消毒薬の匂いが染み付いている室内に、簡素なベッドが幾つか並んでいる。
レイは胸に包帯を巻いて、その中の一つに腰掛けていた。
やはり少々出血が多かったようで身体はだるいが、眠る気にはなれなかった。
眠れない理由は、隣のベッドに横たわっている女。
レイと同じく胸に包帯を巻き、不揃いに短くなった髪を枕に広げて死んだように眠っているが気に掛かるからであった。
きゅっと引き結ばれた唇は、微かな寝息すらも洩らさない。
頬は血の気が失せ、包帯の巻かれた胸も上下しない。
そう、『死んだように』というよりも、実際には今、死んでいるのだ。
間もなく目覚める筈ではあるが。
「うぅ・・・・・・」
「・・・・・・・・気付いたか。」
レイの予想通り、はそれから間もなく、薄らと目を開けた。
「私・・・・・・・」
まだぼんやりと焦点の合わない目をしてはいるが、の頬はみるみる内に元の薔薇色を取り戻していく。
そろそろ意識も明瞭になってくるだろう。
レイはの顔を覗き込み、はっきりと告げた。
「試合は終わった。お前の負けだ。」
この言葉に、一切の嘘偽りはない。
レイはを破り、試合に勝ったのだ。
それも、一時はあれだけ劣勢に追い込まれていながら、たった一撃のもとに。
「・・・・・・そう。」
結果を聞かされたは、思ったよりも落ち着いているように見えた。
「俺の言った通りの結果になっただろう。こうなる事が目に見えていたから、忠告してやったのだ。それを・・・・」
「思った程ダメージがないわ。レイ、貴方、南斗虎破龍を使ったのね?」
とて長く南斗聖拳を学んだ身。
二人の勝敗を分けた技は、すぐに見当がついたようだ。
南斗虎破龍。
ある秘孔を突いて、相手を一時的に仮死状態にする技である。
この技をかけられた者は、一時死人同然となってしまうが、技のダメージ自体は殆どない。
暫くすると、まるで何事もなかったかのように目覚めるのだ。
この南斗虎破龍は、敵を欺き活路を開く為の技、殺人拳ではなく、いわば活人拳なのである。
「・・・・・・ああ、その通りだ。それがどうした?」
「何故なの?どうせ私の負けが見えていたのなら、中途半端な情けなどかけずに、遠慮なく攻撃すれば良かったのに。」
「おい・・・・・」
「レイ、貴方には失望したわ。攻撃の手を抜いたり、すっきりしないやり方で勝負をつけたり・・・・・。卑怯よ。貴方らしくない。」
数多ある技の中で、レイがこの技を選んで使った理由は他でもない。
を傷つけたり、死なせたくなかったからだ。
敢えて後手に回り、積極的な攻撃を仕掛けなかったのもまた然り。
全て、の身を案じるが故であったのだ。
だがは、そんなレイの気持ちを察するどころか、憮然とした表情で不満を洩らした。
「何だと?」
「だってそうでしょう?虎破龍を使うなんて卑怯だわ。一撃で仮死状態にされてしまっては、私には何も分からないじゃないの。私がどうやって負けたのかも、貴方との実力の差も、勝敗がついたその瞬間の事も、何もかも。」
「八つ当たりはやめろ。虎破龍も正当な南斗聖拳の技だ。それに、俺の技をかわせなかったという事実が、俺とお前の実力の差を物語っているだろう。潔く認めたらどうだ?」
「それは・・・・・・!」
「大体な、俺が手を抜かなかったら、お前は今頃死んでいたのだぞ!本当にそうなっても良かったのか!?無傷で助かった事を感謝して貰いこそすれ、卑怯者呼ばわりされる覚えはない!未熟な分際で偉そうに言うな!」
ついムッとしてこう怒鳴ってしまったが、レイは別に本気で感謝して貰いたいと思っている訳ではなかった。
そんな事はどうでも良かったのだ。
ただ、何も気付いていないに苛立って。
「よく言うわ!貴方こそ、手を抜いていた割には危ないところもあったじゃないの!私の髪を切った位であんなにうろたえて!」
「それは・・・・・・!」
「あれは形勢逆転のチャンスだったわ!私が貴方なら、あの瞬間を絶対無駄にはしなかった!更にもう一歩踏み込んで止めを刺しこそすれ、うろたえて隙を見せるなんて、貴方も人の事は言えない未熟者よ!」
「くっ・・・・・・!」
「なのに人の気持ちも事情も知らないで、人の事を馬鹿にして・・・・・、勝手な事ばかり言って・・・・・・」
縮まりそうで縮まらない、二人の距離がいい加減に歯痒くて。
「・・・・・・・勝手はどっちだ!お前こそ、俺の気も知らないで好き勝手な事ばかり言うな!」
「っ・・・・・・・・!」
気が付けば、レイは薄らと涙ぐんでいるを強く掻き抱き、その唇を奪っていた。
いつまで経っても何も気付かないに、もう何度、想いを告げて口付けようと思った事か。
なのに、ようやく実現出来たキスがこの通りの喧嘩腰では、まるで格好がつかない。
だがそれでも、の唇は甘く柔らかく、レイの唇を受け止めていた。
「・・・・・・・・起きた早々、膨れ面をして文句ばかり言うな。一言ぐらい謝らせろ。」
「レ・・・・イ・・・・・・」
そっと唇を離した後、レイは驚いたように目を見開いているをまっすぐに見据えて言った。
「髪・・・・・・、悪かった。折角見事な髪だったのに、勿体無い事をした。」
「・・・・・・謝らせろって・・・・・、その事?」
「ああ。髪は女の大事な物だからな。」
「・・・・・・髪なんて別に・・・」
「それに俺は・・・・・・、お前の髪を気に入っていた。」
指で梳いたの髪は、やはり拍子抜けする程短くなっていた。
指の隙間からサラサラと零れていく髪の感触を暫し味わっていると、やがてが静かな落ち着いた声で呟いた。
「・・・・・・・本当は私、分かっていたの。」
「何を?」
「私では貴方に勝てない、次の南斗水鳥拳伝承者に最も相応しいのは貴方だって。分かっていたわ。これでも私は・・・・・、誰よりも貴方の才能と実力を買っているつもりですもの。」
「・・・・・・」
レイは、この言葉に少なからず驚いていた。
にとって自分は、『いけ好かない同期』位にしか思われていないと思っていたからだ。
「レイ、女がこの歳になるとどういう分岐点に立たされるか、貴方知ってる?」
「?」
「父親の眼鏡に適った男性の中から、誰か一人を選ばされるの。どういう人生を選ぶかではなく、どんな男に嫁ぐか。進む道は既に決まっていて、ただ相手を誰にするかというだけの、ちっぽけな分岐点にしか立たせて貰えないのよ。」
「・・・・・・・そういう話があるのか?」
「話なら、父と顔を合わせる度に持ち掛けられるわ。女がいつまでも男に交じって拳法なんかやっていないで、一日も早く誰かに嫁いで子を産め。それが父の口癖なの。」
そう言って、は寂しそうに微笑んだ。
「でも私は、南斗の拳士として歩む人生を選びたいのです。適当に選んだ相手と適当な結婚をする為に、これまでの半生を捧げて来た南斗聖拳を捨てたくはなかった。」
「だから・・・・・・、負けると分かっていて、俺との勝負を避けなかったのか?」
「ええ。たとえ目を背けたくなるような酷い傷を負う事になっても構わなかった。そうなったら、わざわざそんな女と結婚したがる男なんて居なくなるでしょう?」
「お前・・・・・・・」
「いいえ、いっそ死んだって構わなかった。嫌々拳を捨てる位なら、とことんやって潔く果てたかった。愛した拳を極める為に命を懸けて勝負に挑んで、その結果、力及ばず志半ばで果てたとしても、望まない人生を歩むよりは遥かに幸せだと、そう思ったのです。」
レイの指に、の細い指先がおずおずと絡められた。
からこんな風に触れてきたのは、これが初めてだった。
「・・・・・・・・・そして、レイ。貴方の手によってそうなるのなら、尚更。」
「・・・・・・・・」
「残念だわ。」
何という話だろう。
何という女だろう。
の手を握り返している内に、レイは思わず笑ってしまいたくなった。
「・・・・・・馬鹿か、お前は。」
「な・・・」
「どうしてそう極端なものの考え方をするのだ?本当に融通の利かない石頭女だな、お前は。」
「何ですって!?」
憤慨するをよそに、レイはクックッと喉の奥で笑いながら言った。
「お前の気持ちは分からんでもないがな、他に方法は思いつかなかったのか?」
「仕方がないでしょう!?父は頑固で私の言う事など聞きはしないし、かと言って、私だって父の言うなりになる気はないし・・・・・!それに、自分の力を試したかったのも本当よ!たとえ負けると分かっていたって、自分がどこまでやれるか・・・」
「どこまでもやれるだろう?お前なら。」
「・・・・・え?」
レイが余りにもあっさりと言ったものだから、はすっかり面食らっている。
それも当然だ。
『どこまでもやれる』と言っても、はレイに負けてしまったのだから。
「何を馬鹿な事を・・・・・・。私は敗れたわ。私はもう、伝承者にはなれない。水鳥拳が駄目だったからと言って、今更簡単に他の流派に鞍替えなんて、そんな事が出来ないのは貴方だって知っているでしょう?」
「ああ、知っている。」
「だったら・・・・」
「だからお前は石頭だと言うのだ。もっと柔軟に考えろ。」
「・・・・・・・・」
「お前のその、頭に『クソ』が付く程の真面目さは、それはそれで一つの才能だ。その才能を活かして、道場の師範でも目指したらどうだ?」
「師範・・・・・・・?」
ポカンとしているところを見ると、これはには全く考え及びもしない案だったようだ。
伝承者になるか、拳を捨てるか、二者択一に捉われていただから、どうせこんな事だろうとレイには予想出来ていたが。
「何も伝承者になる事だけが、拳を極める道ではない。これから学んでいく練習生達を教え導く事も、拳士としての立派な務めだ。そして、お前のその厳しさと生真面目さは、入門したての小僧共の甘っちょろい根性を叩き直し、拳を授けられる状態にまで仕上げるのにもってこいだ。」
「私が・・・・・・、師範・・・・・・」
「お前なら、泣く子も黙る一流の鬼教官になれるだろう。『優等生』のお前にはこの上ない適役だと思うがな。どうだ?」
レイは少しだけ首を傾げて、の様子を伺った。
はまた『優等生』と呼ばれた事に怒りもせず、ただ呆然としている。
その表情から察するに、戸惑ってはいるが、全く考えられない訳でもない、といったところか。
「そうすれば良い。そうすればお前は、誰だか分からん男に嫁ぐ事も、拳を捨てる事もせずに済む。」
「それは・・・・・、確かにそうだけれども・・・・・・・」
「そして、俺とも離れずに済む。」
レイは唇を吊り上げて、握っていたの手をぐいと引き寄せた。
「なっ・・・・!?そ、そんな事はどうでも良いでしょう!?」
「そうか?」
飛び込むような形でレイの胸の中に抱き寄せられたが、狼狽している。
が今どういう気持ちでいるのか、それは朱に染まった頬を見れば一目瞭然であった。
「・・・・・・俺としてはどうでも良くない、いや、むしろそこが一番重要な問題なのだがな。」
「まっ・・・・、また人を馬鹿にし・・・、んっ・・・・!」
これ以上小言を言われない内にとばかりに、レイはもう一度、キスでの唇を塞いだ。
吃驚して強張る小さな唇を舌でそっと割り、今度は深く、甘く絡んで。
「・・・・・・・・お前は本当に、どうでも良いと思っているのか?」
「・・・・・・・・・し、知りませんっ!」
覗き込んだの瞳が、強がりながらも潤んで揺れているのを確かめて、レイはまた小さく笑った。