愛願人形 1




「うおわぁ〜〜っ!!!」

トラックを降り立つや否や、虹村億泰は嬉しそうな歓声を上げた。


「アニキィ、見て見てッ!海だよ海!目の前が海じゃん!」

確かに海ではあるが、ここは海水浴場ではない。
コンクリートの防波堤にガッチリと固められた港だ。
虹村形兆は、嬉しそうにはしゃぐ弟を冷ややかな目で一瞥した。


「だから何だ。」
「いや、泳げるかな〜と思って!まだギリギリ8月だしよぉ!」
「遠くばっか見てねぇで、手前を見てみろ。」
「ほぇ?」

言われるままに視線を近くに落とした億泰は、素っ頓狂な悲鳴を上げた。


「うげっ、何だコレ!?きったねーーっ!!向こうの方はあんなキレーなのに、何だよこれぇ!」

岸から少し離れた辺りから向こうは、陽光を受けて深く美しい青色に煌めいているが、防波堤の周辺は、水がドブ川のように濁って汚い泡が浮いている。
おまけに、盆もとっくに過ぎた今は、クラゲ達の海水浴シーズンだ。


「・・・・これでも泳げるもんなら泳いでみろ、バカが。」

吐き捨てるようにそう言ってやると、億泰は少し拗ねたように唇を尖らせた。


「チェーッ、つまんねぇの。」
「下らねぇ事言ってねぇで、荷物下ろすの手伝え。」
「へーい。」

形兆は家の鍵を開けてドアを大きく開け放つと、億泰を伴ってトラックの荷台の方へ回った。そして、荷物を下ろそうとしていた引っ越し業者の作業員二人に、手伝いますと声を掛けた。


「いやいやそんな、坊っちゃん!こりゃ私どもの仕事ですから!」
「いえ。どうしても、あの箱だけは自分達で運びたいんです。」

形兆はそう言って、荷台の中の赤茶けた大きな木箱に目を向けた。
その目に冷たい憎悪が宿っている事も、そんな兄を見る億泰の不安そうな目にも、作業員達は何一つ気付かず、兄弟の為にニコニコと場所を譲った。


「ははは、そういや行きもそう言ってたっけね〜!よっぽど大事な物が入ってるんですかい?」
「そんなところです。」
「兄弟の秘密の宝箱って訳かぁ。う〜ん、良いねぇ!これも男のロマンのひとつだねぇ!」

男のロマン、なるほど、ある意味そうかも知れない。
この箱の中に詰まっているのは、巨万の富という壮大なロマンを追い求めた者のなれの果てなのだから。
形兆は口元だけを薄らと笑わせると、億泰を呼びつけた。


「おい億泰、そっち持て。」
「おうっ!」
「しっかり持てよ。いいな、ひっくり返すんじゃあねぇぞ。」
「お、おうっ・・・・!」

近頃一段と低くなり、ちょっとドスの効いてきた兄の声に脅されて、億泰はプレッシャーに顔を強張らせ、恐る恐る腕を伸ばした。
中学2年で、既に175センチの長身と、細めながらも筋肉質な逞しい身体つきになっている形兆とは違い、億泰は小学5年生にしては小柄だった。
ヒョロヒョロと痩せっぽちで、身長も小学3年生でも通る位に低い。
尤も、見た目だけではなく、頭の中身もそれ位なのだが。


「ああっ、危ないよ坊っちゃん!」

きっと気の良い人達なのだろう、作業員達が心配そうに横から手を出してきた。


「やっぱり代わりますよ!積むのは何とか出来ても、下ろすのはもっと力が要りますからね!」
「いえ、大丈夫です。」

しかし形兆はそれをすげなく断ると、億泰をジロリと睨みつけた。
その目に怯んだ億泰は、歯を食い縛って全身に力を込め、どうにか箱を持った。


「あ、アニキ・・・・、OKだぜ・・・・・!」
「よし。行くぞ。一番上の階の部屋に運ぶからな。踏ん張れよ。」
「おう・・・・!」
「すみませんが、後の荷物はお願いします。」

形兆はそう言い置くと、億泰を誘導するようにして、『新居』の中に入って行った。
港のすぐ目の前にあるこの家は、よくは知らないが、元は港湾関係の運送会社だとの事だった。建物の大きさや造り、内外の様子から窺い知るに、家族経営か何かの、ごく小さな会社のようだった。倒産し、夜逃げでもしたのだろうか。安物の家具調度品が、室内の至る所にポツポツと残っていた。
そして階段の壁には、幼い子供の仕業らしい、無邪気なタッチのマジック描きの船の絵があった。それを見て、形兆は昔を思い出した。ここに住んでいたであろう社長の一家に、在りし日の自分達家族の姿を重ねずにはいられなかった。
だが形兆は、一瞬感じた感傷を、埃と共に振り払った。


「あ、アニキ・・・・・!ま、まだかよぉ・・・・・!」
「まだだ。もう1階、上があるだろう。」

家は3階建てだった。
1階は事務所スペースで今は勿論シャッターもドアも閉められており、住居スペースは2階からになっていた。足を止めて見回してみると、2階にはダイニングと続きの和室が一室に、洗面所、風呂、トイレがあった。


「アニキぃ、重いよぉ・・・・・・!」
「ガタガタ言うな。行くぞ。」
「うぅぅっ・・・・・・・・!」

3階への階段を上がっていく。
そこにもまた落書きがあった。今度はやたらに目がキラキラしたお姫様の絵だった。
形兆はもう壁を見ないようにして、3階へと上がった。
3階に部屋は3つあり、全てが板張りの洋室だった。いずれも似たりよったりの狭さだったが、階段から一番遠く一番狭い部屋に、形兆は目をつけた。


「おい。あっちだ。あっちの部屋に運ぶぞ。」
「お、おう・・・・っ・・・・・!」

非力な億泰は、もう腕力の限界のようだった。
形兆自身も密かにきつくなってきていたから、当然だった。
こんなもの、早く放り出してしまいたい。
形兆は力を振り絞り、足早に、億泰ごと引き摺るようにしてその部屋に入った。


「うおぉぉっ・・・・!」

部屋に入った途端、真っ先に億泰が放り出した。


「・・・・・・・・フゥッ・・・・・・・・!」

次いで形兆も放り出し、溜息を吐いた。
腕を上げ、大きく伸びをすると、凝り固まった肩や腕が幾らか楽になった。
1階からずっと思っていた事だったが、室内がとにかく埃っぽい。一体いつから空き家だったのだろう。
この家を宛がってくれた伯父・虹村千造の人柄を考えれば、事前に清掃や修繕など入れてくれていなくて当然なのだが、それにしてもこの埃っぽさは閉口ものだった。
引っ越し屋が引き揚げていったら、まずは掃除だ。伯父への到着報告の電話など、後回しで構わない。


「お、重かったぁ〜・・・・・!もう腕パンパンだよぉ・・・・・!」

泣き言を垂れている億泰を無視して、形兆は木箱に近付いた。
箱には立派な鍵がついていて、その鍵は勿論形兆が持っていたが、今はまだ開ける時ではなかった。


「・・・・・おい。着いたぞ。」

形兆は声を潜め、そう呼び掛けた。


「今はまだ引っ越し屋がウロウロしている。後で開けてやるから、そのまま大人しくしてろよ。物音立てたり、声を出したりするんじゃねぇぞ。分かったな?」

形兆は更に脅し文句を重ねて吐き捨て、箱を軽く蹴った。
すると、暫くしてその箱が微かに揺れた。
まるで、形兆の脅しに怯えて返事をするかのように。




















最低限、今夜寝られる程度に部屋の中を掃除し、コンビニで買ってきた弁当で夕飯を済ませると、もう夜だった。
10円玉を何枚かポケットに入れて、形兆は億泰を留守番させて一人で外に出た。
町の方角へ少し歩くと、大通り沿いに電話ボックスがあった。その中へ入り、10円玉を入れて番号をプッシュすると、数回のコール音の後、電話が繋がった。


『はい、虹村でございます。』
「・・・こんばんは、形兆です。」

電話の向こうの中年女は、形兆が名乗ると一瞬間を置いて、関心がなさそうに『あら』と呟いた。


「伯父さん、もう帰ってますか?」
『ええ。今代わるわね。』

女は千造の妻で、形兆と億泰にとっては伯母に当たる人だったが、形兆と億泰に対する身内の情のようなものは、この女には無かった。
むしろこの女にとって、形兆と億泰は厄介者でしかなかった。


『・・・ああ、もしもし?ワシだ。』

そしてそれは、血の繋がりのあるこの伯父も同じだった。


『引っ越しは無事に済んだか?』
「はい。引っ越し屋の手配、有り難うございました。お陰で助かりました。」
『気にするな、当然の事だ。子供が業者の手配など出来る訳もないからな。
ああ、引っ越し代も気にしなくて良いぞ。微々たる額だ。引っ越し祝いの代わりだと思ってくれ。』
「有り難うございます。では、遠慮なく。」
『うむ。で、どうだ、新しい家は?ちょいと古くて狭いが、静かで住み易かろう?』
「はい。なかなか快適です。」

口では卒なく礼を言い、淡々と会話をしながらも、形兆は思わず拳を握り締めていた。
今の家は、元々住んでいた東京の自宅の半分にも満たない大きさだった。
電気・水道・ガスは何とか通っているが、電話線は引かれていない。
床は軋み、畳は浮き気味、壁紙も所々剥がれており、あちこちボロボロだった。
こんな引っ越し、したくてしたのではない。
この男に、実の伯父に、東京の自宅の土地屋敷を体よく奪い取られたのだ。
バブル崩壊の影響でいよいよ倒産の危機が迫ってきた己の会社の為、この男はまだ中学生と小学生の甥二人を、まるで身ぐるみを剥ぐようにして、右も左も分からぬ余所の土地のボロ家へ追いやったのだ。
感謝など、どうして出来ようか。
平然と恩さえ着せてくるこの男の顔面に、出来るものなら固めたこの拳を叩きつけてやりたかった。


『で、万作の奴は?』
「まだ出張先です。」
『そうか。全く、しょうがない仕事馬鹿だな。年がら年中子供達を放ったらかして、出張出張と。親無しで、子供達だけの引っ越しは大変だっただろう。』
「いえ。父さんが留守なのはいつもの事ですから。」
『フフ・・・・、そう。”いつもの事”だったな。』

千造は意味深な含み笑いを漏らし、形兆に同意した。
この男のこういう言動に、形兆はいつも脅かされていた。
この男と話をする度に、こいつは本当は知っているのではないか、気付いているのではないかと、いつも密かに不安を覚えていた。


「・・・ええ。いつもの事です。」

しかし形兆は、その不安を見事に隠し通した。
全くの平静を装って、しれっとそう言ってのけた。
そうするしかないのだ。
少しでも動揺を見せれば、あの事が、父の事が、知られてしまう。
それだけは何としても避けろというのが父の意思であり、形兆自身の意思でもあった。
だからこそ、東京の家も、奪われるままに敢えて手放したのだ。
拒否すれば、すかさず『子供に理解出来る話じゃない、父親と話をさせろ』と言われるのが目に見えていたから。


『ま、何か困った事があったら、いつでも連絡してくれ。』
「有り難うございます。ではまた。」
『ああ、またな。』

受話器をフックに掛けてから、形兆は電話器のてっぺんに拳を叩きつけた。


「クソッ・・・・・!腐れ外道が・・・・・・・!」

千造は、形兆と億泰の父親の実兄でありながら、弟とその一家への情を持ち合せていなかった。
この男の関心は自分の利益だけにあり、弟の会社が倒産の危機に直面していても、母親を亡くした幼い甥二人が食うものも食えない状態でいても、全く他人事だった。
しかし弟が、会社が倒産し莫大な借金を抱えたというのに何故か急速に羽振りが良くなった事を知ると、鵜の目鷹の目で内情を探ろうとしてきた。人並み外れて強欲な男なのだ。
尤もそれは弟の方、形兆と億泰の父親も、似たようなものだったのだが。


「クソッタレ、ムカつくぜ・・・・・・!」

だからこそこんな、地べたをのたうち回るような思いをしながら生きていかなければならないのだが。
形兆は深々と溜息を吐くと、電話ボックスを出た。
うんざりする程埃っぽいボロ家だが、唯一、隣近所に民家がない事だけは有り難かった。あそこなら、声や物音にあまり神経を尖らせず、落ち着いてゆったり暮らせそうだ。
その点だけは唯一、本心から快適だと言えた。




















は、昼下がりの炎天下の道を一人、勉強道具の入ったカバンと駅前のスーパーの袋をぶら下げて歩いていた。
もう間もなく夏休みも終わるというのに、暑さは少しも盛りを過ぎていない。
この暑い中、スーパーへお使いなど、他の中学生はきっと嫌がって行かないのだろうが、の場合は違っていた。クーラーがなく、扇風機と氷枕で凌ぐしかない自宅より、冷房の効いているスーパーの方が快適なのだ。だから夏休みの間は基本的に、午前中は図書館で勉強し、午後はスーパーでブラブラ買い物という過ごし方をしていた。
だがいつも、夕方前には帰らなければならなかった。夕方の内に、夕飯と、母親がやっているスナックで出す突き出しやおつまみを作らなければならないのだ。
今日もその帰宅時間が迫っており、は重い荷物を時折抱え直しつつ、家路を急いでいた。

その男の子を見掛けたのは、ある公園の前を通り掛かった時だった。
それが公園の中で遊び転げている子供だったら、気にも留めなかった。
しかしその子は、公園前の路上で、いかにも腕白そうなその顔を不安げに歪ませて、辺りをしきりと見回していた。
これはどう見ても迷子だった。小学生ではありそうだが、迷子になって半ベソをかいているし、多分高学年ではない。4年生、いや、3年生位だろうか。
少し迷ってから、はおずおずと男の子に声を掛けた。


「ねぇ。どうしたの?」
「っ・・・・・・!」

男の子はビクリとし、ちんまりした一重の目を見開いてを見た。
真正面から見て初めて気付いたが、彼の顔には、顔全体に行き渡る程大きな×印の傷痕があった。
何をしたらそんな傷が出来るのだろうか。
は思わず驚いてしまったが、彼の方もに驚き、警戒している様子だった。


「もしかして、迷子?道、分かんないの?」

がそう言うと、男の子は更に目を見開き、切羽詰まった表情でに縋り着いてきた。


「あっ、あのよぉ、ここどこだ!?オレ今、どこにいるんだ!?」
「え・・・、え・・・・・?」
「やっべーよ、全っ然分かんねぇんだけど!」

彼はすっかり気が動転してしまっているらしく、このままでは道を教えようにも教えられなかった。口調はいっぱしの不良みたいだが、やはり幼子、道に迷った恐怖に完全に囚われてしまっていた。


「やっべーよ、マジでやべぇ・・・・!」
「わ、分かったからちょっと落ち着いて、ね・・・・・!?君、家はどこ?住所は?」
「分かんねぇよぉッ!」
「え・・・・・!?ど、どういう事!?」
「昨日引っ越してきたばっかなんだ!」
「あ〜・・・・・、なるほど・・・・・・・・・」

大体の事情がこれで掴めた。引っ越してきたばかりで土地勘がないのに、一人でウロウロして迷子になったのだろう。
だが、所詮は低学年位の幼い子だ。そう遠くから来ている筈はない。


「何か、家の近所の建物とか教えて。学校とかは?近くにあった?」

は男の子を安心させる為、意識して穏やかな声で訊いた。
すると彼は、少し動揺が鎮まったのか、おずおずと返事をした。


「し、知らねぇ・・・・・」
「そう、家の周りに何があるの?」
「海・・・・・、家の前が海なんだ・・・・・・。」
「海・・・・・・・」

となると、駅側ではなく、港の方だろう。
まさか米軍基地内の居住者ではないだろうし、一人でここへ来られる程度の距離なのだから、大体の場所を予測するのは容易な事だった。


「分かった。じゃあとりあえず行こう。」
「だ、駄目だよ、駄目なんだ、勝手に帰っちゃあ・・・・!」
「え・・・、どうして?」
「アニキに怒られる・・・・・!」
「お兄ちゃん・・・・?お兄ちゃんと一緒だったの?」

の質問に、男の子は怯えた顔でコクリと頷いた。


「じゃあ、お兄ちゃんとはどこではぐれたの?」
「いやぁ・・・・、はぐれたっていうか・・・・」
「じゃあ、お兄ちゃんと一緒に何してたの?どこかに行こうとしてたの?それとも、どこかへ行って帰ってきたとこ?」
「えと・・・・、し・・・、シヤク、しょ・・・?」
「市役所?お兄ちゃんと市役所に行ってたの?」
「そうそう!」

男の子は更にコクコクと頷いた。


「用事が済むまで待ってろってアニキに言われてたから、オレ、外でずっと待ってたんだ。でも、アニキなかなか出て来なくて・・・・・」
「それで?」
「そしたら、かき氷屋のトラックが走っていくのが見えてよぉ。オレ、暑くてメチャメチャ喉乾いてたし、かき氷食いたくて、トラックの後を走って追いかけたんだ。」
「それで?かき氷買って食べてたの?」
「いや、よく考えたらオレ、金持ってなかったんだよな〜。だから買えなくて。んで、気付いたらここだったんだ。」

心細い思いをしているこの子には悪いが、は思わず吹き出した。
この子の言い方がほのぼのとバカっぽくて、何だか可愛かったのだ。


「何だよー!何がおかしいんだよぉ!」
「ふふっ・・・・、ごめんごめん。」

はどうにか笑いを引っ込めると、スーパーの袋をゴソゴソと探った。
そして、買ったばかりのトマトを1玉取り出すと、男の子に差し出した。


「かき氷じゃないけど、これで良かったら食べる?」
「えっ!?良いのか!?」
「うん。」
「うぉーっ!ありがとネーちゃん!」

男の子は輝くような満面の笑顔になると、の手からトマトを受け取って早速かぶりついた。


「ぅんまぁ〜いっ!!」
「そう?」

何だか擽ったい気分だった。
もしも弟がいたら、こんな感じなのだろうか。
夢中でトマトにかぶりついている男の子を見ていると、の顔に知らず知らず微笑みが浮かんだ。


「市役所すぐそこだから、連れてってあげる。どうせ私も帰り道だし。」
「ホントかーっ!何から何までありがてぇぜーっ!」
「ふふっ、どういたしまして。さ、行こう。」

は男の子を連れて、再び歩き出した。
市役所までのほんのちょっとの道のりを行きかけたその瞬間。


「億泰!!!」

誰かの声が聞こえて、男の子がビクリと立ち止まった。


「あ、アニキっ!」
「え・・・・・?」

辺りを見回してみると、公園の中から少年が一人、明らかに達を見据えて足早に近付いてきているのが見えた。
少年とはいっても、連れている男の子よりもっと大きい。と同じ中学生か、もしかしたら高校生で、金髪を逆立て、襟足を伸ばしたヘアスタイルをしていた。
学校にも、この手合いが何人もいるから知っている。
この『アニキ』は、明らかに不良だった。
それが、怖い顔で達を睨みながら、ズンズンと大股で近付いてくるのだ。
は思わず怖くなり、逃げたくなった。


「アニキぃっ!」

しかし男の子の方は、まるで母親を見つけた子犬のように、大喜びで兄に駆け寄っていった。


「やっぱりここだったか!公園が見えたからもしかしたらと思って来てみたら、ドンピシャじゃねーか!テメェ億泰、何勝手に公園で遊んでやがんだ!」
「ちげーんだってアニキ!オレ公園で遊んでなんか・・」
「やかましいっ!大人しく表で待ってろっつっただろーが!」
「ぎゃぴっ!」

兄の大きな拳骨が、弟の脳天に炸裂した。
は思わず、ハッと息を呑んだ。
母と娘の女二人家庭で育ち、父親も兄弟も、男の友達もいないには、それはなかなか衝撃的な光景だった。


「いって〜〜っ・・・・・!ち、ちげぇんだよアニキぃ・・・・・!俺、公園で遊ぼうとしたんじゃねぇんだよぉ・・・・!」
「じゃあ何だってんだ?」
「かき氷屋のトラックめっけて追っかけたんだ。」
「・・・・・」
「ぎゃぴっ!!」

2発目の拳骨が振り下ろされた。
それをまた呆然と見ていると、今ようやく気付いたかのように、少年はに目を向けた。


「・・・で、テメェは何なんだ?」

まともに目が合った瞬間、は彼のその冷たい眼差しに射竦められた。
彫りが深く、整った綺麗な顔立ちをしていたが、かっこいいというよりとにかく怖いという印象しかなかった。
しかし、こんな言われ方をされるのは、流石に心外だった。


「な・・・・・、何って・・・・・・・」

何か言い返さねばと思ったが、情けない事に、怖くて声が満足に出なかった。
すると男の子が、を庇うように説明を始めた。


「そんな言い方しねーでくれよぉっ!このネーちゃんは、迷子になったオレを市役所に連れてってくれようとしてたんだよぉっ!ほらぁっ、トマトも貰ったんだぜぇっ!」

これが証拠だとばかりに齧りかけのトマトを見せつける弟に、少年は大人びた苦々しい表情で溜息を吐いた。そして、ズボンのポケットから財布を出し、千円札を1枚取り出すと、に突き付けた。


「弟が世話んなったな。トマト代だ。」
「な・・・・・・」

こんな事をされたのは初めてだった。
どう反応していいか分からず、が呆然としていると、少年はの手元に放り出すようにして札を手放した。
そして、弟の手を強引に引っ張り、踵を返して歩き出した。


「ちょ、ちょっと待ってくれよぉアニキぃっ!」
「うるせー。帰るぞ。」
「ち、ちょっと待って、待ってってばよぉ・・・・!!」

は、男の子がキャンキャン騒ぎながら兄に引き摺られて歩いていくのを呆然と見ていたが、我に返ると慌てて千円札を拾い上げ、二人の後を走って追いかけた。


「ねぇ、待って!!こんなの貰えない!!」

追いかけながらその背中に呼び掛けると、少年は立ち止まり、肩越しに少しだけ振り返った。


「要らねーんなら捨てろ。」
「っ・・・・・!」

咄嗟に返す言葉が思い付かなかった。
また前を向き、どんどん歩いていってしまう兄弟の背中を、はひたすら呆然と見送るしかなかった。





















月が変わって、9月1日。
虹村兄弟は、2学期をそれぞれ新しい学校で迎えた。


「君が転校生の虹村形兆君だな。君のクラスの担任の青山だ。担当教科は数学だ。よろしく。」

職員室で紹介された形兆の担任になるという教師は、少し威圧的な感じの中年男だった。


「宜しくお願いします。」

担任の青山はまず、卒のない態度で挨拶をする形兆の頭に目を留めた。


「ところで、その髪は何だ?」

やっぱりここでも来たかと、形兆は内心でうんざりした。
前の中学でも、小学校でも、散々言われてきて慣れてはいるが、こういう時の教師の目付き、まるで犯罪者でも見るようなこの目付きは、実に不愉快なものだった。
日本という国は、生真面目で物事に正確で規律的なのは良いのだが、人の外見に対する価値観だけは画一的すぎてナンセンスだ。
髪の色が黒じゃなければ、横髪や襟足が長ければ、学ランの丈が何センチ以上ならば、何だというのか。
髪が黒くて短くても、制服の丈が規定通りでも、見るに堪えないだらしない人間性の奴はごまんといるのに。


「地毛です。」
「本当か?地毛でそんな金髪は見た事がないぞ。」
「本当です。母方の祖母がドイツ人だったので。」
「っ・・・・・・・」

形兆がそう説明すると、青山は驚いたように少しだけ目を見開き、言葉を詰まらせた。
それは本当の事だった。
死んだ母は、日本人とドイツ人のハーフで、とても美しい人だった。
母の髪と瞳は黒に近い焦げ茶色だったが、金髪だったという祖母の血は、隔世遺伝で形兆に現れていた。
弟の億泰は日本人の父親似で、髪も瞳も黒く、肌も地黒、凹凸の少ないちんまりした顔立ちだが、形兆は母親に似て目鼻立ちのくっきりした顔をしており、肌の色も、体毛も、色素が薄かった。


「何なら明日、赤ん坊の頃のアルバムでも持ってきましょうか?」
「い、いや、いい。そういう事なら、まあ仕方ない・・・・・。」

青山は、渋々な様子ではあったが、すんなりと引き下がった。
形兆の彫りの深い顔や、日光を受けて透けるように光る腕の毛を見て、納得せざるを得なかったのだろう。


「そろそろHRの時間だ。行こうか。」
「はい。」

そして教師は必ず、謝らない。
人の外見に対して無作法に因縁をつけてきておきながら、決して謝らない。
このザマで、一体何を人に教えるつもりなのか。教師が一体何様だというのか。
これだから大人など信用出来ないのだ。親も、親類も、教師も、誰も彼も皆。
この世に信用出来る者など誰一人としていない。
信用出来るのは只一人、自分だけだった。



















形兆の編入するクラスは、2年4組だった。


「転校生の虹村形兆君だ。皆、仲良くするように。」

形ばかりの言葉と共に、青山は形兆をクラスメイト達に紹介し、形兆にも挨拶を促した。


「・・・虹村形兆です。宜しく。」

クラスの連中の物珍しげな視線を一身に浴びながら、形兆もまた、形ばかりの挨拶をして見せた。


「君の机はあそこだ。さあ、席に着いて。」

指し示されたのは、教室中央の列の一番後ろの席だった。
そこに目を留めて、形兆は一瞬、ハッと目を見開いた。
その隣の席に、見覚えのある女子生徒がいたのだ。
白いセーラー服を着て、肩までの長さの黒髪をおさげに結って、あの時と恰好こそ違うが、間違いない。迷子になっていた億泰を助けてくれた、あの少女だった。
それが、驚いたような顔で形兆を見ていた。どうやら向こうも気付いているようだ。
何となく居心地の悪さを感じながら、形兆は自分の席に着いた。話し掛けられたら面倒だと内心で身構えていたが、少女は何も話し掛けてこなかった。


「HRを始めるぞ、はい日直!」
「起立!」

誰にも関わらず、影のように過ごそうと思っていたのに、とんだ誤算だ。
形兆は、小さく溜息を吐いた。
















転校生は、どうしたって注目を浴びてしまう。初日は特に。
1限目の休み時間、待ってましたとばかりに取り囲んできたクラスの連中を、形兆はことごとく、完全に無視した。
『規則』を叩き込むには、最初が肝心なのだ。
例えば、門限は6時であるとか、用を足す時はトイレへ行く、というような事と同じで、虹村形兆には関わるなという事を、ここの連中にも最初に問答無用で教えておかねばならなかった。
形兆が一切相手をせず、一言も返事をしないでいると、最初は興味津々でキャーキャー騒いでいた連中(主に女子生徒だった)も、だんだん勢いを失ってゆき、昼休みになる頃には近付いて来なくなった。
清々した気分で弁当を食べ終えた形兆は、一人で校内探検に出た。どこに何があるのか、どんな造りになっているのか、いざという時の出入り口や身を隠せる場所はあるか、調べておいて損はないからだ。


形兆の人生は、そんなことを調べておかなければならないような人生、つまり、普通の中学生が送っているそれとはまるで違うものだった。
友達と騒ぎ、遊び、勉強や部活に励む、そんなごく当たり前の中学生の日常は、形兆には無縁だった。形兆の生活にあるのは、家族の面倒、勉強、そして、実の父親・虹村万作を殺す方法を見つけることだけだった。
包丁で胸を刺しても、ロープで首を吊っても、父は死なない。
あの男は最早、人間ではないからだ。
6年前、1988年1月のあの日を境に、あの男は人間ではなくなった。
あの日から1年程で、容貌がみるみる崩れ落ちてゆき、まるで沼の水のような気色悪い緑色をした醜い肉塊のようになり、記憶の一切を失くし、言葉を忘れ、人外の生物、おぞましい化け物に成り果ててしまった。
だから、普通の殺し方では死なないのだ。
それに気付いてから今まで、可能な限りの様々な方法を試してきた。
学校は、『それ』を実行するにうってつけの場所だった。
夜になれば、人が完全にいなくなる。真っ暗で、人目にもつきにくい。
そして、一般家庭にはない様々な『ツール』がある。
今まで、何度試してきただろうか。
理科室から持ち出した劇薬を飲ませたり、真夜中に連れて行って校舎の屋上から突き落としたり、真冬の緑色に濁ったプールに重しをつけて沈めた事もあった。いずれも全て失敗に終わったが。

父は、普通の人間には殺せない。

それが、最近になって出た結論だった。
普通であれば異常な猟奇殺人でも、父に対してはまるで通用しない、それは即ち、普通の人間が出せる物理的な破壊の力では父を殺せない、という事になる。
もっと、普通にはない、人間には考えもつかない・・・、例えば神の領域の力、選ばれたごく一部の者にしか使えない超能力、そんなようなものでなければ、あの男を殺す事は出来ないのではないか。次第にそんな考えが頭を過るようになってきていたところへ、つい最近、それを決定的に裏付ける手掛かりを得たのだ。



まだ7歳だったあの日から、形兆は父親を殺す方法を、幼い知恵を振り絞って考え、調べ抜いてきた。
始まりは、父が口走った2つの単語、『DIO』と『肉の芽』だった。
日に日に記憶が抜け落ち、言葉を失くしていく父からどうにか聞き出したところによると、肉の芽とはDIOの細胞、父はそれを脳内に植え付けられていたとの事だった。それは信用出来ない人間を操り、コントロールする為のもので、それがDIOの死により暴走した。父の身に起きた異変はそのせいで、薬や手術などではどうにもならない、誰にも止めようがないとの事だった。
だが、肝心のその『DIO』という奴の事は、酷く怯えて何も喋らなかった。
形兆がどれだけ問い詰めようとも決して答えず、その代わりのように、密かに貯め込んでいた財産の全てを形兆に預け、伯父の千造には決して何も知られるな、仕事で不在という事で通しておけと、繰り返し言い続けていた。記憶と言葉が完全に尽きてしまう、その瞬間まで。

父本人からは結局何も聞き出せず、形兆は必死に己の幼い記憶を辿った。
そうして、ある事を思い出した。
1987年の春、父は、病床の妻と幼い息子達を置き去りに、単身、旅に出ていたのだ。
父のパスポートを引っ張り出して見てみると、行先はエジプト、期間は1ヶ月程だった。だが、情報はたったのそれだけ、エジプト国内の何処へ行き、何をしていたのかは不明だったし、何より幼い形兆には、その情報から何をどのように調べ進めていけば良いのかがまず分からなかった。
従って、最初の数年は、調べる為の手段を調べる為に費やしたようなものだった。
先が見えない絶望と不安に爆発しそうになりながら、それでもコツコツと調査を重ねてきた結果、形兆はここへ引っ越してくる直前、遂にある有益な情報を掴んだのだ。

某国立大学の図書館は蔵書数が多く、学外の一般人の利用も許可している。
そんな話を聞いてから、足繁く通い詰めたそこで見つけた、エジプトの新聞。
そこに、衝撃的な事件が記されていた。
エジプト・カイロの繁華街で起きた、無差別大量殺人事件。
当時、余程世間を騒がせたのだろう。1988年1月某日から何日間もの間、紙面はその事件で持ちきりになっていた。
事件が発生したのは夜、人々の帰宅ラッシュの時間帯。
突然、歩道に1台の乗用車が猛スピードで突っ込んで来て、大勢の歩行者を轢き殺したというものだった。
犯人はウィルソン・フィリップス上院議員で、事件の折に彼自身も死んでいた。
猛スピードで走り抜けた挙句、街路樹に衝突し、その衝撃で車外へ弾き出されて後続車のフロントガラスに突っ込み、車体と共に爆発炎上、その死体は原型を留めていなかったとの事だった。
何らかのストレスか精神病で発作的に起こした事件という事で、うやむやの内に闇に葬られてしまったようだったが、事故車の破損状態が、街路樹に衝突しただけにしては酷すぎる有様であった事をはじめ、この事件には色々と不可解な点があった。

まず、フィリップス上院議員の車には、事件の直前、金髪長身の若い男が乗り込んでいたという目撃証言が複数ある事。
その男は車に乗り込む直前、制止した上院議員の秘書の左腕を捩じ切っていた。それも片手で、いとも容易く。それは被害者である秘書本人の証言だから、かなり信憑性の高い話だった。
しかしその金髪の男は、直後に起きた事故現場にいなかった。
血痕ひとつ残さず、まるで煙がかき消えるかのように、自ら立ち去っているのだ。
そうだとしか思えない根拠が、その後の目撃証言だった。
事故現場から少し離れた通りで、またその男が次々と目撃されていた。
そしてその通りでも、車の暴走とはまた別の酷い事件が幾つも同時に起きていたのだ。
カフェテリアのオープン席で飲食中だった客数人が、何故か顔をフォークで刺していたりライターの火で焼いていたり、バラバラになった猫の惨殺死体を食べていたりなど、信じ難いようなショッキングな事件が。
特に信じられないのは、どの被害者も、何が起きたかまるで分っていないという点だった。
更にその直後、また別の通りでも、不可解な殺人事件が起きていた。
通り沿いの高級食器店で、店が激しく破壊され、従業員の女性が1人殺されていたが、その殺され方が実に奇妙だった。
彼女の身体からは一滴残らず血が抜き取られており、唯一の傷口は喉に空いた一つの穴、成人男性の親指位の直径の穴だけだった。血はその穴から流れ出たとしか考えられない状態だったが、しかし、何故かその痕跡は無かった。

このように、実に謎の多い、エジプト史上でも類を見ない残酷かつ不可解な大事件だった。暴走事件を起こした議員をはじめ、警官・一般人を合わせて、何百という数の死傷者が出ていた。
街の損壊も激しく、事件現場周辺の路上や建物ばかりか、ビルディングの屋上に設置されてある給水塔や、それより更に高い時計塔の時計までが大破していた。
事件には全く関係のない位置にあるそれらが何故破壊されていたのか、理由は全く解明されていなかった。
その新聞記事を読み終えた時、形兆は、これは父の事に関係のある事件だと直感した。
更に細かく調べていくと、その事件を記した記事の中に、ほんの僅かに、さり気なくだが、気になるキーワードがあった。
その金髪の男と共に方々で目撃されていた、アジア人と思しき、黒服に黒い帽子の、背の高い若い男。
そして、事件の収束と街の復興、被害者への支援に多大な貢献をしたという、世界有数の大財閥・スピードワゴン財団と、N.Y.の不動産王と呼ばれるアメリカの大富豪、ジョセフ・ジョースター氏。

次の調査対象は、その二人だ。

形兆は、己のその勘に確信を持っていた。
この二人の事を調べれば、事件の事が、父の事が、必ず紐解いていける筈だ、と。
そう思えた最大の根拠は、事件の発生日時だった。
事件は、日本時間にして丁度あの日、父の肉体が崩壊を始めたあの頃に起きていた。
あの時父は、苦痛にのたうち回りながら、『DIOが死んだ』と言った。自分の身に起きている異変は、きっとそのせいだと。
ならば、その事件の折に『DIO』が死んだという事になる。
そしてそれは、大勢いる事件の被害者の一人などでは断じてない。
肉の芽なるものを人の脳に埋め込んで人を操る事の出来る奴が、それを埋め込まれた人間をこんなにさせるような化け物が、車に轢かれたり銃で撃たれて死ぬような普通の人間である訳がない。『DIO』とは、事件の方々で目撃されていた二人の男、恐らくは金髪の男ではないだろうか。
その男が『DIO』だとすれば、事件の辻褄が合う。
父が何も語れない程怯えていたのも理解出来る。
しかし、だとしても、『DIO』という男の事は何処にも情報が無かった。
だから、まずはスピードワゴン財団と、ジョセフ・ジョースター。彼等の事から調べていかねばならなかった。

ようやくだった。
6年かかって、ようやく初めて、希望のようなものが見えてきたところだった。
なのにその直後、伯父によって東京を追われ、このK県Y市まで来る羽目になってしまった。
調査は勿論、そこで中断してしまっている状態だった。
東京に住んでいた時はまめに図書館へ通えたが、ここからだとそうもいかない。勿論、そのうち時間を作って必ず行くつもりだが、どうしたって頻度は落ちてしまう。
伯父に対してまたぞろ怒りがこみ上げてきたその時、形兆はふと、背中に誰かの気配を感じた。



「・・・何か用か」

後ろに立っていたのは、隣の席のあの少女だった。
それが、何か言いたげな顔で、形兆をおどおどと見ていた。
胸ポケットに付いている名札に『』と書いてあるのを見て、形兆は初めて少女の苗字を知った。


「あ・・・あの・・・・・・・、これ・・・・・・・」

少女は小さな握り拳を、形兆に向って突き出してきた。


「あ?」

受け取れと言わんばかりのその様子に、形兆は首を傾げながらも、ひとまず手を差し出した。
そして、掌にポトリと落とされたものを見て、少しだけ驚いた。


「何だこれ?」

小さな透明のビニール袋の中に、硬貨が何枚も入っていた。
ジャラジャラとかさばるそれらをよく見てみると、877円あった。
このという少女に877円貰う理由が分からず、形兆は説明しろと目で訴えた。
すると少女は、少し怯えたように表情を強張らせながらも、理由を話し始めた。


「こ・・・この間の、トマト代のお釣り。あれ、5個で598円で、消費税入れたら616円だったから、5で割ったら1個123円でしょ。だから、お釣り・・・・、877円で・・・・、合ってると、思うんだけ・・ど・・・・」

尻切れトンボで言葉尻を濁し、形兆の視線に耐えかねるように瞳を伏せてしまった少女を、形兆は唖然と眺めていた。


「あれから、あの・・・・、そのお釣り、ずっと持ち歩いてたの。もしまた会う事があったら渡そうと思って・・・・。
まさか隣の席になるとは思わなかったけど・・・・・、でも、思ったより早く渡せて良かった・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「あの、でも、言っておきたいんだけど、私、そんなつもりじゃなかったから。ああいう事されると、本当に困るの・・・・・・。お金を捨てる事なんて出来ないし、かと言って、そのまま貰いっぱなしなのも何かこう・・・、施されてるみたいで嫌だし・・・・・」

恐々と形兆の顔色を窺いながらも、少女は蚊の鳴くような声で文句を連ねた。


「え・・・・と・・・・・・・・」

恐る恐る見上げてきた少女と目が合った瞬間、形兆は思わず吹き出した。


「フッ・・・・・、クッククク・・・・・・・」
「え・・・・・、あ、の・・・・・・」
「クククククッ・・・・・、ふははっ・・・・・・」
「な、何が可笑しいの・・・・・!?」

何がと訊かれても、分からなかった。
ただ、この少女の何もかもが可笑しかった。
こちらは化け物に成り果てた父親の息の根を止めてやる為に、6年前にエジプトで起きた不可解な無差別大量殺人事件を調べるのに躍起になっているというのに、トマト代の何百何十円をチマチマと割って引いて計算して、バカ丁寧に釣り銭を持ち歩いていたというこの少女が、余りにも能天気に思えて。
そんな小銭で悩めるその能天気さが、一瞬、酷く羨ましくなって。


「ははははっ・・・・・・」

形兆は笑いながら彼女に背を向け、再び歩き出した。




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ご覧下さりありがとうございます!
またまた始めてしまいました。クッソ長い、しかも超重たい長編を(笑)。

この作品を書き始めたのは、丁度2年前です。
ある日突然、形兆兄貴にビビビッときたのです!
そりゃもういきなり、何の前触れもなく、録画しておいた4部アニメをダラダラ見ていたら突然に。
何か知らないけど気がついたらこのネタが浮かんでいて、
そこから1年位モリモリ書いて、ガス欠になって宙ぶらりんになりました(笑)。

という訳で、この作品は3部夢とは違って、まだまだ未完です。
なので、ボチボチ書きつつボチボチ更新していこうかなと、公開を始めました。
5部アニメが終わったタイミングで何ですけれども。

例によって、こじつけと捏造が激しいです。
あと、めっちゃ暗くて重いです。
胃もたれしないようにお気をつけて、気長にお付き合い下さいませ(笑)。