すっかり夜も暮れた放課後、果歩たちオカルトサークルの面々は帰路に着こうとしていた。

薄手のジャケットでは、もう寒さを抑えることはできない。足の先や指の先、耳といった先端から冷えて、鈍い痛みが広がっている。

「あっ」

スクールバスに向かう途中で、果歩が大きな声を上げて思い出した。ごそごそと肩にかけていた大きなバッグを漁る。

「どうしたの?」

部員の女の子が果歩の顔を覗き込む。

「忘れ物した。明日のゼミの発表で使う資料!」

いくらバッグの中を探しても見つからない資料。同時に、最後にその資料を見た場面を思い出す。

果歩は今日、昼からの授業だ。最初から順に思い出す。会合の後に受けた三限目にはあった。四限目、あった。五限目、ない。四限目の授業で机の下にファイルを置いたのだ。きっとそのまま忘れたのだろう。

「ごめん、取ってくる」

「待ってるよ」

「いいよ、俺がいるから。みんな、先に帰って」

祥太郎にそう言われ、部員たちは二人に別れを告げてスクールバスに向かう。

「祥太郎も、先に帰って……」

「いいの。俺、果歩と帰りたいから」

すまない気持ちで言った果歩を、祥太郎は真っ向から否定した。照れくさくて、果歩もその後を告げることはできない。

「じゃあ、バス停で待ってて。急いで行くから」

「わかった。待ってる」

そう言って、果歩は全速力で走り出した。こう見えても、果歩は高校時代バスケ部だったのだ。体力には自信がある。

忘れ物をしたのは七号棟だ。正門から七番目の位置にある建物である。いた場所は二号棟付近だったが、それでも少し距離があった。けれど、祥太郎を待たせないためにも果歩は全力で走る。

冷たい風を切り裂く。人通りの少ない道に、ローヒールのブーツの音がやけに響いている。枯葉の舞う音や、下校する学生の声を置き去りにただ真っ直ぐと走った。寒いはずなのに体の内側が熱を帯びていく。弾んだ息が白く空気に浮かぶ。

目的の教室は四階だ。この棟にはエレベーターなどの便利な機能があるわけではない。なので、地道に階段を使わなくてはいけない。いくら体力に自信がっても、この階段を一気に駆け上ることは無理だ。腰が痛む。

呼吸を乱しながら四階に上がる。息を整えていると、薄暗い静寂の闇の中から微かな旋律が届いた。

果歩は誘われるように音のする方へと歩いていた。まるで蝶が甘い蜜に誘われるように。

 近づけば近づくほど大きく確かになる音色。美しい調和と、優美な旋律。どこか物悲しい音楽。クラシックに疎い果歩ですら知っている有名な曲。

 ショパンの幻想即興曲。

 聞こえてくる教室は、偶然にも果歩の目指していた教室だった。児童教育学の授業で使われているこの部屋には、大きなグランドピアノが置かれている。保育士を目指す果歩にとっても、ピアノは必須だ。といっても、そんなに難しい曲が弾けなくてはならないというわけでもない。授業でも、こんな難しい曲を弾くことはなかった。せいぜい、童謡や子供向けのメロディーが簡単なものだ。

 果歩には分かっていた。こんな時間に、いったい誰が弾いているのか。

 ふと、思い出す。祥太郎に出会う、少し前のことを。

 燃えるような朱色の夕日に染まった教室の中で、同じように幻想即興曲を弾いていた。沈んでいく夕日と、夜の色との混ざり合った不思議な時間。黄昏時という言葉が本当に正しかった。夕日のせいでぼやけた輪郭は、誰とも見分けがつかない。たまたまこの教室の前を通りかかった果歩の心を捕らえるには、十分な幻想だった。

 ドア窓から教室の中を窺う。薄暗い部屋の中、照明は一つしか点けられていない。グランドピアノの上のスポットライト。光量はぎりぎりまで絞られている。窓の外の細い月明かりを背負うように、人影はピアノを奏でていた。

 佐藤英司。

 心の中で誰にでもなく語りかける。

 突然、演奏が止まった。まだ曲の中盤だったのに。

「果歩ちゃん」

 静かな声音で、突然名を呼ばれた。

 予期せぬことに体が震えた。思わず息を呑んで、果歩は手にかけたドアノブから手を離す。

 ドアが、内側からゆっくりと開かれた。どうすることもできずに、果歩は体を硬直させてそれを見守った。中から英司が現れる。視線が、合う。

「忘れ物、しただろ?」

「え。あ、はい……」

「机の上、置いといたから。気をつけなよ」

 そう言うと、英司はさっさと教室の中に戻っていった。

 英司の態度は普通だ。拍子抜けするくらいに。緊張していたことが馬鹿みたいで、果歩は顔が熱くなる思いだった。

果歩は小さくなりながら教室に入ると、机の上に置かれたファイルを手にとって確認する。中身もなくなってはいない。安心すると同時に、ドアを開けてくれるくらいなら、ファイルも持ってきてくれればいいのにと、英司を恨めしく思った。

それにしても。果歩は思った。なぜ教室に来たのが果歩だとすぐ分かったのか。確かに、ファイルには果歩の名前の入ったレポートなどが入っているから、来るかもしれないと予想はつく。けれど、今来たのが果歩だと確証が持てるはずなどない。ほかの誰かかもしれないのだ。

「足音」

「……は?」

英司の言葉に、果歩は間抜けな返事をした。

「果歩ちゃんの足音が聞こえたから」

ぽつんと、独り言のように英司は呟く。小さい声なのに、その声は木々のざわめきに消されることもなく果歩の耳に届いた。

目と目が合う。

全てを見透かすような、英司の黒い瞳。その意味を理解し、果歩の頭に一気に血が上る。

「英司先輩」

奥歯をかみ締め、果歩は日ごろの思いをぶつけた。

もうからかわれることも、あの冷ややかな目で見られることも限界だった。心が悲鳴を上げていた。もう耐えられない、と。

「私のこと、見てますよね」

疑問でもなければ確認でもない。単なる事実であるという意味で果歩は言った。

目は逸らさない。逸らさせない。

ぶつかり合う熱。

跳ね上がる心拍数。整えたはずの呼吸が、興奮でまた弾んでいく。手には緊張のせいでじんわりと汗をかいている。

どれくらいの時間、沈黙が続いたのかは分からない。長いのか短いのか、それすらも曖昧な時間感覚の中で、二人は影のように立ち尽くしていた。

不意に、英司が動いた。

「視線が合うってどういう意味か、知ってる?」

「先輩。私、今そういうことを言ってるんじゃないんですけど」

「知ってる?」

果歩の言葉など聴く耳持たず、英司は繰り返す。その語尾が有無を言わさぬ勢いで、果歩は気圧された。

緯線はやはり外さず、果歩は渋々と答える。視線を外せば負けだ。なぜかそう思う。

「いえ……知りません…」

「そうか……」

含みのある音色でそう囁くと、英司は嘲笑った。

ぞわり、と嘉穂の背中が粟立つ。

目が離せなかった。

それほどまでに、英司の微笑は美しかった。

月明かりを浴びて笑む英司は、今までに見たこともない表情で果歩を見ている。いつものような冷たい視線ではない。逆光のせいで暗く影の落ちた顔に、瞳だけが妖しい色で光っている。それなのに、どこか優しい。矛盾した色を帯びている。

果歩は初めて英司を恐ろしいと感じた。いままで視線を感じても、一度も恐ろしいとは思わなかったのに。戦慄するほどの恐怖。

足が震えた。瞳が震えた。心臓が震えた。

けれどその瞳に見つめられ、果歩は言いようもない切なさに襲われた。なぜだかは分からない。泣きたいくらいに苦しいのだ。

初めて味わう感覚。初めて知る感情。初めて見る自分。

目の前にいる男が分からなくなった。いや、本当は何一つ知らなかったのだ。知っているのだと、勝手に思い込んでいただけで。

英司が弾いていた曲を思い出す。幻想即興曲。本当に、幻想なのかもしれない。全てが。

無造作に、英司の指先が首筋に触れた。果歩が気付いたのは、その指先が恐ろしく冷たくて、身震いしてからだ。

「せっ、せん…ぱ……」

掠れた震える声で果歩が呼ぶ。喉がひどく渇いていた。緊張と恐怖のせいだ。

首筋に触れていた指が、這うようにゆっくりと降りていく。指が動くたびに新たな刺激が加えられ、身体が反応する。

指が、鎖骨の少し下で止まる。じんわりと果歩の熱を奪うように。

今日の果歩の服は、白の薄手のニットだ。鎖骨の辺りまで大きく開いた襟のデザインである。微妙に服の下に隠れたその位置で、指は動かない。

「夕べの、跡?」

「え?」

言われたことが分からず、果歩は眉根を顰める。

「昨日、祥太郎と一緒だったんだろう?」

祥太郎。

その一言で、果歩は意識を引き戻した。

「やめてください!」

英司の手を強引に振り払う。

触られていた部分にあるものを思い出し、果歩の顔は羞恥に染まる。同時に、怒りで頭が爆発しそうだった。上目遣いに睨み付ける。

堪りかねたように、英司が笑い出す。静か過ぎた教室に、英司の笑い声がこだまする。

「ほんと、果歩ちゃんってからかいがいあるね」

「なんなんですか、あなたは!」

からかわれた。また、からかわれた。英司への腹立たしさと、自分への憤りで顔から火が出そうだ。

怒鳴れば怒鳴るほど、果歩の行為が可笑しいのか、英司は身体をくねらせて爆笑した。

果歩は机の上に置いていた荷物を乱雑に集めると、抱えて踵を返す。こんなにも気分の悪い場所から、さっさと逃げ出したかった。

「果歩ちゃん、最後に一個だけ」

ドアノブに手をかけた果歩に、笑いをかみ殺した英司が声をかけた。

怪訝そうに振り返ると、英司は笑い過ぎて溜まった涙を拭う。そんなに可笑しかったのかと、沸々とまた怒りが湧き上がる。

「なんですか。くだらないことだと、本当に殴りますよ」

「そうじゃない。さっきの質問の答え」

「ああ、あれならもう……」

「俺じゃない」

真っ直ぐに見つめられた。

「見ていたのは、俺じゃない」

瞳が外せない。

あの、冷たい視線。

じゃあ、誰が。その一言は喉元まで出かかった科白は、言葉になることもなく胸のうちで黒い靄と化した。

「最低」

吐き捨てるように言ったその言葉は、英司に向けたものなのか自分に向けたものなのか。それすら分からないまま、果歩は教室を後にした。