青々と茂った初夏の木立の中で、無邪気な子供達の声が聞こえる。
まだ幼児のあどけなさを残した少年の声と、初々しい少女の声が。
「こっちよ、坊や!」
「待ってぇ、姉さま!」
「鬼さんこちら!こっこまでお〜いで!」
軽やかに弾む二つの足音と、林に響く無邪気な笑い声。
追って追われて、止まって消える。
「はぁっ、はぁっ・・・・・、酷いよ姉さま!走るの速いんだもの!」
「うふふ、これでも学校のお友達の中では一番速いのよ。」
「本当!?凄いや!」
「でも、坊やだってとっても速いわ!もうすぐきっと私より速くなるわよ。」
「本当!?なれるかなぁ?」
「なれるわよ!」
少女は健康的な薔薇色に染まった頬を綻ばせて、手近にあった杏の木を見上げた。
少女の背丈より遥かに伸びたその木の枝には、鮮やかな黄色い果実がたわわに実っている。
紅いベルベットのワンピースの裾が翻るのも構わずに、少女は一番低く垂れ下がっている枝に向かって飛び跳ねた。
「えいっ、えいっ!」
「姉さま頑張って!」
「もうちょっと・・・・・、それっ!」
「うわぁ、取れた〜!」
やっとの思いで手折った小枝には、丸い果実が二つ仲良く寄り添って付いていた。
少女はその一つをもいで白いハンカチで磨き、笑顔と共に少年に渡した。
「ありがとう!ん・・・・・、おいしい!とっても甘いよ、姉さま!」
「そう?」
少女は残ったもう一つもハンカチで磨くと、さくらんぼのような唇に迎え入れた。
「本当、美味しい!」
「僕もう食べちゃった。ねえ姉さま、もっと取って!」
「まあ。あんまり沢山食べると、お夕食が食べられなくなるわよ?」
「だって!!」
「もう・・・・、しょうがないわね。じゃあ、もう一個ずつだけ食べようか?」
「うん!」
あともう一個ずつだけのつもりだったのに、食べれば食べる程、杏の甘い爽やかな味は後を引いて。
気付けばいくつもの果実を、二人して食べていた。
二人とも、午後のティータイムでおやつを食べたばかりだというのに。
「僕もうお腹一杯!お夕食食べられないや。」
「私も!うふふ、つまみ食いがばれたら、小父様と小母様に叱られちゃうわね。」
「え〜!?パパには内緒にしようよ!ママはお説教だけだけど、パパはすぐぶつから怖いんだ!」
「ダメよ。おやつを食べ過ぎてお夕食を食べられないのは悪い事だから、きちんと謝りましょうね。大丈夫よ。ぶたれそうになったら、姉さまがちゃんと庇ってあげるから。姉さまが悪かったんだって、ちゃんと小父様に言ってあげるわ。」
「本当?」
「ええ!姉さまが今まで坊やに嘘をついた事がある?」
三年前、二人が七歳と十三歳の時から、少年と少女は共に暮らすようになった。
少女の両親が、不慮の事故でこの世を去った為である。
亡き親友の忘れ形見を引き取った少年の両親は、少女を実の娘のように可愛がり、初めは悲しみに暮れていた少女も、今ではすっかり彼らを実の両親のように思っている。
勿論、自分を慕い懐いてくるこの少年の事も。
それまで兄弟のなかった彼女は、少年を実の弟のように可愛がっていた。
そして、少年もまた。
六つの年の差があるとはいえ、両親と使用人達という大人ばかりの環境で生まれて育った彼にとって、少女は初めて心を通わせる事の出来た友達であり、たった一人の姉であった。
元来内気なこの少年は、同年代の友人と遊ぶよりこうして少女と遊ぶ方を好み、暇さえあれば彼女の側に居る程、少女が好きだった。
そう、彼にとって少女は単なる友達や姉ではなく、恋の相手でもあったのだ。
「ううん、ない!」
「でしょう?だから安心して。」
「うん!そうだ姉さま。僕、花冠を作ってあげるよ!姉さまにあげる!」
「本当?嬉しいわ!」
「待ってて、すぐに作るから!僕上手なんだよ!ママにも褒められたんだから!」
少年は得意そうに胸を張ると、茂みの合間にひっそりと咲く露草を何本も摘み、いそいそと冠を編み始めた。
「あら本当。坊やはとっても手先が器用なのね!」
「えへへ、上手でしょう!・・・・・ほら出来た!」
「まあ綺麗!」
「僕が被せてあげる。」
少年はまるで花嫁のヴェールを持ち上げるような恭しい手付きで、少女の頭に露草の花冠を載せた。
ワインレッドのワンピースと揃いのリボンを結いつけた、まっすぐでしなやかな長い黒髪に、露草の藍色が美しく映えている。
少年は胸の高鳴りを隠そうともせず、惚れ惚れと呟いた。
「綺麗だ、姉さま。まるでお姫様か花嫁様みたい・・・・・・・」
「うふふ、ありがとう。」
「姉さま、大きくなったら、僕のお嫁さんになってくれる?」
「姉さまが?でも坊やが二十歳になったら、姉さまは二十六歳よ?それでも良いの?」
「良いよ!だって同じ『二十』がつくんだもの!」
「ふふふっ、本当ね!同じね!」
「そうだよ、同じだよ!!だから、約束だよ?絶対僕のお嫁さんになってね!」
「分かったわ、約束ね。」
細い小指と小指が紡ぐ、無邪気で神聖な約束。
露草の葉を輪にした指輪を交換し、誓いのキスを互いの額に与え合って、二人は笑った。
だが、子供の他愛ない遊び、結婚ごっこのつもりではない。
少なくとも少年は本気だった。
まだ少女より頭一つ分も低い背が、彼女を優しく包める程に伸びたなら。
紅いワンピースの少女の隣に、大人の男になった自分が寄り添う姿を想像して、少年が胸をときめかせた時だった。
「坊ちゃま、お嬢様!!そんな所にいらしたんですか!?」
屋敷の方向から、乳母が小走りでやって来た。
彼女は少年が生まれた頃からこの屋敷に居て、子供達の実質的な面倒をみている。
行儀や勉強には口やかましいが、気さくで人の好い彼女を、少年も少女も大層好いていた。
「あっ、ばあやだ!」
「見つかっちゃったわね。坊やにお勉強しなさいって言いに来たんだわ、きっと!」
「違うよ、姉さまにピアノのお稽古をしなさいって言いに来たんだよ!」
二人は互いの身体を突き出すように押し合って笑いながら、乳母が呼びに来た理由を推測しあった。
勉強もピアノのレッスンも、二人の嫌いな日課である。
そして、それをちょくちょくさぼって抜け出しては遊び転げて、こうして乳母に呼び戻されるのもまた日常茶飯事だったのだ。
「ああっ!ああやれやれ・・・・・!走ってきたら・・・・、息が切れて・・・・・!」
「あははっ、ばあやったら変なの!そんなに疲れるなら、走らなきゃいいのに!ねえ、姉さま?」
「うふふ、本当ね!ばあや、大丈夫?」
「え、ええ・・・・!だ、大丈夫ですとも・・・・・!こんなに素晴らしい日にね、ちょっと走ったぐらいで、疲れてなんか、いられませんよ・・・・・!」
乳母は途切れる息の合間にそう言った。
「どうしたの?何か良い事でもあったの?」
「ええええ、これが良い事でなくて何でしょう!さ、お嬢様、お屋敷へ戻りましょう。旦那様と奥様がお待ちです。」
「小父様と小母様が?なぜ?」
「お嬢様に大事なお話があるそうです。さ、早くいらして下さいな。」
「ほ〜ら、やっぱり姉さまだった。」
「こら!」
ふざける少年を笑って窘めて、少女は素直に乳母に従った。
「ああそれから坊ちゃまも!もうすぐ家庭教師の先生がお見えになる頃ですよ!お部屋にお戻りなさいまし!」
「まだやだよ!僕はもうちょっと遊んでるもん!」
「これ坊ちゃま!全くもう・・・・・・、本当にあと少しですよ?ばあやはこれからお嬢様をお連れしたり、お客様をおもてなししなければいけませんから、坊ちゃま、あと少ししたらお一人でお部屋に戻るんですよ?」
「分かってるよ!良いから早く行きなってば!」
乳母のふくよかな腰をぎゅっと押した少年は、そのまま跳ねるようにして更に庭の奥へと駆け出しかけて、不意に振り返った。
「姉さま!!また後で絶対に遊ぼうね!!」
「ええ!!すぐに戻って来るわ!」
「パパとママの御用が済んだら、絶対に戻って来てよ!約束だよ!!」
「分かったわ!じゃ、また後でね!!」
少年が見送る中、少女は笑って手を振り、乳母と共に屋敷へ戻って行った。
だが、少女が約束通り再び戻って来る事はなかった。
家庭教師がやって来て帰った後も。
夕食が終わった後も。
少女は少年の前に姿を現さなかった。
「姉さま、どうして・・・・・・・」
部屋に呼びに行く事も許されず、ドア越しに声を聞かせて貰う事すら出来ない。
少女が残した初夏の太陽のような笑顔と、鈴の音のような可憐な声だけが、待ちくたびれた少年の心にいつまでも残った。
それから三ヶ月程経ったある日、少女は本物の花嫁になった。
但し、少年のではなく、見知らぬ男性のだが。
立派な家柄と財産、端整な大人の男の風貌を持つ花婿は、少女より十も年上だった。
稚拙な露草の花冠の代わりに豪華なティアラとヴェールをつけ、裾を長く引く純白のドレスを纏った少女は、少年がどれだけ縋るような視線を送っても、俯いたままで決して目を合わせてくれる事はなかった。
誰もが笑顔で、誰もが幸せそうで。
色とりどりの花びらと共に祝福の言葉を生まれたての若い夫婦に投げる中、少年は一人、拳を握り締めた。
そう、それはとても良く晴れた日の事だった。
少年ユダと少女の、永遠の別離の日は。