1976年10月当時、学生時代から引き続き石津の四畳半の部屋に住んでいた。尼崎の会社まで京阪、環状線、阪急と
乗り継いで通勤していた。京阪は沿線に松下とサンヨーがあったので時間帯によって強烈に混んでいた。
四畳半友の会会報に寄せる 別所
先ずは、四畳半友の会が結成より2年の月日を経て第3回目の会合が開催されるに至ったことを
心より祝すものであります。
小生、今回初めて参加させて頂くことに相成り、心より感謝申し上げる次第であります。
さて参加するにあたって、友の会へ末筆ながら一言寄せたく思い、筆をとりました。
(実際は半ば幹部による強制行為!!)
この会合を開催するにあたっての幹部諸氏の努力、行動力というものは天地をも揺るがすばかりの
もんであり、眼は血走り、頭髪は総立ち、鼻血はあふれんばかり吹き出し、室内は赤紅色一面に広がる始末。
会長も幹事もアホばっかり、こんなことではと心配したが、アホはアホなりに一生懸命やっている。
だから、余計心配。まあ、何が何やらさっぱり分からん話はやめにして、会長個人に対する恨みを述べたい。
今日10月3日(日曜日)、三浦氏の部屋に、会長及び幹事が集まっているのであるが、
小生はこの不況に耐え切れず、田ブチ会長に『銭をかしてくれ』と床に跪き頼んだのに貸してくれん。
これが重大な任務をつかさどらんとする会長の取るべき態度であろうか・・・(?)
そこで、次に幹事である森田氏に頼んだ。この人は神様のような人であるから・・・と思った。
案の定、彼は「ウワァ〜」と喜んで貸してくれなかった。(アホ!!)
さて、この2人の参謀役としてドッシリと構えている三浦氏を見た。
この人はなぜか、『銭』の一言が出なかった。(アッ!! 不思議なな〜!!)
さてさて石の地蔵さ〜ん。まあ銭の話はみじめなので来たる日への希望、願望、展望、滅亡を
お話しよう。先ず第一は、昔懐かしい人々に逢えるというこの感激と恐怖、かつては同輩であった
人々に、今はなぜか世代の相違、時の壁、なるものを感じる今日この頃、しかし、そんなことは
何にも気にしないのが小生の特徴、いちいちそんなことを気にしていたのでは何にも出来ない。
今日の社会情勢なれば、思いっきりメチャをして生きようとするのが小生の人生なれば俺もやはり
アホやなと思う。では、酒酌み交わし夜を語らうその日までみなさんげんきでね〜。オシマイ。
追分
この原稿が仕上がれば、俺もめでたく飯を食うことが出来るのだ。うれしいなあ。
この事のみに興味をいだいて、明日への原動力となることを常に望んでいるのであります。
オシマイ
追追文
もう書く事がない。 オシマイ
追追追文
しつこいやろか(?) オシマイ
あとがき 森田
ローマは一日にして成らず。されど本会誌は一日にして成れり。
まるで疾風迅雷の勢いで押し寄せる田ブチ衝撃波。彼の熱気にはマイッタ!
本会誌が日の目を見ることが出来たのも彼のおかげである。
また、三浦氏と別所氏もご多忙にもかかわらず、本会誌のために原稿をお寄せいただき
ここに御礼を申し上げます。
会合ははともかく会誌発行の件に関しましては、小生いたく頭を痛めていた次第でありまして、
原稿が集まってその目途がつきやれやれといったところです。
これで小生も心おきなくウンコができてホントにスッキリしました!
三浦さん別所さんいいウンコがでました。黄なくて、色といい、形といい、匂いといい素晴らしいです。
だけど、便所であとがきを考えるのも楽しくないネ、ホント。
で〜けた、でけた、会誌がでけた。やっとでけたどー。
編 集 森 田
発行者 森 田
1976年(昭和51年)10月10日 発行
就職して1〜2年。生活の拠点を求めて寝屋川を後にして去っていった者、そのまま残ったもの、
それぞれの会社勤めが忙しく、私は月曜から金曜まで泊まり込み出張で家を空けることが多くなった。
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