胸が痛い。
十字に刻まれたこの胸の傷のせいではなく。
狂おしいまでのお前への想いが、俺の胸を引き裂く。
ユリア。
愛しいユリア。
俺が欲しかったものはただ一つ。
ユリア、お前の・・・・・・・・・・・
お前の・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・・・・・・っ、うぅ・・・・・、痛っ、何か痛いぞ・・・・・・」
薄らと目を開けたシンは、胸を押さえてヨロヨロと立ち上がった。
その胸には、大きな拳の痕が十字架の形に付いている。
いや、付いているなどと生優しいものではない。ベッコリと窪んでいるではないか。
シンは、服の上からでもはっきりと見て取れるその窪みを忌々しげに見つめた。
「あの野郎、思いきりやりやがったな・・・・・・」
途端に、この傷を付けた男・ケンシロウの顔が思い浮かぶ。
幼い頃からの腐れ縁で、一応は友というポジションにいた男だ。
確かに、友と言えば友だったかも知れない。
奴とは確かに因縁深い関係だった。
一緒に拳を学び、
同じ釜の飯を食い、
そして・・・・・・・・・、
よりによって、同じ女にベタ惚れときたものだ。
「なーにが友だ!違うぞ違うぞ、断じて違う!!
フン、何が『お前の紋章を抱いて死ね』だ!クソッ、思い出したらまた腹が立ってきた!今から戻ってもう一度ブチ殺してや・・・」
そこまで怒鳴ってから、シンははたと気付いた。
見慣れぬ景色だが、ここは何処なのだろう?
まるで絵に描いたような野原が何処までも広がっている。こんな場所は見覚えがない。
それに。
「戻るも何も、俺は確か・・・・・・・」
そう。
死んだ筈なのだ。
ケンシロウとの闘いに破れ、自ら命を絶ったのだ。
ユリアが身投げしたあの場所から、同じように身を投じて。
「お帰りなさい。」
「!」
その時、不意に背後から誰かの声がして、シンは驚きながら振り返った。
その声の主は若い女、羽衣のような不思議な服を着た、長い髪の女だった。
シンは暫し、その女を鋭い目で見つめた。
しかし女は、シンの探るような眼差しにも全く動じず、穏やかな微笑を浮かべているばかりである。
その微笑は、まるで我が子を見つめる母のように、柔らかく慈悲深かった。
「お前は誰だ?それに、『お帰りなさい』とはどういう事だ?俺はこんな場所など知らんぞ。」
「私は。人は私を愛と幸福の使者・エンジェルと呼びます。」
「エンジェル・・・・・、天使だと?」
シンは少し驚いた表情を浮かべたが、やがて気を取り直すと冷たく鼻を鳴らした。
「フン、馬鹿な。神も仏も天使も悪魔も、この世に存在するものか。そんなものは全て空想の産物だ。幽霊や宇宙人と同じだ。」
「でも私は、ここにこうして存在しています。それに、ここは『この世』ではありません。人が『あの世』と呼ぶ場所です。」
「な・・・・・・」
今度こそ本当に驚いているシンに、と名乗ったエンジェルは穏やかに微笑みかけた。
「ここはクロス・タウン。『この世』と『あの世』の境目にある小さな村です。」
「・・・・・・・すると何か?お前が天使なら、ここは天国という訳か?ハッ、この俺が天国に来られたというのか?数多の人間を血祭りに上げてきたこのKINGが?」
「いいえ、ここは天国でも、また地獄でもありません。」
「・・・・・・何だと?」
「ここは只の通り道。人は死ぬと、皆ここを通って『裁きの門』へと向かいます。死者はその中で裁きを受けてから、天国か地獄へと送られるのです。そして、人は生まれる時にもまた、ここを通って下界へと下りていきます。つまり天国と地獄の分かれ道、『この世』と『あの世』が交差する道なのです。」
「この世と、あの世・・・・」
「だから貴方は、以前にも確かにここを通った事があるのですよ。ただ覚えていらっしゃらないだけで。」
シンは唖然としながらも、に尋ねた。
「し、しかし、誰もが通るという割には、人っ子一人いないではないか。」
「ここは誰もが通りますが、誰にでも来られる場所ではありません。」
「どういう事だ?」
「このクロス・タウンが見えるのは、何か余程強い思いを抱いて死んだ者だけ。他の者には石が転がった只の道にしか見えません。そして私は、この村の店長・です。」
「・・・・・・」
黙り込んでしまったシンに、はもう一度微笑んで言った。
お帰りなさい、と。
何が何だかさっぱり分からない。
しかし、これは紛れもなく現実のようだ。
クロス・タウンという、天国と地獄の分かれ道に、自分は今、立たされている。
それは認めなければならない。
「・・・・・・良かろう。そうだとして、だ。一つ訊きたい事がある。」
「何でしょう?」
シンは疲れたように瞳を閉じて眉根を2・3度揉むと、訝しげに尋ねた。
「クロス・『タウン』なのに何故『村』なんだ?それから、この村の『店長』って何だ?普通は『村長』じゃないのか?」
「いきなりツッコミ2連発ですか。ふふっ、『一つ』訊きたい事があると仰ったのに。」
「やかましい!良いからさっさと答えろ!」
シンに怒鳴られたは、それでも全く動じずニコニコしたまま答えた。
「いえ、別に深い意味はないのです。ここは実質、町という程広い場所ではありませんから。店長は私の肩書きです。実は、ついこの間まではヒラ天使だったのですが、先代のここの店長が昨年度末で定年退職なさいまして、今年度から昇進出来たのです。」
「ヒラだの定年退職だの、会社かここは。」
「あら、こちら側の世界も完全縦社会ですのよ。ちなみに、裁きの門の向こうで死者を裁く人、人からは『閻魔様』などと呼ばれている方ですが、あの方の肩書きはジェネラル・マネージャーです。」
「ほーう。」
「お悩みは解決しましたか?」
「悩みという程のものでもない、果てしなくどうでも良い疑問だったが、一応は解決した。」
「それは良うございました。さて、それでは。」
一体何処から取り出したのか、は分厚いファイルをよっこらしょと取り出した。
重厚な感じのする表紙には、それに不釣合いな呑気な字で、『のマル秘☆ファイル』などと書いてある。
は、相変わらずニコニコと笑いながらそれを捲り始めた。
「えーと、えーと・・・・・・」
「おい、そのやたら分厚いファイルは何だ?」
「これですか?これはですね、えーと・・・・・・・」
シンの質問に生返事を返しながら、はペラペラとページを捲っている。
視線は勿論ファイルに釘付けで、どうやらページを繰るのに必死になっていて、シンの質問に答える余裕はないらしい。
だが数秒後、『あった♪』と嬉しそうな声を上げてシンを見た。
「これはですね、全人類のあらゆるデータが記されたファイルです。」
「ほーう。」
「一時間毎にバッチ処理が走って、最新の情報に更新されるのです。凄いでしょう!」
「ほーう。」
「そして勿論、社外秘です。」
「ほーう。」
「最初に断っておきますが、絶対お見せ出来ませんからね。」
「別に興味もないわ。」
は、冷めた表情のシンをじっと見上げて言った。
「そうですか?・・・・・そうですか。彼女・・・、ユリア、と言いましたか、彼女が今何をしているかにも興味がない、と。」
「何っ!?」
「そうですか、ああそうですか〜」
「おいっ、それを寄越せ!!」
は、突如目の色を変えてファイルをひったくろうとするシンをヒラリとかわした。
何度試しても、ヒラリヒラリとかわし続けた。
どこからどう見てもおよそ強そうに見えないこのという女に、仮にも南斗孤鷲拳の伝承者が全く敵わない、この事実はシンを酷く苛立たせた。
「クソッ、寄越せというに!!」
「駄目です。社外秘だと申しましたでしょう?」
「やかましい!何が社外秘だ!!そんな事俺の知った事か!!俺はユリアが・・・」
「分かっています。その話は後で。」
「・・・・・・・・何?」
シンは、ファイルをひったくろうとする手を引っ込めた。
この、何をどこまで知っているのだろう?
そもそも、何の為にここに居て、何をする為に声を掛けて来たのだろう?
今更ながらにの得体の知れなさを感じて、シンはひとまずが口を開くのを大人しく待った。
が何者なのか、どんな目的を持って近付いて来たのかを探る為に。
やがて、は静かに話し始めた。
「シン。貴方の名はシン。そうですね?」
「・・・・・・・ああそうだ。」
「では、まず初めに、幾つか確認させて下さい。えー、まず名前はシン、と。これはOK。」
「・・・・・・・・何?」
呆気に取られているシンの前で、は真剣な顔でファイルを読み上げ始めた。
「次。性別。性別は男性。間違いありませんか?」
「あるわけないだろう!見れば分かる事を一々訊くな!」
「はい、次。享年2X歳。これも間違いありませんか?」
「ない!」
「職業・南斗孤鷲拳伝承者。肩書き・KING、と。あらあら、随分残虐非道の限りを尽くして来られたようですね。ふふふ、かなりやんちゃして来られたようで。」
「何だその『やんちゃ』って!人をそこらの悪ガキのように言うな!」
「ちなみに、幽霊や宇宙人は信じない派、で宜しいですね?」
「それは何の確認なんだ!?!?」
「いえ、たった今しがた貴方の口から直接仕入れた情報で、まだこのファイルには更新されていないものですから。」
「だからそれが一体何だと言うんだ!?」
「さて、確認は終わりました。それでは早速本題に入りましょう。」
シンのツッコミを聞き流して、はファイルをまたいずこかへ仕舞い込んだ。
そして、シンの顔をまっすぐに見つめて言った。
「私が、貴方の胸の中に燻っている強い思いを昇華させて差し上げます。」
と。
胸の中に燻っている思いを昇華させる。
そんな事が本当に出来るのか?
一体どうやって?
一体何の為に?
そんなシンの疑問を全て分かっているかのように、は微笑んで言った。
「強すぎる思いを残したままだと、人は次のステップへ進めません。今の貴方の人生を完結させる為に、その胸の中の思いは邪魔なのです。」
「邪魔・・・・・だと?」
「転生の足枷になるのです。強すぎる思いが、輪廻の輪に入ろうとするのを邪魔するのです。」
それを聞いたシンは、ふと自嘲めいた笑みを浮かべて言った。
「・・・・だったら俺には関係ない。どうせ俺は地獄行きだ。生まれ変わるつもりなど元よりないが、地獄に落ちた亡者は、未来永劫そこで苦しみ続けるのだろう?」
「いいえ。確かに長い時間、地獄の責め苦に耐えねばなりませんが、お上にもお慈悲はあります。刑期を終えると出所出来ますから、そうなれば生まれ変わる事が出来ます。勿論、お勤めを頑張れば、実際の刑期よりもっと早く仮出所出来る事も・・・」
「地獄はムショか。・・・・・まぁ、そのようなものか。」
自分で入れたツッコミを自分で完結させておいて、シンは不意に真顔で呟いた。
「・・・・・・そんな事はどうでも良い。たとえどうなろうとも、俺はユリアを忘れる事など出来ん。ユリアへの想いを断ち切る事など・・・・・」
「・・・・・・・・そう仰ると思っていました。」
「・・・・・・・」
「だから貴方は、ここに来たのです。ここで、その想いに決着をつける為に。」
「・・・・・・・・一体どうやってつけろというのだ。」
そう。
自分はもう死んだ。
もう二度と、ユリアに触れる事は出来ない。
たとえ地獄に落ちようとも、たとえ魂を砕かれて何も分からなくなっても、
唯一残ったこの想いだけを大事に抱いて、永遠に、永遠に、ユリアを愛し続けよう。
そう考えていたのに。
「・・・・・大丈夫。私がお手伝いしますから。」
「っ・・・・・・・」
不意にが、シンの手にそっと触れた。
その細い指先から伝わってくる温もりは、愛した彼女のそれと良く似ていた。