サウザーは振り向きもせず、館を出て森に入り、木々の間を縫って歩いた。
はその後を、黙ってついて歩いた。
このまま山を下りて行くのだろうと、そう信じて疑わずに。
ところがサウザーは、思いのほか早く足を止めた。
「この道だ。ここを通って行くのだ。」
サウザーが指し示した道は、言われなければ道とは分からない程の狭い道だった。
「獣道だが、女狐には相応しかろう。」
サウザーは皮肉めいた笑みを一瞬浮かべてから、その道の向こうを指差した。
「ここをまっすぐ下れば麓に着く。丁度、迎えの兵士共が待機している所とは正反対の場所にな。」
「・・・・・・え?」
は少しの間、何を言われたのか理解出来ずにいた。
聖帝軍の兵士達が居るところとは正反対の場所に出る道を行けとは、一体どういう事なのだろうか。
サウザーの居城に連行されて、そこで処刑されるのではなかったのか。
それともまさか。
「あの・・・・・・・」
は戸惑いながら、その意図を確かめるつもりで、サウザーの顔を見上げた。
「早く行け。」
しかしサウザーは、ぞんざいに顎をしゃくって見せただけだった。
恐らく勘違いではない、どうやらサウザーは逃がしてくれようとしているらしい。
そう気付いたは、驚いてサウザーを見つめた。
「どうして・・・・・」
「よくよく考えてみれば、たかが女一人、大々的に処刑したところで、我が覇道にさしたる益もない。」
サウザーはの方をちらりとも見ようとせず、事も無げにそう答えた。
「本物の女神ならいざ知らず、何処の馬の骨とも知れぬ女に用はない。さっさと失せろ。」
その蔑むような物言いも、冷たく響く低い声も、正しく『聖帝』のもの。
だが、今、の目の前に居る男は、『聖帝』ではなかった。
サウザーは最早、の目には、冷酷無慈悲な暴君には見えなかった。
たとえどんな仮面を被ろうとも、その下の素顔は、本当のサウザーは、やはり昨夜の男なのだ。
は今、はっきりとそう悟っていた。
「私は・・・・・・、貴方に助けられてばかりですね・・・・・・・・。」
サウザーは、誰も聞いてはくれなかった心の声を聞いてくれた。
欺瞞に満ちた生き地獄から解き放ち、逃げてばかりだった自分に大切な事を気付かせてくれた。
それだけでも救われた思いだったのに、今また命までも。
死をもって償うべきものと思っていた己の罪を、生きて償う道を与えてくれた。
それなのに、何も返せない自分が恨めしい。
サウザーの深すぎる闇をどうすれば払えるのか、その術が見当たらない。
は歯痒い思いで、サウザーを見つめた。
「私ばかりが・・・・・・」
もう一度、今ここで、素顔を見せてくれたなら。
もう一度、昨夜のように求めてくれたなら。
そうしたら、せめて側を離れはしないのに。
その苦しみが少しでも和らぐのなら、自分に出来る事は何だってするのに。
だからどうか、もう一度。
は心の中でそう強く願いながら、サウザーの顔を見つめていた。
「・・・・・・・」
だがサウザーは、がどれ程乞うような眼差しを向けても、いつもの冷徹な表情を崩さなかった。
サウザーはに救いを求めようとはせず、の思いがサウザーに通じる事はなかった。
「・・・・せめてものお礼に、占いをさせて頂けませんか?」
何も求められてはいない。
してあげられる事も、何もない。
しかしそれでも、何かをしてあげたい。
出口のない闇の中で、独り彷徨い続けているサウザーの為に、せめて何かを。
その一心で、はサウザーに縋るようにそう申し出た。
「・・・・占い?」
「貴方が道に迷った時、私の占いが何かの役に立てるかも知れません。ほんのささやかなものでも、貴方のこれからの道標になれるかも・・・・・」
「要らん。どうせそれもデタラメのインチキ占いだろう。」
「でも、私の占いは・・・」
「たとえお前の占いが、お前の一族に代々伝わる霊験あらたかな占術だったとしても、俺は占いなど信じてはおらぬ。」
サウザーは、の話を遮った。
のせめてもの想いさえ、サウザーは遂に受け取ろうとはしなかった。
「それに、俺は道に迷う事などない。聖帝は、帝王の道をただひたすらに突き進んでいくだけだ。」
一片の迷いも感じさせないその毅然とした表情を見て、は言いようのない悲しさを覚えた。
「・・・・・そう・・・・ですか・・・・・・」
それは、これまでに味わってきたどんな悲しみとも違っていた。
なす術なく自分の気持ちを押し殺すのは慣れていた筈なのに、未知の痛みに心が酷く軋んだ。
「早く行け。俺の気が変わらん内にな。」
命じられるまま、はサウザーに教えられた道に足を踏み入れた。
そして、頼りない足取りで歩き始めた。
2歩、3歩と、ゆっくりと。
「・・・・・・・」
背中にサウザーの視線を感じる。
冷ややかな、しかし美しく澄んだあの青い瞳が、こちらを見ている。
「っ・・・・・・・・!」
は不意に、自分でも止められない程の強い衝動に突き動かされ、踵を返してサウザーのもとに駆け戻った。
そして、ほんの僅かに驚いたような顔をしているサウザーの胸に飛び込んだ。
「サウザー・・・・・・・!」
サウザーは、昨夜のようにを抱き締めはしなかった。
しかし、罵って突き放す事もしなかった。
ただ黙って、その胸でを受け止めていた。
昨夜と同じように温かい、その胸で。
― サウザー・・・・・・・
は暫し目を閉じてその温もりをしっかりと己の肌に刻みつけてから、サウザーから離れた。
「・・・・さよなら、サウザー・・・・・。どうか、どうか・・・・・・、お心安らかに・・・・・・」
は、サウザーの顔をまっすぐに見つめて、震える声で別れを告げた。
そして、サウザーの顔が完全に滲んでぼやけてしまわない内に、サウザーに背を向けて進み始めた。
しっかりとした足取りで、今度こそ決して振り返らずに。
の後ろ姿は、初めて出逢った時とはまるで別人のように凛としていた。
少しずつ遠ざかっていくその背中を見つめながら、サウザーは小さな声で呟いた。
「・・・・早く行ってしまえ、俺の気が変わらん内に・・・・・・・」
が胸に飛び込んで来た時、驚きと同時に、何とも言えない高揚感が心の中で湧き起った。
涙を浮かべた瞳を見た時、思いきり抱き締めて口付けてしまいたい衝動に駆られた。
何処へも行かせず、ずっと側に置いておきたい、そう思った。
そして、そんな自分を抑えるのが大変だった。
そう。
聖帝に愛は要らない。
帝王の星に目覚め、将星の宿命に生きると決めた時から、そう分かっていた事だ。
故に、これまで側に置いてきた女は皆、欲求を満たす道具としての妾だった。
しかし、を妾にして側に置けば、駄目だと分かっていても、またあの温もりを求めてしまう。
愛を、求めてしまう。
互いの心の奥深くを見せ合い、たとえ一時でも、何もかもを忘れて一人の男として通じ合ってしまったを、今更単なる性の捌け口とは見なせなかった。
そうかといって、を聖妃の座に祭り上げて、寵愛を注ぐ対象にする事も出来なかった。
聖帝には、愛も情も要らない。
聖帝が『聖帝』として在り続ける為には、愛や情を持ち合わせている様子など、微塵も感じさせてはならないのだ。
いや、たとえ帝王の星の下に生まれていなくても、それは変わらない。
たとえサウザーが只の男であったとしても、を愛する事は出来なかった。
誰かを愛すればその先に何が待っているか、サウザーはそれを良く知っていたからだ。
愛を求めれば求める程、その想いが強ければ強い程、失う時の悲しみは計り知れない。
だから、別れを選んだのだ。
聖帝が『帝王』で在り続け、将星の宿命に殉じる為に。
そして、『サウザー』という一人の男の為にも。
「・・・・さらばだ、・・・・・・・」
見えなくなっていくの後ろ姿に、サウザーは永遠の別れを告げた。
そして、に背を向けて歩き始めた。
「お帰りなさいませ!」
「うむ。」
麓に着くと、正規軍の兵士達が迎えの車と共に既に待機していた。
「留守の間、何事もなかったか?」
サウザーは車に乗り込みながら、部隊長に向かって形式的にそう尋ねた。
「は。何事もございませんでした。東部地区もこの2週間の間に完全に制圧し、既に全域を手中に治めております。」
「フン」
想定通りの報告を軽く聞き流し、サウザーは座席に深く腰掛けた。
その時、部隊長が再び口を開いた。
「ところで、その・・・・・・・、例のジプシーの件ですが・・・・・・」
その言葉を聞いて、サウザーの眉が僅かに動いた。
「・・・・・・例のジプシー?」
気のない素振りを装いながらも、その実、サウザーは内心、気が気でなかった。
見つかる事はまずないだろうと思っていたが、まさか捕まってしまったのだろうか、
そればかりか、よもや殺されてしまったのでは、と。
ところが、部隊長は明らかにおどおどした顔で、言い難そうに言葉を濁した。
「いえ、それがその・・・・」
「何だ?」
「もっ、申し訳ございません!八方手を尽くしてはおりますが、未だ捕えられず・・・・!!」
という事は、は無事だという事だ。
まだ山の中に居るのか、それとも山を下りて何処かへ行ってしまったかは分からないが、少なくとも自軍の手に捕らえられてはいないのなら、ひとまずは大丈夫だと言えよう。
地面に平伏する部隊長の頭を見下ろしながら、サウザーは思わず安堵していた。
「この2週間、総力を挙げて方々捜し回りましたが、どういう訳か見つからず、何処かで目撃したという情報すらも掴めず、最早何の手掛かりもない状態でして・・・・・・!」
見つからなくて当然だ。
聖帝軍の兵士達に、幾ら任務の為とはいえ、主君の聖地を踏み荒らせる訳がないのだから。
この2週間、恐らく全軍血眼で草の根を分けてを捜していただろうが、よもやここに居るとは考えもしなかったに違いあるまい。
ましてや、主君と同じ屋根の下で過ごしていたとは。
サウザーは一人密かに、笑いをかみ殺した。
「フン・・・・・・、何の手掛かりも、な。」
「は・・・・、はっ・・・・・・・!」
サウザーの胸中など知る由もない部隊長は、青ざめた顔を強張らせて震えていた。
いつその身が切り刻まれるかと怯えているのが、手に取るように分かる。
「・・・・なるほど。我が聖帝軍が総力を挙げて捜しても見つからんとなると、考えられるのはひとつしかないな。」
「・・・・と・・・・仰いますと・・・・・・・?」
「そやつはもう死んでいるのだろう。」
サウザーの言葉を聞いた部隊長は、ポカンと呆けた顔になった。
「天下に名だたる聖帝正規軍が、たかが人一人、捕えられぬ筈はない。もし出来ぬとしたら、それはこの世界には居らぬ者、つまりは亡者だ。違うか?」
「は・・・・、はい・・・・!ご、ご尤もで・・・・・!」
部隊長の青ざめた間抜け面が、みるみる生気を取り戻していく。
「目撃情報すらないのなら、何処かで人知れず死んでいるに違いあるまい。」
「きっ・・・、きっとそうでございましょうとも!何しろ、まるで最初から存在しなかったかの如く、忽然と消えてしまったのですから・・・・!」
心を閉ざし、人形のように虚ろだった女は、この地で消えた。
『ジプシー・クイーン』は、ここで死んだのだ。
あながち間違いではあるまい。
必死で同調してくる部隊長を見て、サウザーはまた笑いをかみ殺した。
「・・・・で、でしたらその・・・・・、この件は・・・・・?」
「如何に我が軍の兵士が精鋭揃いでも、あの世まで追いかけて死者を捕えて来られる者は居るまい。
この件はこれで終わりだ。あの女一人にこれ以上係っている暇はない。城へ帰るぞ、車を出せ。」
「ははぁっ!!」
殺されずに済んだ部隊長は、あからさまに安堵の表情を浮かべた。
が、次の瞬間、彼はふと怪訝な顔をして首を傾げた。
「・・・え?あの女?」
「・・・・・・」
「もっ、申し訳ございませんっ・・・・・!!」
サウザーが無言で一睨みすると、部隊長はまた青くなって、地面に額を擦りつけた。
無意識の内に発していた何気ない一言を捉えた鋭さには驚かされ、正直なところ一瞬焦りもしたが、しかし所詮は下僕。
主の顔色を伺う事が何より最優先の連中に、不躾に根掘り葉掘り詮索したり、命令を無視して勝手な行動を取る度胸はないだろう。
これでの事を口にする者はもう誰も居なくなるし、が追い回される事も、もう二度とない筈だ。
サウザーは小さく溜息を吐いてから、ふと故郷の地を仰ぎ見た。
― 、お前の言う通りだ・・・・・・・・
一時の安らぎは、それ以上の悲しみを、そして苦しみをもたらした。
しかしそれでも、オウガイに会いに来ずには居られなかった。
それが唯一の心の拠り所だったからだ。
たとえどれ程の苦悩に苛まれようとも、その一時の安らぎは抗い難い程に心地良く、
それはかつて得ていた本物の安らぎではない、身を引き裂かんばかりの苦しみを伴う麻薬のようなものだと分かってはいても、欲さずには居られなかった。
その苦しみごと、求めずには居られなかった。
だが、それもそろそろ潮時のようだ。
の言う通り、葬らねばならない。
尽きる事なきオウガイへの思慕の念を。
そして、自らの中に未だ確かに息づいている、愛と情を。
そう。
自らの中に残っている人としての心と、永遠に決別する時が来たのだ。
― さらばだ、・・・・・・・・
サウザーはひっそりと瞳を閉じて、己の胸に残っているの温もりを、今一度だけ思い起こした。
永遠に捨て去る前に、その温もりを、もう一度だけ。
そして、ゆっくりと目を開いた。
「・・・・そんな事より、貴様等にはこれから存分に働いて貰うぞ。」
「・・・・と仰いますと、・・・・・?」
「これより、この聖帝サウザー、一世一代の大業を成す。急ぎ帰城し、すぐさま全軍の将を集めよ。閣議を行う。」
「ははぁっ!!・・・・し、して、その大業とは一体・・・・・?」
聖帝の中に密かに息づいている愛と情を、サウザーという男を、葬るのだ。
愛を教えてくれた師父・オウガイに、殉じさせてやるのだ。
「・・・・墓だ。」
「は・・・、墓・・・・・ですか?」
「そうだ。この聖帝の墓を作る。」
その墓は、この世に二つとない偉大な陵墓となるであろう。
そして、それを完成させたその時こそ、聖帝は完全無欠の支配者となる。
将星こそが、ただ一つ、天に輝く極星となる。
「出立せよ!!」
前を見据えるサウザーの青い瞳には、もはや温もりはなかった。
そこに宿るのはただ一つ、非情な帝王の宿命のみだった。
砂煙の舞う道を、人々が忙しなく行き交っている。
誰もが今日食べる物にも事欠き、恐怖によって支配され、毎日を不安の中で生きている。
だがそこには、それでも必死で生きようとする人々の力が熱く脈動していた。
そんな町の片隅に、一人の若い女が居た。
その女は、深い紫色のストールを肩に羽織り、首から上と手首から下以外に肌の露出を許さない黒いワンピースを着て、古ぼけた木箱を机と椅子にして、タロット占いをしていた。
女の前には数人の客がささやかな列を成し、足元のズタ袋の中には、代価として受け取った僅かばかりの水や食料があった。
女は一人一人の話にしっかりと耳を傾け、カードを切った。
そして、迷い悩む彼らに道標を示した。
それは時には困難な道を指し示す事もあったが、女は一切の嘘偽りなく率直に、しかし決して無用に不安を煽らないようにそれを告げた。
「ありがとう。もう少し、諦めずに頑張ってみるよ。」
「何だか覚悟が決まった気がするわ。ありがとう。」
客達はそれを神妙に受け止め、幾らかさっぱりした表情で帰っていった。
ありがとう、女にそう言い残して。
そう。
彼らは女に救われていた。
彼らは女の占いに、己の直面している問題に立ち向かう何らかの糸口を、或いは一縷の希望を見出していた。
そして。
「・・・・お気をつけて。」
女の温かい微笑みに、安らぎを感じていた。
勿論、全ての者が救われる訳ではない。
むしろ、占いなど興味はないと、素通りする者の方が圧倒的に多い。
しかしそれでも、たとえほんの僅かでも、女は誰かを救いたかった。
縁あって立ち止まってくれる誰かを求めて果てのない旅路を行き、一人でも多くの者を救う。
それこそ、女が一生を捧げると決めた仕事だった。
いつ何処で果てようとも、命ある限り、誰かの為に。
それが女の望みであり、せめてもの罪滅ぼしであった。
そして、そうする事によって、同時に女自身も救われていたのだった。
「次の方。どうぞ。」
「ああ、宜しく頼むよ。」
最後の客が、いそいそと女の前に腰を下ろした。
その時だった。
「聖帝だぁー!!!聖帝が来たぞぉーー!!!」
一人の男が、こけつまろびつ往来を走って来た。
「聖帝・・・・!?」
「せっ、聖帝が来たぞ!」
「聖帝だ・・・・!」
聖帝、その言葉を聞いた民衆は途端に青ざめ、蜘蛛の子を散らすように道端に退いて平伏し始めた。
「・・・・・・聖帝・・・・・・?」
しかし女はただ一人、人々の流れに逆らうようにして、瞬く間に無人となった往来に進み出ようとした。
聖帝とは、あの男の事なのだろうか?
女はそれを確かめずには居られなかった。
「よせっ!」
「あっ・・・・・・・」
だが次の瞬間、女は最後の客だった男に腕を掴まれて、道端に引き戻されていた。
「何してるんだ!?もうすぐここを聖帝が通るんだぞ!!フラフラ出て行っちゃ駄目だ!!」
「一目、見たいのです。聖帝を。」
「しょ・・・正気かアンタ!?」
男は目を見開いて、女に詰め寄った。
「相手はあの聖帝だぞ!?見物のつもりでじろじろ見たりなんかしたら、間違いなく殺されるぞ!!」
「そんなつもりはありません。ただ私は・・・」
「アンタは聖帝って奴がどんなに恐ろしい男か知らないのか!?」
聖帝は冷酷無慈悲な暴君。
しかしそれは仮面に過ぎない。
その仮面の下に居る男は、誰よりも無垢な心で愛を求める男。
哀しいまでに愛の深い男なのだ。
「・・・・聖帝は、本当にそんなに恐ろしい人なのでしょうか・・・・・・」
「はぁ!?アンタ何言ってんだ!?聖帝十字陵の事を知らないのか!?」
「聖帝・・・・十字陵?」
その言葉に、女は聞き覚えがなかった。
すると男は、益々信じられないといった顔をした。
「アンタ本当に知らないのか!?呆れたぜ・・・・!!」
「すみません、世間の情報には疎くて・・・・・・」
女が済まなそうに目を伏せると、男は深い溜息をつき、女に説明を始めた。
「聖帝十字陵ってのは、聖帝が作っている巨大なピラミッドだ。」
「ピラミッド?一体、何の為に・・・・?」
「よく知らないが、多分、権力の象徴か何かのつもりなんだろう。だけど問題なのは、そいつを作る為の労働力として、聖帝があちこちから多くの子供を攫ってるって事なんだよ。」
「子供を・・・・・!?」
女は愕然とした。
いたいけな子供を無理やり攫って、そんな過酷な労働を強いているのだろうか。
あの男が、本当に。
「聖帝は元から悪名高い男だったけど、聖帝十字陵を作り始めてからは、益々非道ぶりに磨きがかかってる。アンタ、何のつもりか知らないけど、酔狂な事を考えるのはやめるんだ。」
「そんな・・・・・・・・」
「少しでも妙な動きをしたら、聖帝軍の兵士にたちまち殺される。聖帝が通り過ぎるまで、大人しく土下座してるんだ。さあ、早く・・・・!」
「あっ・・・・・・!」
女が突き飛ばされるようにしてその場に膝をつくや否や、聖帝軍が凄まじい砂煙を立てて行進してくるのが、往来の向こうに見え始めた。
間一髪、女は死を免れたのである。
「さがれさがれ!道をあけろ〜!聖帝様がお通りになるぞ〜!」
火炎放射器を抱えた兵士を先頭に、聖帝軍が往来の真ん中をゆっくりと通過していく。
「聖帝様のお通りを邪魔する汚物は消毒だ〜!這い蹲れ!土下座しろ〜!消毒されてぇか〜!」
道端に並び、小さく蹲って平伏している人々を威嚇するように、火炎放射器が炎を吐く。
人々は地面に着く程深々と下げた頭の下で、恐怖に顔を強張らせ、怒りに歯を食い縛っている。
男は車上からそんな光景を悠々と眺めていた。
とその時、男は前方の道端に、何処かで見た事のあるような姿を見つけた。
黒いワンピースに深紫のストールを纏った、女の姿を。
その女は、男の乗っている車が近付いてくると、下げていた頭を少しだけ上げた。
見上げてくるその瞳を見た瞬間、男は思わずハッとした。
あの女だった。
「・・・・・・・・」
目が合った瞬間、女は何かを呟くように小さく唇を動かした。
男の名を呼んだように見えた。
ただ一人、聖帝の素顔を知る女。
ただ一人、男がその心を預けた女。
もう随分前の、たとえほんの一時の事でも、男はまだ忘れてはいなかった。
― ・・・・・・・・
女は――――は、僅かに潤んだ瞳をまっすぐ男に向けていた。
そして、何か言いたげな表情をしていた。
もしも話が出来るなら、どんな言葉が聞けるだろうか。
恐怖と暴力で人を支配するのはやめて欲しいと訴えるだろうか。
それとも、生命の重さや人の道を、涙ながらに切々と説くだろうか。
それとも・・・・・
「・・・・・・フッ」
男は少し考えてから、無駄な事だとやめた。
男は――――サウザーは、『聖帝』だった。
あの時サウザーは、聖帝として生きる道を選び、に別れを告げた。
自身の中の愛と共に、永遠に決別した。
それで良い、そのままで良いのだ。
「・・・・・・」
サウザーはの瞳を見つめ返し、唇の端を僅かに吊り上げた。
瞳を潤ませているに向かって、不敵に笑って見せた。
の前を通り過ぎていくまでの、ほんの一瞬の間だけ。
「・・・・さがれさがれぇ〜!道をあけろ〜!」
サウザーの乗った車がの前を通り過ぎた瞬間、重なり合っていた二人の視線は断ち切られた。
二人が見つめ合っていた事に気付いた者も、誰も居ないようだった。
誰も気付く筈もなかっただろう。
大軍を率いて威風堂々行進する聖帝と、道端で平伏している一人の女が、たった一夜とはいえ、人知れず結ばれて温もりを求め合った事があったなどとは。
『ジプシー・クイーン』の呪縛から解き放たれ、普通の女に生まれ変わったには、これからそれに相応しい未来が訪れるだろう。
そしてサウザーには、将星の宿命が導く、『聖帝』としての未来が。
サウザーはサウザーの、はの、お互いそれぞれの道を行くのだ。
その道は決して交わらず、もう二度と二人が出逢う事はないだろう。
今日のような偶然も、恐らくもう二度と。
「さがれさがれぇ〜!聖帝様のお通りだぁ〜!」
サウザーは決して振り返る事なく、前方に広がる荒野に向かってまっすぐに突き進んでいった。
聖帝十字陵へと続く道を。
帝王の道を。
それだけを、ただまっすぐに見据えて。
やがて聖帝の行列が通り過ぎ、人々を縛りつけていた緊張が解けると、町はいつもの活気を取り戻し、の姿は行き交う人々の波にたちまち呑み込まれて紛れていった。
そして、荒野を行くサウザーの姿もまた、吹き荒ぶ砂嵐の中に掻き消えていった。