愛願人形 31 〜 reunited ending 〜




日々やるべき事が山のようにあって、時間は矢の如く過ぎていった。
やらなければいけない事を一つずつ片付けていく内に、荒れ果てていた屋敷がボロボロながらもこざっぱりと整い、国見峠霊園に虹村家の墓が建った。
形兆は、長らく手元に置いていた母の遺骨をそこに納めた。この杜王町を、これからの虹村家の故郷にしようと決めたのである。
今後、いつ誰が何処へ行く事になっても、母の眠るこの町が『帰る場所』になる。そんな場所が出来た事は、虹村一家にとって大きな節目となった。
母親の納骨をもって区切りとし、形兆と億泰はいよいよぶどうヶ丘高校への通学を始めた。
今は5月下旬、随分とスタートが遅れてしまったが、新しい生活がこれでひとまず順調に滑り出したと言えた。
空条承太郎が形兆に会いに来たのは、その新生活が始まった直後の事だった。
授業が終わって校門を出ると、車のクラクションがごく軽く聞こえて、振り返ってみると、そこに停まっていた青い車の運転席の窓から、穏やかな微笑みを浮かべた承太郎が顔を出したのだった。


「すみません、乗せて貰っちまって。」

助手席で礼を言うと、承太郎は視線を前に固定したまま小さく笑った。


「何を言ってる。これから君の家に行こうというのだから、当然の事だろう。ところでどうだ?少しは落ち着いたか?」
「はい、お陰様で。国見峠霊園に墓を建てて、ついこの間、ようやくお袋の納骨を済ませました。それで一区切りがついたと思っています。」
「そうか、それは良かった。」
「それで、お話とは?」

承太郎と会うのは暫くぶりだった。杜王グランドホテルでの初対面の翌日、承太郎が形兆の父親に会いに虹村家を訪ねて来た時以来である。
その時に話したのは、父親の事と、そして・・・・


「・・・・もしかして、奴が見つかったんですか?」

弓と矢を持ち去ったあの男、音石明の事だった。
知っている限りの事を話すと、承太郎は音石の捜索を買って出てくれた。
形兆としては自力で捜し出して自分の手でカタをつけてやらないと気が済まなかったのだが、屋敷の手入れや墓の建立など、やらなければならない事が山積していたし、承太郎に学生の内は出来るだけ学業を優先しろとも言われて、不本意ながらも甘える形で彼に委ねていたのだった。


「いや、まだだ。」

音石が住んでいたアパートは、もぬけの殻になっていた。
暫く前、どうやら形兆達が杜王町に越して来る前に引き払ったようだったが、転居先は分からず、一体何処へ行ってしまったのか、行方が全く掴めなくなっていたのである。


「杜王町の住民登録も調べたのだが、音石明という男は存在しなかった。つい最近の転出者の中にもいなかった。恐らく、元々杜王町に住民票を置いていなかったのだろうな。」
「そうですか・・・・・」
「その件についてはもう少し時間をくれ。今日は音石の事ではなく、君の彼女、さんに話があって来たんだ。」
「え・・・・・?」
「この間、君の家で彼女を紹介して貰って、少し話を聞いただろう?あれからどうしても気になって、悪いが彼女の事を調べさせて貰った。」

そう言われた瞬間、形兆は再び罪を暴かれたような気持ちになった。


、18歳。K県Y市出身。Y市内のスナック『若葉』の雇われママをしている母親と二人暮らしだった。
1994年12月、中学2年生の時、2学期の終業式に出席したのを最後に家出をし、以降消息不明。
年が明けた1995年早々に、母親が警察に捜索願を出しているが、彼女が好きな男の所で暮らすという旨の書き置きを残していった事から、事件性は極めて低いと判断されていた。」

その話に相違点は一切無かった。勿論、忘れてもいなかった。
それら全て、他ならぬ形兆自身が指示した事だったのだから。


「・・・彼女に捜索願が出ている事は、知っていたのか?」
「・・・・はい・・・・。だから、急いであの街を離れたんです・・・・。」

どうしてそんな事をしたんだと問い詰められる事を、内心で覚悟していた。
しかし承太郎は、それをしなかった。


「行方不明になって7年が経てば、法律上死亡したと認められる。彼女の母親がその手続きを取れば、彼女は生きながらにして死人になってしまうのだ。今日はその事を彼女に伝えたいと思ってな。」
「・・・・そう・・・・ですか・・・・・」
「出来れば彼女と二人で話したいと思っているのだが、構わないか?」
「・・・・・俺は・・・・・、構いません・・・・・・」

家が見えてくると、安全運転だった車のスピードが更に落ち始めた。


「じゃあ、彼女に取り次いで貰えるか。」
「はい。」

車が完全に停まると、形兆はシートベルトを外した。


「・・・・君が彼女を家に引き入れた理由は見当がつく。当時、彼女の母親には恋人がいて、彼女の家に入り浸っていたそうだな。どうもあまり感心出来ないタイプの男だったとか。」

そう、その通りだった。
何の躊躇いもなく、まるで当然の事だと言わんばかりに汚い欲望をぶちまけようとしていたあの男から、どうしてもを守りたかったのだ。
だが、そんな正義漢ぶった台詞を、どうして吐けるだろうか。
娘を守る気の無い母親と性根の腐りきったあの男の元から助け出したを、そのまま正真正銘の化け物の檻に放り込んで慰みものの『人形』にした悪魔のような男が、正義のヒーロー面をする資格などありはしないのに。


「・・・訊いてきますので、ちょっと待っていて下さい。」

それを胸の内に留めたまま、形兆は先に車を降りた。


















その夜、億泰が風呂に入ったのを見計らって、形兆はの部屋を訪ねた。
ノックに応じてドアを開けたは、何となく少し身構えているような、ぎこちない微笑みを浮かべた。


「何?」
「ちょっと良いか?」
「うん。」

部屋に入ると、机の上に置いてある鏡が目に付いた。
仗助のクレイジー・ダイヤモンドの力で直して貰ったそれは、僅かな欠けも小さなひび割れ一つもなく、まるで初めから壊れなどしなかったかのようにそこにあった。
だが、物は完全に元通りになっても、記憶は無かった事にはならない。
あの日の、いや、これまで何度も見てきたの悲しい顔や涙を思い出すと、また罪悪感が頭をもたげた。


「承太郎さんの話、何だったんだ?」
「・・・・家に帰れって言われた。」

暫くして返ってきたのは、予想していた通りの答えだった。


「私の事、調べたんだって。捜索願が出ている事も、お母さんの事も、安原さんの事も、承太郎さん全部知ってた。
それで、このまま放っておいたら、あと2年ぐらいで私は法律上死んだと認められちゃうから、出来るだけ早く帰ってちゃんとお母さんに会って、捜索願を取り下げて貰わないといけないって。」

問題はその後だ。
Y市に帰って、捜索願を取り下げて、その後は?
あの時、何処にも居場所の無かったが、あの街に帰ってその後どうなるのか、問題はそこだった。


「・・・・お袋さんとあのオッサンは?昔言ってた通り、結婚して小料理屋やってんのか?」

そんな訳がない事をほぼ確信しながら訊くと、案の定、は諦めたような寂しい顔で小さく笑った。


「ううん、もう別れてるって。私が家出した3ヶ月後に正式に結婚したらしいけど、あの人はろくに働かずに遊んでばかりで、お母さんが養っていたみたい。
それから2年ぐらいで、あの人がサラ金に多額の借金をしていた事が分かって、離婚したんだって。
私の住んでいたあのアパートはその時に引き払って、今はそこから割と近い所で、また別の人と暮らしてるって。」
「別の人?」
「お店の常連さんだって聞いた。今住んでいるのはその人の家なんだって。」
「その男と再婚したって事か?」
「今のところはまだみたい。おいおい考えてるのかも知れないけどね。」

の母親の人となりを考えると、娘を失った辛さに一人で耐えられるとはとても思えないので、その現状は納得がいくと言えばそうだった。
だが、どんな人間であろうと母親は母親。事実、を捜して半狂乱になっていたあの時の彼女の様子は、決して演技ではなかった。
あの母親との親子関係やの今後の事はまた別問題として、まずは一刻も早くの捜索願を取り下げ、の母親に詫びを入れる必要があった。


「・・・・ともかく、捜索願の取り下げは確かに必要だな。承太郎さんの言う通り、早い方が良い。近い内に行こう。」
「行こうって、形兆君も・・・?」
「お前に家出をさせたのはこの俺だ。土下座ぐらいして当然だろう。」
「い・・、いいよ!そんな事しなくていい!」
「そういう訳にはいかねぇよ。お前を騙して家出を唆したのは俺だ。」

悪いのは、人として大人として論外だったあのクズみたいな男と、そんな男である事を直視しようともせずに、自分の幸せ探しにうつつを抜かしていたの母親だった。
しかし、ならば自分が正義だったのかと言うと、それもまた違っていた。


「・・・確かに形兆君は、私に家を出て来いって言ったよ。
けど、それに乗ったのは私。無理やり攫われて連れ出されたんじゃない。
私あの時も言った筈だよ、私は騙されてなんかないって。私達、お互いに利用されても良いって思ってたじゃない。そう言い合ったじゃない。
あの時もし、お母さんが安原さんを家に住まわせていなかったら私・・・、はっきり言って、形兆君の言う通りにしたかどうか分からない。
形兆君の言う通り、あの時の私には居場所が無かった。形兆君の所にしか、居場所が無かった。だから形兆君の誘いに乗ったの。私も形兆君の事利用してたの。私にとっても、形兆君は都合が良かったのよ。
だからこれは、私の問題。形兆君に謝らせる事じゃない。」
・・・・・」

お互いに利用し合えば良いと明言し、一緒に暮らしてきたこの5年を今になって振り返ってみると、大切なものを失ったのはだけだった。
声だけは奇跡的に取り戻す事が出来たが、他は全て、今もまだ失われたままである。
その上、あれ程大切に想っていた筈のを、何度も何度も酷く傷付け、泣かせてきた。
一刻も早く父親を死なせてやりたいという自分の目的だけに躍起になって、雁字搦めに囚われて、いつしかを傷付けてしまう事を、それもやむなしと心の片隅で肯定するようになっていたのだ。
そんな男が正義のヒーロー気取りで、の母親やその男だけを悪者扱いするのは間違っていた。

















6月に入ると同時に、は承太郎の仲介で、一人でY市に帰って行った。
しかし今回はあくまでも母親との再会と捜索願の取り下げが目的の一時的な帰郷で、は出発前に予定していた通り、その翌日の夕方に杜王町へと帰って来た。
学校帰りに杜王駅に寄って改札口の外側で待っていると、改札を出て来たが形兆を見つけ、嬉しそうに微笑んで小さく手を振った。


「ただいま。」
「お帰り。」
「これお土産。承太郎さんと、仗助君や康一君の分も買ってきちゃった。」

はそう言って、腕に提げていた大きな紙袋を少しだけ持ち上げて見せた。
寄越せと手を差し出すと、はありがと、と言って、それを形兆に預けた。


「わざわざ迎えに来てくれてありがとね。でもまだ明るいし、大丈夫だったのに。」
「念の為だ。音石の野郎が、まだ俺達の周りをうろついてねぇとも限らねぇからな。」

あれから一月以上も経つというのに、音石明はまだ見つかっていなかった。
形兆自身も暇を見つけては、ライブハウスなど心当たりを捜し回っているのに、未だに。


「・・・・あの人、まだ見つからないの?」
「ああ。」
「そっか・・・・・」

だがそれは当然承太郎の落ち度ではないし、そう遠からずの内にまた遭遇するだろうという気もしていた。
承太郎を手伝って少し調べてみたところ、最近杜王町やS市で、犯人不明の謎めいた窃盗事件が頻発しているのだ。
音石に盗み癖があった事を覚えていた形兆は、それが奴の仕業だと確信していた。
あの男はまだ近くにいるのだ。近くにいて、スタンドを駆使して欲望を満たしつつ、こちらの出方を窺っている。根拠は無いが、形兆にはそんな気がしてならなかった。


「・・・それはそうと、どうだった?」

ともかく今は、の話を聞くのが先だった。
頭の中のチャンネルを音石の事からの事へと切り替えて、形兆はと並んで歩き出しながらそう尋ねた。


「うん、大丈夫。お母さんと一緒に警察へ行って、捜索願ちゃんと取り下げてきたよ。形兆君の事は何も喋っていないから、心配しないで。
本当言うとね、形兆君の事、色々と訊かれはしたんだけど、死んだって答えたの。
縁起でもないかなとは思ったんだけど、でも、あながち間違いでもないでしょ?私達あの時に1回死んだんだし。
だからそういう事にしちゃった方が、逆に幸先が良い気がして。何かほら、新しく生まれ変わった、みたいな感じがしない?」

屈託無く笑うを見ていると、形兆の胸の内で、また罪悪感がざわめいた。
は頼んでもいないのに自ら口を噤んでくれたというのに、結局最後まで名乗りもしないまま逃げ切ってしまった自分が、恥ずかしく卑怯な男に思えてならなかった。


「・・・・すまねぇ。お前一人を矢面に立たせるような事になっちまって。」

詫びの言葉を口にすると、は笑いながら首を振った。


「いいよそんなの。こっちこそ縁起でもない嘘吐いちゃってごめんね。」
「いや、いいんだ。そう言われてみりゃあそんな気もするしな。それより、お袋さんは?」
「うん・・・、元気だったよ。色んな意味で相変わらずだった。
今の人とはね、安原さんがなかなか出て行ってくれなくて困り果てていた時に、親しくなったんだって。
小さい内装会社の社長さんで、アパートを引き払って自分の家に住めば良いって言ってくれたから、それでどうにか安原さんと別れられたみたい。
でもその人バツイチらしくて、もう成人している娘さんと息子さんがいて、娘さんは結婚もしてて小さい子供が2人いるんだって。
それで、その人達がしょっちゅうやって来ちゃあ子供を預けていったり、お金の援助を頼んだりするみたい。
お母さんはそれが気に入らないんだけど、その人は、お前にとっても子供や孫みたいなもんなんだから快く世話してやれって言うだけらしくて、冗談じゃない、あんなの皆赤の他人よ大っ嫌いって怒り狂ってた。ふふふっ。」

笑うの顔には、昔程の寂しい翳りは無かった。
それにひとまずは安堵して、形兆も釣られるように少しだけ笑った。


「なるほど、確かに色んな意味で相変わらずだな。」
「ふふふっ、でしょ?・・・・・それでね、早く帰って来て、また一緒に暮らそうって言われた。」

そういう話になるであろう事は元々予感していたから、驚きはしなかった。


「・・・どうすんだ?」
「うん・・・・・」

は答えなかった。
それとも、曖昧なその微笑みが答えという事なのだろうか?


「・・・・・実は俺も、承太郎さんから、高校を出たらアメリカに来いと言われたんだ。」
「え・・・?アメリカって、もしかしてあの、お父さんを預かってくれるっていう特殊機関・・・?」
「ああ。そこで働かないかと誘われた。スタンドの調査や研究をする仕事だそうだ。」
「・・・どうするの・・・・?」

今度はが同じ事を訊いた。
お互いに相手の本心を探り、本音を聞き出そうとしているのが、何だか滑稽だった。きっとお互い、まだ迷っているのに。


「・・・・・行こうと思ってる。多分それが、俺がしてきた事への償いになるんだと思うから。」

一緒に行ってくれないか?
その一言が、やはり言えなかった。
億泰はいとも簡単について来て貰えば良いと言ったが、それは何の罪も背負っていない者だからこそ言える事だし、何よりそれはやはりの為ではなく、自分が寂しさから逃れる為の行為でしかない気がして。


「お・・・億泰君は?その話、知ってるの?」
「ああ。つーか億泰も誘われてたんだ。けど、あいつは行く気が無ぇみたいだけどな。」
「そ、そうなの・・・・・?」
「あいつはこの町が気に入ったらしい。ここでダチと楽しくやっていきたいみたいだ。」
「・・・そっか・・・・」

そう呟いたきり、は暫く黙り込んだ。


「・・・・・実はね・・・・・、私もY市に帰ろうかなと思ってるんだ。」
「・・・・・お袋さんと暮らすのか?」

がそれを望むのなら、反対する権利は形兆には無かった。
しかし、状況は5年前と何も変わっていない。むしろ、母親が男の家に住まわせて貰っているという分、ある意味では昔よりも一層厳しい状況だと言えた。


「住む所はどうするんだ?お袋さんが今住んでる家に、お前も一緒に住むのか?」
「そんな事しない。あの街には帰るけど、一人で暮らす。一人で暮らして、アルバイトしながら定時制の高校へ通おうと思ってる。
私もね、承太郎さんに言われたんだ。せめて高校ぐらいは出ておかなきゃいけないって。じゃないと、働き口もまともに見つからなくて、私の今後の人生が凄く困難になるって。
お金の事も心配するなって言ってくれた。でも完全に甘えるのはやっぱり気が引けるから、おいおい返していくつもりだけど。」

承太郎にとっては、もまた形兆ら虹村一家と同じく償いの対象であるようだった。
今回のの帰郷についても、彼は母娘の間を取り持つ為、自らの母親の店にまで出向いて、5年も音信不通だった母娘がスムーズに再会出来るように尽力してくれていた。


「・・・そうか・・・・」
「うん・・・・・・」

空条承太郎は、形兆が初めて信頼出来ると思えた大人だった。
承太郎ならばきっと、にとってこの上なく頼もしい後見人となってくれるだろう。彼の保護下で、失ってしまった人生を取り戻していく方が、絶対にの為になる。
そうと分かっているのに、どうしてだろうか?
拭おうとすればする程、寂しさは心の中にじわじわと滲み拡がっていく一方だった。




















また暫しの時が、瞬く間に過ぎて行った。
杜王町での新しい生活は実に目まぐるしく、その間にも様々な出来事が次から次へと起こった。
自分の手でスタンド使いにした連中との再会、あのジョセフ・ジョースターをはじめとする新たなスタンド使い達との出会い、そして、因縁ある音石明との再戦。
予感していた通りに実現したその戦いを、形兆は一人ではなく、億泰や仗助達と共に切り抜け、見事に勝利した。
そしてその証のような弓と矢を、承太郎の手に委ねた。あれ程固執した物だったが、もう手放す事を惜しいとは思わなかった。
そうして気が付くと、今年もまた夏がすぐそこまでやって来ていた。


「じゃあ行くか。」

6月最後の日曜日、この日はいよいよがY市へ帰る日だった。
朝一番での部屋の家具や荷物を引っ越し業者に運んで貰い、その搬出を見届けてから、形兆がをY市まで送っていく事になっていた。


「うん。」

一月程の時間をかけて準備してきた事だから、お互いに気持ちは落ち着いていた。
だが一人、この期に及んで落ち着いていない奴がいた。


「あーーーっ!!ちょちょちょちょ、ちょっと待ったーっっ!」

億泰である。


「何だよ?」
「まだちょっとぐらい時間大丈夫だろ!?写真撮ろーぜ、写真!」
「写真?」

形兆もも、もう既に準備万端整えているというのに、億泰だけが一人、ドタバタと父親を連れ出して来たり髪型を気にしてみたりと、とっ散らかった様子を見せていた。
出発直前になってそんな事を言い出して慌てふためく位ならもっと早くに言えと文句を言いかけたが、しかし、それを思い付きもしなかった身では言うに言えず、形兆は仕方なしにその文句を呑み込んだ。


「どこで撮るんだ?ここで良いのか?」
「いやっ、玄関先で撮ろうぜ!」

ピンポーン、とインターホンが鳴った。
その音を聞いた途端、億泰が『来たーーー!!』と叫んだ。


「ハイハイ!ほらほら!皆出て出て!」

億泰にグイグイと押し出されるまま外に出てみると、今日は私服姿の仗助と康一が立っていた。


「ちぃーす、はよざいまーす。」
「おはようございまーす!」
「あ、ああ・・・。」
「お、おはようございます・・・。」
「ハイハイ!ほらほら!いーから並んで並んで!早く早く!」

挨拶もそこそこに、形兆とは億泰に追い立てられるまま、前後に並ぶ形で玄関先に整列させられた。


「おしっ!んじゃシャッター頼むぜ!」
「おう。」

億泰は使い捨てカメラを仗助に手渡すと、父親を連れて小走りで形兆との横にやって来て、同じように前後に並んで立った。


「んじゃ、ハイ、チーズ!でシャッター押しますよ!いいスか?いきますよ?」
「おうっ、いいぜ仗助ぇ!兄貴もネーちゃんも、ちゃんと笑ってくれよぉ!」
「いきますよー?ハイ、チーズ!」

軽いシャッターの音が聞こえると、条件反射のように肩の力が抜けた。
同じく緊張が解けたように身体の力を抜いた億泰が、に満面の笑顔を向けた。


「写真出来たらよぉ、すぐ送っからよぉ、楽しみにしててくれよな!」
「うん、ありがとう!待ってるね。」
「届いたらよぉ、すぐ返事くれよな!電話・・・は料金高ぇから、手紙でもハガキでも良いからさ!」
「うん!」
「あ、でもやっぱりたまには声聞きてぇから、電話もしても良いよな!?なぁ兄貴!?」

やけに念を押す億泰に頷いてやると、パカッと明るく笑っているその口元が、わなわなと小刻みに震えた。


「離れててもよぉ・・・、俺達・・・、家族だからな・・・!」

写真なんて、こんな出発直前に撮っても持たせてやれないのに、何故もう少し早く思い付かなかったんだと呆れていたが、もしかしたら、そうではなかったのだろうか。
敢えて出発の日には間に合わせないようにして、すぐにでも連絡を取り合う口実にしたかったのかも知れない。
つまりは、寂しさ故だ。


「・・・・うん・・・・!」
「身体・・・、気ィ付けてな・・・!」
「億泰君もね・・・!ありがとうね・・・!」
「んだよぉ礼なんか言うんじゃねーよぉ・・・!別にこれがお別れってんじゃねーんだからよぉ・・・!なぁ親父ィ・・・!」
「ブギィィ・・・・・」
「うん・・・!そうだね・・・!」

側にいた父親も引っ張り込んで、泣き笑いで抱き合う億泰とから、形兆はそっと目を逸らした。
仗助や康一のように、釣られて貰い泣きをしながら見守る事も、家族の一員として、三人と一緒に抱擁を交わす事も、どちらも出来ずに。
















Y市までは電車の旅だった。新幹線と在来線を乗り継いで移動すること数時間、昼下がりの時間帯になって、形兆とはかつての最寄り駅に降り立った。
駅を出ると、はすぐさま駅前の不動産屋に立ち寄って新居の鍵を受け取り、続いて、今夜の宿を取る為に、近くのビジネスホテルに入って行った。
形兆は後をついて行くだけで、どちらも一緒に中へ入るまではしなかった。
の用事が済むのを待つ間、形兆は、梅雨晴れの空の下に行き交う人々や車の流れ、周りの景色を眺めた。
もう離れて久しいのに、今でもまだここに住んでいるかのような気がしてしまう程、この街は何も変わっていなかった。


「お待たせ。これで全部終わったよ。」
「じゃあ行くか。」
「うん。」

形兆はと共に、の新居に向かって歩き始めた。
荷物の到着が明日の朝になるので、が実際に新居で生活を始めるのは明日からなのだが、それにあたって今日のところはまず部屋を開け、換気と掃除をする事になっていた。


「それにしても変わんねぇな、この街は。」
「でしょ?まだ殆どあの頃のままだよ。チラホラ新しいお店が出来たりとかはしてるけど。」

歩いていると、なるほど確かに、見覚えの無い店があったり、逆にあった筈の店が無くなっていたりするのに気が付いた。


「・・・・・でもね、形兆君の家はもう無くなってた。こないだ帰った時に見に行ってみたんだけど、今は綺麗なマンションになってる。」
「そうか・・・・・」

考えてみれば、これまで住んだ家は、これで全部無くなった事になる。
ふと寂しさを覚えたのは、それに対する感傷のせいだろうか。


「見に行ってみる?」
「・・・いや、いいよ。」

少しだけ考えてから、形兆はそれを断った。
有無を言わさず宛がわれて、たった半年足らず住んだ程度の借家なのだ。あの家自体に大した思い入れなど元々無かった。
しかし、が寂しそうな微笑みを薄く浮かべて、そっか、と呟いた瞬間、形兆は断った事を後悔した。
あの家の跡に何が建とうが興味は無いし、これからはお互い別々の道を行くというのに、この期に及んで10分20分の僅かな時間を稼いで別れの時を少々先送りにしても、後が辛くなるだけだと思ったのだが、はそのほんの少しの時間でも欲していたのかも知れない。
だが、断った後でそれに気付いても、もう遅かった。
今更やっぱり行くとは言えず、形兆は黙ったまま、と並んで歩き続けた。
もまたそれっきり、黙り込んでしまっていた。
その間にも足はどんどん進み、かつてが住んでいたアパートの近くまで来ていた。
の新居は正にその辺り、元の家のすぐ近くにある。をそこへ送り届けたら、この短い旅は終わりだった。つまり、あとほんの数分で終わるのだ。


「・・・やっぱ掃除手伝ってやろうか?」
「ありがと、でも大丈夫。6畳1間のワンルームだから、掃除って言ったってすぐ済むし。」
「そうか。」

笑って軽く首を振ったに、形兆もまた、そう呟くしかなかった。
多分、自分が先に断ってしまったが為に寂しいすれ違いが生じてしまったのだろうが、つらつらと言葉を重ねて訂正し、一緒にいられる時間を多少延ばしたところで、もうじき別れなければいけない事に変わりはないのだから。


「・・・・・何で、前の家の近くにしたんだ?」

食い下がる代わりにそれを尋ねると、は眩しそうに目を細めて微笑んだ。


「・・・・・思い出があるから、かな?ろくでもない思い出の方が全然多いんだけどね。だけど、形兆君や億泰君と出逢って過ごした思い出があるから。
あ!ほら、その公園!覚えてる?」

が指さしたのは、よくよく覚えている、懐かしい公園だった。


「・・・ああ、覚えてるよ。」

形兆はすぐ目の前の公園へと近付いて行き、公園前の路上で立ち止まった。
この公園には、との思い出が幾つも詰まっている。
その中でも一番古いもの、二人の『始まり』は、この場所にあった。


「ここでお前と出逢った。」

形兆がそう言うと、は嬉しそうな微笑みをその顔に広げていった。


「・・・家に帰る途中に通り掛かったら、ここで億泰君が泣きそうな顔してキョロキョロしてたの。小っちゃくて、何か可愛かったなぁ。あの時億泰君小5だったけど、私小3ぐらいだと思ってたんだよね。
それが今じゃあんなに背が伸びていかつくなっちゃうなんて、ビックリだよね。あの時には想像もつかなかった。ふふふっ!」
「あいつ、小学生の頃まではチビだったからな。」
「でも形兆君はあの時から既に怖かったよね。億泰君を市役所まで送ってあげようと思ったら、向こうから背が高くて頭が真っ金々のどう見ても不良が、怖い顔してズンズン歩いて来るんだもん。私あの時、思わず走って逃げたくなったんだよ?」
「しょうがねぇだろ。色々面倒くせぇ手続きがやっと終わって外に出てみたら、億泰の奴がいなくなってやがったんだからよ。
引っ越して来たばかりで右も左も分からねぇくせにどこ行きやがったって、こっちとしちゃあ一応心配するだろ?
そしたらこの公園が見えて、もしやと思って来てみたら、あの馬鹿、何故かトマト食いながら知らねぇ女と楽しそうにくっ喋ってやがるからよぉ、その能天気さにイラついて、つい。」

遠い記憶を二人で蘇らせてみると、妙に擽ったくて、ついつい笑いが零れた。
二人でひとしきり笑った後、がふと、柔らかい眼差しを形兆に投げ掛けた。


「・・・・・あの時には、私達こんな風になるなんて、思いもしなかったね。」
「・・・・・ああ・・・・・」

ここで初めて出逢ったあの時には、本当に思いもしていなかった。
偶々ほんの一瞬関わっただけだった筈のと、こんなにも深く惹かれ合い、生死を共にするまでになろうとは。
そして今また、何もはっきりさせないままに、ここで別れる事になろうとは。


「・・・・なぁ、・・・・」
「ん?」
「これで・・・良かったのか・・・・?」

億泰の言った通り、はこれからも虹村家の一員だった。
離れて暮らす事になっても、これっきり完全に赤の他人だというつもりは無いし、の新居の住所や電話番号も知っている。いずれアメリカへ行く時期が来れば、ちゃんと報せるつもりにもしている。
けれども、二人の関係をどうするのか、形兆はここに至るまでに明言していなかった、いや、出来なかった。どうすれば良いのか、自分でも分からなかったのだ。
そもそも形兆は、あの関係を『恋愛』と呼べるとは思っていなかった。
愛も恋も、全ては自分の人生を手に入れた後の事だと、はあくまでも父親の為の『人形』なのだと、ずっとそう考えてきていた。
けれども結局、最後までそう割り切る事は出来なかった。
がずっと素直に表してくれていた、その深い愛情にちゃんと応える事も出来なかった。
そんな状態で、最後だけ普通の恋愛関係のように白黒つけようといっても、出来る訳がなかった。元々が白とも黒とも、はっきりしていなかったのだから。


「・・・・形兆君、あの時もしもここで出逢ったのが私じゃない他の女の子だったとしても、俺は同じ事をした、・・・って、前に言ったよね?」
「・・・・・ああ・・・・・」
「私も考えてみたの。あの時出逢ったのがもしも形兆君じゃなかったとしたら、私どうしてたかな?って。
でも分かんなかった。だって、私が出逢ったのは形兆君だったんだもん。それが他の人だったらどうだったかなんて、幾ら考えてもやっぱり分かんなかった。」

しかしは、答えを出しかねている形兆とは違って、迷いの無い、すっきりとした微笑みを見せた。


「私は形兆君と出逢えて良かったと思ってる。これまでの事全部、何にも後悔なんかしてないよ。
それから、今こうしてさよならしようとしている事も、後悔しない。後悔しないようにしようと思う。」

の言った『さよなら』という言葉に、形兆は密かに胸を突かれた。


「お父さんも助けてくれる所が見つかったし、億泰君もずっと夢見てた楽しい生活がようやく始められる。
形兆君にもやるべき事が・・・、ううん、やらなきゃいけない事が見つかった。
皆それぞれ、自分の為に動く時が来たんだよね。
それなのに、私だけが何にも変わらないままで、ただあの家に居座り続ける事は出来ないもん。私は私で、自分の為に、自分で頑張らなきゃ。ね?」
「・・・・そうだな・・・・」

はきっと、答えを出していたのだ。


「お前の言う通りだ。俺はこれから、自分がやった事の償いをしなきゃならねぇ。
俺の罪は誰にも裁けねぇ。だから、俺自身が裁かなきゃいけねぇんだ。
親父も時期を見てスピードワゴン財団に預けるし、億泰も学校を卒業したら、自分の好きなように生きていくだろう。
なのにお前だけ、掻っ攫ってきたまんま、いつまでもただ側に縛り付けておく訳にはいかねぇもんな。
お前は人形じゃなくて、これから先長い人生のある、『人間』なんだから。」

今の形兆がにしてやれる事は、の出したその答えを、の決意を、尊重する事だけだった。
形兆は自分のバッグの中から母親の形見が入ったクレヨンの箱を取り出すと、に手渡した。


「・・・これを、お前に。」
「これ・・・・・・!」

はハッと息を呑んだ。中に何が入っているのか、覚えているようだった。


「億泰に聞いたらよぉ、自分の分もお前にやってくれって言うからよ、どっちもやるよ。」
「でもこれ、お母さんの大切な形見なのに・・・・!」
「だからこそ、お前に受け取って欲しいんだ。きっとお袋もそれを望む筈だ。」

一度は返して貰ったが、これはやはり、の手に渡るべき物だった。
きっと亡き母が誰よりも一番それを望んでいる、そんな気がしてならなかった。


「つっても、前に言ったような重てぇ意味じゃねぇよ。ずっと大事に持ってろなんて言わねぇ。売っ払って金に換えちまって構わねぇ。
それをお前の人生に役立ててくれ。それがお袋も含めた俺達一家全員の望みだ。」

ここから先は、どうか、幸せに。
今の形兆に出来るのは、の明るい未来を、の幸せを、願う事だけだった。


「お前には、どれだけ感謝してもしきれねぇ。ありがとう。」

最後の感謝ぐらいは素直にしなければと礼を言うと、の瞳が揺れて、ポツリ、ポツリと、涙の粒が幾つか零れた。


「・・・・・・私も、凄く凄く、感謝してる・・・・・。ありがとう・・・・・。」

は震えている口元を微笑ませると、大きく深呼吸をし、零れ落ちる涙を手で拭った。


「もうここで。家まで送って貰ったら、引き止めちゃいそうだから。」

涙を拭い去ったの顔は、凛とした笑顔になっていた。


「・・・分かった。じゃあここで。」

形兆もそれに微笑みで応えた。


「元気でな。」
「形兆君も。」

形兆は踵を返し、来た道を一人で引き返し始めた。
多分、恐らく、この街に来る事はもう二度と無いだろう、そんな哀しい予感を胸の底にそっと仕舞い込んで歩いていると。


「・・・・・ねぇ、待って!!」

突然、形兆の背中に、すっかり元通りに出るようになったの声が飛んできた。


「これ・・・・・、本当は・・・・・重たい意味で貰いたかったって言ったら・・・・・、困る・・・・・?」

拭った筈の涙をまた零しながら、どうにか明るく笑おうとしているの顔を見ていると、承太郎に言われた事を思い出した。
自分の罪を、自分に出来る精一杯の方法で償っていけば、自ずと自分の人生というものが拓けてくる。
いつの間にか、幸せや喜びというものを手にしている。
いつか誰かと、縁あって結ばれる。
もしもそれが本当ならば、もし自分も本当にそうなれるのならば、その相手はやはり、一人しか考えられなかった。


「・・・・・勘違いすんなよ!」

形兆は、が掲げている古いクレヨンの箱を指さした。


「それはあくまで俺達家族からの感謝の印だ!重てぇ事言いに来る時には、ちゃんと自分で買ったやつを持って来る!
尤も、宝石のサイズ的には、それよりもっと小せぇやつしか買えねぇだろうけどな!悪く思うなよ!」

冗談めかして笑ったのに、格好の悪い事に涙が滲んだ。
けれども、もう無理に自分を作ったり、心の内を隠す必要は無かった。
相手は、あんなにも深く強く惹かれ合った、たった一人の人なのだから。


「・・・・・うん・・・・・!」

駆け寄って来るもまた、満面の笑顔に幾つもの涙を伝わせていた。
痛々しい悲しい涙ではなく、雨上がりの雫のような、綺麗な涙だった。
その涙で形兆はまた一つ、自分がしていた間違い、大きな思い違いに気が付いた。
父を殺さない限り自分の人生は始まらない、これまでずっとそう思い続けてきていたが、そうではなかった。
ただ暗く閉ざされて拓けていなかっただけで、自分の人生は、自分がこの世に生を受けた時からとっくに始まっていたのだ。
虹村家の長男として生まれた事も、億泰という弟が出来た事も、母が早世し家族が壊れ、父が不死の化け物となった事も、全て紛れもなく『自分の人生』の中で起きていた事だったのだ。

そして、この海辺の街で、このという少女に出逢った事も。

胸に飛び込んで来たをしっかりと抱きしめながら、形兆は今、これから始まるのだと思っていた『人生』というものの息吹を、確かに感じていた。


















20XX年、晩夏。


目の眩むような午後の眩しい陽射しの下、虹村形兆は海辺の街の駅に降り立った。
ここに来るのは随分久しぶりだった。
劇的な大変化は無いが、また幾らか店や会社が入れ替わって、街の風景を微妙に様変わりさせている。
行き交う人々や車の流れ、周りの景色を眺めながら、形兆は歩き始めた。
随分久しぶりの来訪なのに、足は道を覚えていて、目的地を目指して間違いなくまっすぐに進んで行く。
そして、歩くにつれて、思い出も次々と蘇る。
幼かった弟の無邪気な笑顔。周りの全てを敵視していた、跳ねっ返りの小僧だった自分。あの頃住んでいた家の階段の壁に描かれていた子供の落書き。太陽の光を受けてきらきらと煌めく群青色の海の水面。束の間通った中学の校舎。
そんなものを次々と思い出しながら歩いていると、次第に目的地が近付いてきた。
懐かしい、あの公園。
水鉄砲を撃ち合ってびしょ濡れで遊び転げている子供達に混じって、あの頃の思い出がそこで軽やかに駆け回っていた。

あれからもう何年が経っただろうか。
幼く未熟だった自分達は、気が付くと、いつの間にか遠い記憶の一部になっていた。
今はそれぞれが、あの頃には思いもしなかったような人生を生きている。悪い意味ではなく、良い意味でだ。
過去の苦しみも悲しみも犯した罪も、決して消えて無くなりはしないが、川の中の小石が少しずつ少しずつ削られて滑らかに摩耗していくように、次々と新しく起こる日々の出来事で押し流され、鋭利な角が取れて、心の片隅にひっそりと落ち着いている。
仕事が軌道に乗ってきたからか、最近はそれをとみに実感していて、恩人の空条承太郎が昔言っていた事はこういう事なのだろうかとつくづく思う。
だが、何年時が経とうとも、流れていかないものがある。
形兆はバッグから愛用の手帳を取り出して開いた。分厚い帳面の一番後ろにあるクリアポケット。その中に入れている1枚の写真が、形兆の宝物だった。

青空の下、杜王町の虹村家の玄関前で並んで立っている、4人の家族。
後列は、パカッと明るい笑顔の億泰と、はにかんだ顔の形兆。
前列は、いつも通りに呆けていながらも一応カメラ目線になっている父親と、優しい微笑みを浮かべている。尤も、もうすぐ『』ではなくなるが。

形兆はその微笑みを指先でそっと撫でてから、またバッグを開いて手帳を仕舞った。
バッグの中には小箱も入っている。古いクレヨンの箱ではなく、綺麗なラッピングの施された、真新しい箱だ。今はまだタイミングではないが、これを渡した時の反応が今から楽しみだった。

腕時計を見ると、約束の時刻よりまだ多少早かった。
夏も終わりとはいえ、日中はまだ真夏と変わらない位に暑い。形兆はバッグを抱え直し、公園を離れようとした。
すると、向こうから女が一人、歩いて来るのが見えた。
長めの丈のワンピースの裾をふわふわと揺らし、白い日傘を差して歩いて来る彼女は、形兆に気が付くと、嬉しそうな満面の笑顔になって手を振った。


「形兆君!」

サンダルのヒールの音をコツコツと鳴らしながら駆け寄って来る彼女は、もうすっかり大人の女性になっていた。
だがそれでいて、その可憐な笑顔は、出逢った頃の少女のままだった。


「よぉ、!」

罪の償いは、まだ終わらない。
虹村形兆が生きている限り、ずっと続いていく。
それこそが、『自分の人生を拓く』という事だからだ。
けれどもそれは、昔のように、ただ地獄の底を這いずり回るような苦痛に満ちているだけの苦行という訳ではなかった。
犯した罪の重さを忘れる事は生涯決して許されないが、それでも今は確かに、昔恩人に言われた通り、幸せや喜びというものを手にしていた。
だから、これまでどんな困難にぶつかろうとも乗り越えてきたし、これから先も必ず乗り越えていける筈だと、形兆は信じていた。


1994年の晩夏に出逢った大切な人、と、これからもずっと、同じ時を共に歩んでいけるのだから。




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後書き

生存ルートエンディングも、無事に終わりました。
『愛願人形』、これにて完結です。
ここまで長らくお付き合い下さいまして、誠にありがとうございました!
2つの終わりのある物語になりましたが、どちらもお楽しみ頂けていれば幸いです。

最後に一つ、これだけは言っておきたかった事があります。
以前の回の後書きで書こうと思って、忘れていた事です。



トニオさん、仗助に「アナタ!汚い手でそこら辺ベタベタ触ったでショウ!」的に怒っていましたけど、ボールみたいになっている億泰の垢を皿に乗せて厨房に持ち帰るのはええのか?(笑)
あと、厨房のすぐ側に犬のケージを置くのもええのか?(←犬は可愛いけど)
トニオさん、不思議な感性を持つお人だわ(笑)。



それではもう一度、改めまして、ありがとうございました!
虹村形兆、永遠なれ!!!