『俺じゃない』
あの夜の、英司の言葉。
『見ていたのは、俺じゃない』
果歩はその言葉を頭の中で否定する。
違う。違う。違う。
なにが違うのかさえ分からない。ただ、あの時に飲み込んだ感情が胸の中でとぐろを巻いている。苦しい。
「果歩!」
目の前にある、心配そうな祥太郎の顔。
大学のカフェテラスでお茶をしている途中に、考えに没頭してしまったらしい。
「祥太郎……」
「お前、大丈夫か。呼んでも気付かないし。最近、変だぞ」
「ごめん」
何度も呼んでくれたのだろう。本気で祥太郎は心配していてくれている。それが分かるからこそ、果歩は嬉しかった。思わず、顔がほころぶ。
祥太郎の腕に自分の腕を絡めて、少しもたれかかる。人前で甘えるのは好きではない果歩だが、少しでも祥太郎を安心させたかった。厚手のパーカーから、祥太郎の匂いが伝わってくる。
「ごめんね」
「果歩……」
慰めるように、ぎこちなく祥太郎の手が頭をなでる。暖かな大きな手に包み込まれる感覚に、目眩がした。
考える必要性などないのだ。果歩には祥太郎がいる。それだけで十分満たされていた。なにも不安はない。なにも不満はない。それでいいのだ。大切にされている。その実感がこの腕にはあった。
脳裏に浮かぶ、あの夜の場面を打ち消す。
祥太郎の腕の中なら、安心していられた。
「果歩、やっぱり今日の飲み会、止めた方がいいんじゃないか?」
「なに言ってるの。会計の私がいなきゃ、お金どうするの?」
「それはそうだけどさ」
「大丈夫よ。心配なら、お酒は飲まないから。それに、祥太郎が一緒にいてくれるんでしょう?」
悪戯に微笑むと、祥太郎が頬を染めた。こういうストレートな物言いに、祥太郎は弱いのだ。
果歩に拘束されていない左手で、頭をぐしゃりとかき乱すと、祥太郎は観念した。
「あーもう。わかったよ。無茶だけはするなよ?」
「わかってる」
了解すると、果歩は少し冷めたカフェラテに口をつけた。ほろ苦い味に、なぜだか笑いがこみ上げた。
飲み会の時間までまだしばらく時間がある。場所は大学の最寄り駅近くにある、いきつけの居酒屋だ。集合は六時十分前に駅前。時刻は三時を少し回ったころ。祥太郎も果歩もこの後に講義はない。お茶も終わった二人は、サークルの部室で時間を潰すことにした。
カフェテリアのある総合体育館から外へ出ると、強い風が吹き付けてくる。堪らず身を縮めた。外はもうすっかり冬の顔をしている。冷たい空気が鼻の奥をツンッと刺激した。
「寒いな、もうすっかり冬だ」
「祥太郎、上着はどうしたのよ?」
「ああ。部室に置いてきた」
「馬鹿。風邪引くよ」
「馬鹿だから引かない。大丈夫」
とりとめもない話をしながら、二人は学校裏の部室長屋へと向かった。
不意に果歩が視線を上げると、ちょうど授業が終わったところで、広場に大勢の生徒たちがたむろっている。
その大勢の中の一人に、果歩の視線が釘付けになる。
英司だ。
祥太郎の陰に隠れるように、果歩は英司から身を隠した。祥太郎は気付いていない。英司も気付いていない。果歩だけが気付いている。
あの夜から英司を見かけることは少なくなった。意識的に果歩が避けていたせいかもしれない。それでも人ごみの中、英司の姿を探していることに気付いたのは、時間がかからなかった。
あれだけ見られていると思っていた視線も、感じなくなっている。英司の言うように、見られてなどいなかったのだろう。けれどそうなると、なぜか寂しかった。あんなにも鬱陶しかったはずのものが、欲しくて堪らなかった。
見えないから、果歩は頭の中で想像する。
筋の通った鼻。
薄い唇から覗く赤い舌。
色の白い肌。
長くて器用に動く指。
少しつりあがった漆黒の瞳。
冷たい、射るような視線。
気が狂いそうになるほど反芻した。気が狂いそうになるほど否定した。
凝視するように英司を見つめていたことに気付いて、果歩は頭を振った。
この感情の意味を知るわけにはいかない。
見つめていた瞳が、英司の視線と同じくらい冷ややかなことにさえ気付かずに。
飲み会には、十八人の部員が参加した。男子の方が若干人数は多い。四回生は前会長と副会長だけが参加した。当然、英司の姿はない。
果歩にはなぜだか予感があって、英司が来るような気がしていた。けれどその予感もまるっきり外れ。肩透かしをくらった気分だったが、逆に区切りになっていた。もう、英司のことを考えるのは止めにする。そう誓う。
宴も二時間を過ぎ、部員たちはかなり出来上がっていた。なぜだかこういう宴会の席ではピッチが早くなる傾向がある。酒に強い少数派が、潰れた面子の介抱を早くも始めていた。いつもなら、果歩も介抱する側に回っているはずだ。
「果歩、どこ行くんだ?」
眠たげな視線で祥太郎が訊いた。
一人立ち上がった果歩は、座敷で脱いだ靴を履いている。
「ちょっと外の空気吸ってくる。煙草の臭いで気分が悪くなったみたい」
「俺も付き合おうか?」
「いいよ。すぐ戻るから」
笑顔で振り返り、祥太郎にそう告げる。祥太郎も「気をつけて」と一言言って、狂宴の最中に戻っていった。
店の引き戸を開けると、火照った身体に夜気が心地よい。吐き出した息は白く広がり、視界を染める。扉を閉め、空を見上げる。冬の澄んだ夜空に、いつもより多い星空が広がっていた。中の宴が嘘のように静かだ。
暗闇に息を吹きかける。心の中にあった黒い靄が晴れて、代わりに空虚な穴が広がる。
果歩は思った。この気持ちの意味を知ることは一生無いのだと。
遠くから響く足音。過ぎ去る人々。流れる時間。そういったものが、この想いもいつか風化させてしまうのだろう。
「ふ……」
唇から、熱い吐息が漏れる。
目頭が熱くなって、涙があふれた。泣きたくなどないのに、堰を切ったように後から後から零れ落ちる雫。
どうしてだろう。
忘れると誓ったのに。
どうしてだろう。
もう嫌だと願ったのに。
どうしてだろう。
この男は目の前にいるのに。
「果歩ちゃん」
いつもと変わらない様子で、果歩の前に英司は現れた。
果歩は英司に背を向けた。あの瞳に捕らえられることが恐ろしかったのだ。
「果歩ちゃん」
返事の無い果歩に、英司はもう一度呼びかけた。
ずるい。果歩は心の中で叫んだ。こんな時に限って、英司の声は暖かくて優しい。
視線を感じた。英司のあの視線。
「見てない!」
果歩は英司に背を向けたまま、声を荒げた。
英司が訳も分からず怒鳴られ、目を丸くする。
「私だって、あなたのことなんか見てない!」
それが、果歩の出した答えだった。
あの夜の答え。
合点いったとばかりに、英司が噴出す。その音を聞いて、果歩が鬼の形相で振り向き、睨んだ。
「なにが可笑しいんですか!」
「いや、ごめん。そうだな、君は見ていない。見ていたのは俺だから」
今度は果歩が目を丸くする番だった。
いきなり掌を返され、悩みに悩んだ結果をいとも簡単に受け入れられた。散々悩んだ果歩の中に、忘れかけていた怒りが再燃する。胃の下のあたりがむかついてきた。
果歩は感情のまま、英司に殴りかかる。胸の辺りを渾身の力で何度も殴りつけた。どんどんと、鈍い音と硬い胸板たたく振動が伝わってくる。
英司は殴りつけてくる果歩を甘んじて受けた。贖罪というわけではないが、果歩の気の済むようにさせてやる。
「ずるい!」
「ずるいよ、俺は」
「最低!」
「最低だよ、本当に」
「なんなのよ、人のことからかって!」
「たぶん、君のことが好きなんだ」
さらりと交わされた言葉に驚いて、果歩の涙も引っ込んだ。思わず、殴っていた手も止まる。ぽかんと口を開けて馬鹿みたいに英司の顔を見上げた。
今までに無いくらいに優しい瞳。その瞳の中に果歩が映っている。そして、果歩の瞳の中にも英司が映っている。お互いの中にお互いがいる。酔いしれるような心地よい感覚。
英司の言葉を理解するのに、たっぷり三十秒はかかった果歩。その頬が薄紅色に染まっている。寒さのせいだけではないことは、果歩が一番よく分かっていた。けれど、果歩自身よく知っていた。あの暖かな腕を手放すことはできないのだと。真っ直ぐに愛情を注いでくれるあの笑顔を裏切れないと。
「私、祥太郎の彼女なんですよ?」
「知ってる」
「あなたの後輩の」
「そうだな」
「高校から一緒の」
「その通り」
「私、正太郎のことが好きなんですよ?」
「よく知ってるよ。痛いくらいに」
その一瞬だけ、英司の瞳が悲しげに揺らいだのを、果歩は見逃さなかった。そして、その後に続くだろう言葉も容易に想像できた。
見ていたから。
目の前の男の気持ちを、果歩も心が痛むほど知っていた。けれど遅い。果歩はもうすでに祥太郎と出会っているのだ。あの夕日が沈む幻想の時間まで巻き戻ることはできない。祥太郎とのことを無かったことにはできないのだ。これまでも、これからも。
英司の顔が、ゆっくりと近づいてくる。冷え切った指先が果歩の頬に触れた。これから起こる行為を分かっていたが、果歩は動かなかった。互いに瞳は閉じないまま、距離だけが近づいていく。互いの熱い息が口元にかかる。今までに無いほど近くに二人はいた。それでも瞳は閉じない。蕩けるほど強く、相手の視線を奪う。
「英司先輩」
「……ん?」
唇が触れる一瞬前に、果歩は言う。
英司の動きが寸でのところで止まる。
止めるなら、今しかなかった。
「視線が合うってどういう意味か、知ってます?」
その一言に、英司の視線が冷たく輝く。
「知ってるよ」
視線が合う。
それは合意の合図。
相手を求めるサイン。
二人の唇がゆっくりと触れ合う。冷たい唇から伝わる熱い想い。
見られていたのは自分。
見ていたのは自分。
互いに逸らせなかった視線。
二人は決して相手逸らすことのなかった瞳を閉じて、最初で最後になるだろう口付けを交わした。
あとがき
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