今日もようやく一日が終わった。
眠る前の僅かな余暇は、シュウにとって唯一心休まる一時である。
その時間を私室で一人過ごす事を、シュウは好んでいた。
「父さん!」
突然開いたドアから、シバが嬉しそうに駆け込んで来る。
他人の目がある所では年齢以上に大人びた振舞いをする少年だが、やはりまだ子供。
父の前でだけは、年相応の無邪気な少年に戻る。
まだ年端もいかぬうちから顔を使い分ける事を心得ている息子を不憫に思いつつも、シュウはそんな彼を誇らしく感じていた。
「どうした、シバ?騒々しいぞ。」
苦笑と共に迎え入れてやると、シバは嬉しそうにある物を差し出した。
その気配は分かるが、見る事は出来ない。
この目は光を失って久しい。
だから、代わりに手でそれを探る。
薄く柔らかな手触りで仄かな香りがするそれは、結局何なのか分からず、シュウは素直に尋ねた。
「何だこれは?」
「花だよ。秋桜の花!今日助けた村にいっぱい咲いていたから、少し分けて貰ったんだ!」
「そうか、良かったな。花など今の時代には滅多にお目に掛かれないからな。」
「でしょう?だから貰ったんだ。きっと父さんも喜んでくれると思って。」
なるほど、言われてみれば確かに花である。
缶のようなものに植えられた一株の秋桜を、シュウはもう一度そっと触れた。
「秋桜か。思い出すな・・・・・」
まだ多くの花が咲き誇っていた頃。
そして、この目がまだ光を感じていた頃の事を・・・・・
「はッ!!」
「であぁッ!!」
拳と脚が激しくぶつかり合う。
互いにそのままの姿勢で、微動だに出来ない。
どうやら勝負は引き分けのようだ。
「・・・・どうやらここまでだな。」
青い髪に、それより少し濃い色の思慮深そうな瞳をした青年は、ゆっくりと脚を下ろして闘気を消した。
彼こそが、まだ若かりし頃のシュウその人である。
「フン、つまらん。」
相手をしていた短い金髪の精悍な青年は、退屈そうに呟いて拳を収めた。
「何故だ、サウザー?良い試合だったと思うが。」
「俺は貴様を殺す気でかかった。なのにこれからという所で手を引きおって。」
「フッ、全く血の気が多い奴だな。鍛錬の度に命を狙われては堪らんぞ。それに、南斗六聖同士で殺し合うなど悪い冗談だ。」
「だから貴様は腰抜けだと言うのだ。せいぜい鍛錬に精を出す事だな。」
脱ぎ捨てていた上着を拾って、サウザーは颯爽と去って行った。
その自信に満ち満ちた足取りを苦笑で見送った後、シュウも鍛錬場を去ろうとした。
が、その時。
「シュウ様!」
この耳が確かならば、背後から聞こえた甘ったるい声は、自分の苦手なものである筈だ。
だが振り返らない訳にはいかない。
シュウは小さく溜息をつくと、ゆっくりと振り返った。
「エリザ殿・・・・」
己の耳が確かだった事を恨みながら、シュウはまた溜息をついた。
だが彼女はそんな事などお構いなしに、シュウの元へと駆け寄って来る。
「まあ、いつまでも他人行儀ですこと。エリザと呼んで下さって結構ですのよ。」
「そういう訳には参りません。」
「あらどうして?私達許婚ですのに。」
彼女の言葉は真実ではないが、かといってまるっきりの嘘でもない。
彼女の父親が、娘の気持ちと自分の都合だけを優先して勝手に取り決めた事なのである。
「とんでもない。まだまだ私など・・・」
「そんな事!晴れて南斗白鷺拳の伝承者となられた今、父も一刻も早い祝言を望んでおりますのよ。」
シュウは類稀な才能を持ってはいるが、出身は平凡な家の出である。
それに比べて彼女の家柄は南斗宗家にごく近い血筋で、この縁談はシュウにとって又とない出世の機会なのだ。
しかし、生憎とシュウはそんなものに興味はなかった。
それにこのエリザという女性。
シュウは彼女が苦手だった。
確かに美しく教養もあり、かつ良家の令嬢という、三拍子揃った完璧な女性ではあるのだが、彼女はそれを自覚している。
平たく言えば、己の美貌と才知と家柄を誇り、己の意のままにならないものなどないと信じている。
その性分が、シュウにはどうしても受け入れられなかった。
「さあ、今日こそは私に付き合って貰いますわよ!」
「・・・・・ではせめて、汗を流して着替えたいのですが。」
観念したようにそう告げると、エリザは満足そうに微笑んだ。
「結構ですわね。立派に装った貴方と出掛けるのは楽しみだわ。では後ほど。」
「はい。」
颯爽と出て行くエリザの姿が消えるまで見送った後、シュウは足早に鍛錬場を出た。
そう、彼女との約束を守るつもりはなかったのである。
「ふぅ、やれやれ・・・・」
道場からほど近い町まで出て来たシュウは、そこで大きく深呼吸をした。
初秋の爽やかな空気が、身体全体に染み渡るようだ。
シュウはようやく安堵感に包まれていた。
エリザから上手く逃げおおせる事が出来た事もあるが、シュウはこの町が好きだった。
特に用などなくても、時間が出来ると足を運んでいる。
お陰で、この町の地理はすっかり頭に入っていた。
店先に並べられた品を眺めながら、シュウはゆっくりと歩く。
「さて、今日はどこへ行こうか・・・・」
美味そうな食料を買い込むのも良し、道具屋を冷やかすも良し。
鍛錬の後で腹も空いているから、先に飯を食おうか。
取りとめもない考えを馳せながら歩いていたその時、不意に大きな声が聞こえて来た。
「そんな!あんまりだわ!!」
「何と言われても、駄目なものは駄目なんだ!!」
「急に酷いじゃない!!これじゃ今までの半分以下だわ!!」
どうやら、中年らしい男と若い女が言い争いをしているようだ。
すぐ目の前の角を曲がった所から聞こえている。
この角を曲がった所といえば、確か酒場だった筈だ。
気になったシュウは、急いで角を曲がった。
その瞬間。
「それで文句があるならもう要らねえよ!!こっちだって今までのよしみで出来るだけ義理立てしてやってんのに!!」
「あっっ!!」
開け放たれた酒場のドアから、突然色とりどりの花が飛び出して来た。
呆気に取られる光景である。
「何だ、一体・・・・」
取り敢えず屈み込んでそれを拾い集めていると、今度は若い女が飛び出して来た。
「酷い、何て事するの!!分かったわよ、もういいわ!こっちからお断りよ!!」
「うわっ!」
「きゃっ!」
捨て台詞を吐きながら勢い良く飛び出して来た彼女には、シュウの姿が目に入らなかったらしい。
そして気付いた時には既に遅く、二人は勢い良くぶつかっていた。
と言っても、華奢な女性にぶつかられてシュウがどうにかなる訳がなく、派手に転んだのはその女性の方であった。
「いったぁい・・・・・」
「だっ、大丈夫か!?」
シュウは慌てて彼女を助け起こした。
服に付いた砂を払ってやり、腕や脚などをちらりと見やる。
― 良かった、怪我はないようだな。
「済まない、大丈夫か?」
「え、ええ・・・・・」
「これ、君のだろう?」
「あ・・・・」
シュウが差し出した花束を、女性は一瞬目を丸くして受け取った。
「・・・・もしかして、これ拾ってくれてたの?」
「ああ、まあ、そんな所だ。」
「ありがとう・・・・」
「いや。それより、どこか痛む所はないか?」
「ええ、大丈夫よ。こっちこそごめんなさい。それじゃ。」
彼女は曖昧に笑うと、手に持っていた籠に受け取った花を入れて立ち上がった。
そしてそのままシュウに背を向けて歩き始めた。
今思えば、あれが運命だったのだろう。
「・・・・ま、待ってくれ、君!!」
そう、通りすがりの女を呼び止めた事など、それまでのシュウには一度もなかったのだから。