。」
シュラはくるりと踵を返すと、振り返らずに去っていった。
我に返って最初に思った事は、『煙草が吸いたい』だった。
ぼんやりと上着の胸ポケットを探り、煙草の箱を取り出して、残り一本きりのそれに火を点けて燻らせる。
「美味ぇ・・・・・・・」
舌が痺れるような苦味が、今は心地良かった。
嗅ぎ慣れたこの香りは少しだけ安らぎを与えてくれ、一瞬ちらりと『幸福』という言葉が頭をよぎる。
幸福。
の幸福。
もしそれが、己の幸福と一致しないものならば。
「分かんねぇよ・・・・・・・・・」
片手で顔を覆うデスマスクの頭上を、細い煙が儚げに流れて掻き消えた。