『おまえ、ほんとに、いましてるバスケ、すきか?』
もう半年以上昔に言われたその言葉が、頭から離れない。
部活動で賑わう放課後、旧校舎の一室の窓辺に座り、黒子は空を見上げる。何物にも遮られていないそれを見たくて開けた窓からは、冷たい風が流れ込んでくる。秋から冬へと着々と移り変わっていくその気温に制服下の肌が粟立った。黒子は微かに白い息を吐いて、それでも窓を閉めることはしなかった。
眼界に広がる、青々とした空。そこには、当然だが願うものは見えない。それは分かっていたのに、黒子は少しだけ落胆するように瞬き、視線を手の中に落とした。
手の中にあるのは、薄っぺらなパンフレットだった。黒子は細い指先で写真を丁寧になぞり、そこに書かれている文字をなぞる。
「せい、りん」
私立誠凛高等学校。そこは、去年出来たばかりの新設校だった。
黒子はぱらりと一枚捲る。教室の写真、特別教室の写真、体育館の写真、理事長と校長の写真。そして、バスケ部員の写真。
『おまえ、ほんとに、いましてるバスケ、すきか?』
そう問い掛けたのは、一年前に交通事故に遭った友人だ。彼は手術後命を取り留めたが、後遺症として四肢麻痺となった。
病院のベッドに横倒わった彼は、答えられない黒子を静かに見つめた。黒子は友人に心を見透かされることを恐れ、目を逸らすしか出来なかった。
丁度、『キセキの世代』『強豪校帝光』が流石と謳われることに黒子が痛みを感じていた頃だった。その痛みは蓄積され、痛烈に嫌悪を生んだ。矛先は、自分とバスケに向かった。
入部当時、人並みに上達しなくても黒子はバスケが楽しくて仕方がなかった。どうしようもないくらい、バスケが好きだった。体力も技術もなくて誰もが辞めろと言い、それでも、黒子自身がどうしても諦められなかった。だからこそ、自分だけに許されたスタイルを見つけることが出来た。自分の居場所だった。大切だった、バスケ。けれど、いつしか楽しさよりも勝つことだけを求めていた。仲間も、黒子も。その現実に気が付けば、黒子は最早嫌悪せざるを得なかった。勝つためのバスケと、そして、それを求めた自分自身を。それでも、バスケを続けたのは仲間がいたからだ。彼らとするバスケが黒子はまだ好きだったからだ。それも、もう、今となっては過去の話だけれど。
問い掛けた友人は、黒子に答えないままでいることを許してくれた。
全国中学校バスケットボール大会、通称を全中。中学最後の夏の三年連続でその大会を制覇した黒子は表彰式に入る前に誰にも言わないまま姿を消した。監督のカバンに退部届けだけを残して。
そして、黒子はジャージ姿のままで友人の病室を訪れた。虚ろな眼差しで悄然と訪れた黒子を友人は優しく迎え入れてくれた。その声と言葉で甘やかしてくれた。
『テツ、そこに、いってこい』
そう言って彼がくれたのが、誠凛のパンフレットだった。
新しい、なにも整っていないそこで、もう一度新しく自分がしたかったバスケを見直して来い。彼はそう言って黒子の背を押してくれた。四肢麻痺の自分のことで手一杯だろうに、心配し、応援してくれた。
そんな彼も先日細菌性の肺炎を患い、空へと昇っていった。今日みたいな、目に痛いほど青々とした空を割った煙がまだ黒子の目と脳に焼き付いている。だから、黒子は友人を思い出すと空を見上げる。
悲しみに囚われ続けることが、友人への手向けだとは思わない。だから黒子は珍しく苦笑して、彼へ語り掛けた。
「きらいです。でも、捨て切れません。だから、あそこへ、行きますよ」
今日、試験の合否結果が出た。黒子は誠凛に受かった。四月からは、新しいバスケをする。勝つことだけを目的にしたりしない、バスケを。
黒子は友人にそう誓い、瞑目して微笑んだ。
「どこへ、いくんスか?」
突如、横から降ってきた声に黒子は肩を跳ねつかせた。慌てて視線を向けると久しく見ぬ顔があった。ただ、いつも見せる飄々とした表情はなく、冷たい無表情が浮かんだものだったけれど。
「き、せ、くん」
「久しぶりっス」
「なにか、用ですか」
どくりどくりと緊張に痛む心臓を押さえ、黒子は立ち上がる。少しだけ立ち位置をずらせば、透かさず黄瀬も移動する。その動作は明らかに黒子を逃がさないようにするためだった。
「前に立たないでくれませんか?」
「黒子っちが逃げないんなら、こんなことしないっスよ。でも、黒子っち逃げるでしょ?」
「べつに……」
「逃げてるっスよ。ずーと、オレらからも、監督からも、逃げてるっス。あの、夏以来」
一歩、黄瀬が近づき、距離が縮まる。二歩、近づいた黄瀬の手が黒子の両腕を捕らえた。冷たい眼差しから逃げるように黒子は視線を逸らした。
居た堪れない、罪悪感が黒子の中にあった。確かに、黄瀬の言うとおり、自分は彼からもその他のチームメイトからも、逃げていたから。
(チーム、メイト。いえ、そう思っているのは、僕だけでしたっけ……)
全中の決勝戦で、常々感じていた違和感の正体に黒子は漸く気が付いた。キセキの誰もが、チームメイトをただの駒としか見ていなかったのだ。コートの中に四人の味方、なのに、圧倒的な孤独感の理由はそれだった。勿論、黄瀬もそのキセキの一人だった。
「なんで、逃げるんスか?」
(自分も、そんな考えを持っていたなんて知りたくはないからですよ)
黒子は内心でそう答えるが、音にする気はない。これからも、ずっと、誰にも。
「くろこっち」
けれど、駒としか見ていない自分を必死に追いかけてくれる彼らも偽りではない。あの夏からずっと、キセキの彼らは黒子を追うことを諦めたりはしていないから。
(最後まで、卒業するまで、逃げたいんですが)
「なんで、なんも言ってくんないんっスか?なんで、逃げるんスか?どうしてあの時、いなくなったんスかっ?どうして、なあ、なんでっ!?」
震えた声音で、強い力で問われ、それでも黒子はなにも答えなかった。
上から断続的に降ってくる弱々しい声を耳にしながら黒子は瞳を閉じる。
「くろこっち……」
俯いたままの頬を黄瀬の手が撫で、細い首筋を辿る。その合間もずっと称呼されているが返事をする気にはならなかった。黄瀬もそんな心情に気が付いたのか、次第に口を閉ざした。
黄瀬は小さな肩に頭を預け、黒子の華奢な体躯を抱き締める。
「くろこっち……くろこっち……」
他のキセキの面々とは違い、黄瀬は人懐っこい性質だった。まだ、他人を求めている性質だった。彼と仲が良かったのか、と問われれば迷うところではあるが一般的に言うのなら、黒子は黄瀬と仲が良かったのだろう。黄瀬も、自分を好いてくれている様子だった。『友人』に拒絶されることは、痛いのだろう。黒子はそういうことには無関心だから、よく分からないのだけど。
黒子は両手を持ち上げる。けれど、黄瀬の背を撫でてやるべきか、否かで意思が迷う。目の前で震える広い肩を撫でてやりたいと思うのは中学一年の時からに積み重ねられた馴れ合いの所為か。自分の願いのために、今此処で彼を切り捨てるべきじゃないのか。そうやって迷う黒子の手は、それでも、広い背を撫でた。
「……ぃで、ねが…ち」
「…………」
泣いているのか、擦れたその声の全ては聞き取れなかった。だのに、何故か何を言われているのかが分かり、黒子は沈黙した。
「……で、よ」
(言わないで、ください)
応えられない願いなど聞きたくはなくて黒子はしがみ付いてくる黄瀬の頭を抱え込んだ。
当の黄瀬はぐすぐすと鼻を鳴らして、黒子の肩を濡らす。ぎゅうぎゅうと細身を抱き潰すように締め上げて、聞き取れない言葉を零し続ける。
「……な、さい……きせくっ」
先回りをしようとした黒子の口唇は、黄瀬に封じられる。ぶつかった柔らかい弾力の正体に呆然としていれば、痩躯は床へと転がされる。そのまま黄瀬は覆い被さり、黒子の身動ぎを許さない。大きな手が黒子の口まで覆う。
「いわないで、にげないで、きえないで、ねえ、くろこっち……」
悲痛に顔を歪める黄瀬が泣いている。見慣れた泣き真似ではない。本当に、泣いていた。だが、それでも黒子は応えてやることは出来なくて、首を振る。
(ごめんなさい)
ゆっくりと絶望に侵されていく瞳を仰いだまま、黒子は謝罪する。音には出来ないから、心のうちで。
大きな手に自分の手を重ねれば、黄瀬は身体を跳ねつかせ泡を食ったように両手で黒子の口を塞いできた。
「いかないでいかないでにげないでなんでなんで、どうしてっ」
「ん、んんっ、んー」
鼻孔すら塞がれて呼吸困難に陥った黒子が暴れるが黄瀬にはさして強い抵抗ではないらしい。次第に黒子からは力が抜けていく。酸素を求める脳が喘ぎながら悲鳴を上げ、意識が朦朧とし始めたとき漸く黄瀬の手が離れる。
最後に見たのは、涙塗れの情けない黄瀬の顔。
最後に聞いたのは、黒子には絶対に応えられない黄瀬の切願だった。
「おねがいだから、すてないで―――はなれて、いかないで……っ」