汗で張り付く稽古着を脱ぎ捨て、冷たい井戸水を手桶に一杯汲み上げて。
それを頭から豪快に被れば、鍛錬で火照った身体がスーッと冷えていく。
熱く硬く強張っていた全身の筋肉が解れていくような心地良さにフウと息をつき、手桶をその辺に無造作に放り出したその時、まるで教師のような言葉が、背後から良く通る声で飛んで来た。
「使った手桶はきちんと元の場所に置きなさい。後の者が気持ち良く使えないでしょう。」
「何だ、誰かと思えばお前か。『優等生』。」
振り返ったレイの前に立っていたのは、小さな桃色の唇をキュッと引き結んだ若い女だった。
長く真っ直ぐな髪を高く結い上げて、レイと同じ南斗の門下生の稽古着をきっちりと着込んでいる。
そのしなやかな外見からは想像し難いが、つまり彼女はレイと同じ、南斗の拳士なのであった。
「お前も水浴びか?何なら手伝ってやろうか。」
「結構です。私はただ手を洗いに来ただけですから。」
女はレイの横を素通りすると、井戸の傍らに整然と積み上げられている手桶を一つ取って必要最低限だけ水を汲み、手を洗った。
それから、まるで手本を示すように手桶を元あった場所にきっちり戻すと、白い清潔そうなハンカチで丁寧に手を拭いた。
こういう生真面目な仕草が、レイや他の拳士達に彼女を『優等生』と呼ばせる所以の一つである。
だが勿論、それだけではない。
拳士としての修行に対する態度もまた、生真面目そのものなのである。
持って生まれた筋の良さと惜しみなく努力する姿勢は、確かに多くの者から評価されてはいるのだが。
「お前、本当にやる気なのか?」
「何を?」
「南斗水鳥拳の、新伝承者決定試合だ。」
「ええ。」
近々行われるこの試合に、彼女、が出ると聞いたのは、つい今朝の事だった。
この件について出来るだけ早い内に話をしたいと思っていたところにの方から声を掛けてくれたとあらば、話すタイミングは今以外にない。
レイは厳しい顔をして、に一歩近付いた。
「同期のよしみで忠告してやる。悪い事は言わん。今からでも辞退するんだな。」
「何故?」
「どうせ負ける。確かにお前には、親譲りの才能がある。だが、如何に才があろうとも、所詮お前は女だ。」
は、南斗のある一派の伝承者の実子である。筋も悪くない。
だが、娘である。
しかもその伝承者には、他にの兄に当たる息子が居る上、その息子と伝承者の座を巡って競わせる事の出来そうな実力を持つ門下生達も居る。
要するに、後継者候補には困っていないのだ。
その事を理由に、の父は、彼女に自流派の拳を学ばせようとはしなかった。
と同じような立場の女拳士は、他にも何人かいる。
だが他の女達は皆、自らが拳を極めるというよりは他の拳士達を補佐する役目に就いたり、そもそも最初から拳とは全く無縁の人生を歩んでいたりするのだ。
ところがこのは、そうしなかった。
日々道場で男達に交じって鍛錬を積み、遂にはよりにもよって南斗六聖拳の一派・南斗水鳥拳の新伝承者の候補者、つまりレイの競争相手にまでなってしまったのである。
「並の男では確かにお前の相手にはならん。だがな、今度ばかりは違うぞ。今度の試合に挑む者達は皆お前と同程度、いや、それ以上の力を持つ男ばかりだ。」
「その中に貴方も入っている、という訳?」
「ああ。はっきり言ってやるが、お前に勝てる見込みはない。少しばかり女離れした才に自惚れて甘く考えていては、取り返しのつかん事になるぞ。」
「取り返しのつかない事、ね。」
伝承者の座を巡って、と真剣勝負を行う事。
それをレイがどう思っているかなど全く気付いていないかの様に、は事も無げに笑った。
「私だって、南斗の拳士になると決めて入門した時から覚悟は決めています。貴方達男性と同じくね。女だから死なずに済むなんて考えた事など、一度もないわ。」
「死ぬならまだしも、もし酷い傷を負ったまま生き続けなければならなくなったらどうする?腕がなくなったら?顔に二目と見られぬ醜い傷を負ったら?」
「そうなったら、毎日後悔しながら泣いて暮らせば良いのかしら?」
「・・・・・・・全く。とんだじゃじゃ馬だな。」
呆れたように溜息をつくレイを見て、はそれまで浮かべていた微笑を、ほんの少し曖昧にぼかした。
「父と同じ褒め言葉をどうも有難う。お礼ついでに言わせて頂くけど、私は自分の才能に自惚れてなどいません。父から受け継いだ血だけでこれまでやってきたなどと思われては、むしろ心外です。私の力は、一拳士として日々修行を積んだ結果得たものだわ。私自身の努力の結晶です。他の誰から貰ったものでもない。」
「努力の結晶、か。優等生のお前が言うとそれらしく聞こえるから不思議だ。」
「それから、それ。私を『優等生』と呼ぶのもやめて下さい。」
「別に悪気はないんだがな。それこそ褒め言葉とは受け取れんのか?」
「ええ。何だか癪に障るの。それから、『女、女』と言うのもやめて下さい。今更貴方に教えて貰わなくても、自分の性別ぐらい知っています。」
一方的なレイの発言に、多少なりとも腹を立てたのだろう。
は皮肉を交えながら、饒舌にポンポンと言い返してきた。
「だったらもう少し、女らしくなったらどうだ?只でさえ手に負えんじゃじゃ馬娘が、身体に傷までつけてしまっては、それこそ嫁の貰い手もなくなるぞ?」
「そうなっても、貴方には関係ないでしょう?私の顔に傷がついて二目と見られなくなったら、どうだというのです?何も貴方に貰って頂く訳ではないのですから。」
だが、これは互いに些か言い過ぎだったようだ。
表情を僅かに強張らせた二人の間に、暫くの間、痛い程の沈黙が流れた。
「・・・・・・・ああ、確かにそうだな。」
「・・・・・・・じゃあ、また試合で会いましょう。お互い正々堂々と勝負しましょうね。それからその手桶、ちゃんと元通り片付けておきなさいね。」
と、またしてもまるで教師のような口調でそう言い残すと、は颯爽と立ち去って行った。
もういっそ試合の日など来なければ良いのに、というレイの願いも虚しく、とうとうその日はやって来た。
一門の者達が見守る中、闘技場の中央に立ったレイは、目の前に立っているを絶望的な眼差しで見つめていた。
あれだけ言ってやったにも関わらず、やはりは出場を辞退しなかった。
それどころか全く動じていない様子で、細い肩をピンと張って堂々としているではないか。
だが、お互いこの場に立ってしまった以上、今更どうにもならない。
「・・・・・・良いか。無理だと思ったらやせ我慢せずに、自分から早目に降参しろ。」
「手加減は無用よ。お互い全力で勝負しましょう。」
せめてもの最後の忠告も通じないまま、遂に試合は始まった。
「やあっ!」
「くっ・・・・・!」
試合は、の攻撃・レイの防戦という形で流れていた。
評価されるだけあって、の攻撃は的確である。
無駄な動きはなく、的確に、確実に、ポイントを突いて来るのだ。
「どうしたの、レイ!貴方の全力はこの程度ではないでしょう!?勿体つけないで!」
は攻撃を休めず、防戦一方のレイを不満げに叱責した。
の言う通り、レイの実力は決してに引けを取るものではない。
むしろレイ自身には、自分の実力の方が遥かに勝っているという絶対的な自信さえあった。
そして、南斗水鳥拳新伝承者の座も、誰にも譲るつもりはない。
にも関わらず、レイが反撃しないのには、勿論理由があった。
― 、どうしてお前はそう・・・・・・・!
「はあっ!!」
「しまっ・・・・・・・!」
幾ら苛立っていたとはいえ、この瞬間、試合に集中していなかったのはレイのミスだ。
その隙をついて、が一気に畳み掛けて来るのは当然というものである。
の鋭い一撃がこれ以上ないタイミングで繰り出された瞬間我に返ったレイは、反射的にの首を狙って拳を放ってしまった。
「!」
いや、狙いたくて狙ったのではない。結果的にそうなっただけだ。
咄嗟の行動だった為、急所を外してやる余裕がなかったのである。
だが、もう遅い。
レイの指先から走った細く鋭い衝撃は、間もなくの首を胴体から切り離してしまう事になる。
「あっ・・・・・・!」
「っ・・・・・・・!」
の小さな悲鳴が聞こえた後、闘技場の床に彼女の『印』が舞い散った。
その場の誰もが、思わず呆然としている。
そしてレイもまた、その中の一人だった。
「・・・・・・・・」
レイの攻撃を受けたは、まるで瞬時にして魂が抜けたかのように呆然と目を見開き、立ち尽くしていた。
いつも高い位置にきっちりと結い上げられていた長い髪が、今は半分以上も短くなって、まるで幼女の髪型のように頼りなく見える。
そして、その足元に無造作に散らばっているのは、艶やかな髪の束。
不本意ながらも、レイの拳が容赦なく切ってしまった、の髪であった。
寸でのところで頭を逸らし、首が胴体から離れてしまうのは間一髪免れたが、髪までは守りきれなかったようだ。
「・・・・・・・・・」
切られたのは髪だけで、は幸いにも無傷である。
それなのに、レイは内心でかなり狼狽していた。
いくら不可抗力とはいえ、女の命とも言える髪を台無しにしてしまったのだから。
しかし。
「・・・・・・・はああっ!!」
当のは、髪など全く意に介さない様子で、またしても隙をついて攻撃を繰り出して来た。
今度はもう、完全に避ける事は出来なかった。
「うぐっ・・・・・!」
レイの胸はの一閃を受けて大きく切り裂かれ、傷口から血飛沫が水柱のように噴出した。
その直後、観衆から驚愕のどよめきが沸き起こる。
それを聞きながら、レイは胸を押さえて倒れ込んだ。
「だから忠告したでしょう?手加減は無用だと。」
が、一歩レイに近付いた。
いつの間にか髪留めが外れてしまっており、些か不恰好な形に短くなった髪が、細い首筋の辺りでふわふわと広がって揺れている。
レイを見下ろすその瞳は、何故か悲しげに曇っていた。
「次は外さないわ。」
「・・・・・・・・」
傷は辛うじて致命傷には至っていないと思われるものの、出血が酷く、長く放っておくのは危険な状態だ。
ここは少しでも早く勝負をつけて、試合を終わらせなければならない。
だがその為には、レイも積極的に攻撃を仕掛ける必要がある。
― くそっ、っ・・・・・・・!
「ぃやあああああーーーーっ!!!」
「うりゃああああーーーーっ!!!」
一門の者達が固唾を呑んで見守る中、遂に二人の拳が交わった。