すっかり落ち込んでしまった一歩を励ますべく、と久美は、絵馬を買って幸福祈願をしようと言い出した。
神頼みは本堂で既にしてあるのだが、人間の願いとはかくも際限のないものなのである。
とにかく四人は絵馬を一つずつ買い、それぞれに隠すようにして願い事を書き込んだ。
「私ね、今年も元気で仕事が出来る、いい一年になりますようにって願ったの。」
「ほう。」
「それから・・・・・、これからも了と楽しくやっていけますようにって。」
「・・・・・ケッ。」
が指にぶら下げて見せた絵馬には、綺麗な字で確かにそう書かれてある。
愛しいのつましくいじらしい願いを目の当たりにして、間柴は照れくさそうにそっぽを向いた。
「・・・・・・んなもん、神頼みにしなくたってそうなるに決まってんだ。」
「え?」
「何でもねぇ。」
「そう?・・・・・ねえ、ところで了は?何をお願いしたの?」
知りたそうに目を輝かせたは、間柴の絵馬を手に取ろうとした。
だが、間柴は高く腕を掲げてそれを阻んだ。
「良いじゃない、見せてくれたって。」
「駄目だ。」
「どうして?」
「汚ぇ字だから人に見せるの恥ずかしいんだよ。」
「そんなの良いのに・・・・・。あ、じゃあさ、何をお願いしたかだけでも教えてよ?ね?」
と小首を傾げたは、しかし間柴が答えるのを待たずして、あれやこれやと推測を始めた。
「あ、分かった!世界戦が出来ますように、でしょう?」
「外れ。」
「じゃあ、無事ベルトを防衛出来ますように!これじゃない?」
「それも外れだ。」
「じゃあ何?ボクシングの事じゃないとなると・・・・・、仕事の事?」
「全然違ぇよ。」
予想がことごとく外れたは、一瞬難しそうに考え込んだ後、ハッとして間柴を見た。
「・・・・・・・・もしかして・・・・・・・」
「何だよ?」
「もし・・・・、私の思い込みだったら恥ずかしいんだけど・・・・・・、もしかして了も・・・・・、私と同じ事、願ってくれたの?」
寒さで少し赤くなった頬をして見上げてくるを見て、間柴は眉間に深々と皺を寄せた。
に己の願いをズバリと当てられたからである。
「ケッ、馬鹿言うんじゃ・・・・」
しかし、我ながら嫌になるのは、この期に及んで素直になれない性格だ。
一言『そうだ』と言ってやれば、はまたあの愛しい笑顔を見せてくれるのに。
思わず即座に否定しかけた口を慌てて噤み、間柴は暫し躊躇った後、低く呟いた。
「・・・・・俺は元々、神頼みなんてしねぇ性質なんだ。チャンピオンの座も世界戦への切符も、俺の実力で守り勝ち取る。」
「・・・・・ふふっ、了らしいね。」
「お前の事も・・・・・・・、俺の実力で幸せにしてやるんだからな。神頼みはおまじない程度のもんだ。」
「了・・・・・・・・」
驚いたように目を見開くの唇に、間柴の乾いた唇が素早く重なった。
ほんの一瞬だけ、誰も見ていない隙に、風がさっと攫うように。
「了ったら・・・・・・・、恥ずかしいよ、こんな所で・・・・・・」
「どうせ誰も見てやしねぇよ。」
恥ずかしそうに、しかし幸せそうに微笑むに笑ってそう言った後、間柴は向こうではしゃいでいる久美と一歩を一瞥した。
「久美さんは何て書いたんですか?」
「ふふっ、私欲張りだから、沢山書いちゃったんです。」
「あはは!良いじゃないですか!僕も沢山書いちゃいましたよ!」
「まず、今年も元気で仕事が出来ますように、それから、兄が怪我をせず、さんとうまくやれますように、それから・・・・・」
「それから?」
「それから・・・・・・・、幕之内さんと・・・・・、もっと仲良くなれますように・・・・って・・・・・・」
「そっ、そんな!!勿体ないですよ、久美さん!!!」
大きく頭を振る一歩に、今度は久美が無邪気に微笑んで尋ねている。
「幕之内さんは?何て書いたんですか?」
「ぼっ、僕は・・・・!まず、家業が順調にいきますように、それから、僕も皆も元気で良い事がありますように、それから、納得のいくボクシングが出来ますように、それから・・・・・・」
「それから・・・・・?」
「それから・・・・・・・・、くく、くくく久美さんに・・・・・・・」
「・・・・・・私に・・・・・・?」
「久美さんに・・・・・・、嫌われず、お暇な時で良いから、お喋りしたり遊んだりして頂けますように・・・・・って・・・・・・」
「プッ・・・・・・、うふふふ!幕之内さん、それ卑屈すぎます!」
久美が笑うのも無理はない。確かに些か卑屈すぎる願い事である。
それを書いた一歩本人から言わせれば、遠慮に遠慮を重ねて、それでも精一杯切実な思いを込めたのだというところであろうが。
それにしても、一体何行書き込んだのであろう。
時折ちらちらと見える一歩の絵馬は、書かれた文字でびっしりと黒く埋まっており、白木の木目がまるで見えない。
一見遠慮深そうでいて、なかなかどうして欲深いものである。
「は、ははは・・・・・、そ、そうですかね・・・・・」
「・・・・・・もっと積極的なお願い事を書いてくれてても良かったのに・・・・・」
「え、な、何ですか、久美さん?」
「ふふっ、何でもありません。」
横で歯軋りしている兄の存在などすっかり忘れたかの如くときめいている久美と、己の分も弁えずに眼前で久美の笑顔を見て鼻を膨らませている一歩に腹を立てた間柴は、絵馬を握り締めた手を震わせてに言った。
「・・・・・・な。誰も見てやしねぇだろ?」
「そうみたいね、良かったわ。」
「ああ、全くな・・・・・・
間柴の手からぶら下がっている絵馬が、新春の穏やかな日差しを浴びて一瞬きらりと光った。
そこには。
『殺・幕之内』
というデカデカとした力強い文字が、堂々と絵馬の中央に。
そして、『と久美が側に居ますように』という小さな文字が、恥ずかしそうに絵馬の片隅に。
それぞれ、間柴自身が言う程汚くはない字で書かれてあった。
「あの、この後家でお鍋でもしませんか?私用意してあるんです。ね、さん。良いでしょう?」
「でも、急にお邪魔しても良いのかしら?」
「そんな、全然気にしないで下さい!!さんさえ他に予定がなかったら、是非!」
「そう?・・・・・じゃあ、お邪魔させて頂きます!」
「幕之内さんも来て下さいますよね?」
「えっ!?ぼ、僕ですか!?」
「もしかして、他に何かご用がありますか・・・・・?」
「まっ、まさかまさか!!暇です、もの凄く暇です!!」
「良かった♪じゃあ是非いらして下さい!」
「はっ、はいいい♪♪♪」
「おいコラ幕之内てめぇ・・・・・、調子に乗ってんじゃねぇぞ。」
「はっ、はいいい・・・・・・!!!」
「新型フリッカーの実験台になってみるか?ああ?」
「・・・・・・・・・・((((;゚Д゚)))」
「お兄ちゃん!!!!」
「了!!!!」
それぞれの願い事は、果たして成就なるか。
何はともあれ、この四人が今年も騒々しい四角関係で結ばれる事だけは間違いなさそうである。