視線が合うってどういう意味か、知ってる?
冷たい視線
まただ。
そう感じると同時に、果歩の視線はその方向に向かっていた。
果歩たちのグループから少し離れたところで、煙草を吸う一人の男。黒のハイネックに薄汚れたジーンズを穿いたその男と、一瞬視線が絡み合う。けれどそれは本当に一瞬のことで、男は煙草の火を消すという、さりげない動作で視線を外した。
見られていた。そう思っても、勘違いだと果歩はその疑問を打ち消してしまう。けれど、そういう些細な、何気ない仕種で見られているのだとも感じるのだが。
男は果歩の一回上の先輩で、社会学部の佐藤英司という。
しばらくの間、果歩は英司を観察していたが、それ以降英司がこちらを向くこともなければ、視線が合うこともなかった。
「果歩、聞いてる?」
名前を呼ばれ、果歩は英司から視線を離した。声をかけてきたのは、果歩の隣に立つ青年。
「ごめん。聞いてなかった。なに、祥太郎?」
「なんだよ、もう。今度の飲み会について話し合ってたんだよ」
何事もなかったかのように笑んだ果歩に、祥太郎は少しむくれて説明した。少し幼さが残るその表情は、愛らしい。
学内の広場に集まっているのは、オカルトサークルの面々だ。天気がいいので、外での会合となった。お昼休みなので、それぞれ手には弁当や学食のトレイを持って輪になっている。時折吹く風は冷たく落ち葉を舞わせるが、日差しが暖かいので苦にはならない。
祥太郎と付き合って一年。先に告白してきたのは祥太郎からだ。果歩が教育学部で祥太郎は経済学部なので学部は違う。けれど、一番気の合う相手が祥太郎だった。大型犬のような人懐っこい祥太郎のことを、果歩自身も気にはなっていた。だから、祥太郎から「付き合おう」と言われた時、果歩は何の迷いもなく快諾したのだ。
陽だまりのようなその表情を見て、果歩の心の緊張がほぐれていく。そして、英司のことを少なからず意識していた自分に驚いていた。けれど、それを表に出すことは決してない。
「場所はいつもの居酒屋でいいでしょう?予約、先に取っておくね」
「なんだよ、聞いてたのか」
「祥太郎と違って、話を全部聞いてなくても大体わかるので」
「俺が馬鹿だって言いたいのかよ?」
茶化してそう言うと、祥太郎がヘッドロックをかけてきた。当然本気ではない。じゃれるような、優しい照れ隠しである。みんなの前では恥ずかしくて甘えたりできない祥太郎の意思表示。そういう優しさが果歩は好きだ。
冬の匂いが濃くなってきた風さえも感じないほど、祥太郎は暖かかった。
「やだ、苦しいってば」
一応の抵抗は見せるものの、果歩も嫌ではない。笑いながら祥太郎の行為を受ける。周りの仲間たちも、いつものことだとわかっているので笑っていたり、多少からかったりするくらいだ。
けれど、そんな暖かい空気の中、刺すような冷たい気配が果歩を貫いた。
感じる視線。
見られている。
祥太郎に抱えられたまま、果歩は首だけを動かした。瞳が泳ぐ。
果歩の視界に英司が映る。先ほどと変わらない場所で、英司は同じように立っていた。先ほどと変わらない表情で、英司は同じようにこちらを見ていた。
視線が絡む。その瞬間、果歩の心拍数が上がった。英司と視線が合うと、いつもそうだった。あの瞳は冷たくて、値踏みされているようで気分が悪い。
言いたいことがあるのなら、はっきりそう言ってもらえれば、果歩にも対処しようがある。けれど、英司はなにも言わない。いつものように、何気なく果歩から視線を外す。ずるい。果歩はいつもそう思う。
「い、いい加減にしてよね」
少し荒い口調で、祥太郎の腕を外す。分かっている。これは八つ当たりなのだ。
いきなり怒り出した果歩に、祥太郎は驚いたようだった。けれど、すぐに優しい笑顔を浮かべて「ごめん」と素直に謝る。その笑顔に、果歩の胸は痛んだ。
「お前ら、相変わらずだな」
からかうような口調。低いその声は英司だった。
近づいてくる英司の顔を見るのが嫌で、果歩は祥太郎の背に隠れた。身長が百八十センチ近くある祥太郎と、百五十五センチ程度しかない果歩だからこそできることだ。
そんな果歩の気持ちを知らない祥太郎は、にこやかと英司に話しかける。
「英司先輩、今度の飲み会はどうしますか?」
「ああ、いつだっけ?」
「二十五日ですよ」
そう祥太郎が言うと、英司は少し考え込んだ。
来なければいい。祥太郎の背中に隠れて、果歩は本気でそう思った。そもそも英司は就職が決まっているとはいえ四回生。サークルも引退同然である。十一月のこんな中途半端な時期の飲み会なんて参加する必要はないのだから。
逡巡の末、英司は口を開いた。
「やめとく」
その一言に、果歩の表情が明るくなる。とはいえ、祥太郎の背後に隠れているので、英司や他の仲間たちにもその顔は見られていない。
「えー。なんでですか。英司先輩、暇でしょう?」
「祥太郎、仮にも先輩に対してそれはないだろう。俺は忙しいんだよ」
「嘘だ。卒論も、もう終わってるって言ってたじゃないですか。バイトも仕事決まったからやめちゃったし。家で最近はごろごろしてるだけでしょう?」
やたらと食い下がる祥太郎。そんな祥太郎に、果歩は気が気でない。もしそれで気が変わったら、どうしてくれるんだ。どうもしないのだろうけど。
「あのな、祥太郎……」
「やめなよ。先輩は来ないって言ってるんだし。無理強いはよくないよ」
英司の言葉を遮り、果歩は祥太郎に上目遣いに訴えた。
英司の肩を持つようで嫌だったが、これ以上顔を突き合わせることを考えればましだ。
「そういうことだ、祥太郎。諦めろ」
「……うう。わかりました」
明らかに納得していない様子で、祥太郎は頷いた。
英司と祥太郎は高校も同じだ。そのころから親しい関係だったので、祥太郎はなにかと英司に懐いている。果歩には話さないことも、英司には話していたり。以前にも一度そのことで喧嘩になったこともあった。祥太郎いわく「兄貴みたいな人」なので、果歩が諦める形に今は落ち着いている。
ほっと胸を撫で下ろした果歩が視線を上げると、英司と今日何度目かの視線が合った。けれど、今度は視線が外されることはなかった。
「ありがとう、果歩ちゃん」
言葉とは裏腹に、英司のその瞳は冷たい。真冬の空気よりも冷たい氷点下の瞳だ。
「……どういたしまして」
果歩も皮肉をこめて、その言葉を投げた。
気付いているのはお互いくらい。だからこそ分かること。
その後、他愛もない日常の出来事を話し合った後、用事があると言って英司は場を去った。その間、果歩と英司の視線が合うことはなかった。何度も、あの見られているという感覚があったものの、果歩がその全てを無視したからだ。
ただ、木枯らしの吹く中を一人歩いていく英司の背中を、一瞬だけ果歩が冷たい視線を送っただけ。
果歩は佐藤英司が嫌いだった。