ONLY ONE 1




日本Jライト級タイトルマッチからはや1ヶ月が過ぎた。
木村との激しい攻防の末、王者の座を死守することができた。
試合で受けたダメージも概ね回復し、間柴は練習を再開していた。
いつもどおりにジムに着くと、着替えを済ませて早々にロードワークへ出る。


こんなもんで終わらねぇ、まだまだのし上がってやる・・・・・






彼の所属する東邦ボクシングジムの近くに、ピアノ教室がある。
某有名音楽教室の看板が掲げられたそこは、一年近く前に出来たものであった。
ジムに近い為、間柴はその前をよく通りがかった。もっとも彼がそんなものに興味を持つはずがなく、足を止めることも見向きをすることも一度もなかった。
今日もいつも通り教室の前を通る。
いつもなら気にもかけずに素通りなのだが、なぜか彼は足を止めた。


美しく柔らかい旋律が聞こえてくる。


どうやらここへ通ってくる生徒はほとんど初心者らしく、いつもは何も聞こえないか、お世辞にも上手とは言えない メロディーが聞こえてくるだけなのだが、今日は明らかに違っていた。
気にかけていないとはいえ、いつもと違う様子が物珍しく、彼は教室の大きな窓へ目を向けてみた。



窓の向こうに黒光りのするグランドピアノが見える。
若い女性が弾いているらしい。長い髪をした、穏やかな感じの女性だ。
決して派手ではないが、なかなかに魅力的な顔をしている。

教師、か・・・。

幼い女の子が自転車に乗って近づいてくるのが見えた。教室の壁に沿うように自転車を留めると、ドアを開けて入っていく。
女の子が室内へ入ったと同時に、旋律が止んだ。

「・・・フン」
彼は何事もなかったように、再び走り出した。








「お疲れ様ッした〜!!」

ジムの皆の挨拶を背中で聞いて、間柴は外へ出た。
ベルトを取ってから、周囲が変わってきた。特に後輩や練習生などは明らかに自分を特別視している。
職場や近所の人間は言うに及ばずだ。時折何とも言えない感覚に戸惑う。悪く言われることは慣れているが、もてはやされるなんてことは今までなかった。
周囲に認められたくてベルトをとったわけじゃない。
たった一人の妹の為、必死で這い上がっただけだ。

しかし問答無用な周囲の好意は、しばしば彼を戸惑わせた。





あのピアノ教室がすぐそこにある。まだ明かりが点いている。
そこへ明らかに場違いな人相の中年の男が入って行くのが見えたので、近づいて窓からそっと覗いた。

中にはさっきピアノを弾いていた女性が、緊迫した面持ちで男と会話している。
男の言葉は聞き取れないが、女性の方が「帰って」と繰り返している。
ヤバい雰囲気だと思っていると、男が女性の腕を掴んだ。途端に女性は激しく抵抗する。


― 別にあの女には何の義理もないが、見かけちまったしな・・・・


彼は素早い動きで教室内に入る。男の腕を掴んで捻り上げる。
「イテェ!!なんだてめぇ離しやがれコラ!!」
「失せろゲス・・・・」
腕を掴んだまま戸口の方へ乱暴に引きずる。腕を離してやると、「テメェ殺すぞ!!」と彼に掴みかかってきた。
「殺されるのはテメェだよ」
低い呟きと共に男を睨みつけると、男は2・3歩後ずさり、「チッ」と捨て台詞を残して去っていった。

女性は掴まれていたらしい手首を押さえ、間柴を見つめて立ちすくんでいる。
その表情には明らかに『怯え』が浮かんでいた。
彼はそのまま立ち去ろうとしたが、ふいにその女性の声が背中に飛んで来て、思わず振り返った。


「あ、あの!!」
「・・・」
「あの、そ、その・・・有難うございました!」

幾分固いが、それでも少し安堵したような笑顔を浮かべて礼を言われ、なんだかむず痒くなる。
「・・・あぁ」とだけ返事して、彼はその場を立ち去った。
急ぎ足で帰途を辿りながら、先程の場面を思い出す。
落ち着いた優しく響く声が頭にこだましている。


「・・・ケッ」
照れを隠すように、彼は更に急ぎ足で自宅へと歩いていった。




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後書き

出だしはまずまずのへなちょこっぷりですね。
間柴兄さん、好きなんですよ〜。かなり楽しんで書きました♪

兄さんにぶっきらぼうに助けてもらいたくて♪(←アホですな)